旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

3 話 市ヶ谷から

2010-09-25 20:18:07 | 思い出日記
9月14日’04年 市ヶ谷駅―神楽坂―江戸川橋―牛込神楽坂―飯田橋―神楽坂―牛込神楽坂は坂、
そして又坂でしたが、東京どこでも坂、勿論途中休みながらお茶も飲みましたが、その前に原宿から
千駄ヶ谷も歩いたので、なんと総時間で4時間程の行程でした。

 出だしは市ヶ谷駅前を右へポロロッカを左へ行くとあやつり浄瑠璃の小屋興行があったのが名前の
由来と言われる浄瑠璃坂。そこを登り始めると駅前とは一変して高級そうな整然と並んだ平均3階建て
マンション、アパートが東京らしい閑静な町並みを作り上げていました。
 そして鰻坂、鰻の形に似ているという無理やり名づけたような短い坂でした。名前が付いていると
何か訪れ甲斐があるように思われるのが不思議です。
 坂のいわれについては東京では殆どのところでその説明文が立ててあります。鰻坂にはありません
でしたが最近はその都度、その説明を丁寧に読みながら散策しています。
 
 しばらく行くと凄く立派な長く古い塀、森のような木々が塀の向こうに見えたのが最高裁長官の公邸でした。門番を右横に見てコース通り少し道を外れると、庶民的な細い路地があって、古い下町雰囲気のアパートの栄荘。
又行くと出版クラブ会館で、横はユネスコアジア文化センター。前の牛込城跡はその説明板だけ。
地蔵坂を下りるとそこは神楽坂。田中角栄がその昔、新聞記者の追跡を振り払ったと言われる細い迷路
のような道には料亭、飲み屋が所狭しと続いています。
その昔、春日八朗(殆どの方は知らないでしょうが私の子供の時、その昔は盆踊りで歌われ超有名)
のお富さんに歌われてような粋な黒塀もありました。
 
 京都と字と雰囲気も全然違う三念坂を下ると、古い階段の上にはその関係が良く分らない〔まさかりかついだ金太郎〕の童謡を作曲した田村虎蔵の碑のある築土八幡神社。境内にはポータブルシュライン(神輿)古いお神輿が2つ展示されていました。英語で言うと有難みが余りありません。
 階段を戻り20mも行くと今度は御殿坂。上りきった所は神社の裏手でした、これなら神社を
突っきったら楽だったのにと後悔。登りあれば今度は下りの坂、名の由来不明の芥坂(ごみさか)。
左に折れて又登りの相生坂、この説明文では、二つ平行にあるのでそう名付けられたとの事でしたが
3つも坂が平行にあったので理解に苦しみました。
 
 その坂を下り、今回見るのを楽しみしていた昭和9年築の表参道にもある同潤会アパート、
色々と探しましたが見つけられず、気がつくと大工事の真っ最中の所がその地で既に取り壊されていました。
残念。その後の、国産飛行機発祥の地は碑も見つけられませんでした。この地域は紙や出版関係の会社
や板金工場も多くて工場地帯の雰囲気を可持ち出していました。江戸川橋駅に続く子育て地蔵迄は
純庶民的な道路はタイルで整備された商店街が良い下町雰囲気を作っていました。
 
 ここからマタマタ渡辺坂(旗本の渡辺の屋敷があったとの事)を上ると別の地蔵坂を上って10人ほど
の子供が遊んでいた矢来公園で一休み。
一軒家が並ぶ町並みを行くと市ヶ谷商高、旺文社を経て牛込神楽駅。今度の坂は幅1m少しで26段程の坂、袖が擦れ合うほど狭いので確か袖擦り坂。まあ、何でも名を付けて楽しんでいる人が
いるのも東京の大きさと不思議な所で感心した今回の散策でした。

 夜は大阪の仲間と美味しくて手頃な値段のフランス料理のBrasserie Gusでの閉めでした。
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2 話 上野-鶯谷-南千住

2010-09-18 07:24:59 | 日記
  常に早起き、休みでも朝9時には上野です。日陰でのんびりと気持ち良さそうに寝ているハウスレス
の人を見てのどかな東京を感じました。ハウスレスとは、友人曰く、自分にはハウス(家)はあるが
ホーム(家庭)は無いとの説を採用。実際この方の言には説得力がありました。この上野の人たち
の実態はとりあえず、家が無いと判断してハウスレス。
 決してホームレスを言い間違ったのではありません。

  しばらく行くと同じ仲間の人とは思えない程、力強くほぼ山になっている空き缶つぶしをしている
人たちが背一杯、頑張っていました。何をするにも生きていくのは大変だと思っていると、広場に
パトカーがゆっくりとベンチに近づき寝ている人を起こして職務質問です、やっぱり大変です。
青のシート群は健在でした。この地域の幾つかは青シートの中にテントと言う本格的な二重構造
のものでした。みんな定住しています。税金払っているとは思えないです。

 そこを過ぎるとナカナカ立派な旧池田藩の表門が移設されていました。そして柵越しに
東京芸術大学では学園際が行われるのか本格的な屋台やバーカウンターが見られました。
さすが、芸大と言う感じでした、と言うか最近の学園祭は知りませんでした。

 その後も閑静な住宅地の中のかなり大きな寛永寺を過ぎると新坂で沢山のタクシーが客待ちに
列をなしていました。そのタクシーの列が終わると小さな駅舎の鶯谷駅、線路が9本もある、
これは見ごたえがありました。
高架橋を過ぎると左手にホテル街。遠回りしてホテル街のハズレにある下谷七福神(寿老人)の
元三島神社見物。東京はどこ行っても七福神があるのに驚きます。
 又、お寺が大変多い。各藩のお寺が戦争で焼けてなかったら、やっぱり情緒は京都ですが、
東京は数が凄いです。
 ここは小さな神社ですが効果的に階段があって狭さを感じさせませんでした。この地域を道路ひとつ、
寛永寺陸橋をすぎるとマタマタ下町情緒たっぷりですが、私の定説である家の前に鉢植えが無造作に
並べてある下町と言うのを少し変えなければいけません。無造作では無く、なかなか整備されていて
建物も比較的綺麗なのが多かったです。ガイドブックの説明で今しばらく行くと古い町屋が多い通り。
 これはさすがに今にも倒れそうな隣の家にもたれかかかった家も数軒ありました。でも比較的整備
された地域と言えます。

コースの目玉、禁酒地蔵は私には関係ないのでスキップして、芸能上達の小野照崎神社を少し
カラオケ参加できるようにお参りして、そして航空安全の飛不動もお参りしました。久々に賽銭
を奮発、5円と50円では期待するのが無理と言うも分っています。

 途中、タコ八朗(知らないかな?=刻まれていた字は確か めいわくかけて有難う)地蔵も参り、
鬼子母神のイワレを勉強:インドの恐ろしい子供を食べる神をお釈迦様が戒める為に末の子を隠して
いかに子供が大切かを知らしめたとのことで改心して鬼の漢字の頭のノを取って田の下に思、
見たいな(分るかな?)キシモジンと書かれていました。まあ、行って確かめてください。
 おそれ入谷の鬼子母神!と余りに有名ですが!

 樋口一葉館は入場料が130円と言うこともあり見学しました。10人程の人が熱心に何故か私も
熱心に明治の文豪の勉強をしました。と言ってもその字の美しさに感心しただけです。

 本日はJRの駅にして4駅、良く歩きました。お付き合い有難う御座いました。余り長いと付き
合ってもらえないので今日はこれ位で、お疲れ様です。
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1 話 坂道

2010-09-11 21:02:43 | 日記
 東京神田で友達を待っている時に、たまたま買った本山手・下町散歩で所要時間1時間30分と
言う紹介でしたが、実際行って見てとんでもなく厳しい坂の多いコースでした。

 東京を始めて認識したコースでした。京都には有名な坂が幾つかありますが、大阪はと言うと、
街中平坦でみんなが自転車、不法駐輪が有名な様に、坂は殆どありません。
 東京の坂はその数から言って比ではありません。どんな坂でも名前があるのが驚きます。良くもまあ
つけたなと思い、坂道を研究して、タモリさんが坂道研究者としてその道で一部の人に有名なのも分かります。
 ここは広い大きいと思いました。そこに居ると地方の町が霞んで殆ど見えないと思いました。

 京成上野駅をでると上野公園、目立たない入り口沿いにハリウッドのチャイニーズシアターばりにと
言って地面に埋めてはいませんが、有名人の手形とコメントが長島、王は勿論、美空ひばりも冒険家の
植村直己さん等まであり、これは必見でした。私も偶然見つけたのですが、東京の人も知らない人が
多い様です。一人で感心して感動していました。

 上野近代美術館前のロダンの考える人、京都の国立博物館だとお金を支払なければ見らない、好きで
何度もお金を払って見に行ったものです。それとカレーの市民を只見、つまり外で普通に誰でも見られ
ます、やはり天下の東京は違います。ついでに緑が多いのが東京で、街中に緑が多く、京都は多そう
ですが誤魔化されていて、実際、信じられないですが殆ど緑がありません。それと、公衆便所が多いと、
いつの間にか東京を認めるようになりました。東京をアスファルトジャングルと言うのは間違っています。

 お昼は、ちょっとはりこんで伊豆栄(250年の歴史あるうなぎ屋)で勿論江戸前うなぎをいただきました、
これは湯島天神と嵐山光三郎の東京旅行記のお薦めパターンです。色々本読んでますね。
そして、ここからが本番の驚きの坂坂コースでその名前もいろいろ紹介します。

1.通坂 2.女坂(途中足休みがあり緩やかな天神さんへの迂回階段)
3.男坂(38段の石階段で天神石坂と呼ばれる)4.湯島中坂 5.実盛坂 
6.ガイ坂 7.三組坂 8.立爪坂 9.妻恋坂 10.清水坂 
11.横見坂(かっては横に富士山を見た)12.傘谷坂 13.見送り坂 
14.菊坂 15.本妙寺坂 16.炭団坂(たどんとの関連は不明)
17.鐙(あぶみ)坂 18.旧東富坂(鳶坂、飛坂)19.新坂 20.壱岐坂 
21.建部坂 22.お茶の水坂
 名のある主な坂だけでも以上です。

 スマップのキムタクが100の坂をダッシュするような坂もあるのは当然だと思いました。
さすが東京、本郷小学校の超モダンパステルカラーの校舎には驚きました。道が細い所が多かった
為(京都より狭い道)、通りか個人宅内か不明のような所もありました。広い道が縦横に走っているのが
東京ですが、両手を開いて通れるかどうかと言うのも東京です。手持ちの本に書いてある、樋口一葉の
旧居跡は見つけられませんでしたので又探しに飯田橋―上野コースでトライします。

湯島天神のラブホテル街から始まり貧富の差が多い東京の路地街見物と言うようなコースでしたが疲れました。
東京は山が無いのに坂が多いのにも驚きました。
疲れました、では又次回!
 ★散歩なら 目的無しを 目的に★ △ Я ▲ R.CONTI

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166 話 それから

2010-09-04 06:01:55 | 日記
  私が留守にしている間、色々あり一番の残念な事は父が亡くなった事でした。私の帰国を待って一番初めに納骨を終えたのでした。その時は、親兄弟みんな揃ったのでした。いつでも、みんなが揃うと言う事が当り前の事でしたが、先ずそこには父親がいなかったのでした。

 そして、私の帰国後殆ど話す間も無く、母親がハワイに行ったのでした。迎えを兼ねて羽田に、そして母が私にハワイが夢のような所で、花が綺麗だったと言う事を聞き、羽田から東京駅迄見送りました。
 しかし、それが最後の言葉になるとは知らずに、私は兄の家に宿泊して東京見学して帰るつもりでした。その夜に母が脳溢血で倒れて救急車で運ばれたと電話を受けました。驚いて急遽京都へ帰りました。
 
 半年の懸命な看病の為、何が楽しいか分からないですが、どうにか車椅子で笑う事が出来たのですが、実際、高熱が何ヶ月も続いた為に自分が誰か分からない有様でした。その母も退院の検査で急に体調がおかしくなり、生命維持装置を自ら止めざるを得なかったのです。今まで一生懸命してくれた先生に何も言えずに、今まで暖かかった手が数秒かからずに冷たくなった母の体を、あれだけ死と言うものを感じた事はなかったです。 

 それなら、帰って初めて母にあった時に‘父親に会いたかった’等母親に言わなければ良かったとズート思っています。2年の内に両親を父親57歳、翌年母親54歳、で亡くすとは今でも信じられません。死と言うものを、さんざん感じ実感しました。

 特に父親には、自分の生涯をテープに残していた物、大きなテープレコーダーを何度も入れ直して苦労してレコードに残していたのを縁起が悪いと加山雄三のレコードを上から被せました。
 何て言う事をしたのかと、暫くしてもう一度レコードに吹き込んでくれと父に言ったのですが、もう情熱を亡くしてしまったのでした。初めの数分だけ覚えていますが、縁起が良くないと消してしまったのですが、その時聞もう少し聞いていれば良かったのですが後の祭りです。そんな事もあって是非に父親に会い話したかったのでした。

 僅か2年の間に、父親の死に目に会えず、母親は充分に看病して、しかし息子と認識無しのまま死亡。人生色々あります。

 しかし、母親が亡くなってしまって、初めてこのブログで自分の世界一周の話を皆さんに両親に変わって聞いてもらった訳でこんなにも多くの方に見てもらって本当に感謝しています。
 大変有難う御座いました。

 常に200程の訪問を感謝しなくてはなりません。しかし、このまま終わるのも残念なので、私の東京散策日記を仲間に送っていたのを整理して続けたいと思います。コンピューターが駄目になった為に一度は諦めた文ですが、私のツタナイ物を残していた人がいてここに紹介したいと思いますので、それを整理して次回から伝えて行きたいと思います。又、付き合ってもらえれば幸せです。

 本当に有難う御座いました。良かったらこれから後も見て頂ければと思います。
コメント (2)
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