旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

386 京‘まんだ’

2014-10-25 04:52:26 | 思い出日記
  読み始めて難しそうだったので途中で止めようかと思ったけれど、京ことばがたっぷり書いてありましたから読んだ本「雁金屋草紙」は、江戸時代の将軍4代の頃からの、ただ単に京都の店を書いた本だと思って読んでいました。尾形 光琳という知った名前が出てきて、やっと作者は尾形 光琳を書きたくて、彼を愛する人の影に光琳を表現したのだと読んで行くうちに、恥ずかしながら知りました。

 その本で、「1日1日を大切に、3年前の夏はこうした、5年前の冬はこうであったと、刻の手応えを握って生きることが、この世に在るということであろうか。一年一年を積み重ねて歩くのが、この世に在るということであろうか。いつの春か秋かも判らず、どの四季も色もなく、薄墨色の中にあっという間に飛ぶように流れて行ったが、どの春も夏も、秋、冬も、ずっと自分は熱い想いを抱いてきた。これでは生きたことにならぬのか。」を難しく読みました。

 「1日1日を大切に」は分かりますが、昨日の事も忘れてしまっています。自慢ではありませんが、先日歯医者に行って‘この前いつ来ましたか’に一年も経つと答えられなかったのです。耄碌(読めても平仮名から変換したから表示出来たのです。便利になった)したのか、去年の事か3年前の事か分からないです。勿論、1日1日を大切にしたいたら、5年前の冬はこうだったと分かると思うのです。云うは易しで、如何に日々をおろそかにして生きている訳かです。もう長くは無い人生、もっと1日を大事にしなくてはと思っても、さてさて...人生淋しいですが一度きり、今日一日、明日に向かって、もっと楽しむ事にします。

 その本の中で、着物の着方というものは、不思議なほどに、その人が出るものである。衿の抜き方、帯の締め方等に、その人の物の見方、考え方、ひいては生き方も現れるとかいてありました。私の小さい頃は未だ、着物を着た人が京都では多かったです。思い出すと、母親世代の殆ど人達は普段着で着物を着ていました。

話は違い、靴屋が近所になくて、下駄屋さんが角を曲がった所にありました。うどん屋さんの‘達富’さんは未だに名を覚えてくれたけど、下駄屋さんはどうなったか知りたくなって来ました。

 ‘まんだ’(まだ)という言葉が本の中に出てきました。今まで、考えなかったけど、叔母さんが元気な頃良く使っていた事を思い出し懐かしく読みました。大正生まれの人が使ったのか、戦後生まれの、私の年になるともう殆ど使わなっていました。‘まんだまんだ15歳’という様に使っていました。おべべ(着物)は私でも使っていた覚えがあります。中学校の先生から「ひざぼし」(膝頭)と言って、たしなめられた事を思い出しました。いっちょうら(1番良い服)、でぼちん(額)やっぱり京言葉使っていました。
 やっぱり、電車で今住んでいる所から40分の故郷が一番いいと思います。
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385 名

2014-10-18 07:06:31 | 思い出日記
  自分の名前、つまり愛称やファーストネームで、どの様にいつ頃まで、みんなに呼ばれているか考えた事がありますか。私は今考えました。そのままの人はいると思いますが、小さい時は、みんな名や愛称で呼ばれていると思います。普通、名字で呼ばれるようになったのはいつ頃であったかと考えると、小学生の時に習慣ずけて呼ばれるようになったかと考えます。それが当たり前だと誰も気にしないのが普通です。だんだんと学校行く前の友達との付き合いが無くなり多分、幼年期から小学校に入学したという自尊心が芽生えた為ではないでしょうか。
 名前で呼んでもいいのに、それがどうしてそう呼ぶのか、今となって不思議です。一年生になった時、小学校に入る迄、普通家に帰ると友達も名前で呼んでいましたが、クラスが違うといつの間にやら疎遠になって行ったのです。

 特に女性は、大人になっても愛称で呼ばれる人が多いと思います。それと外国の人は階級など関係無く親しみを込めて大人になってもファーストネームで呼びます。私は外国の人にも名字の最初2文字を名のっていました。多分、初めて小学生で名字で呼ばれましたが、学校はそう言うものだとなんら疑問を抱く事すらなかったと思います。 
 当然の如く、小学校に入るまで名前で呼ばれていました。その当時も、私の名は、たった3文字でも面白いもので呼び方は色々です。親兄弟は大きくなってからも、そのまま‘ゆたか’ですが、そんな家族も一人だけになりました。こんな事を考えるのは、兄の葬式で会った親戚の人達が少なくなったからです。
 思い出すと、その名前を、人によって、たった3文字の名を、文面では難しいですが、それぞれ強調や強弱をつける所が違います。この場合、親戚で地方の人と結婚した人がいて、その人も呼び方が違いました。もっと小さい時は、可愛く「ゆーちゃん」と呼ばれていましたが(本当に可愛かった??)、大きくなってもそう呼んでくれる姪とは音信不通です。考えて見れば、親戚は特に名字で呼ぶのは変で、大きくなっても、名前で呼んでくれる人は今や有難いですが、片手に余る位になっています。

 今でも思い出しますが、学生時代にバイト先で呼ばれた覚えがあります。大きくなってからは、そもそもその名前がきらいでしたから、呼ばれるのがいやでした。私の名は母親が金光教の信者であって、その神主に付けられた名前と聞いています。と言う訳で一行で終わる、自分の名を題材の作文を書くのに苦労しました。余りに当時は平凡な名前でしたから、小学生の頃はクラスにもう一人同じ名の人間がいて嫌っていました。しかし、不思議なもので、今となっては大好きな名前となって来ました。
 
 皆さんも、名前で呼んでくれる方を大事にして下さい。だんだんと、年上の人が亡くなり少なくなり、こんな事も考え始めて来ました。
 
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384 時代もの

2014-10-11 04:14:53 | 思い出日記
 昔、兄が住んでいた埼玉の越生に行った時の事です。女の子を頭に、三つ子が生まれて大変な時でした。今となれば、3つ子を育てるのには田舎で良かったと思った程、大声でみんな元気に育っていました。3つ子の上のお姉さんは3つで、一番可愛らしい時分、可愛がって貰っていなければいけない時分に、ほ乳瓶を持って下の子達の間を右往左往、世話していました。そんな大変な時に良く行くね。本当に迷惑でしたが、若さです済みません。
その子達が少し大きくなって近所の子供たちが集まって来て、その家のテレビが壊れていると言うので困ったと聞きました。その時、世の中カラー時代に入っていたのに兄の家は白黒テレビ、勿論、近所の子はカラーで育ったのでした。

 テレビの時代劇や歴史小説を読んでいて、それよりづっと後、私の子供の時代の状況から、どの場面もカラーで綺麗なものばかりと思います。もっと汚い着物を着ていたはずで、どうもショウム無い事が最近気になって気になってテレビや映画を素直に楽しめなくなってしましました。
 毎日町人も含めて洗濯したて、明らかにアイロンがアタッタような着物や頭のカッコウは盆正月でも着ない結わないに違い無いと思います。出ている皆が髪の毛が綺麗過ぎるのです。時代考証が、嘘が多すぎです。私の子供の時でも、青鼻を汚い袖で拭く様な子供がいたのでした。
 月代にしても長屋に住んでいる人も、殆どの人が毎日床屋に行っているような頭になっています。それに普通の家は銭湯に行くのが普通のはずですが、現在のように毎日入らなかったと推測します。その銭湯がどの様なものであったか、そして、ひょっとして一ヶ月以上も入っていない、道路も歩き難くなったいるはずなのにどの道も綺麗なままになっている。可笑しいと思いませんか、小説も同じで、私はせめて映画は本当らしく撮って欲しいと思うのです。やっぱりお茶の間には汚いものはいけないのでしょうか。
 現在の衛生状態からすれば常識外れのものが多くあるのに事に気づます。京都でも私が社会人になっても汲み取り家があった事を忘れてしまいます。スイスから来た友達と一緒に行った1980年代、まだ多くの家が汲み取りだった事を忘れません。スイス人にとってはカルチャーショックだったと思います。
 すごく頭に残っているのが、小学生の頃、御所の中、丸太町寺町付近で庭園掃除のおばさんが一人か二人で中腰で正面をこちらに向けて立ちションをしてました。その時は、60代と思っていましたが、多分勢いが(なんの勢い)あって思った年齢より年は若いと思います。公衆便所が無い時代、この様にしていたに違いないです。色々経験しています。

 坂本龍馬が靴を履いた場面を何度か見ていますが、靴下を履いていないですから多分水虫に悩まされたと思います。皆さんもツマラナイ事に興味をもってボケ防止に役立てようではありませんか。

 
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383 図書館は有難い!       (毎週土曜日更新)

2014-10-04 04:48:58 | 思い出日記
 あらゆるジャンルの本を色々読んでいます。というより図書館で借りている訳で、読みやすい大文字の本を読みあさりました。ここ数年、5年程で読んだ本は、余り自慢できないけど殆ど頭に入ってい無い程、沢山読んでます。

 今回‘てんのじ村’難波利三は、特に‘中国任侠伝’の陳舜臣の漢字の難しさに手を焼いた後なので実に読み易かったです。図書館で読む本が無いので仕方なく借りた難波さんのは、イメージで古くて旧仮名使いで読み難いと思っていました。しかし話が面白くて2日間で寝るのを忘れて読みました。読まず嫌いは駄目ですね。

 簡単に説明すると、主人公は国鉄で定年を迎えるはずでしたが、終戦後21歳の時に島根から大阪に遊びに来て、ビラで安来節の見て、偶々知り合いが出ていて、そのまま漫才師になりました。その後80歳を越えて漫才の道を歩んだ人でした。
読み易く現代に通じる本で気軽に読むのには素晴らしい本でした。大阪、てんのうじ村と言わずに‘てんのじ村’は、現在阪神高速が出来てその面影も無くなってしまったのですが、そこに行った事があると思うのですが、この本を読む前でしたから今度再度行って見ようと思います。

 松本清張、森村誠一、と推理小説だけを書いているとおもっていたら、時代小説にも手を出しているのですね。時代小説と言うと今の感覚や感性ではとても想像も出来ないです。そこで作者の良い様に少しの資料から針小棒大に話を面白くしていると思うのです。その想像力には流石プロになる人は違うと感心せざるを得ないです。という訳で、又も作家になるのを諦めます。
 
 こんな手もあるのかと驚かされた、辻 邦夫 著の‘江戸切絵図貼交屏風’という本です。主人公は弟に家督を譲った浮世絵師、その友達が地方の藩政に詳しい旗本、その関わりの八丁掘与力、そして版元が関わった事を中心にして起こる難事件を解決するといったような話です。主人公が浮世絵に書いた女性が事件に関係していて、それが事件に関係して次々と難事件を解決していくという話です。
 そこで、「ほっつき歩く」というものが京言葉だと思って使う機会がなかったですが、標準語だと分かりました。もう40年以上はその言葉を使っていないと思います。「今や古語?の範疇になるのかも知れないです。「心中」という言葉も幕府から使ってはいけないと「相対死に」と言わされていたと知りました。いまさら知ってどうなるものでないですが、そう言う事です。

 流石に面白い設定で中心人物達が色んな方向から、話がどんどん広がって行くものと感心していました。ところが私が目をつけるより早く、私が遅いのですが、テレビを見ていないけど浮世絵師おもしろゑ歌麿というものが水谷豊主演であるではないですか。やっぱり世の流れからずれています。

 今日は本の紹介に終わりましたが、モット勉強しなくては、まだまだ、知らない事が沢山あります。
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