旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

282 年末

2012-12-29 06:52:54 | 思い出日記
 今年は何ができたかなと思う間も無く、1年がうその様に早く後2日となりました。空港で働いていた時は気にしていませんでしたが、天皇陛下が本当に良い時期、年末12月23日に生まれて下さって、その日が休みなので助かります。

 先の衆議院選挙で勤め先の隣のおばさんが自分の押していたある政党の躍進に‘有難う御座いました、家族の方にもお伝え下さい’とお礼に来られました。念のため私は何もしていません。今までマンション住人が毎回のお礼に来ていたのですが、そう言われてもどの様に対応したら良いのか悩みますので、今回はただ微笑んでいました。宗教が政治に入り込む、この党の強さを思い知らされます。この方たちはクリスマスをどう過ごされるのか、疑問です。

 別にクリスチャンではありませんが、毎年24日に遠くなった千里山迄で燭下礼拝キャンドルサービスに行っています。この教会の受付カウンターは弊社が東京で使っていたものを、大阪に頂いたのを寄付した立派なものです。
 私としては珍しく長く続いていますが、例年は仕事を終えて急遽、家族共々行くのが4半世紀も続いています。今年は振り替え休日で夕食を終えてゆっくりと行きました。

 毎年同じ様な礼拝が1時間程続くのですが、まず最初にいつもと殆ど変らないメンバーなので、年々年とって来た中高高年聖歌隊が蝋燭をかざして30人位行進します。その後何曲か聖歌隊が歌を歌いますが、今年は小澤 征爾ばりの指揮者が暗い教会の中で熱烈に指揮して例年より上手くまとまっていました。その後牧師さんのクリスマスに関してメッセージを聞き、座ったまま我々みんなで讃美歌を歌うのですが、最後は全員立ってハレルヤを合唱します。難し過ぎて未だに1年に一回の歌が最後まで歌えないのは情けないばかりです。近年はもうあきらめています。
 終わればその人達に挨拶をして食堂で善哉をご馳走になって帰るのでした。しかし教会の人がその世話を出来ないのと年とったのか、今年はお菓子に変わりました。

 庭に5メーター程の大きなクリスマスツリーがありますが、毎年教会の中にも美しく飾りつけがしてあります。1時はアメリカから来た留学生がいて教会の屋根にも電飾がしてありましたが、残念ながらその年限りでした。

 例年、この頃になるとデンマークにいた頃を思い出します。家々の夜景が、丁度まるでディズニィのシンデレラ城の様に、その後ろに花火が打ち上げられるように、冬の夜空31日に花火を限り無く打ち上げるのでした。本当に美しかったと思います。やっぱり思いでが強く残っているのか、年末はデンマークにいた時の事を思い出します。今度はアメリカのクリスマスも...済みません時期を外しました。
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281 紅白から思い出し 

2012-12-22 07:12:13 | 思い出日記
‘出会いの旅’NHKのアナウンサー山根基世さんの本ですが、旅に出て、そこで会う人々のことを本に書いていると思いましたが違ってました。読み終わって、山根さんが私と同年輩の人と分りました。ヒット曲が生まれない昨今紅白歌合戦にはナツメロの果たしようがない、大晦日のテレビから離れて行くと書いていました。今から四半世紀も前の昭和58年に既にこんな話には驚きました。私は紅白が嫌いで殆ど見てませんでしたが、今年は少し見ようと思ったいます。
でもちょっとシンドイかも...

 古くなりましたが越路吹雪とちあきなおみが大好きでした。特に‘やぎりの渡し’は本来彼女の歌で、彼女が歌うと本当に素晴らしかったです。喝釆は母親が好きでした。どれも思い出が一杯です。子供の頃、意味も分らず歌っていた春日八郎の‘お富さん’三橋美智也の‘達者でナ’そんな思い出の歌も無くなって来ました。

 山根さんが死刑囚の手記を見る機会の話ですが、読むとただ毎日飯が美味かったとかおかずが何であったとか、そんな無意味な事しか書いていなかったのでした。手記を読んだ時はつまらないと腹が立ったそうで、その後、ようやく分ってきたと書いていました。その男にとっては今日の一日の生活が大切だったのと分って来たと書いていました。

 何かできないかと思っていた自分に、今ある自分に一つのヒントと言うが光を与えてくれました。日々の生活を大事にすると事は、特別に何かをやり終えるばかりで無いと言う事かも知れないと思ったのでした。人それぞれに思う所は違うでしょうが、日々精一杯生き無ければと思いました。簡単ですが、言うが易しやるは難しい事です。

 そんな彼女が‘中学生の頃、誰もが抱く夢はあながちただの夢として諦めるべきでは無いのかも知れない。’山根さんは中学校の時にNHKのアナウンサーになる夢を実現したのです。
  
  私は兄が何時言ったか覚えていませんが、アメリカの地平線を見たいと言ったのを夢見ていました。確か中学生時代、その頃は夢の又夢であったと思いました。とりあえず海外に出ようと思ったのが大学生になってからの事でした。友達と2人で行く予定であらゆるバイトに精出しました。今出川の烏丸上がった所に学生援助会(だと思う)があって日雇いから長期バイト迄世話をしていたのでした。ただ、配達と万博に長く務めたのは、偶然としか言いようがありませんでした。

  配達のバイトは、交通事故が縁でした。オ-トバイに乗っていた所、前の車が左にウインカーも無く寄って来て接触事故を起こしたのでした。阪神デパートの配送車で、集配所迄行くとそこでバイトをしないかと言われたのでした。1日働いて2,500円(当時800-1400円が相場)以上になりました。阪神は京都でマイナーで配達する家はほぼ決まっていたので、2年目からは当時既にクラッシックカ-となっているミゼットで配達しました。タイヤの交換は難しくて針金で止めてありました。途中にそのミゼットがほぼ完全な形で陳列状態であったのが今でも忘れられません。。私はこれを引き受けて京都に詳しくなったと言えます。
 
 やっぱりついていると思います。未だ、ツキは残っているはずですので次の夢を早く見つけたいと思います。
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280 年賀状

2012-12-15 04:38:52 | 思い出日記
 今年も年賀状の季節になりましたが、年とともに毎年書き終わった頃に来る喪中のはがきが増えて仕方ない事です。書き終わって、出しに行こうとおもったら喪中のはがきが来たと言う方があります。その場合どうすれば良いのか迷います。ハガキが一枚無駄になり、私の場合クリスマスの飾りと反対に、年々書くのが遅くなります。

 一度だけですが、年明けにある女性から‘昨年は喪中で書けなかった等々’とお詫びの事が書いてあって感心させられた事がありました。そうしてもらうと助かるのですが問題があるでしょうか?私の様に勝手に喪があけたと言う理由で例年通り出すのは許されない事かも知れません。半年も前に亡くなった人、人によっては他人からオメデトウと言われたく無いかもしれません。分りますが、出来れば年が明けてから、松の内が過ぎてから喪中だったとして欲しい物です。私の周りみんなそんな年になって来たのか、2年連続去年に続き、今年も喪中だと言う人もいます。

 これから幾年生きられるか分らないですが、最近と言ってもここ数年、周りの人や知っている著名人がどんどん亡くなっています。私より若い57歳の年で中村勘三郎が亡くなりました。勘九朗と言う可愛い時から知っていたのですが、これ迄も近くで様々な人が亡くなっていましたが、年々自分の事として身近に感じる様になって来たかも知れないです。

 生きている間が花、あれもこれもやりたいと思っても、中々出来るものでもありません。癌を公にしたのはアナウンサーの逸見さんがテレビで訴たえてからだと言われています。そして2005年の個人保護法の規定やらで医者が本人に直接言う事になったようです。しかし、余命などあてにならないものは無いと言います。

 癌が多いのは長生きした人が多くなった事もあると聞きますが、仮に余命1ヶ月と言われてそれより長く生きたら、頑張ったと言われ、余命2年と言われ1年で亡くなったら医者のミスも突かれるかも知れないのです。自分の事となって初めて分ると思うのですが不謹慎で申し訳ないですが、何も言われ無いか、私の様になれば余命1ヶ月と言われた方が有難いと思う様になりました。

 ジャック ニコルソンのの映画余命6カ月‘最高の人生の見つけ方’みたいに元気で世界中を廻る大富豪のようになれば別かも知れないです。日本でしたら黒沢監督‘生きる’から役所光司主演の‘終の信託’迄、死をテーマにした映画が沢山あります。ちょっとシンドイですが、そのどれもが真剣に生きると言う事を正面から問題にしていると思います。

 考えたくない事ですが、今年も喪中のはがきから色々考えさせられます。
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279 初の空港勤務

2012-12-08 06:40:30 | 思い出日記
 道端の野草が食べるのには汚いとの忠告を受けた成田では、航空管制官やJALや空港で働いている人と、テニスを通じて色々な方と友人になりました。ここでは色々お世話になりながら、仕事の話は殆どしてませんでした。そんな訳で、空港勤務で他の会社はどうなっているか知らないですが、私の所の勤務は3班に別れ、土日関係なく1年を通して4日勤務で2日の休でした。
 
 4勤2休のシフト、それが普通になると、たまに人と代わって続けて5日間仕事をやるのが非常にシンドクなるのでした。大阪にいた時は、勿論週休2日で、そして当然の様に祭日が土曜日の場合は、振替休日がありました。その当時が懐かしく恵まれていたなと感じます。

 楽をし過ぎたのか、今の仕事のように休みが少ないと、休みの日が待ち遠しくて仕方無いです。その昔、盆と正月しか休めなかった時、その休みは現在と感じ方は違うと思います。1週間が7日、キリストに感謝します。これだけでもクリスマスを祝う値打ちがあると不謹慎な事を思ってしまいます。

 多分今でも変わらないと思いますが、普通は当日朝その日の仕事が決まるのでした。日雇いの様に、又学生時代の如く自分が何をやるか毎日、掲示板を見なくてはいけないのでした。

 私は当初手荷物課に配属され、荷物に関わる事全般に取り扱ってました。そこは旅の最終地点で向こうであった苦情をマトメテ言う所になっていました。そして疲れて帰って来たのに当然受け取る荷物が着かない人、他人が間違って持って行った、ケースの中身を盗まれた、良くあるのがスーツケースの破損等々。それ以外に現地で既に無くした、様々なケースが考えられるのでした。対応する殆どのお客は怒り心頭であり、全便この様な人々の対応に忙しいのでした。

 この課に勤める迄、乗り換えは人だけ間に合えばと荷物の事は考えていませんでした。飛行機がちょっと遅れただけで、乗り換え便に荷物が間にあわないと言う事が良くありました。人が間にあっても航行会社によっては、荷物が間に合わない事でそのものを乗せなかったりします。一つにはその飛行機が一杯で断る理由にしたり、現地に着いてから、クレイムを受けたくないのと色々ありました。乗り換え客の多い弊社は、成田からアジアの他の国に路線を持っていない為に何時も悩まされていました。

 又、マイルを稼ぐ為だけに飛行機に乗る人がいまして、その人は何時も荷物を必ず預けたのでした。オーランドで行くのに、成田-ロサンゼルス-ラスベガス-ダラス-ワシントン-マイアミ-オーランドと乗り換え乗り換えて行きました。この旅程で荷物を失くさないのが、不思議でした。この方の現地でのロストバッグは、帰ってから毎回クレイムが少なくとも半年に一回ありました。(知られて無いですが、マイルを貯める事は弊社が最初に始めました)
 
 そして、いつも忘れられないのが、ジョニーデップがお客がいなくなった広い手荷物受取場にいたので見に行きました。航空会社の職員が彼の手荷物をカートで押していたのを変わって自分で押して行った事でした。その時に、素晴らしい人だと即ファンになりました。
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278 成田の皆さん有難う! 

2012-12-01 06:58:31 | 思い出日記
 月日は早い物、もう成田の勤務を退職したのは3年半前になりました。今となって何をしていたか忘れてしまっている事が多くなってきました。成田での生活を思い出す為に整理しようと思います。

 大阪で航空会社の営業を長年やっていてました。勤め始めた頃、本社(当初はNYCにありました)に行くのに主にサンフランシスコ(SFO)、ロサンゼルス(LAX)そしてホノルル経由で本社迄、ファストクラスを利用できるのでパンナム機で太平洋間やハワイ迄を利用して良く行きました。    
 SFO,LAX空港は日本人の為に、乗り換えカウンターがあって職員も凄く良くて便利に乗り換える様になっていました。旅行も随分様変わりしましたが、当時はSFO、LAX、そしてハワイによるのが定番のアメリカツアーでした。良き時代で、アメリカの国内線を売るだけで良かったのですが、日本路線就航する等路線も増えて、大阪就航もあって営業は順調に伸びて来たのです。
 思い出しましたが、大阪に就航予定している時でした。世界でも有数で弊社10万のスッタフがいる会社のCEOが来るのに、関空の代表は会ってやると言う態度であったと言う事でした。それに知事は会わずに副知事が会う、大阪はどうしようも無い程世界が狭かったと思いました。

 話は戻り、所が9月11日の同時多発テロに依って奈落のそこに落ちました。ご多分に漏れず業務縮小、そこで東京に行って営業ヘルプか、成田のエージェントと2つの道でした。決めたのが、空港業務で単身赴任、成田勤務となりました。

 50歳を過ぎてから、殆ど転職と同じでした。初めての関東地方で空港勤務、これ程しんどいとは知りませんでした。済みません、空港業務を軽く甘く見ていました。又、別に詳しく述べますが、自分がそんな空港の仕事をやっていたとは信じられません。そして、もっと周りに気を配らなくてはいけない年なのに、私が面倒みられていました。本当にどん臭いオジサンでした。いづれにしても、遅いですが成田の皆に感謝しているのは変わりありません。遅くなって申し訳無いですが、有難う御座いました。

 成田では極貧の生活を送る積もりで、野草を食べるつもりで‘食べられる野草’の本も買いました。とりあえず住む所を探さなくてはいけなかったのでした。何も分らずに京成電鉄に乗ったままで周りの雰囲気を見ましたが、殆ど田んぼばかりで1駅が長く感じました。大体の雰囲気が分ったと思い、やっぱり航空会社(ANA)仲間の忠告に従って、戻って酒々井(しすい)に決めました。

 ネットで見た所が順天堂大学の近くで、駅からとても歩ける所で無かったのでした。途中で引き返して成田市内を探そうと京成酒々井から町を横切りJRの駅前に行きました。出発まで時間があったので、駅前の不動産屋さんに行き一番安いアパートを聞きました。そこで28,000円で水道は地下水で無料、共益費1,000円安いと即決めました。

 その部屋は電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛ぶと言う、17アンペアの電圧ででした。モット早く気付けば良かったのですが、情けない事に出る半年前にそれを知り交換しました。酒々井は京成電車とJRが町の両端にあって黒沢明の用心棒の映画を何時も感じていました。でも、住めば都、酒々井は良い所でした。
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