高校の先生から、手紙を頂きました。五所平之助の新聞記事が面白かったので送った返事でした。そもそも五所平之助と言うと、私より年上の人で映画ファンの方はご存知だと思いますが、佐分利信の名ずけ親で、煙突の見える場所など等、私は余り知りませんが、兎に角、戦前戦後を通じて活躍された映画監督でした。残念な事に、その監督は既に亡くなっています。先生は一途に限りなく愛されて尊敬され、現在その監督の集いの会長されているのでした。
記事の内容は、映画と汽車についての関わりと言うか、映画を通じての汽車や駅の話を面白くシリーズにして書いたものでした。その記事が凄く面白いのですが、それを書いた人が川本三郎と言う方で、朝日新聞社をクビになってから、映画評論家として活躍した人でした。この記事は、現在単行本になっていると言う事ですが、初め雑誌‘サライ’に連載した‘映画の昭和雑貨店’に載った‘鉄道廃線跡’の焼き直しと言う事でした。さすが、先生なんでもよく知っています。映画ファンだけでなくテッチャン(鉄道愛好家)にも読んで面白く書かれています。
余談ですが、テッチャンと言えば私の知人でホームページを一日5,000行も読んでいる、この人と言う人がいます。例えば、大阪東京間を私鉄だけで行けるかと聞くと、この区間はバスになりますがとか、プラハからローマ迄列車で行くとなるとこうなりますと言う様になんでも答えてくれる有難い人でしたが、今どうしているのやら...
ところで、送ってもらった中に、脇役にスッポットを当てた、ご自身で書かれた文のコピーを同封して下さいました。映画はそう見るか、と思わず面白い事と思いました。古すぎて観ることも叶わない事ですが、勿論、五所作品にも多く出ている中村是好(ぜコウ)と言う役者について詳しく良く調べられてと言うよりも、多分好きで無ければこれ程書けないと思えます。エノケン一座から始まってと言う辺り、想像ですが、もう亡くなった坂上二郎さんに良く似ているかも知れないですが、今で言うと温水洋一と言うか、何処かに人を引き付ける物があるという事です。仮に彼の出ている映画を見ても、私には直ぐに忘れると思います。
しかし、評論するとは実に難しい事と考えさせられました。これで一つ決まりました、評論家になるのは諦めます。直ぐに諦める速さは日本一です。
それとラジオ塔なる物も、写真と一緒に同封されていました。テレビ塔なら知っていますが、ラジオ塔とは聞いた事がありませんでした。早速、便利なインターネットで検索すると、ラジオが高価で買えなかった時代(言うまでも無く、かなり前です)に公園に皆で聞く為に設置されたものだという石灯籠を3倍程大きくした様な物が多いです。7基の写真でしたが、京都は戦災に合わなかった為に残ったと思われます。実は京都に爆弾が2発、1発は我が家の裏手に落とされたと聞いています。我が家は、土間の土が上の間迄上って大変な思いをして、疎開したのでした。疎開と言っても北大路の上ですからまるっきりの市内です。総ての物を貯金として預けて、その預金も終戦で引き出せずに、我が家の苦労が始まったと聞いています。戦後もしばらくいたので、私の本籍も疎開先でした。
しかし、何にでも興味を持つと言うものは、良いものですね。
記事の内容は、映画と汽車についての関わりと言うか、映画を通じての汽車や駅の話を面白くシリーズにして書いたものでした。その記事が凄く面白いのですが、それを書いた人が川本三郎と言う方で、朝日新聞社をクビになってから、映画評論家として活躍した人でした。この記事は、現在単行本になっていると言う事ですが、初め雑誌‘サライ’に連載した‘映画の昭和雑貨店’に載った‘鉄道廃線跡’の焼き直しと言う事でした。さすが、先生なんでもよく知っています。映画ファンだけでなくテッチャン(鉄道愛好家)にも読んで面白く書かれています。
余談ですが、テッチャンと言えば私の知人でホームページを一日5,000行も読んでいる、この人と言う人がいます。例えば、大阪東京間を私鉄だけで行けるかと聞くと、この区間はバスになりますがとか、プラハからローマ迄列車で行くとなるとこうなりますと言う様になんでも答えてくれる有難い人でしたが、今どうしているのやら...
ところで、送ってもらった中に、脇役にスッポットを当てた、ご自身で書かれた文のコピーを同封して下さいました。映画はそう見るか、と思わず面白い事と思いました。古すぎて観ることも叶わない事ですが、勿論、五所作品にも多く出ている中村是好(ぜコウ)と言う役者について詳しく良く調べられてと言うよりも、多分好きで無ければこれ程書けないと思えます。エノケン一座から始まってと言う辺り、想像ですが、もう亡くなった坂上二郎さんに良く似ているかも知れないですが、今で言うと温水洋一と言うか、何処かに人を引き付ける物があるという事です。仮に彼の出ている映画を見ても、私には直ぐに忘れると思います。
しかし、評論するとは実に難しい事と考えさせられました。これで一つ決まりました、評論家になるのは諦めます。直ぐに諦める速さは日本一です。
それとラジオ塔なる物も、写真と一緒に同封されていました。テレビ塔なら知っていますが、ラジオ塔とは聞いた事がありませんでした。早速、便利なインターネットで検索すると、ラジオが高価で買えなかった時代(言うまでも無く、かなり前です)に公園に皆で聞く為に設置されたものだという石灯籠を3倍程大きくした様な物が多いです。7基の写真でしたが、京都は戦災に合わなかった為に残ったと思われます。実は京都に爆弾が2発、1発は我が家の裏手に落とされたと聞いています。我が家は、土間の土が上の間迄上って大変な思いをして、疎開したのでした。疎開と言っても北大路の上ですからまるっきりの市内です。総ての物を貯金として預けて、その預金も終戦で引き出せずに、我が家の苦労が始まったと聞いています。戦後もしばらくいたので、私の本籍も疎開先でした。
しかし、何にでも興味を持つと言うものは、良いものですね。