旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

218 映画 続き

2011-07-31 11:34:39 | 散策
 高校の先生から、手紙を頂きました。五所平之助の新聞記事が面白かったので送った返事でした。そもそも五所平之助と言うと、私より年上の人で映画ファンの方はご存知だと思いますが、佐分利信の名ずけ親で、煙突の見える場所など等、私は余り知りませんが、兎に角、戦前戦後を通じて活躍された映画監督でした。残念な事に、その監督は既に亡くなっています。先生は一途に限りなく愛されて尊敬され、現在その監督の集いの会長されているのでした。
  記事の内容は、映画と汽車についての関わりと言うか、映画を通じての汽車や駅の話を面白くシリーズにして書いたものでした。その記事が凄く面白いのですが、それを書いた人が川本三郎と言う方で、朝日新聞社をクビになってから、映画評論家として活躍した人でした。この記事は、現在単行本になっていると言う事ですが、初め雑誌‘サライ’に連載した‘映画の昭和雑貨店’に載った‘鉄道廃線跡’の焼き直しと言う事でした。さすが、先生なんでもよく知っています。映画ファンだけでなくテッチャン(鉄道愛好家)にも読んで面白く書かれています。
  余談ですが、テッチャンと言えば私の知人でホームページを一日5,000行も読んでいる、この人と言う人がいます。例えば、大阪東京間を私鉄だけで行けるかと聞くと、この区間はバスになりますがとか、プラハからローマ迄列車で行くとなるとこうなりますと言う様になんでも答えてくれる有難い人でしたが、今どうしているのやら...

  ところで、送ってもらった中に、脇役にスッポットを当てた、ご自身で書かれた文のコピーを同封して下さいました。映画はそう見るか、と思わず面白い事と思いました。古すぎて観ることも叶わない事ですが、勿論、五所作品にも多く出ている中村是好(ぜコウ)と言う役者について詳しく良く調べられてと言うよりも、多分好きで無ければこれ程書けないと思えます。エノケン一座から始まってと言う辺り、想像ですが、もう亡くなった坂上二郎さんに良く似ているかも知れないですが、今で言うと温水洋一と言うか、何処かに人を引き付ける物があるという事です。仮に彼の出ている映画を見ても、私には直ぐに忘れると思います。
  しかし、評論するとは実に難しい事と考えさせられました。これで一つ決まりました、評論家になるのは諦めます。直ぐに諦める速さは日本一です。

  それとラジオ塔なる物も、写真と一緒に同封されていました。テレビ塔なら知っていますが、ラジオ塔とは聞いた事がありませんでした。早速、便利なインターネットで検索すると、ラジオが高価で買えなかった時代(言うまでも無く、かなり前です)に公園に皆で聞く為に設置されたものだという石灯籠を3倍程大きくした様な物が多いです。7基の写真でしたが、京都は戦災に合わなかった為に残ったと思われます。実は京都に爆弾が2発、1発は我が家の裏手に落とされたと聞いています。我が家は、土間の土が上の間迄上って大変な思いをして、疎開したのでした。疎開と言っても北大路の上ですからまるっきりの市内です。総ての物を貯金として預けて、その預金も終戦で引き出せずに、我が家の苦労が始まったと聞いています。戦後もしばらくいたので、私の本籍も疎開先でした。
  しかし、何にでも興味を持つと言うものは、良いものですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

217 映画で思い出し

2011-07-23 05:00:18 | 散策
  デンマークで世話なっていたエルザ家の息子と映画の話をした時、‘明日に向かって撃て’この映画を一番好きなものとして話をしました。今思うと、通じるはずが無い日本の題名を直訳してShoot for tomorrowとか何とかでは原題のブッチキャシィディ&ザ サンダンスキッドが分るはずがないのを気づきました。それから、これでは駄目だと英語名を覚える様になったのでした。

  ポールニュマンが大好きで、その後、ロンドンの片隅の映画館でその映画を上映していた時に、皆で勿論憧れのスイス女性も一緒にタクシーに乗って見に行きました。みんな映画ファンでした。この映画は機会があれば観にいって、8回まで覚えていますが、主な画面の英語まで覚えてしまったのです。  
 
  その頃、ロンドンで一般的な食べ物にフィシュアンドチップスがありました。私のとっては滅多に食べる事が無い高級品で30ペンス、本当は安かったのですが、それも食べずに、そして毎日キングスクロスからピッカデリーサーカス迄僅かなバス代をセーブしていたのに映画を見る為、考えてみれば最初で最後のタクシーに乗って行きました。
  そのフィシュアンドチップスが25年前に行った時に2ポンド50ペンスになっていたのは驚きでした。ただ、1ポンドが1,200円から800円代に下がった時分で、1ドルを360円で買って行ったのですが、現地の人達にとってはその物価の値上がりには大変だったでしょう。
 
  ロンドンは映画演劇の天国でした。その後、スペインの帰りに1泊でロンドンに寄って行った事がありますが、何も観光しなくてレスタースクエアへ直行して映画を見に行きました。そこは中心街にあり公園を挟んで4方に映画館があって一番好きな場所で、そのまま映画を2本楽しみました。タイムアウトが映画の情報誌として、映画以外のものと時事情報等載せているのですが、このズート後にピアとか日本でもこの手の雑誌が創刊されましたが、私に商才があればなあーと悔いています。

  映画でも演劇でも、ロングランの長さに、1-2年ではまだまだ、その長さに驚きました、それ以外に、前に言いましたが(以後このフレーズは止めておきます、くどくて済みません)、ロンドンの劇場で切符を買っている日本人に出合った時、切符売り場で60ペンスの切符を買う時に、大きな声で60ペニスといっていた事がありました。今ならトンでも無い違いを言ってあげるのですが、その時はシニカルな目で見ていた自分に日本人として人間としても駄目出ししなくてはいけません。

  又、その当時、ツタンカーメンの展示を大英国立博物館でしていました。始めてエジプトからの海外持ち出しだと派手に宣伝していましたが、私は京都で既に見ていたので‘そんな馬鹿な’と驚いたのでした。日本は遠い国と、初めての海外持ち出し迄確かめようがありませんが、日本では起こりよう無い話です。日本に持ってきた人々もエライですが、欧州に持ち出すのが史上初で、世界は欧米の事であれば納得です。そんな日本でも、それ展示品以外のもので、ひょっとして同じような事が、もうあったかも知れませんが、考えて見ればその展示品が良ければ関係無く鑑賞すると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

216 暑い ----~夏 !

2011-07-16 07:00:00 | 散策
  夏は暑い、暑い暑いといってもこの夏があるから、秋をより涼しく一層感じる事ができるのです。日本人の感覚センスを創り出すのがこの季節なのだと私は信じています。でも、暑いですね。

  現在仕事で庭と言うより、大きな公園と言った所の雑草抜きを毎日やっていますが、炎天下で5分も雑草を抜いていれば直ぐにTシャツも汗だくだくです。一通り終えたら、又初めの雑草を抜いた所に帰ると言う、何時になったら終わるのやら、兎に角広くて終わりが無いです。私のブログも何度か同じ話が入ってきます。済みません、今の仕事と同じです。

  途中から読まれた方に、旅の話しを一日一話で続けて書いて、1から166話迄は166日位かかって、旅の思い出の一人旅の話を書きました。読んでくださる人が思う以上に多いので、今は一週間に1話を、以前私が成田に単身で行って無事に送っていると知人に送っていた東京散策日記と色々と続けて210話を超えました。本当は一番から読んでもらいたいのです。今日は、脈絡無く書いています。

  四季ハッキリ分かれているのが日本ですが、最近生活が益々アメリカ化して蒸し暑い夏はクーラーで冬は全室暖房が効いている所に住むようになってきました。お隣の中国は全戸にクーラーを付ける余裕が無いけど、この先が心配で隣の家が冷房しているから、暑くなって仕方ない所があります。食べるものでもそうで、旬のものでも、殆ど年中食べられるのは嬉しいけど又、最近は季節も無くなって淋しいものです。
  
  北欧と英国も夏は過ごしやすかって、クーラー無しで夏を過ごしたけれど、現在クーラーのある生活を送っている今ならどうなっていた事か分らないです。ただ、京都の夏と違って湿気無く快適だった事は覚えています。

  デンマークで夏に野宿した時は日本から持って行った夏用の寝袋で寒くて寝られなかった程でした。野宿したのは一度だけでしたけれど、その後、寝袋は何処に置いて来たか、又は、捨てたか忘れましたが良い経験でした。
  その時の荷物には、殆ど必要の無い家財道具一式が入っていてとんでも無く重いものでした。そのリュックも、その頃の山登り用の両サイドにポケットと言うより大きなものが付いていたもので、一人旅所か修学旅行以外に京都を出た事が無かったので、仕方なく大変な事と理解して下さい。その時は、不思議に誰でもやっている事と思ってと言うより、他人の事を気にする余裕が無かったのでした。何も知らないから、比べようがありません。今の人は、何でも買えるのでスマートな格好で素敵です。

  底冷えする京都から初めての北欧の冬を経験、まして何も知らない40年前のデンマークは、冬に驚きの家の中はTシャツで過ごすというものであったのでした。(ただ英国は冬が中途半端に寒くて暖房器具が私の知っている所は日本並みの暖房でした。月日の経つのは夢の様に早く、40年以上前とは半世紀前にもう直ぐなるので、今更ながらビックリ。)

  そんな訳で、デンマークでは、私の持って行った服で京都にいた時より暖かい冬を過ごせました。考えてみれば、今なら普通の事となりました。20年前にも又行きましたが、デンマークは殆ど変わってなくて、昔と違うのは、お世話になったオンダンパンション ホーリヘーベンは無くなっていて、会いたかったコペンの母さんディテモーは亡くなっていた事でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

215 私の子供の頃

2011-07-09 05:22:51 | 散策
  水木しげる氏は、帰国後6年間を日々の生活の為に紙芝居屋さんの絵を描いて食い繋いだそうです。残念な事ですが、総ての紙芝居の原本は何も残っていなくて、テレビが出て来て紙芝居の終わりに早くに見極めつけて東京に行ったそうです。

  私の子供の頃がまさにその時でしたが、当時は紙芝居を町内でよく見たのでした。町内には2人の紙芝居屋さんが別々に来ていましたが、ある日にかち合ってしまって、子供の目の前で喧嘩をしたのでした。面白かったけど、競争は激しかったのでした。
  今思うと、紙芝居も進化を遂げて、今でも良く覚えていますが、手で次の紙を抜くので無く、下に落ちる様にしたりしてナカナカ創意工夫をしたりした物があって面白く見せてくれました。そんな光景も知らない間になくなりました。

  今の子供達は、産まれた時からテレビがあるので驚く事が無くなってしまいましたが、思い出すと良く日曜には家族そろってラジオを聴くのが普通でした。我が家にテレビが来たのは、小学校4-5年になった頃でした。家に帰ると押入れを開けるとテレビがあった感激は未だに忘れません。ちなみに押入れにテレビを置くのが、トレンド?でした。
  それ迄は、近所のテレビを持っている家迄見に行きました。懐かしいのは、いつも帰る時に‘おやかまっさんどした’(どうもお騒がせしました)と言って帰る事でした。
 いつも行くと部屋を暗くして行儀良く正座して5-6人でテレビを見るのでしたが、足がしびれた等、不思議と覚えていないのです。鉄腕アトムの実写版が未だに思い出します。カラーテレビと画面に付けた3種類の色(3本のストライプが単純に入った物)も楽しみました。又、同じように画面に半円の水が入った虫眼鏡を大きくした様なものを付けて大きくなるようにしていました。ついでに私の住んで入る所では、下水の完備ができる小学校低学年迄、まだ下駄を履くのが普通で、近所に下駄屋さんがありました。
  
  夏場は映画の上映が公園で行われました。公園の真ん中に画面を建てて、なんとその画面の前と裏手から両側から見られて、右とか左とか気にしていませんから、とりあえず見られれば良いと言うほどの大盛況でした。又、二条公園での、プロレスを 街頭テレビを見たのは良い思いでした。
  当時は、映画が最大の娯楽でした、いつも満員で特に盆正月公演の時は舞台に上がって迄見ていました、今なら信じて貰えそうもない事ばかりです。特に東映映画の紅孔雀のシャラーリシャラリーラは今でも覚えている主題歌でした。中学の時、仲間の映画館の貸し駐輪場をやっている友人に誘われて、千中(千本中立売り通り)の成人指定映画の‘世界残酷物語’を見に行った事が忘れられません。バンジイジャンプ等、現在ではテレビでやる事がある、当り前の映画でしたが、まさか牛追い祭りをパンプロナに見に行くとは思ってもいませんでした。

  食べ物では、公園でお好み焼きの薄い、今で言うクレープ状にして鉄板でお玉の裏でならした、べた焼き、それと、これはお店(この前見に行きましたが、無くなっていましたが、小柄なおばさんが一人でやっていた、とても汚い店でした)で自分で作ったたこ焼きの蛸が無い丸焼きが、人気がありました。そこでおでんも売っていたのですが、私は嫌いで何が入っていたか不明です。その店の、その臭いがイヤでした。このイメージで、おでんを30歳過ぎる迄食べられませんでした。それから盲腸で入院した病院食で、小学校5年の5月28日に食べた、スコッチエッグはその時、初めての西洋料理を意識した味でしたが、とりあえず美味しさ抜群でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

番外 !

2011-07-08 06:41:49 | 散策
  司馬遼太郎の風塵賞を読みました。平成の初め前後に自分の思うことを月に一回新聞に書いたものです。その中で、年をとると、話がくどくなる。『その話、ききましたよ』エンドレス人間になる、つまりカセット人間になって、頭の中の数個のテープが、ちり紙交換の放送のようになってしまう。ほとんどの人は、永く生きたようなつもりでいながら、じつは語るに足るほどの体験は数件ほどもない。短編小説としてしぼりとれば、三編もできあがらない。あとは日常の連続で、習慣と条件反射で人は暮らすと言っています。
  昔の人は、又あの人の18番(おはこ)が始まったと笑いながら聞いてくれたかも知れないと言っています。現在は悲しいではありませんか、私も黙って人の話を何度で聞こうと思いますが、そう言う人の話に辛抱できなくなるのです。年を重ねて、私も年取ってきたかな、やっぱり自分でも話を聞こうと思います。その人にとって忘れられない事なのです。私が2度3度書くのを、許して頂きたいと存じます。これを言う為に長い文になりました。

  話しは変わりますが、皆さん忘れていませんか、8月のお盆までに仮設住宅を建てると一国の首相が約束した事です。我々が決めた人です(本当は決めていないから問題なのです)。日本人は短気で決めるのが早すぎます、とりあえず首相になった人です、もう少し任しても良いではありません。政治家が小粒になり、現在においては、政治不信と言うか誰が日本のリーダーをやっても大して変わらないとの雰囲気で不味い気配になっています。
  こんな時に独裁者が出て来て多いに大衆にアピールするのは歴史上あったのですが、そんな人間もいない。全く日本と言う国は救いがたい、日本人はメデアの誘導に弱すぎます。我々がしっかりと見なくてはいけません。辞めたら何もしない元首相の国会議員になります。やっと辞めた名前を言うのもはばかれる杉浦大なにがし、政治家志望が何の話を、テレビに出て小泉元首相の話で場持ち、世の中おかしいと思いません。

  首相は良く変わりすぎです。福田首相は1年で退職金がつくからとちょうど1年で辞めました。本当にいらいら、国会議員が多すぎます。おかしいと思うのが、生活保護世帯が年金生活者と国から受け取る金額が変わらない。まあ、愚痴を聞いてくれて有難う、言うときりが無い、ここまでで止めます。ゴメンなさい、国会議員に腹がたったもので…. この場をお借りして自分のはけ口にしました。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

214 草津温泉 Ⅱ 最終日

2011-07-02 06:00:00 | 
  いつものように5時に起きて、さっそく風呂に行きました。露天風呂は本当の温泉で、1週間も金属類を浸けておくと溶けてしまうほどの強力な温泉と知り、風呂場の中にいる人が、ペンダントをしているのを心配しながら昨日と同じように3分と1分を繰り返し入りました。今日は30回頭にかかり湯をかぶるのが良いとの注意書きにその通りに、30回と言うとかなりな数で、朝から汗一杯でした。 
  
  朝食は和食と洋食のバイキングをお腹一杯、美味しさに、ほぼ和洋食総てを完食しました。どうも家族で行っても元を取れないバイキングですが、この朝ご飯だけ、元を取れました。 

  昨夜ライトアップされた湯畑に行けなかったので、朝8時10分のホテルのシャトルサービスに乗って行きました。昔ながらの風景とイオウ臭さに温泉地に来た雰囲気を十分に味わいました。  
  何処でも会う、あの親父4人組みも来ていましたが、あきらめたのか我々だけで西(さい)の河原まで歩きました。そこの川に手を触れてビックリ、なんと水がお湯になっているのでした。その湯量の多さに驚きながら見物しました。西の河原の入り口に鶴太郎画伯の美術館を、入り口のお店だけ見学しました。時間があれば湯畑にある湯もみも見学したかったのですが、行きに買った美味しい温泉饅頭をお店で受け取って急な坂道を戻って行き、そこで足湯につかってバスを待ちました。

  ホテルに戻り10時40分出発で、万座温泉にオプションで参加した人たちを迎えに行く事になりました。途中、国道最高地点を通過、万座に行く手前で未だに雪が残っていて、一人でスキーをやっている人がいたのには驚きでした。大体雪がある事自体もですが、勿論アイスバーンになっているのですが、どうやって登って来たのか、そこまでスキーが好きだとは尊敬の至りです。
  万座温泉は関西からスキーツアーがありますが、行った事がありません。まして山一つで草津温泉があるとは知りませんでした。しばらく行くとスキーで良く来た志賀高原になるのでした。渋峠から横手山に至っては冬と違って当然雪もありませんから、スキーに来るとリフトを乗り継ぎ自分の位置がそこまで高く下から遠いとは知りませんでした。バス道は長く遠い、私自身良くこんな山頂迄来たなと思う程でした。 

  ツアーの内容を知らず、全く志賀高原に来るつもりが無かったので感激でした。多分このバス道は冬に雪に埋もれて初心者の為のコースに違い無いと思いながら、久しく多分20年は来てない志賀高原に懐かしさを感じていました。初めて来た様な、実際雪の無いのは初めてで、よくもまあ旅行社が、こんなツアーコースを考えたものと、再度驚きでした。

  善光寺が2日目の目玉でした。バス駐車場が裏手になって初めにお寺の謂われを聞きました。その後、団体写真を撮るのですが、スキップしました。お寺は、ナカナカ壮麗な建物でしたが、牛に引かれてと善行光寺言う解釈が間違っていと知りました。京都知恩院の方が大きく良いなとか思い思わず比べていました、色々な店もあり門前町は活気があって賑やかでした。
 
  高速道路1,000円の最終日で、帰りの道は大混雑で大阪に10時30分に着きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする