旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

205 初めに戻って

2011-04-29 22:04:22 | 日記
  いつの間にか、200回を超える様になりました。これまでお付き合い頂いて本当に有難う御座います。そもそも、1ドル360円の頃、初めての海外に船で欧州に行ってきた事をまとめるつもりで、1日1ページを目安に書き始めました。現在は散策をメインに1週間に頑張って1ページとなりましたが、その時は暇もあって、それと勢いで、良く毎日書いたと思います。

とりあえず、何も知らない人間が、何も知らないからできたという事が分かってもらえたと思います。今はやはり、色々物を知ると行動そのものが難しくなるようです。それが、若さという強みで、一般に言われるように怖さ知らずでしたから、後先考えずに目の前の事をやって行くだけの事でした。

 そもそも、旅に友人と2人で行くつもりでしたが、一緒に行こうとした友人が貯めたお金を、ステレオを買うからと脱落して仕方無く一人で行く事になったのでした。一時は自分一人で行くのを止めようとしたのですが、結果的には一人で行くのが自分を作る上で良かったと思いました。

欧州それに米国に行って、何か出来たかと言うとイササカ心もとないと思います。唯一できたのは、できたと言うより流れ的にどうしても自分で物を判断する機会が多かった事でしょう。今まで自分で判断する事も無く、単純な事、例えば 今日はここに泊ろうか、別の町にしようか、そしてその事が、自分の人生が変わるかも知れない事を 当たり前ですが、親兄弟も誰もいないのに決めていました。実際にこの判断は難しかったのですが、その当時はそれも考える余裕がありませんでした。

思うと良くあれだけの会話力で海外に出られたなと、不思議と自分では話す事に自信があったと思ったのですが、度胸だけでと言うより何も考えていなかったと思います。知識が無かった為に、ロンドンで初めて自動改札を通り方が分からずに、人に尋ねて通った事、ニューヨークでは今なら行けない所も歩いていくと言う、良く無事にいられたと思います。古い高層のYMCAでは、宿泊の為、エレベーターに一人で乗った時は思わず身構えていました。

 思い出すと、海外に行く用意の為に、少林寺拳法をならっていたのでした。構えだけで、どうしようもない拳法でして、それでも自信があり 一度はコペンのユースでアメリカ人に挑んで倒されて、危うい所を同僚の土屋氏に止めて貰った事もありました。

しかし、会った人々がいい人ばかりで常に良い方向に向かって行ったと思います。私の頃は、海外に出るのがやっと一般的になり始めた頃でした。

 忘れられないのが、私が小学校の時に見た、テレビの‘兼高かおりの世界の旅’に紹介されて、路線バスに乗って行った、ローマ郊外のチボリの噴水(デンマークのチボリではありません)でした。ここに行きたいと旅の初めから思っていました。テレビで見たままのありとあらゆる噴水の風景に、本当にテレビで見たのと同じだと感動した事が一番忘れられない思い出でした。今なら、どうやって行くのかも分からないし、路線バスに乗って良く行った事です。お金が無ければどうにかなるものです。

 自分の生きた高々2年程の事、人生で忘れられない日々、思い出があったのだと今思います。あの頃はと思い出す年になったという事です。

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38 田端から東大 Ⅱ

2011-04-23 06:35:33 | 思い出日記
 続く与楽寺坂を降りると左手にその坂の謂れの与楽寺のお墓を塀越しにみながら比較的広い道へ。この町は区画整理が中途半端で所々20-50メーター位の長さだけが広くなっている所がありますが殆どは細い道が多い所です。

 この町の坂の多さが老人を鍛えるのか雨上がりにもかかわらず表に出ている老人が比較的多いのが目に付きました。こんなに年寄りばかりいる東京は、本当には珍しい事と思いました。この様な光景が普通の事になって日本の近未来図で直ぐ来る事になるのでしょう。
 
 坂を下りて少し行くと車の多い賑やかな道灌山通りへ、西日暮里駅を後ろに道灌山下交差点を左へ少し行くと今度は千駄木山への狸坂。対するのは日暮里台地となります。東京も詳しくなりました。そして北区から文京区へ入っていました。

 あいも変わらず坂ばかり、坂を上りきり、砂利道を突き当たると文林中学、左直ぐに高村光太郎旧居跡。我が京都の家は売り払って駐車場になっているのに、この高村邸は比較的広い敷地に今まだ高村の表札がありました。高村家の前の道は細く車も通り辛いような道路にそれなりの家々が建っていました。

 そして、大観音通りを経て その昔は細くて垂れ下がった木の枝で歩き辛かった抜け道だったと言うやぶ下通り。途中で右手の坂道 千駄木のだんだんを上がり、少し行くと左手に幽霊がでそうな、今度は見逃しそうなまたまた細い気持ち悪い坂道が続きます。
 降りると右手に2㍍程の高さの柵が10㍍足らずありました。入り口が開いていたので入りましたが、街中に本物の自然公園で30坪ほどの広さがありました。狭い中は足元が雨でぬかるんでいて、足元の草での汚れを気にしながら歩きました。
右手の土手、左手の住居の壁に挟まれた気持ち悪い薄暗い一角でした。もう二度と来たく無いと思いながら出るとそこにあったのは見覚えのある建物。まさに見た事があるフォラー映画のJUONで外人の家族が住んでいたその雰囲気の世界ではありませんか、本日の梅雨の雨上がりの気持ち悪い蒸し暑さにぴったりの町並みでした。

 そんなことを思いながら次に登るのはなんと解剖坂。登りきったところには日本医大付属病院の白衣の人たちがいてこの地にぴったり過ぎて、本当に気持ち悪い思いをしましたが、最高の日和の散策でした。

 昔の人たちの亡霊がでそうな半日、終点の東大駅前までは後少しでした。
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37 田端から東大 Ⅰ

2011-04-16 06:17:51 | 思い出日記
   田端駅北口を出て直ぐ前の田畑アスカタワーに連なってある田畑文士村記念館から始めました。流石に東京、この町にこんなに多くの文士芸術家が住んでいたのかをこの記念館で初めて知りました。展示説明されている名前を暇に飽かして数えると6-70人もありました。明治から正岡子規等が住んでいましたが、芥川龍之介の大正2年の転居を機に様々な文士芸術家が多く住み始めたとのことです。
  明治と言えば、維新前後は生きて行く上でこの時代程社会の動きに左右された時は珍しく無いと思います。例えば、勝海舟と親交あった、江戸最後の南町奉行、佐久間ばん五郎(ばんの漢字が見当たらない)は維新後、彼自身見習い勉強から徒弟制度がある指物師(文具、障子等、板を組み合わせて作る職人)に、自分で望んだと思われるとは言え、旗本から転職したのです。

  マスマス話が外れますが、面白いのは、地見と言う稼業、その字の如く地面を見て徘徊し、落ちていたり、銀行が無い時代にはお金を隠しもったので、物陰に隠してあったりする金銭を頂戴すると言う稼業。古くて新しい稼業となりますが、現在もホームレスの人がたまにやっているのを見た事があります。

  封建時代から開放されて生きて行く、生まれる時期場所において、いつの時代でも凄く差があると思いますが、こればかりは選べません。
 歴史上の人のみか脚光を浴びて一般人はどうしたのか、私も勿論一般人ですが、資料は少ないので分るのは難しいです。時代についていけない人たちが、何と言っても苦難の時だったと思いました。その時代が 我々のわずか数代前に、まさに、激動の時、色々な事が起こったはずなのです。

 そんな事も考えながら、室生犀星、平塚らいてう、堀辰雄などそうそうたる人々の説明と共にビデオと遺作が展示されていて、入場料は嬉しい無料。こんな所でも東京は恵まれていると思うのですが、この日が3度目のこの地への訪問で町の原点を勉強することができました。

 田畑文士村記念館でしばし勉強の後、訪れたのは八幡神社、その隣の正岡子規のお墓もある大龍寺は新しいものでした。この町も終戦年の空襲で壊滅的な被害を受けたとのことでした。この町に誇りを持っているのか、何でも田端がついている街、田端公園を過ぎると室生犀星と菊池寛旧宅跡、今度は田端では無い滝野川小学校の裏手の細い路地を経てポプラ坂へと行きました。 
ポプラ倶楽部と言うテニスコートがあったので命名された坂で、ポプラ並木が存在するような立派な坂道ではありません。降り口右手のクラブ跡には保育園があり2階建ての安アパートが連なる細い道でした。

 コの字に折り返し駅方向へ駅前通りの小台大通を川のように下に見て橋を渡り芥川龍之介旧居跡。いくら探しても碑の一つも残念ながら見つけられませんでした。



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36 洋食レストラン コロナ

2011-04-09 06:14:44 | 日記
 今日は朝から血糖値が上がる日でした。まず、2度目の朝ごはんになる朝マックを食べてから京都に昼ごはんを食べに行ったのでした。

 住所がそのまま屋号になっている‘三条麩や町’に家族ずれで行きました。昔のままの京町屋を料亭に改築していますが、門を抜けてウナギの寝床を古い町屋そのままに石畳を行くと、くぐり戸そして左手に長いカウンター席が靴のまま上がれるようになっているお店です。ちなみに、2階は洒落たテーブル席です。
 予約で、5,250円の懐石料理(お弁当3,00円もあります)で内容は言うまでもなく素晴らしい物でした。余った釜めしをオニギリにして持ち帰りにして貰いシェフが送ってくれると言うサービス付きでした。

 充分に満足して、お腹が一杯ですから少し歩いてコーヒーのイノダ本店に行きました。そこで、有名な超大型のシュ-クリーム、残り2個で待ってる間に売り切れました。私は食べた事がありますが、残念ですが、どんなものかを見られたから良しとしました。店内は喫煙と庭席が空いてましたが、ずっと落ち着くレトロな禁煙席の空くまで待ちました。ここも京都に来たら、是非行って欲しい店の一つです。
 再び腹ごしらえの為、村上開新堂の好津福蘆(こうずぶくろ)を買おうと二条寺町まで歩きましたが、薄暗くて店が開いているかと電気が点いているか、確かめなければ分からない古い店でクッキーをメインに売っているお店ですが、11月迄売っていないと言われ諦めました。
 
 そして、今日のメインの洋食レストラン コロナで夕食です。朝から食べっぱなしでしたが、店の前に行って驚きの行列です。戦後にできたかと思われる店の前に、多分テレビで紹介されたせいもあって、未だオープン前にも関わらず15人は並んでいました。綺麗な手書きで5時からと書いてありましたが、やっと5時15分になって開店です。

 何しろ店主が驚きの91歳とも95歳とも、いずれにしてもかなりの高齢だと聞いていたので、何時引退されるか分からないので、比較的に暖かいので並ぶ事にしました。1時間もしたら、ヤット中に入る事ができました。、
 静かな店内は、カウンター席5、何と言うかともかく靴脱がなければならない席6、衝立を挟んで手前に我々のテーブル6席あると言う、スペースが殆ど無くてかなり狭い所でした。しかも、トイレは古く奥にあって和式、鍵は引っかけて男は立つと戸が締めきれない状態でした。なんとかゆっくり流れる水洗でした。

 そこでまだ、殆どの人が食べていません。料理が出てくるのに又待たせられて、さらに30分近く、こんなに待ったいるのか知らない素振りで、おじいさん一人で黙々て料理しているので皆それを楽しんで見ていると言う状況でした。一人分料理するのに15分程かかるのでした。
 元気なアルバイトのお姉さんが、綺麗なオシボリを出して注文を取りに来ました。私は寒いのでお酒の熱燗を注文したが、大分経って、和茶碗に半分位のお酒(水だと思いました)を持って来て、これだけしか残っていないと詫びて来ました。丁度、身体も暖かくなって来たので、ビールに変えました。その時、テーブルの横に水があるのを気づきました。注文を紙に書いてシェフの目の前に置いて、つまり声は無しで、店内は静かなものでした。全員が2畳程のキッチンで老シェフの料理する姿を眺めていました。まだまだ、達者な様子で玉子をかき混ぜていました。 
売り物は玉子たっぷりサンド500円です。玉子が、ふんだんに4つもサンドに入った一品ですが、待っても、値段に文句はあるはず無くできるのをシェフの料理する姿を見ながら今少し待ちました。とりあえず、のんびりしていて1人前作るのに15分は掛ったのでした。1人前が出てきて、又待って、もう何分待ったか忘れました。

 まあ、一度行って下さい。インターネットでみんなの意見が見られますよ。
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35 使われ無くなった言葉 

2011-04-02 07:06:39 | 日記
  ちょっと疲れている時は気楽な2時間程で読める時代小説ー池波正太郎等を読んでいます(実際は殆ど疲れています!?)。そこで気のついた事ですが、最近は本でのみ見られて、使わなくなった言葉も多くなったと事です。
   
  例えば、もっさりした、これが出てきたから懐かしく、最近ではダサイとに取ってかわりましたが、そう言うとこの言葉は使っていないなと思いました。久々に読んだ感じがしたのでした。そして、町が綺麗になってどぶも無くなって、下水が整備されました。自分も死語を使っているのを注意してくれたら分かるのですが、訳も分からず聞き流されている事が多いのです。私自身いよいよ、もう死後になってしまったようです。

  小学校の時、先生に確かひざぼしと言って直された事を思い出します。帳面もノートと言って、今の人達は使わなくなったのです。この頃良く目にする、ほっこりと言う言葉も私が京都で使っていたのと大分違います。これも自分が間違っているように思い、京都言葉辞書を見なければいけなくなって来ています。

  20年も前に、住んでいる大阪から京都に車で行こうと思い、駐車場が無いかと京都高島屋に電話で問い合わした所、交換しが‘ほんねきにあります’(すぐ近くにある)と言う答えでした。当時でも私自身、久々に聞いた京言葉でしたが、こんな事も無くなるのは淋しいです。京都人(どこでもかも?)は自分の話す言葉を全国区だと思っているのです。

  私の母親の時代(大正生まれ)迄、京都では一般の女性の人も、そうどすと言うどすを最後に付けたのでした。それと、勘違いしては困るのが、語尾に‘け’を付けるのが京言葉と思っている人がいますが、これは男が京言葉を話すとノンビリした言葉になるので、付けるだけで近江(滋賀)弁と子供の時に注意されて、汚い言葉として使います。
  母親が入院していた時、隣の坂本(比叡山の滋賀県側)の人が、女性まで‘け’と言うのを使っていましたのを思い出します。私が初めて40年以上も前にヨーロッパに行った時、途中で会った日本人に、私の話す言葉がどう聞こえたか、今分る様な按配です。

  テレビで日本標準化が成し遂げられそうですが、テレビの番組‘県民ショー’が良いタイミングで出てきたと思いますが、見ているとまだまだ地元の言葉、習慣は抜け切れないようです。これも徳川幕府の残したものなのと一人感じています。日本語も字を読み書きする場合に、左から右、上から下それを右から左、本の開きが右からと左から自由です。こんな書き方は私の知る限り日本だけです。日本人はこれが残る限り自然に学べ、自由な発想で頑張れる事が出来ると思います。

  九州新幹線で鹿児島まで行けるようになって来てマスマス便利になって、いよいよ日本標準化が加速、過疎が進んで行く事にならない様願っています。  
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