旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

256 先生への手紙 (スイスでの思い出)

2012-06-30 06:00:01 | 思い出日記
 パリ行きの途中のバス停留場が、私のイメージしていたフランスの田舎そのものでした。1ドルが360円当時、忘れられない思い出の一つ、それは旅の途中で先生に会った事でした。今回、同窓会に出席してその先生にお会いして後日手紙を書いたのでした。その手紙を紹介したいと思います。

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前略 先日は、わざわざお越し頂き楽しい時間を一緒に過ごさせて頂き、有難う御座いました。当日同封の新聞の切り抜きを渡すのを忘れていました。(先生が語り継ぐ会会長の)五所平之助監督とそれに新藤兼人監督に関して載っていますので、ご笑納下されば幸いです。

 ところで最近読んだ本の中で、‘池内 紀の本‘‘一人旅の話’’、無限の好奇心であって、それを自分なりに表現する。その時はじめて旅が自分のものとなる。旅の記憶を思いかえすのもまた、もう一つの旅というものだ。’と言うような事を書いていました。

  40年以上前になりなりましたが、スイスで、お会いした事が懐かしく思い出されてなりません。この前お会いした時に、それが何処の町か聞こうと思っていましたが、先に聞かれてしまいました。時が立つにしたがって、懐かしく思い出します。京都でも街中で会う事が無いのに、まだまだ日本人が欧州に行っていない時に、私がスイスの町を歩いていた事に、大変驚かれたと思います。
  その時、先生がバスから降りられて来る所、コ-ヒ-を頂いてチップを置いた時に‘マダム シルヴプレ’と言われた事、そのオープンカフェやパリ祭のパリに泊まりに来ないかと言ってもらった事は、ハッキリと心に沁みついています。この年になって、その時会った偶然と言うか奇跡に近い事を驚くばかりです。
 今となっては良い思い出で、あの時点で欧州に一年以上いた事になり、翌年にアメリカを周って日本に帰りました。

 デンマークで福祉の勉強をしていた時は日記らしき物はつけていたのですが、残念ながら あの頃はメモも無く、多くを忘れています。 デンマークでの生活は、‘思い出、思い出し’として3年前に、気力があったのか多分暇だったのでしょう、1日1話をブログに書き始め166話書いています。
 現在は1週間に1話で既に250話を超えています。それも最近の事を取り混ぜて読み易いつもりで多い時は、一週間に5‐600もアクセスがある時もあります。先生の教えを守り、書く上で文章の多くはカットして書いています。幸いに多くの人が読んでくれますので、続けなければと思っています。
 拙い文章ですが、この前に大津に行った話をまとめて書きました、良ければ読んで頂ければ幸いです。

 いつまでもお若い先生を見て、70歳を目安にできればもう一度、欧州特にイタリアに行こうと思っています。夢に終わるかどうか、夢を叶える為に頑張ろうと思っています。

 お身体に気を配りご自愛頂き、又、お会いできる日を楽しみにしています。 草々

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 やはり、基本している文章を創るのに1500字にすると長すぎると指摘がありましたので、少し、いえ随分手紙を短くしました。

                 
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255 十三 Ⅱ

2012-06-23 06:00:00 | 散策
 そのまま行くと、角に元禄時代に京都伏見で創業して大正末期に十三に店を構えた㈱西川、ここは大阪で唯一様々な用途に使われている柿渋店だそうです。布団の西川は知っていますが、違うのかどうか確かめるもなく、そこを曲がるとやっとにぎやかな阪急十三駅になりました。

 地下道をくぐり、十三駅前西商店街に入りますが、ここは駅の東側と違って凄く活気ある町で何でこんなに違うのかと不思議に思われました。通称‘波平通り’華やかで、やっと十三らしく、その昔夜に良く飲みに来ました。飲み屋街から国道を渡ると、そこから初めて行くフレンドリー商店街に入りました。
 少し行くと人が一杯で何事かと思いましたが、野次馬根性でのぞくと、演歌歌手のキャンペーンで表の写真とちょっと違う熟女歌手がいて、小さなお店から人が溢れていました。どんどん行くとJモール、そして もといまロードと続く商店街のイメージは物忘れがひどく、どこか思い出しませんが、東京のある商店街に良く似ていました。長く美しい所は十三とは思えない程広くにぎやかな通りでした。

 終り近くにスーパーのサンデーがあったので十三公園で飲もうとビールとおつまみを買いました。その公園が地図を見て分らないので、丁度一人で遊んでいる子に聞きました。なかなか良い子で道を丁寧に教えてくれましたが、こんな子供が最近の治安の問題等で言うと危なくなるので、自分が聞いたのに申し訳無いですが、世の中住みにくくなるのは当然です。
 
 ちょっと一休み、その公園は丁度八重桜が満開でベンチに座って桜見物となりました。次に行く所を考えていたのですが、公園はかなりの人で、子供の間を30代と思われる人が盛んにダッシュを繰り返していました。その向こうが手塚治虫出身全国的に有名な大阪の北野高校がありました。

 この辺りは初めてきたので地図の見間違いもあって迷ったですが、富坂賢太郎歌碑(格調高い歌をつくり、数々の災難やだまされても人を信じたいと絶望せずに、不運にも最後は交通事故で亡くなったと言う人だったそうす。)を入口が狭くて分かり難い、Jモールの終わりの方にある長安寺の境内に見つけました。そこを出まして、珍しい桶等が置いてある寂れた店の前を通り過ぎて、自分の位置を確認すると、この店が樽加商店と言う案内書に載って、もう一ど戻って見ました。本には時代劇の1シーンのような佇まいと紹介されていました。向かい側が十三バイパスの高架になりました、その下に洒落たバーや食べ物屋が何軒かありました。

 ここから、淀川図書館に行こうと思って戻って行くとプラザオーサカ(今は無きホテルプラザとは関係無し)があり、昔、オープニングの時に招待されて行った事を思い出しました。粗品としてOsaka Plaza Hotelと一杯書いてある浴衣を頂いた事を思い出しました。沢山の研修生と思われる男女が出て来ましたが、このホテルだけがまともで、この辺りは十三のもう一つの有名な面、派手で有名な昔は温泉マークと言っていたホテル街となっています。こんな所に多分研修とは思いましたが驚きました。

 ホテル街を抜け川の畔にステラマリアと言うフレンチレストラン、ここは昔10数年前に安いので良く来ました。十三でフレンチ料理とはなかなかいかしていましたが、世の中変わるもので、メニューを見るとその当時安かったのに、今安い店が沢山できたので普通の値段の店になりました。
 そこを抜けて行くと、目的の図書館がありました。多分この地域ではここが唯一優良施設の図書館と思われるのですが、一階のみで大変混んでいました。狭く落ち着いて座る場所もないので、沢山歩き疲れたので仕方無く帰る事にしました。
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254 十三  

2012-06-16 04:44:47 | 散策
 十三(じゅうそう)は ここを分岐点に阪急電車が神戸、京都、宝塚、箕面、北千里等に分かれて行く駅です。駅舎はごさごさして古く、もう立て替えても良いと思いますが、この周辺の地域にぴったりとあっていると思います。余り降りる事は無いですが、大阪の1つの典型的な街と言えます。
 昔、藤田まことが‘十三のねえちゃん’を歌ったように、駅を西側に出ると本当に直ぐに右側に細い路地があります。そこに飲食店が沢山ひしめきあっています。そこを通り過ぎて行くとなんと日本で一番の製薬会社があります。ここは御堂筋にも立派なビルがありますが、その昔、その方達と同行して夜の十三にある安いお店を飲み歩いたのでした。CMで良く見る日本で一番の会社に勤めて、初めて十三に来た時は驚いたのに違いありません。そんな所ですが、私の知りあい達も関東から来て、大阪が気に入り、住みついた方がおられます。
 
 そこを、まち歩きマップ‘大阪あそ歩’を持って散策となりました。久々に十三に降りて最初から間違って東口に出ましたから、コースと反対周りに神津(かみつ)神社にでました。十三の氏神さんだそうで弓矢の神様、八幡大菩薩を祀ってありましたが、今宮神社から分霊をいただいて‘十三(とみ)戎’合祀したそうです。他にも山之稲荷神社とか沢山の神社内神社sがありました。ここの手水場が変わっていて、3つの蛇口が手元上から下がっていて目の前に女の子の絵が、口のすすぎ方まで書いてありました。今までの神社では、見た事が無い、水を遊びに使ってはいけませんと注意書きがあったのも十三のここならではの事でした。

 本に依ると、島左近(石田三成の軍師)と島道悦(孫、中津川治水事業に命を賭けた人)のお墓があると言う場所に行きましたが、見つかりませんでした。丁度昼時分でその近所の銀シャリの店で昼ご飯を食べて聞けば分かると思ったのですが、ここで30年店をやっているが知らないと言われて、国道向かいにあるお米やさんを紹介されました。渡るのも面倒ともう一度裏道を歩くと、20坪程の今工事中のブロックで囲んでいる最中のお墓群を発見しました。後から見ると、通りからブロック塀が邪魔をしていて島家の高い墓の裏側が頭だけ見えるのでした。その向かいに歴史ある古い文字が刻んである島道悦(中津川治水事業に命を掛けた人)のお墓を発見しました。

 そして、裏通りには二畳ばかりの靴屋さん等があって自分のいる場所が分からなくなって、地図を見ていると正装した人が出てきました。そこは十三ミュ-ジックの入り口でした。昼間から客と間違われた様ですので、その場を退散しました。

 余談ですが思い出したので昔、十三ミュ-ジックとは全然違いますが、ストリップで京都千中ミュージックと言うのがありました。その前で中学時代の友人の家が貸し自転車置き場をやっていましたが、その近くの映画館で中学時代に友人と一緒に成人映画の‘世界残酷物語’を見ました。社会一般常識が変わるので驚きますが、今ではごく普通の映画でTVにも出ましたが、当時はバンジージャンプ等、怖い映画でした。

 大衆演劇の役者等のかつらと作ると言う山井かつら店が見つからず、仕方無く寂れた木川本町商店街に入りビーフ(小さく)ドカレー等やたら能書きが多い店ですが店名が分らないと言う珍しい喫茶店がありました。

 そこを過ぎるとツバメ通り(十三東本町商店街)ここはアーケードも無く解放的ですが相変わらず人通りが少ないです。本に乗っている北岡神祭具店がありましたが、殆ど見るに耐えられ無いと思うほど奥行きはありますが間口の狭い所でした。

 駅東側だけでもこれだけ書けましたので、又、西側を案内する事にします。 
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253 花の名所めぐり

2012-06-09 05:36:17 | 散策
 牡丹、芝桜と藤を見に朝7時40分いつもの場所に集まって、日帰りで2食付7,990円のツアーに参加しました。。昼食が混むと行く順序を変えられて、最初に中国三田から有名なアウトレットに行く道を曲がらず真っすぐに行って市内の素晴らしい中央公園を左に見て花のじゅうたんで有名な永沢寺に行きました。

 このツアーの歌い文句に全国でも数少ない芝桜に特定した庭園でと言う、一面に広がる芝桜を堪能しました。確かに素晴らしい芝桜が咲いていました。どれも同じに見えるのに、種類がかなりあるのでサンプルが陳列した置いてあるので、分りそうなもですが、殆ど同じに見えました。人が歩く通路の足元が見えないので、沢山の人が綺麗な花の間を通っているように見えるのでした。

 入口は隣にあるのですが、二千株の牡丹の公園がありました。そこは年中花で覆われるのか、広大な未だ咲く前の菖蒲園の向こう側に牡丹の花が咲いているのが見えました。近くに行くと、今真っ盛りの色々な種類の牡丹の花が陳列会よろしく勢揃いしていました。永沢寺は海抜550Mあると言う事で今も八重桜が咲いていて、それだけでも見ごたえある、まだ花を咲かす前の菖蒲の間に、水車小屋が様になっていました。

 次はバスで丹波篠山迄行くのですが、道路が大型バスが通るのを想定して無かったので、途中対向車が来るとその都度停まり横をすり抜ける程狭い道でした。私はバスの左側窓側に座っていて状況は見えませんでしたが、時々対向車はかなり下手な運転手がいました。そんな運転で道からはみ出しそうになり、乗客の悲鳴にも似た声が何度かしました。、

 そうこうして無事に篠山城跡の駐車場に着きまして、自由に町見学となりました。城跡は時間が少なく見学はしなかったですが、立派な堀も中にある建物も見る価値がありそうでした。町は私が想像していたのと違いまして(何処に行くか、実は何も考えていませんでした)、それなりの雰囲気を持っていました。役所も力を入れているのか、お城跡の直ぐ近くに市役所がありましたが、周りの景色と上手くつり合って、白壁が良く似合っていました。

 4つの食べ歩きと言う事で、文句に間違いありませんでしたが、サンプル食べ歩きと言った方がピッタリと良いのかも知れません。余り贅沢は旅行代金から言ってはいけませんが、くり2個と言うのでも1つでありました。それでも皆が食べるので相当数でした。
 国有形文化財登録にもなったいる、ほろ酔い城下蔵と言う鳳鳴酒造は寛政9年創業(築後200余年)と老舗で、お酒の試飲しました。現在はお酒は別な所で仕込んでいて、見学用に酒蔵等も見られました。酒樽の間にコンサートができるように、ピアノが置いてあったりして見学には凄く良いなと思いました。以前見学した、京都伏見の今造っている酒造所よりも昔ながらの雰囲気を珍しく見学しました。
 
 お昼は、牛陶板焼き膳と竹の子ご飯食べ放題でしたが、家に帰ったら朝掘りの竹の子が待っているのとそう食べられないので、次の訪問地迄トイレ無しのバスの旅に、ビールはちょっと心配しながら美味しく飲みました。

 舞鶴若狭自動車道を中国自動車道へ大阪に向かわずに最後の大歳神社の藤の花は、バスは遠くに停められて、そこまで幹線道路から少し歩かなくてはならなかったのでした。年寄りには少し厳しい距離と時間でしたが、近くに行くと藤のいい香りがしてきました。初めて見る比較的に狭い境内には、藤の花が雨の様に隙間なく垂れて咲いていました。

 黒豆弁当を食べながら帰りが大変で、連休半ばですが高速道路は車で一杯でした。しかし慣れた運転手で高速道路を出て、一般道を走り又途中で高速道路に戻ると言う業で比較的に予定より早く帰る事ができました。
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252 昭和町

2012-06-02 05:00:12 | 散策
 昭和の日に昭和町まで行きました。毎年特別イベントがあり、昭和町はなんと全国に99もあるそうです。梅田から地下鉄御堂筋線一本で270円、勿論初めて降りる駅です。

 地上に上がるとイベント‘どっぷり、昭和町’関係の人が、パンフレットの地図を2枚配っていて、この周辺のレストランの紹介と会場の位置を知らせてくれました。昼を食べるつもりで、以前新聞にかいてあったので有名な1952年創業のハンバーグのBOSTONがその後ろにありました。開店まで時間があるので、早速地図を見て散策開始しました。

 ボランティアの人がこんなにも多くの人が集めて、このイヴェントを成功させたのは大変だと思いました。先ず、1本道を入ると寺西家とその前に寺西長屋がありました。
 この地域は戦災を免れたそうで、狭い通りに人だかりが凄くて、駅から直ぐ近くに古い長屋があるとは驚きでした。この長屋はガス風呂も備えた最先端だったそうです。左側にある寺西家は一般開放されていまして、靴を脱いで上がると、11時から伝承料理研究家や様々な公演が予定されていました。庭の隅には、比較的に小さな蔵があり、洒落た料理も味わえるバーになっていました。向かいの長屋は今風にアレンジされたレストランに様変わりしていました。塀にはまちかど写真展よろしく昭和の昔の姿を紹介していました。

 そろそろボストンのオープンが近いのでお店に行くと、既に一組並んでいたのでその後ろに並ぶと直ぐに10名位の列ができました。列で携帯販売店の店の前がふさがるとクレイムがイベント関係の人にありましたが、店はまだ開かれずシャッターが半分下りたままでした。暫くして、お店の人が見に来たけれど、この日位早く開ければ良いのに店に人を入れる訳ではありませんでした。11時30分開店の予定が遅れてやっと中に入る事ができましたが、中は狭くて3角形のカウンターだけででした。私は一番奥に座りました。一番初めの人たちは、二階にテーブル席があるので上にあがりました。
 狭いカウンターの中に2人のシェフと3人の女の子、狭いので片隅に動かずにいました。直ぐにオーダーを取りに来るかと思っていたら、要領悪くてケチャプが無いと表に取りに行ったりしました。持ち帰りの人達も列を作っていましたが、初め30分待ちと言っていたのが、1時間待ちになりました。私自身2番目に入ったのに25分も待たされてしまいました。ハンバガーセットで飲み物付きで、味はこんなものかなーと特別な感じではありませんでした。チェックと言うと女の子が2千数百円と驚くばかり、私も繰り返して聞くと、なんの謝りも無くてシェフが間違いを正してお仕舞いでした。もう来る事は無いでしょう。

 近くの阪南中公園では、‘昭和のあそび広場’を開催して昔懐かしい紙芝居、あめ細工等、それに色々な遊びに沢山の人が群がっていました。御堂筋線をまたいで反対側に行き、次の会場桃ヶ池公園に行きました。公園にはいそこの市民活動センターでは田辺寄席‘大落語会’を有料でやっていました。

 公園には桃ヶ池があり、池は股(もも)ヶ池。公園と字が違うのですが、池の形が股と足に似ているから名前が付いたとかまあ色々謂れはあるそうでした。大きな声のする方に行くと、プロレスの真っ最中で仮面を付けたレスラーがコミカルにもかなりハードにレスリングをやっていました。解説が面白くマイクを使ってやっていましたので、結局最後まで見ました。

 疲れて、一日がアッと言う間に終わりました。帰り道に文の里商店街に行きましたが、店の半分はシャッターが降りていましたが、知る人ぞ知っている、大阪で有名な旭ポン酢が売っていたので初めて買って帰りました。
 
 
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