旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

236 大阪を見なおしました!?

2012-01-28 06:00:00 | 散策
 偶然に図書館で見つけた少し古い本‘歩く地図大阪神戸’を参考に、清水寺周辺を散策しよと思いました。大阪に清水寺とは知りませんでしたが、1640年に京都の清水寺にならって再興されてと伝わる寺であるらしいです。京都人として是非とも行かなくてはと思いました。
 先ずは、通天閣を回ってからからと思って恵美須町で降りました。駅の地図を見てビックリ、この近辺に50を超えるお寺があるではないですか、こんなに狭い所に寺が集中してあるとは今まで知らなかったです。

 取りあえず通天閣看板を目指しましたが、昼ご飯を食べる予定でいたグリル梵ですが9年前の本に書いてある値段を見るとタンシチュウで2000円に高級店に違い無いと思ったのですが、狭い道路を通り過ぎる程の所で、古いおんぼろな食堂と言う感じでありました。少し寄って見たかったけれど昼前でもあり、流石に食べるのは止めました。

 通天閣の前は、団体や人が沢山増えて2度漬けダメで有名有名になった串カツ屋は一杯でした。ジャンジャン横丁に行くと、こちらがメイン通りに違い無い程、人は狭い道に沢山いました。将棋屋さんで何組も勝負していたそれを外から見ている人がいました。途中のたこ焼き屋さんでビールを飲みながら一休みしました。地下鉄の動物園前から人が来るのですが、大阪の子供達は動物を見る為にこんな労働者の町の風景を見て育つのだと毎回思うのでした。
 
 この地域は東京で言うと丁度浅草を狭くした感じに近いです。さて本来の目的であるお寺を目指して愛染公園を右へ松屋町筋を超えて清水寺へ50メートル程の整備された石畳の階段を上がりました。坂の登り口にここら辺りは昔ながらの名水で有名な所らしかったので、登って地図を見ると口縄坂を見てなかったのでした。折角来たので下りるのは勘弁してもらって先の広い道に出て左手に行きました。

 坂がほとんど無い大阪ですが、前の道路が谷町筋で松屋町筋とこんなに高低差があるとは驚きでした。地下鉄夕日陽丘駅を左へ、そこら中にお寺があると言う感じでした。しばらく行くとそこに織田作之助の文学碑で‘青春の回想は終わった、新しい現実が私に...’何か胸にくるものがありました。そして約3メートル幅で50メートル程の良く整備された口縄坂がありました。両側はそれなりにいい雰囲気があって大阪にもこんな所があったのかと思いました。

 坂を下りると再び松屋町筋はお寺街が続きます。円生院を左へ回り、大江神社の階段が挑戦しろと言うようにありましたが、挑戦せずに、その前を通り過ぎて横の坂道を上りました。登りきった所で左後ろを見ると丁度大江神社の裏門でした。
 大江神社に松尾芭蕉の碑があるハズなのですが、見つけられませんでした。左奥に阪神タイガースの旗が見えたので行くと、流石に大阪です、柵の上に何本もメガホンや新聞の切り抜き等優勝祈願宜しく並べてあったのでした。

 そこを出て、直ぐ左側に愛染さんがある、勝まん院がありました。裏にある多宝塔は聖徳太子が建立して、豊臣秀吉が再建した重厚なものでした。このあたりは戦災からまぬがれたようです。
 
 やっと清水さんです。舞台は鉄筋で小さなものですが、おとわの滝に似せた所は本物の様に上を歩く訳には行かないですが、それなりに上手く作ってありました。その前の道を行くと真田幸村が戦死した場所と言われる安居神社は幸村の最近建てられた像がありました。
 その向いの一心寺は外から見ても石垣で凄い建物ですが、かなりなもので入り口にモダンアートの様な2対の仁王像、10年に1体作られる信者の分骨の阿弥陀如来坐像は初めて見たもので沢山の人がお参りしていました。

 そこから四天王寺は直ぐにありましたが、凄く広くてそして人が多いのでビックリしました。それも其のはず21日で、境内は色々なお店で一杯でした。コカコーラの瓶や古着、骨董品迄、昔の京都の北野神社を思い出すほどのものでした。途中から雨がひどくなり残念な事に閉めているお店も多くなってきました。

今日は予想外に沢山歩き、雨にも負けて、もう少し歩きたかったのですが、疲れたので帰る事にしました。大阪再発見の素晴らしい散策、総歩数約18,000歩でした。
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235 アメリカの結婚式

2012-01-21 08:00:00 | 散策
 ある機会にユダヤ人の結婚式に出る事になりました。そもそも外国のユダヤ人の結婚披露宴にでるのは初めてでして、殆どの人も出た事が無いと思いますが、ボルチモアの中心部のホテルでありました。一度も出た事が無いのに何故ユダヤ人の結婚披露宴と分ったのかと言いますと、頭の上に白い帽子のような映画で見る物をかぶっていたから多分そうでした。日本と違って、スピーチも無く皆で踊るだけでした。あれよあれよと言う間に時間が過ぎて行きました。色々体験していますが、これがどれだけ役に立った事やら、現在の生活を見て見ると良く分からないです。

 私の結婚式はアンダーソンと言う町の教会で行いました。シカゴの乗り換えの時間20分で空港内を走りまして、インディアナポリス迄行ってそこから車で行きました。日本で知っていました牧師さん一家がアメリカに帰ったので、そこで結婚式をあげる事にしたのでした。その牧師さんとは式当日、朝に一緒にゴルフをしましたが、奥さんがかなりの剣幕で‘この忙しい時に何をしているの’と彼に文句を言っていた事を思い出しました。

 結婚式ですが、英語か日本語(牧師さんは日本語を理解しました)どちらでやるかと聞かれて、折角アメリカまで来たのですから英語でお願いしました。映画でやっている様に牧師さんの言う事に‘Yes I do’で答えれば良いだろうと気楽に思っていたら、事前にやる内容を見せられてビックリ、全部英語で繰り返し言わなくてはいけないのでした。必死で覚えましたが、かなり大変でした。
 式は大学の構内にあるチャペルで行いました。そこでの写真が大きく新聞に載って8,000マイルをこの結婚式の為にやって来たと、それに続く文も何も取材はありませんでしたが、それは素晴らしいものでありました。式は牧師さんの子供、女の子と男の子がかわいい盛りで、その二人が新婦のドレスのすそを持ってくれると言う事でものでした。
 
 女の子は金髪でアメリカから乳飲み子で日本に来て、神戸で私と話している姿を見せたかったです。外から見れば英語が凄く話せそうに見えるのですが、金髪の女の子がそれも神戸弁をべらべらに話すとは誰も気付かないに違い無いと思いました。その子がアメリカに帰って3ヵ月で日本語をまるきっり話す事を止めたのでした。本人が話す米語が日本語訛りだと、アメリカに帰ってからいじめにあったのがショックで話さなくなったそうです。子供とは何処でも自分が思っていなくても残酷になるんですね。

 費用は、チャペルの掃除代金として50ドル、それから披露宴は現地の方々歌を歌ったやピアノを弾いた人達を夫婦で招待(言わなくっても夫婦は当り前との事)一般の家で商売として部屋を貸し出、食事やケーキを出して頂き250ドルでした。人数は忘れましたが料金は1人ではありません、ドルが今より高かったですが凄く安かったと思いました。それで写真はプロが撮影に来てくれてポーズを取らされましたが費用は式代金と同じ位でした。
 アメリカの結婚式では血液検査が必要と最初言われたのですが、取られる心算でいたら、結局海外住んでいると言う事で免除になりました。役所に登録する為に行くと、結婚記念に洗剤等日用品を頂き、結構面白かった事を覚えています。ちなみに豪華なウェディングドレスは確か100ドルでシアトルで事前に日本に住んでいて結婚式に参加したポートランドにいるアメリカ人牧師さんに連れて行って買ったものでした。いずれにしても日本でより、かなり安くきりあげられたと思います。

これも古い話となりました。
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234 正月早々なんですが!

2012-01-14 05:30:00 | 散策
 今年最初の墓参りに今週の月曜に行って来ました。喪中の葉書が増える中 私も昔であったら、お墓の中にいてお参りされる方でした。例えば、小学生の時に盲腸を手術で、昔ならこの世を去っていたかも知れないのでした。驚く事に、兄は盲腸の手術を麻酔無しでやったのでした。
 最近知りましたが、私も同じ医者でしたから兄と5歳違うのですが、兄が手術して、多分数年後でしたから良く先生が麻酔を使ってくれたと思います。お腹を切ると言う事は切腹と同じ様な事を麻酔無しとは、大変に恐ろしい時代でした。術後の回復が早いからと子供にそんな事をするとは、高々50年ほど前に起こった事とは、驚くべき話で信じられない事です。この話を聞くたびに本当にあったのかと思うのでした。
 しかし、もう少し前、大正明治もう少し前江戸時代なら確実に盲腸で死んでいましたから、今なら簡単に治った病気もも多かったに違い無いと思い、健康に正月を無事に祝える事を感謝せずにはいられないです。
 
 自分の墓について考えるにはちょっと早いですが、早いに越した事がありません。両親が早く亡くなってしまったせいで、もう既に両親より長生きしています。もう、そんな年になったのかと自分の年齢が信じられません。そう言う意味でも考えるのは遅くは無いです。

 石材店にお墓の掃除の見積もりを依頼しました。墓場で二人が同じロゴ入りシャツを着てお墓を掃除している人がいたからでした。考えて見れば今まで、お墓の掃除を業者に頼んでやってくれるとは、そんな職業があるとは知りませんでした。
ただ、電話をすると凄く始めの受け応えは良かったのですが、直ぐに折返し電話があったのに何時までも返事が来ないです。どうせ今直ぐにやらなくてはならない必要な物でもありませんので、そのままにしています。

 お墓参りに行くとなると、お墓の掃除を兼ねての事になるのですが、現在遠くなってしまって(大阪京都そんなに距離的に遠く無いですが?)、年数回しか行かないとなると掃除を業者に頼む様になっても仕方が無い事なのです。そこで業者さんが、活躍するのは全く面白い良い職業だと思います。宣伝次第で将来性ある業種と思います。1件3-5万円も取れば、これから何といっても、これから増える段階の世代をターゲットにした商売が面白いと思いますが、将来が不安な所はどの世代の悩みでもあります。

 私の生まれる前ですが、戦前まだ我が家にお金があった時に立てられた為に、墓石も立派なものでして、ちょうどいた墓守さんと思われる人に値段まで言われました。仏壇も立派な物で、ただ両親が生きていたら墓掃除を業者に頼むと言う、この現状に呆れかえってしまうでしょう。しかし、立派なこれらのものが次の代にどうなるかと言うと心もとありません。
 
 お墓はあるもの、本当かな?関西の宣伝の様に墓の無い人生は、はかない人生‘は本当かと思う様になってきました。死んでしまえば皆同じに何も無くなってしまうと言うのが私の考えです。そうで無かったらあの世は一杯になってしまう事でしょう。
 輪廻でこの世に戻る人、他の動植物に変わるから、その様な事は無いと言われるかも知れませんが、あの世に行ってどうしてそんな事が分るのでしょう。分る人がTVに出てきますが、その総て否定的に考えます。この世が総て、生きている間が総てと思っています。
 正月早々つき合して済みませんでした。
 昨年の12月31日に59歳で亡くなった友人の森本仁司さんのご冥福を心よりお祈りします。 
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233 なばなの里

2012-01-07 06:49:21 | 散策
‘新しい年、おめでとう御座います’

  正月2日、今年最初は‘なばなの里’までの日帰りバスツアーに参加しました。朝遅く10.30分発、そして9,990円で近江牛すき焼きと松坂牛朴葉焼き膳という豪華なお昼と夜はホタテ弁当と言う事で参加しました。

 関ヶ原で昼食予定、途中渋滞に何度も巻き込まれて着いたのが1時40分でした。関ヶ原インターチェンジ近辺では雪が多くて渋滞のメッカですが雪が側道には積もっていましたが、そこでは渋滞に巻き込まれずに無事につきました。
 関ヶ原は合戦で有名ですが、殆どの人がICを下りるのは初めてと思います。町には戦国時代を表すものはありませんでした。と言うより考えてみれば戦争があっただけで何もあるはず無いでした。何処にもツワモノどもが夢の後も見当たら無かったのでした。
 ただ、昼食場所に行く手前に、塀越しにバスから見た風景が、大きさは大体いい加減に見積もって300坪程の所に戦場場面を人間と同じ大きさの人形が、合戦状況を説明するかの様に馬と一緒に丁度雪が降った後の中に、そこやあそこに立っていたのでした。それを入場料も払わずバスから見て、バスが一杯停まっている駐車場に着きました。

 そこで昼ご飯が、早速火が点いている小さな鉄板鍋2つに、鍋の中には一枚をすき焼きにするのに惜しい様な分厚い牛肉とうどんがもう食べても良い頃合いになっていました。お皿に3cm程の赤い虫の様な漬物が付いていましたが、正月に頂くチョロギと言うものでした。それをあてに持参のポケットウィスキィを飲みながら松坂牛朴葉焼きが香ばしく二つとも美味しく頂きました。

 そして、バスに再び乗り日本3大稲荷神社、おちょぼさん(千代保神社)へ行きました。正月で目茶目茶混んでいて100店舗以上ある参道を左右に10店舗も見られずに人が多く残念ながら諦めました。なかなかユニークで、おあげとロウソク30円だけ受け取って、賽銭は受け取らないと聞いたのでした。その30円のものを買いたかったのですが残念でした。

 なばなは光の120万球200mのトンネルが有名で、ここ数年新聞等で良く見ます。イメージはつくと思うのですが、流石にそれだけでは満足しないかの様にかなりの広い場所に数々のライティングで埋め尽くされているイルミネーション630万球のテーマパークと言えます。
 その光のトンネルをくぐって行くと、圧巻は手前に広場と思えるライトを一杯に日本の四季を表したものでした。大きな木を中心に春には桜の花が咲き、そして散りゆく様を表してその前を季節に応じて幻想的な色が白、緑に変わっていくものでした。夏になると花火がその大きな木に写し出されると言う風に季節毎に色が変わり凄く美しく見られます。それを過ぎて今度はカラフルな光の宝石箱をくぐって行くと、水上イルミネーションと色々な光を楽しみました。それから忘れてはいけないのが花の楽園ベゴニアガ-デェンはかなりの数の花が見ものでした。 

 私自身は成田勤務で4勤2休の毎日を送っていましたから、正月と関係無くみんなが遊ぶ時に働いていました。ただ、ほぼ自由に長期休みを取っていたのですが、退職の後、休みは殆ど無くて今年は正月に4日もまとめて休めるのは初めてでこんなに楽しく嬉しい待ちどうしいものと思いませんでした。盆と正月が休みであった昔は正月は大変な楽しみだったと想像します。 
 いずれイタリアのフィレンツオーラに是非とも行きたいと思います。今の所、夢ですが!実現する為、頑張ろう...
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