旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

295 幸せって 

2013-03-30 05:07:16 | 思い出日記
 怪我は大丈夫ですかと聞かれて、さてどの怪我だったかなと思わず考えました。最近、余りに多く小さな怪我を多くする様になって、そして、又治癒力が無くなって来たのか なかなか治らず、そこやあそこ見えない所は傷だらけです。

 マンションの管理員をやっていて、植え込みの中に入って行って目の前の枝に気づかずぶち当たって怪我をする事は良くあります。悲しいかな血だらけになって、どうも注意がやたら無くなって来ました。気をつけなければいけないのですが、情けない事にその注意も忘れさっています。先日は目の中に花粉が一杯入って花粉症状態でいまも目がかゆいです。

 話は飛びますが、最近の家は大黒柱と言うものが無くなってます。京都の家には立派な大黒柱がありましたが、一家の大黒柱と言う言い方もしなくなったと言う事です。父親と言う存在の影が薄くなるのは当然かも知れないです。

 思い出すと、中学校の時、工事現場から板を取ってきて一畳位、高さは170cm位の小屋を建てて、鳩を飼っていました。あの頃は、ハトを飼う事が流行になっていたのでした。今思うと、一応なんでも流行りに乗っていたのでした。
 その時に確か、純真にも(今でもですが)“雄鳩が雌の上に乗って子を産んで良いかと聞いている”と母親に言ったのを思い出します。自分にもこんな事があったのでした。その後、飼うのをやめて友達にハトを総てあげたのですが、暫く経つと家の三階にハトが巣を作り大変迷惑した事がありました。

 その時々の事を考えると、我が人生、幸せだったなと思います。女優生活50年目の時の沢村貞子さんが、こう言っています。
『並みの人間ですから、小さな点と小さな点をせっこせっこと集めること、その日集めたのがその日の幸せ、そしてその月に集めたのがその月の幸せ、一年集めたら一年の幸せ。こうして「はい、こんなに溜まりました」「ああ、よかったね」じゃあまた、これを下にして、来年も集めましょう。
 こういうふうにするのが生きがいってものではないかしら、毎日何か‘ああよかった’‘ああうれしかった’‘ああ、美味しかった’‘ああ、楽しかった’と思うようなことを自分にするか、自分の周りの人にするか、それでいいのです。
 間違いだれけの人生、いいかげんに暮して来たから、情けない、情けないと思い出したら、暗くなっちゃうて、とてもいけませんよ。だから余り暗くならなように仕方ない事だとあきらめて、それを過ごすにはどうしたらいいのかと言う事ですね。』

 私の人生、ここで言われているそのままです。間違いばかりの人生、暗くならないように気をつけて生きて行きます。
 
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294 学費から色々

2013-03-23 06:32:11 | 思い出日記
 今思い出しましたが、高校の学費を分割にしてもらっていました。我が家は従業員が20人位いる所で、親から学費を分割にと、そう言われても何とも思いませんでした。今となっては、自分の学費を分割してやっていたとは考えられません。今そんなシステムがあったとは考えられなくなっています。恥ずかしさと言う物がなくて、商売をやっていると、そう言う事が当たり前と思っていました。

 いまやモンスターペアレントが給食代金も支払わないと言う時代。私の場合、本当に貧困であれば違ったと思いますが、良くやったと思います。ただ考えてみればと言うより、考え無くても私が思うと、その当時父親は月々の給料を従業員に支払うのが苦しかったに違いありません。今となっては、そんな事は考え無かった、またそんな風に思わなかったのは有難かったです。父親に感謝です。

 小学校の友人で、昔ながらのへっつい(かまど)が8つかもっとある大きな家の子が、40年前以上前に自殺しました。考えられないですが、家があれだけ立派だったのに自殺と言う道を選ばざるを得なかった事を思えば、私は有難いと思っています。

 今まで、自分の人生はつきまっくっていると、最近特に思う様になって来ました。そのツキを生かせずに来たのも、今の状況の裏返しかとも思うのでした。遅すぎますが、あの時こうやったらと思う事も沢山あります。後ろ向きと言う事で無く、前向きに今までの人生を振り返らなくて、今まで生きて来た甲斐が無いと言うものです。

 今管理人をやっていますが、殆どの方は当然ですが、普通の生活をされ良い人ばかりです。中には3日とあけずにゴルフに行く人達、決して羨ましい訳ではありませんが、この人達は現役時代どのような生活を送っていたのかと思います。毎日目的も無く6回も散歩に行く人、はたまた一名、管理人である私に日々文句ばかり言う人(この人は管理費が安いと思います?)、毎日その様な人達と接しています。

 そこで自分の限りある将来を見ると、分らないと言うのが本当です。まだ、未来が良く見えないから良いと思います。現役時代に、将来どうにかなるだろう、それも考えずに気楽に遊びまくりました。でも、こうなると予想は付きました。それに対して一応対策は取ったつもりでしたが、その時良かったので日々流されて来たのでした。

 恥ずかしいながら、仮に余命1ヶ月と言われても、未だに何かをしなくては死を迎えると焦っているだけです。自分一人だったらそれで良いと思いますが、死ぬまで頑張らなくってはと思います。これも余命1ヶ月SMさんが、そして最近まだ将来ある、手弁当を持ってでも応援に行こうと思っていた市会議員の人が亡くなって、真剣に考えるようになったと思います。

 良い時代に生まれて来て、その外野にいて文句を言わずに、何かをせねばと未だに考えています。
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293 そんなに昔話ではありません (宮武骸骨)

2013-03-16 07:07:18 | 思い出日記
 三浦綾子の小説‘泥流地帯’の中で、小作人の主人公は正月、盆とお祭りの時だけ白米を食べたそうです。稲黍(きび)、麦、薯(いも)が主食であったそうです。これが戦前の昭和の事です。

 暖かな布団の中で、窓ガラスは分厚く省エネ、布団に入って寒くて起きるのが堪らない事があります。こんな状態ですから、昔の人は、この寒さを隙間だらけの家で、どう乗り越えられたでしょう。

 私の生まれる少し前、この本でも、親が15歳の少女を売り飛ばすと言う話が出て来ます。今より少し前、その頃はズートズート貧困で、その前の江戸時代はどんなものを食べていたのでしょう。日本人は貧乏だから工夫して、何でも食べられる様料理したと思ったのですが、それどころではなかったでした。

 こうして情報を分かち合える以前は、庶民の暮らしはどんなのであったのでしょう。当時は情報は、当然一代限りであったのです。情報一般化が、社会を大きく変えたに違いないです。

 そこで、こんな人がどうして一般に知られていないのか不思議なのが、本名 宮武 骸骨と言う方です。その人 宮武骸骨(同名小説-吉野孝雄 著)は明治大正昭和と活躍したジャーナリストでした。偶々、新聞で特集を組んでいたのですが、その時は変わった名前だと頭に残っているだけでした。
 明治から戦後迄、一貫して四民平等を訴えて、時の政府に楯ついて来たジャーナリストでした。本人は庄屋階級出身であるにも関わらず、自分の生まれる5‐600年前は被差別層であったと言いました。明治時代にこのような発想を持って政府を非難して、再々監獄に入ったのでした。

 偽悪者であり、奇人、反政府、反権力、滑稽、過激、猥雑さを武器にしていました。色々訴えていますが、文明の発達と共にタブー視されてきた、古来もっと大らかであった性と言うものも、文明と言う名のもとに陰湿になったと言いあてています。雑誌を出せば発行禁止あるいは停止、そして監獄行きになったのでした。

 なかなか読み難い本で、漢字カタカナと一杯出て来ます。丁度半分を過ぎる第6章から比較的に読み易いですから、是非読んで下さい。その底辺にあるものを分る人々、知っている所で、博報堂の創始者、阪急社長の小林一三、その他の著名な人々との交流があり援助を得ました。東大法学部嘱託になって、明治の雑誌、新聞を保存する為に努力して、明治新聞雑誌文庫を設立。その中で、徳富蘇峰とは権力側についた為、絶好しました。権力につくと有名になるのでしょう。

 日本にはまだまだ偉大な人が埋もれていると思いますが、体制側に背いて反権力になると、ナカナカ名前が出て来なくなる日本です。そういう意味で言うと、この私めも名前が出て来ないはずです?

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292 趣味から

2013-03-09 06:21:01 | 思い出日記
 小説‘光琳の櫛(くし)’で、くしを集める執念と、集めた櫛の素晴らしさを知りました。主人公は、一番多い時で数万の櫛を集めるマニアでした。くし(苦死)とは縁起が悪いと言われて、それを集めている人がいる事、まして本になるとは思いもしなかったです。
 
 何でも興味を持つと言う意味で、櫛程高価ではありませんが、少年時代流行っていた切手を集めていました。小遣いになればと、趣味で集めた切手や義父から受けっ取った記念硬貨を売ろうと思い、先週幾らになるのかと、とりあえず趣味の店で尋ねました。
 結果、現在人気の無いのか切手はシートで無ければ買えないとの事で、記念硬貨は銀行に持って行って換えてくれと言う事で殆ど値打ちが無いと分りました。原価に比べたら良い値ですが、もともと安い切手はかなり古い物を持っているのですが、やはり上手くはいかないものです。

 小学生の頃、寒い朝早くに自転車で京都駅の中央郵便局迄切手を買いに行ったのが無駄となりました。ある日、まだ薄暗い朝、犬取りは聞いていましたが、全く耳にした事が無い猫取りなる人に会ったのでした。その時の印象が強かったのか、親切にも自分たちがその仕事をしてると、教えてくれました。
 その後、猫取りなる人は見た事聞いた事が無く、その時一度見ただけで、その後話題になった事さえ無かったです。今思うと三味線にするのでしょう、恐ろしい事をやっていましたが、京都ならではの職業といえます。

 仕事といえば、航空会社の営業を大阪で、そして空港の仕事を最後に退職しました。日本に弊社が乗り入れる前の営業当時、予算が大変少なかったのでした。今の様にコンピュウターは無く東京に電話してテレックスというものを利用していました。少し経って、隣にあったハワイアン航空に借りると言う情けないものでした。関東で働いて、日本は大阪も大きな都市であるのに、他の地域が見えない首都中心と言う事が分りました。
 
 ただ、営業の仕事は、面白いもので特に日本に就航する前は、その仕事をやれて良かったと思います。その当時の営業とは、太平洋就航航空会社と旅行業社が相手で、我が社の路線やサービスがどれ程素晴らしいか説明していました。世界で有数な会社でしたが、アメリカに着いてから利用して頂くのがその主な営業で、そう言う意味で大変でした。

 その為に、航空会社と旅行業社に集まって頂き、私が講師で弊社の運賃て路線サービスに付いて説明をしたのでした。会場を安く借りる所から、自分で航路の複雑な路線図を作り招待状を書き、100人程のコーヒーとケーキの世話をしていました。今は無くなりましたが、オクラホマ大学分校でも学生の前で講師をやりました。良くやったと思います。

 その当時、欧州で世話になったデンマーク人に手紙で、航空会社での私の仕事は切符を持って行く事なのかと勘違いされました。古き良き思い出の一つです。

 
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291 年号

2013-03-02 06:53:45 | 思い出日記
 昭和44年、最後の名映画俳優、市川雷蔵が、『博徒一代 血祭り不動』撮影後に37歳の若さで亡くなりました。その時、バイトの配達最中、車のラジオニュースで知りました。そもそも昭和44年と言って現在何歳ですかと直ぐに言える人が何人いるでしょうか?

 最近本を読んでいて、特に歴史小説家は凄く疑問に思う事があります。本当の様に、作者がその場にいたように聞いた事、見た事の様に伝え書いているのには、その想像力に何時も驚かされています。ただ文中の人は、自分の年をどの程度知っていたかと疑問を持っています。

  知りませんでしたが、2年で年号が変わる事があり、645年の大化から1989年の平成まで実に250もの年号が付いているのです。例えば、江戸後期から大正迄、1854~1860 安政 7年、1860~1861 万延 2年、1861~1864 文久 4年、1864~1865 元治 2年、1865~1868 慶応 4年、1868~1912 明治 45年、1912~1926 大正 15年 となっています。
 仮に、安政元年生まれの人が、明治20年で亡くなったとしたら何歳でしょう。驚きました、6つも時代を経て未だ30代です。食うや食わずの人が自分の年処か、自分の子供が何歳であるとは覚えている人は少なかったと思います。小説では、当然の様に総ての年がハッキリしています。今まで何にも思っていなかったのか、はたまた暇なのか疑問点は増えるばかりです。今年のカレンダーは西暦表示が多い、しょうむない事に興味を持ちます。私自身、情けないかな高々1年前に読んだのを綺麗に忘れ去っているので、読んだ本をメモしてる有様です。

 その中で、2度読んだ本があります。‘だまって座れば’神坂次郎さんの本で1度目は後書きも読まずに創作小説と思っていたのです。人相悪く1人前になれない半端なやくざで、10才の頃酒の味をおぼえ、ぐれ始めた人が主人公でした。恐喝や強盗、糞尿の汲み取り料を巡る肥船騒動、示談屋等をして1年間投獄されてしまうのでした。

 その人が、ある乞食坊主に死相が出ていると言われ、出家を志します。その乞食坊主との再会を機に、弟子入り。その水野海常に東西を迷うがゆえに南北ありと水野南北と名をもらい、相学の旅にでる。1777年21歳のことでした。
 万人相学の為と、人の顔を見る為髪結床で3年、顔だけでは無いと裸の人間を見る為、風呂屋の下働き、女性の秘所を見る為私娼を毎夜並べて見たり、死顔の研究の為に千日墓所の火葬場にもぐり込んだりの末、31歳で観相師として第一歩を踏み出したのでした。総て実践の人でした。

 諸国放浪、万人観想によって実証したその具体例を、一つひとつあげて従来の‘運命論’を打ち破り、人々に生きる勇気と明日への希望を与えてきました。そして、慎食の教え‘人の道は食にあり’に到達するのでした。

 それは世界に例を見ない一つの思想で、自著‘南北相法’等に書いてあるらしい。日本にはこんな人もいたんですね。今回は本の紹介になりました。
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