旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

227 話 フレデンスボーの思いで

2011-09-24 05:42:01 | 散策
 デンマーク、コペンハーゲンから電車でどれくらい乗って行ったのか、フレデンスボーで子供の世話をして勉強していた事がありました。そこで4-5ヶ月滞在した当時、その施設を去るとき‘さよなら’も言わずにみんなに黙って出て行った事を今でも失敗で悔いて淋しく思もっています。福祉の勉強の為滞在したフレデンスボーのボーンイエメ ロナリュウは忘れ難いインパクトを私に与えました。そもそも別れが寂しいからとそうしたのですが、その時一人で駅に行き雪が積もって事を思い出します。

 0歳児から3歳児と4歳児から小学校までの何らかの理由で家庭に恵まれない子供たちの施設でした。フレデンスボーはそもそも王家の避暑地で、その立派な公園のような林の中に子供たちを連れて行ったりした事を思い出します。子供達にちょっとでも分って貰おうと、必死でデンマーク語を勉強したのでした。夜は飲んで、皆で踊ってと楽しかったけれど、毎日が忙しく戦争の如く明け暮れしていました。言葉が話せないので、身体でカバーしようと思い、例えば机の上からジャンプしてくる子供を受けるとか、それも何度も繰り返す為に数に制限も無く何時までも続き、若いけど疲れましたが、今となっては良い思い出です。
 冬なのに部屋の中ではTシャツで汗だくだくでした。朝早くから、倒れそうになって子供の世話をして、本当に忙しい仕事でした。殆どのスタッフが施設に併設した建物に寝起きしていました。

 朝起きると、使ったオムツの山(今思うと、現在のような便利なオムツがありませんので、多分貸しオムツでしたが、私より朝早く起きていた人がいたのに今気がつきました)がガラスの向こう側に見えていました。そこを過ぎてみんなのいる所へ行くのでした。その途中で、便器を8個程のオープントイレで便器に腰掛けた子供たちの一番手前の子が戸を手で押しながら、奥の子は顔を乗り出して、男の子も女の子も全員で可愛くグッモン(オハヨウ)キタ(私の名前)と可愛く挨拶をしてくれるのが毎日の始まりでした。それが、唯一の楽しみでした。

 今でも不思議なのが、朝食の時に子供たちは争って一番初めに青カビの様なもうカビ花が咲き始めのパンを食べるのでした。他にも白いパンがあるのに、当初、食べなかったのですがそんなに美味しいものならと食べてみました。やっぱり青カビでとても食べられたものではありませんでした。舌の感覚が違うとしか言いようがありません。大体今まで食べたものも全体に甘かったと思いました。

 デンマークの子供が可愛いと思ったのは一杯あります。12月クリスマスの前に今でこそ探せばあると思いますが、ロウソクに25の印が付いていて、毎日1メモリずつ火を付けてメモリを消していくのに、各テーブルでみんなが大騒ぎしていた事でした。リサと言う子が凄くなついて、その子の悩みも聞きましたが、殆ど分って無いと泣かれて、これではいけないとより一生懸命デンマーク語を勉強しました。

  今日は前に言ったことが多いですが、町の通りの突き当たりに、雪が積もったガラス越しにウサギを吊るした肉屋さんがあって、本当に童話の世界のような所でした。今どうなっているか知らないですが、多分時間が止まったような雰囲気のある町ですから変わらないと思います。
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226話  スコットランド Ⅲ Prestonfield House Hotel

2011-09-17 06:01:50 | 散策
 ロッホネスからエジンバラまで勿論車で行きましたが、エジンバラではどのホテルも一杯で仕方なくJTBのガイドブックでエコノミーの欄を見て電話を何軒か探してどれも取れずに途方に暮れていた所、Prestonfield House Hotel(今日初めてHOTELと知りました)が空いていると言うので値段も安くてさすがJTBと、取りあえず良かったと場所を聞いて車で行きました。

 その説明通り行くと、門から建物まで100メートルを超える道があって、ゴージャスな感じで、どう考えても安価な値段で泊まれるエコノミーではありませんでした。まず、今の服装のままではさすがに入りずらくてジャケットを羽織って、それなりに着替えました。フロントには立派な人がいて、2m足らずのカウンターが通路の右横にあるだけでした。まず、そこのホテルが正しい所かどうか聞きました、何と間違いありませんでした。

 広い通路になっているロビーの奥の2階には、左右に橋の如くアンテークな通路があり、そこやあそこに彫刻や絵画がありました。思ってもいなかった凄く良いホテルでした。
 ダイニングルームには8人がけの細長の丸や楕円形のテーブルがあって、その回りには二人掛けのテーブルが上手くセットしてあって、その上には赤のロウソクが各所に飾ってありテーブルクロスは真っ白でした。椅子は赤と茶で各テーブルが分けてありました。そして、その壁にこの家の人たちと思われる肖像画が所せましと掛けてあったのでした。

 夕食はロウソクで飾りつけた2人掛けでコース料理を頂き(何を食べたか忘れました)、もう終わりかと思ったら、2階にお茶を用意していると言うではありませんか。 そこで2階に行くと、暖炉もある広い広間で、今度は上品な黄色とブルーの椅子が、小さなテーブルを間に幾つもありました。端にはソファーが置いてありました。2人でコーヒーを飲んでいると隣の人が声を掛けて来たのが、アメリカのゴルフ場オナーでした。このホテルを取る為に市内にホテルを取ってあるけど、やっと1年も前に予約をやっと取ったので泊まれたけれど、君たちはどうして予約したかと聞かれました。
 そこで、正直に日本のガイドブックで今日予約したと言ったのでした。すると彼は予約が取れないので、一年前にやっと予約を取ったというではありませんか!君達は幸運な二人と言われました。そんな人のいるホテルでした。

 部屋に入ったら、思ったより狭いけどベッドの上には、立派な天使の彫刻が吊るしてあり、部屋の内装は凄くアンティークでした。バストイレは部屋の外にありましたが、これは安いホテル代で仕方ないと了解しました。日本のスタンダードのホテル料金で2食付きでは文句も言えないのでした。バグパイプの音が聞こえましたが、多分ショウか何かをやっていると理解してました。
 
 翌朝、部屋での朝食を楽しみ見していたのに来ないので、フロントに言いに行くと直ぐに持って来てくれたのですが、食べる所が無いので小さなテーブルで食べました。

 ホテルを出て思わずビックリ、孔雀が何匹か忘れましたが庭にいたのでした。改めてホテルの外観を見ると、JTBは実際には見に来ていないに違い無く、本の中でカントリーハウスをリホームしたのは間違いで、別荘をそのままにコッテェジかビィラと言う方が良いかも知れません。

 その後、スコットランドで聞く最高のアメージンググレースをバグパイプで聞きそして、ロンドンへ行きましたが、総ての思いでがこのホテルでした。

 
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225話 スコットランド Ⅱ

2011-09-10 05:00:01 | 散策
 ロンドンからM1を北へ初めてスコットランドへ、英人の友人ベントが動乱のベルファストへ行くのと途中まで一緒で、夜に出発して寒くて雨が降っていたのでウオッカを飲ましてくれた事が懐かしいでした。それが学生時代の事でした。

 今度は2度目、マンチェスター空港からスットランド地方に行くと、道路はほぼま直ぐに近くて人も殆ど見掛けず時速50‐60キロでカーブもブレーキも踏まずに行けました。一般道ですが、本当に良い道路でした。今回も学生時代よりも金は持っているけれど、相変わらずホテルは予約無しで安いBB(べッドアンドブレックファースト)に泊まるつもりで気楽に行きました。今なら予約していても、チェックインの時間が来ればそわそわしているのに、その時は強気に予約無しとは信じられない事です。

 そこで思いでの地フォートウィリアムは湖を前に美しい所、その昔まるきり車が来ないのでその風景に心を奪われた因縁の地でした。そしてこの時も変わり無く出たとこ勝負、昔は地図なしで、良く旅したものだと思います。今回もそれに近くて、車が1時間に1台と言う寂れた所、その昔の事ですが、ヒッチハイクをしていて車がナカナカ捕まらずに途方に暮れた、目に付いたのはどんな所か知らない熊公園の看板が、何故か頭に残っています。

 スコットランドに近づくと、今ならTVでも映画でも見られる低いなだらかなな木も無い山が両側にあって、さえぎるものが何にも無い所に真っすぐの道が一本ありました。道は登り下りしてるだけになってきました。
 夕暮れ近く、見渡した所、我々の車だけでした。そこを車で140-50kmと飛ばしていったのです。今なら怖くてそんなスピードを出せるはず無いですが、今から25年前は馬鹿な若さで、元気があったと言うより怖さ知らずと言った所でしょう。良く事故を起こさ無かったものと思います。

 とりあえず寝る所を探そうと、BBの看板を探しました。何軒か探してここにしようと泊ったのですが、シャワーしか無く、9月頃だったと思いますが、夜に冷たい水のシャワーをかかりました。今思うと、外国の人のシャワーは朝にかかるのですが、日本人である私とすればやっぱり夜に汗を流さないとスッキリ眠れないのでした。兎に角、他の事は忘れて冷たさだけ覚えています。

 この旅行中に、私が昔ヒッチハイクに車がつかまら無くて苦労していた時の事を思い出して、誰でもいいからヒッチハイカーがいたら乗せてあげようと思いました。いざ乗せる段階になって、やっぱり綺麗で無難な人を乗せたいと思ってナカナカ車を停められなかったでした。ロッホネスに行く手前でなんと銀髪の派手目のおばあさんがヒッチハイクをしていたので、やっと乗せる事ができました。
  
 そのおばあさんはスコッテシュ訛りがひどくて分かりにくい言葉でしたが、ネス湖迄の道中、観光案内をしてくれたのでした。その時はスコッテシュはどうにか理解できましたが、今どうか分かりません。おばあさんのヒッチハイカーは珍しいので事情を聞くと、週末に孫に会う為にと、毎週ヒッチハイクをしてる勇ましいおばあさんでした。時々停まって風景を楽しみ、あそこの城が誰それと説明してくれて、なかなか楽しい旅を続けられました。しかし、日本で孫に会う為にヒッチする人がいるとは思えませんのでやっぱり凄い人に会いました。

 
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224話 25年前 再びスコットランドに

2011-09-03 04:30:00 | 散策
 ついこの間と言いたくなる、25年程前に再びスコットランドに行った時の事ですが、アメリカのポートランドからシカゴ経由で英国マンチェスターへ飛びました。シカゴで天候が悪くて上空で待機させられました。ただでさえ乗り換え時間が少ないのに降りた時にはもう残り時間は少なくなっていました。航空券は取り消し待ちスタンドバイの為に、荷物を一度手荷物引き取り場で受け取ってから次の便まで行く必要がありました。荷物を引き取ると次の便まで、もう時間はありませんでした。

  そこでポーターに相談した所、荷物を持ったまま一緒に走ってくれると言うのでした。それからが大変で、今からチェックインカウンターに行っては無理だと、スーツケースをカートに載せてダッシュでシカゴ空港の人ごみの間をゲート迄走って行きました。もう最終の案内が終わり、乗客が殆ど乗り終えていて、最後の私たちだけとなりました。

  普通ならノンレベニュー(無償旅客)で手荷物は大きく、とても受けつける時間ではありませんでした。ましてゲートチェックイン(搭乗口搭乗手続き)で、我々のチェックインの為に、エージェントが時間に追われて焦って何度かつまずきました。その時に、後ろの責任者と思われる女性に、優しく‘落ち着いてゆっくり’と言われて、どうにか無事手続きを終えました。私がそのエーゼントなら、到底間に合っていませんでした。これは本当です、言わなくても分かっていますね。

  航空会社で営業やっていた時分で、まさか自分が空港業務をやるとは思っていなかったので、私がゲートエージェントをやった後でしたら、変な東洋人がやって来た位でゲートで断ったかも知れません。こんな場合はまず、最初からあきらめさしていたと思いますが、その時はやってくれて有難うと単純に思っていました。でも、その責任者はとてもスマートでした。さすがに我が社、この時程、優しく素晴らしいと思った人は無かったです。

  最後に スーツケースを預かってくれて、もう他の人の荷物は積み込み終わった後で、荷物はB767のファストクラスのストックルームへと押し込んで無事出発しました。飛行機に乗れたのは出発5分前でした。

 総て古き良き時代の事で、今ならセキュリティで到底無理だと思います。昔は、航空会社のIDを持つだけでセキュリティもパスしていて簡単だったのに、旅行も難しくなりました。

 こんな事をして、マンチェスターに着きそのままレンタカーを借りてスコットランド迄行きました。私は2度目ですが、車で行くのは初めてでした。イギリスでの運転は日本と同じ左側通行だから問題は無いと思って気楽に考えていたら、ラウンドアバウトという信号の無い交差点に大変苦労しました。そこを運転して回りながら、自分の出る所を探してひやひやしましたが、それも何度か過ぎて行くうちに、時計回りに回るパリの凱旋門の交差点と大きさと反対回りが違うだけで、殆ど同じなのが分かりました。一周目で出無くても良いと分かりました。ラウンドアバウト内では右からの車が優先、停車禁止、出る時には左ウィンカーを出し外へ出るを守っていたら、なかなか良いシステムだと思いました。



 
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