旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

34 お遍路さんの旅

2011-03-26 19:32:17 | 地震・震災
 旅と言っても日帰りバスツアー。勿論亡くなった被災者に哀悼を表す為です。朝7時40分、阪急インターナショナル横集合、初めて参加は50歳以上1,000円引で参加費は2,980円と言う値段に誘われて?四国88ヵ所の内、1-6番までの、お遍路の旅に参加しました。
 個人で行くと明石大橋渡る額にもならない額にビックリの安さです。値段が安いので人で溢れているかなと思ったのですが、そうでもなくてまばらでした。しかし、初めてのコースはバス2台にもなりました。

 世の中信心深い人が多いのか、観光目的と値段に釣られる人が多いのか、いずれにしてもかなりの人数でした。大阪の北、と南で人を乗せて出発となりますが、我が相方が朝弱い為に、40分出発が遅い南で集合。集合時間が出発時間と知らずに、ギリギリ走って間に合いました。本人(奄美出身)は、自分は遅れていない、集合時間に出発は 大阪だけだと言っていました。その後、バスツアーが、時間に厳格なのを知る事になったのです。

 バスの中には、先達(せんだち)さんがいて、お参りの作法を現地に着くまでに教えてくれました。相方は、白衣、管笠(箕笠)、金剛杖とか特別なものがいるのか心配していましたが、必要な人はそろえれば良いと言う事で安心していました。
渡されたものは、作法とお経の意味、奉納札(おさめふだ)と巡拝用物品のカタログ等、それと線香、ロウソクは現地に着いてから渡してくれるとの事でした。各お寺で、本堂と大師堂とそれぞれに、奉納札に自分の願いを書いて納め、お経を唱えると言う事でした。 

 1番のお寺、霊山寺(りょうぜんじ)に着くと、広間に、この先に必要な各種の仏具が販売していました。我々は何も買わなかったです。バスの中で先達さんがお参りに際してのアドバイスとして、5円か55円程度お布施として本堂と大師堂に納めれば良いとの話を聞いていて、その両替をして下さると言う事でした。その額が5円と小額で驚きましたが、先達さんが親切で、彼に取りあえず100円を5円玉に両替してもらいました。
 最初に本堂で和尚さんの法話を聞いて、お経を全員で唱和、その後に白衣に法印を押してもらう人もいました。その後、先達さんが大師堂の前に移ってお経を全員で唱和しました。般若心経が仮名をつけてあるけど早く難しく、最後迄付いて行くのが難かったです。その後2番-6番各寺では、先達さんがお経を言うのを全員で唱和しました。何と合計12回お経を唱えた事になったのでした。長いお経を最後まで上手く言えなかったです。

 次のお寺まで時間が少なくて、お昼も値段の割に凄く良い弁当付でしたが、そのお弁当をバスの中でせわしく食べなければならなかったのです。毎回各寺に蝋燭と線香3本、そして奉納札2枚書かなくてはならないで余裕が無くて忙しく、私は、‘震災に亡くなられた人のご冥福と、無事な人これからの人生が平安であります様お願いします’と言うものを書いたのですが、2度目から長すぎて書けないので‘世界の人々が平和でありますように’に変えましたが、それでも長くて住所は抜き、日にち名前は取りあえず書きました。
 幾つ願い事を書いてもかまわないと言う事で、相方は5円で4つのお願いを書いていました。まあ、忙しくお祈りしました。済みません、こんな事で自分の願いが伝わるのか...?!
やっぱり88か所行く必要があるかも
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栃木の被災地からのメール

2011-03-23 20:12:32 | 地震・震災
宮城県から北関東の茨城県那須が近いのを、テレビを見る迄近いのを知らずに石巻の友人ばかり気にしてました。気づいて直ぐにメールを送った所、無事なのが分かりました。

茨城の友人から来たメールを紹介します。

ありがとう。
 凄く、揺れました。そして、長かったです。建物は窓が一つ壊れただけでしたが、部屋中割れ物などが散らばって、とりあえず、通路を造らないと思い、片付けていったのですが、余震が収まらず、未だに続いているというしつこさで、おまけに原発が大変そうで、落ち着かない日々です。
とはいえこの辺りは山なので、だいじょうぶです。
 
 知り合いは何人も家をなくしています。でも今の所命は無事らしくほんとに良かったです。何もかもなくした彫刻家の知り合いは、たまたま買い物に家族ででており、助かりました。家はあたりいったい流されていたので、普通であれば死んでいました。でも、避難先で、もう気をはって作品を作っているとか。生かされた人は、それぞれの持ち場で、生まれて来て人としてやるべき事をやっていかないと。

 原発で作業してくれている人たちには、頭が下がります。命を削って僕らのために、今がんばってくれているのですから。こうして、メールをうてるのも彼らのおかげです。それだけに他に脳のない自分も、今作れるのだから、仕事しないと申し訳ないです。
きっと、日本人の心 意識 が試されているんだと思います。もう、いい加減変わりなさいと。自分だけの利益,権威,その他様々なエゴから離れ、謙虚に、違いを許しあい、ともに生きる社会を作っていかないと。

以上です
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まだまだ安否不明の人がいます

2011-03-21 12:14:37 | 地震・震災
 テレビは無事な人の情報をもっと流せば良いと思います。私の様に171情報が使えなかった者(被災地が優先となっている為)にとってはテレビの字幕でも情報を流せば助かるのにと思います。
必死で見ると思うのです。

 ACの宣伝ばかりを流すのなら無事な姿とか、名前だけを映像に、または下に出すようにすれば良い。写真とか何としても無事な事を知りたい人が多いと思います。何千何万と言う人全部と言うのは無理としても、元気な姿を見せたい人が沢山いると思います。また新聞の欄を使う事で、例えば、写真は無理としても名前だけでも無事と分かれば有難い事です。

 勿論、被災者を出すのは第一です。無事を祈っている人に対して、許可を得て、もしくわ、遠目に映し出されたら家族・知人だったら分かると思うのです。分かる範囲で名前・映像だせば、スポンサーも安心してついてくると思うのですが、どうでしょう。

 私の様に友人が見つかった現在、個人情報で難しい面があるかも知れませが、無事な顔を見たい人が大勢います。数が多すぎるから無理とか言わずに自由に使う様になれば良いなと思います。インターネットが使えない人も多いです、なんとか考えて貰いたいものです。
(メールで伝えました。)
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災害地からのメール

2011-03-20 21:35:15 | 地震・震災
今日、知り合いからメールを受け取りました。以下の内容です。

 私の家は海岸との間に小さな山があり直接ツナミの影響は受けずせいぜい身長程度の濁流が流れ込んだ程度で済みましたが、約100坪の駐車場内外に車が流れ込み10台以上も折り重なって数人が車内で溺死しております。

 又、インフラが全く回復せず先週末から仙台の甥の家に避難しておりいつまで世話になれるものかとの不安もあり早く自宅のライフライン回復を祈る毎日です。

以上
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30 石巻の菊池さん無事でした

2011-03-18 19:30:09 | 地震・震災
 石巻の菊地さん一家が全員ご無事でした!詳細は分りませんが本当に取りあえずご無事と言うのがメールで入って来ました。メールを打てる環境にあると言う事で、まず安心しました。電話の171で安否が分ると聞いていましたが、被災地優先となって何時も通じませんでしたが、やっとやっとメールで無事と分りました。しかし、被災者の多さには変わりありません。

 今回の震災とそれによっての原発の被害は、予想をはるかに超えたものだったのは皆さんも知っての通りです。普通の逃げ方では駄目なようでした、遠く離れた関東各所でも余り報道しませんが、死者がでるほどの災害であったのは確かです。現地のパノラマ写真で見てその悲惨さはよく分りました。
 実際はその場に見に行かなくては分らないですが、(何度も言いますが震災を見て経験した者としての感想です)津波と言うものの怖さは、通常2階に逃げれば大丈夫と言うものですが、今回は3階に逃げても難を逃れなかった様でした。その3階4階も震災で壊れているかも知れないのです。
 一歩、一秒の判断で生死を分けた人も多いでしょうが、本当に運の良い人だけ助かると言うのは理解できないです。運では片付け出来ないものがあるようです。そういう意味で、菊池さんの家族は運だけでは無いものを持っていると思いました。

 普通の生活をしていて、戦争が起きた訳でもなくて、さっきまで私達と同じ様な生活を送っている人達があっという間もなく、何故にその様な目に会わなくてはいけないか良く分かりません。全く神も仏もありません。

 自分の身の回りの人だけで無く、震災に会われた方々の今とこれからの人生に頑張って下さいと言いたいです。余りにも災害が多くて、ハイチ・インドネシア・中国そして未だ解決して無いニュージーランドそして日本の地震、水害、震災にあわれた方、皆さんの復興を心から祈っています。

 まずは、今から凄く大変ですが菊池さん頑張って下さい。お騒がせしました。
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29 石巻の菊池さん

2011-03-17 07:06:14 | 地震・震災
 本日毎日新聞の夕刊で石巻のパノラマ写真を見てビックリしました。他の地域と同じ様に全て崩れていました。と言うのも石巻の友人が未だにコンタクトできません。名前を菊地さんと言いますが、年賀状に、あれから40年、65歳になりましたと書いてありました。私の先輩となりますが、人の年齢を見て、もうそんな年になったのかと思いました。彼の事ですから、無事に逃げ切ったと思います。また、そう願います。祈っています。

 30年も前に京都のスナックから、電話を借りて、その代金を払わずに遠距離の石巻まで電話した事を思い出します。成田にいる時は、一度は石巻に行こうとその夢も果たせずに、惜しい事をしたと思っています。
 そもそも、私のブログにもでてきますが、彼はデンマークのユースホステルに後から来て、夏に同じくそこで働くようバイトしたのでした。その時にどうして石巻からヨーロッパに来たのか聞いたか、聞き忘れたか覚えがありません。考えてみれば、年から言って社会人になっていたと思いますし、京都から欧州に行くのより、東北から、それも石巻から行くのはモット遠かって大変だと思います。それ程他人の事に感心が無かったかも知れませんが、それも忘れてしまったのでした。

 その当時は、ふらっと行った人が多かったに違い無いと想像します。自分の事以外にその人達のそれまでの人生について聞いていれば、もっと味のある事を皆に伝えられたなと感じます。とりあえず、我が事で精一杯で他人の事まで気が回らなかったと悔いていますが、皆がそれぞれの理由で旅行していたのに違いありません。

 今、思い出すのは、ユースの我々の2段ベットで皆が駄弁っていた時、向かいどうしで寝転びながら私が、何かしないと日記に書く事が無いと困って皆に言っていた事があります。良く覚えていますが、まあ、若いのに怠惰な生活を送っていたものです。
 
 そんな彼が今震災の最中にいます、どうにか無事である事を祈るだけです。
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石巻に私の友人がいます

2011-03-13 17:38:47 | 地震・震災
 テレビのニュースで色々伝わってきますが、その現場に行かなくては破壊された状況は分からないものです。これは神戸の震災の時に感じた事です。
 テレビで見ていると、怪獣映画を見ているようで小さな画面に映し出される様なもので本当の物、実態はもの凄いものだと思います。これからが大変ですが、頑張って下さい。

 未だに石巻の友人からメールがありませんが、きっと無事にいてると信じています。頑張って下さい。
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皆さんのご無事を祈っています

2011-03-12 21:22:24 | 地震・震災
未だに信じられません。情報が伝わってくるとひどさが分かるのですね。

今は、被災者の方々に無事を祈るしか無いのです。

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26 半生の記-松本清張

2011-03-05 08:33:55 | 日記
  最近色々本を読んでますが、先日、松本清張の‘半生の記’を読みました。推理小説と思いましたが、本人の人生の話でした。自分の過去の事を面白く美しく書いて、どうせ図書館で借りた本だからと軽い気持ちで読み始めました。読んで行く内に、この話は小説で作り話かと思い始めました。それ程、劇的でした。私だけ知らないかも...、でも考えさせられました。

  兎に角、母親が字も読書きでずに、貧乏な為に小学校しか行けなかった事で苦労して、ましてその為に、つまり学生時代を送っていない為に友人が殆どいないなど、そして、軍隊に召集されていたなどとは考えませんでした。30代後半まで食うや食わずの生活を送って作家になるとは夢にも思わなかったと知って驚きました。その後、素晴らしい小説家になったとは、この本を読むまで、今の今まで、読んでいなければ、ただ単に素晴らしい推理作家と思っていました。彼の小説を読む際には今後はそのバックグラウンドを考えさせられる思いでした。知りませんでした、清張ファンの方々済みません。しかし、あんなに正確に古い事を覚えているとは、流石に作家になる人は違うと言う事になります。私なんか、メモでも無ければみんな忘れてしまって、今書いてる散策日記も言問橋の事や、浅草とか何度も行ったけれど書いたものを失くしたらみんな忘れてしまったのでした。

 自分自身、学校に行っていないならと思うと、どうなっていたかと思います。そういう意味で、昔の人は世界が狭く、身の回りの人だけ知って友人など殆どいなかったに違いないと思います。一般の生活は、その日その日を生きるのに精一杯でしたでしょう。
 私等と違い、今の人はミクシイやインターネットで、遠く離れた人をまるっきり知らない人ともやり取りできるのは考え方自体も変わらざるを得ないと思います。

 自分に照らし合わせて見れば、両親が早くに亡くなるまで、きまま勝手に育ててくれた事に感謝しなくてはいけません。

 それとは関係ないですが、私の母親の実家は室町時代から18代続く古い家です。父はと言うと一代で財をなした人の息子でした。父親はおじいさんが福井から出て来て大儲けしました。車が京都にまだ少ない時に京都駅から名前をいうだけで、家まで着いたとか、住んでいた町内で、我が家を含み3軒で成り立つと言われたそうです。田舎には、神社の正面の石灯篭に名前が入って、終生明かりを灯すと言うほど寄付をしました(残念ながら、守られていません)。京都のだるま寺に清水さんで買った、だるま像を大きすぎると言う事で預けたりしました。以前に言いましたが、父がその生涯を残したテープを消した事は前に言いましたが、父親に申し訳なく残念です。

私の場合、振り返って見ますと、物忘れが甚だ激しく、ただトラウマの如くに失敗した事のみが思い出せます。その失敗にしても両親に怒られた覚えがありません。この年になって色々考え思い出してくる事があります。

 父親について今思い出すと、骨董品が好きで、電車で、車の免許を取ってから、良く乗せてくれと言われまして一緒に車で行きました。歩かないと駄目だと何時も言っていましたが、直ぐそこに行くときも乗せて欲しいと車で行きました。まだまだ若かったのに、健康ブームの昨今でしたらジョギングを始めてもいい年でした。

 昔人間は健康を気にせず、この様にして年を重ねて行ったのでしょう。皆さんも身体に気をつけて歩いて下さい。

 ★未来あり 昔の事を 参考に★過去未来 今を楽しむ ことに意義★
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