旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

165 話 思い出し

2010-08-28 19:48:09 | 日記
 思い出思い出し’自分で言うのもなんですが、なかなか良いタイトルですが、忘れてしまった事が多いのが実情です。やはりメモでもあれば違うのですが、その必要を感じます。その中で比較的に覚えている事は、ロンドンで日本映画を見た時でした。

 確か’怪談’と言う時代劇で、白州に座っている20-30人いる侍がいっせいに右後方に振り向くと言うシリアスな場面で、笑う所で無いのに場内爆笑になった事がありました。ちなみに確か観客は殆ど日本人ではありませんでした。
 しかし、これは、現地に行って1年ぐらいでしたから私も皆が笑う気持ち良く分かったのです。向こうの人間にしたら、振り向いた全員が月代(さかやき)、つまり、ちょん髷(まげ)の前部分の剃っている部分が禿げだとしか思え無かったのでした(と私は思ったのでした)。
出演者が全員禿げと言う事で、それが一度に振り向いたから笑い、1人や2人で無く全員でしたが、その場面を良く覚えています。

 それと、NHK紅白歌合戦がロンドンの劇場で見られると言う事で行きました。その劇場付近に行くとそんなに日本人がいるのかなと思う位、日本人だらけでした。
 歌った内容と途中の事は総て忘れましたが、最後に司会者が勝って泣く様を見て何か異常に感じたのは私だけかな思いました。最近はどうなっているのか、こんな番組で泣けるとは、面白かったのを良く良く覚えています。今思うとこれも古き良き時代だと言えます。

 ケンブリッジでオペアをしている時、日本から韓国まで、泳いでどれくらい掛かりますか?まず、ドーバー位と思われていたと思いますが、今まで韓国との距離など考えた事が無かったのでした。

 その時、もっと日本の事を勉強していけば良かったと、遅いですが感じています。だが、今も知らないです。
 デンマークでスイカを食べた時でした、私にとって普通の事ですが、どう食べるのか聞かれました。私の為に用意した様なのですが、その家で初めての物でした。私は塩を振って食べると美味しいですと言ったのですが、‘塩’と聞かれて思わず迷ってしまったのでした。甘いものに塩は合わないと思われたのです。以前、日本茶に砂糖を入れると言われた人でしたので、塩を振り掛ける理由を上手く言えなかったのは、私の貧弱なデンマーク語と自信無さにあったと思います。日本の普通の事が、聞かれると普通で無いような思いをして自分が間違っているんではと思う事が多かったです。

 この様に考えて見ると、小さい頃から見慣れていて普通の事が、普通で無く、その国独自の事が沢山あると言う事も分かりました。
 私の様に、京都から出た事が無かった人間が色々失敗もしたはずでした。日本人としての知識の無さは、今思うと恥ずかしい事を沢山やってしまったに違いない、それから厚かましいと思われた事も数々あった事も確かでした。

 今、ラジオを聴いていてノルウエーの話を聞いていてデンマークに似ているなと思った事が、ビックリしたように息を吸う(しゃくりをした感じ)とデンマーク語でハイYesです。一つデンマーク語を覚えて下さい。
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164 話 我が家

2010-08-20 22:15:30 | 日記
 世界中の色々な人と会って、一杯見て経験した旅をどうにか終わって、その後、どうやって、
どうして我が家に帰ったかは殆ど忘れてしまっています。また、思い出したら、皆さんにお知ら
せしたいと思っていますが、行く時は別れをあんなに淋しいものと覚えていたのに、この着いた
事は何も思い出しません。考えて見ると、色んな事を経験して、それだけ成長したのかも知れません。

 私の人生で、京都を長く、これ程長く我が家を離れていた事は、これ以前も以後もありませんでした。
ハッキリ覚えているのは、一人で京都を出たのも初めて、何もかも初めての私が、懐かしい丸太町通り
(電車道で小さい時に蹉跌取りをするのに線路で磁石を糸で引張たり、鉛筆のキャプをどうやったか、
綿を詰めてロケットにして飛ばしたりした大通り。今なら、交通事故が大発生です。)、から我が
家がある黒門通りに入った途端にタイムトリップの様な異質な世界に入ったのでした。

 そう、皆さんにはこの感覚は分からない方が殆どだと思いますが、その見慣れたはずの家並みが
凄く古くて、低くて小さくて自分が反対に凄く背が伸びた様に思ったのでした。本当に自分の
背が高くなったのでした。そう、思ったのでした。
暫く歩いてその理由が分かりました。手が届く程、一階のノキが凄く間違いなく低かったのでした。

 今まで、外国で普通に思っていた家が普通では無かったのでした。狭い黒門通りの京都の家並み
は背が低いとその時に気づいたのでした。だから自分が背が高く見えたのでした。今、行っても
普通の家に思うのに、その時は正直、大変驚きました。それで、京都に着いたと感じました。

 我が家に帰って、当然母親が待っていてくれたと思ったのでしたが、まだ、帰ってなくっ て、
それから暫く経って母親が帰ってきて、今でも覚えているのが、’いやー、夢見てるみたいやなー
と言ったのに、私は少し不機嫌に答えて’’お父さんに会いたかった’と言ったのでした。その事が後で、
悔い残る言葉になったのでした。

 その後、私の帰国を待って父親の一周忌に納骨を兄弟親戚一同でしました。そのまま、今まで
行ったことの無い四国、九州旅行(修学旅行で出た以外、本当は何処にも行っていません。)行った
のでした元気一杯でした。その時、多分ロンドンにいた時の知り合いに紹介された佐賀に行って、
恥ずかしながら、店やもんと言う言葉を初めて知ったのでした。ここでも、何も知らない事を
知ったのでした。知らない家にお世話になりました。

あるユースで夜、食後、皆で歌を歌うなど恥ずかしくてできませんでした。日本のユースは
違ったのです。四国では予約無しに安宿に泊るなど(多分、何処でも予約などしていません)
今では信じられない旅をしたのでした。良く、続けて旅を続けられたと、若い故に何も知らなかった
から、そんなものを思ってやっていたのでしょう。今、同じ事をやれと言われたら…
 
 やっぱり、もう一度やれたら、違った自分が生まれ出たと思います。
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163 ロサンゼルス

2010-08-14 19:48:50 | 日記
 ロサンゼルスに着いてから、今までと同じように極、大雑把な地図を見てYMCA迄、夜遅いですが、何時もの様に歩いていこうと思い歩き始めたのでした。しかし、どこをどう歩いたのか、歩いても歩いても道を間違ったかと思う位到着どころか、その地図にある交差点迄、行きませんでした。

 それでも、仕方なく京都の五条通り(堀川通りはまだ川が流れていたから?、私の知っている京都で一番広い通り、つまり私の知る一番広い道)より大きなひろい道を歩いていきました。
 暫く歩いて行く内に、幾ら歩いても、これはとんでも無く目的地が遠い所にあると思いました。 自分の基準が京都にあって(未だに狭い社会です)、飛んでも無い違いに気づきました。初めから気づいていたら良かったのですが、夜、人はいない車も少ない、考えれば(考えなくても)この広い道で、襲われたら何処に逃げられるかと心配になってきました。金ばかりでなく、ここはアメリカ、命も取られると思ったのでした。
 周りを見たらこんな恐ろしい所は無いと思い始めたのでした。何処でも泊ろうと潜り込める、ホテルを探したのでした。
 幸いにホテルは直ぐに見つかり、部屋も空いていると言うので直ぐにチェックインしたのですが、安ホテルで、その部屋の鍵も直ぐに壊せそうな安普請のつくりでした。怖いので、椅子をドアのノッブに立て掛けて部屋をブロックして外から入れない様にしたのでした。そんな訳で、無事夜が明けるのを待ったのでした。実際は心配するより疲れて寝ていました。

チェックインとチェックアウトもどうしたのか忘れて、ホテル代は幾ら払ったか忘れましたが、その後、バスターミナルの近くで6ドルとか言うホテルが何軒かあったのを何故か頭に残っています。

ロサンゼルスに来たら、アナハイムのディズニィ-に行かなければと思いました。その後、何度も行きましたが、その時は、男一人、ディズニィ-に行くのは初めてでした。良くおぼえているのが‘世界は回る..It’s a small world. 何故か、これは一人でも楽しめると思ったのです。今、思うと2年近く我が家を出て旅にでて、世界中を見てきたのが信じられないのです。本当にIt’s a small worldです?

この後、初めてのハワイでもっと印象強いはずですが、それ以降も行ったせいか殆ど覚えている事も無く、そんな中覚えているのが、これまた知り合いの紹介でお世話になっていた事です。
日本で世話になっている牧師さんの弟さんの家でお世話になりました。こんなに世界中で世話になった私も珍しいでしょうが、どんな所に泊ったか忘れているのは申し訳なく思っています。

思い出に残る事に、夕方に沖合にボートで行き、飛行機が直ぐ近く真上に降りてくる所でボートをとめて、そこが確か膝頭迄の浅瀬になっていて、そこのサンゴ礁の上を歩いて50cm以上の魚をもりで突いて何匹も獲ったのでした。

一緒に行ったあちらの子供よりも、自分が面白い程獲れて、一番獲ったのを覚えています。どう食べたかも、忘れてもりで魚を獲った事、真上にあった飛行機だけ覚えています。
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162 フラッグスタッフ

2010-08-07 06:14:26 | 日記
 日本を出る前に絶対アメリカで見ようと思っていた一つの望み、地平線まで一面の大草原を夢に描いたのですが、テキサスではその印象も殆ど無く通り過ぎました。
(社会人になってダラスからWACAまで車で行きましたが、回りに何も無いだらだらとした道に、その時は早く着いてくれと、ただただ思っただけで、結局草原の景色を楽しむところではありませんでした)。

 グランドキャニオンに行く途中になった所ですがフラッグスタッフに、どう行ったのか、これもスッカリ忘れましたが、そこで夜を一晩、なんとバスストップで過ごしたのでした。

 何故夜になって着いてしまったのか忘れました。泊る所が無いので、野宿は危険でできないですが、まあそれに近いもので、小さな戸も閉まるバス駅でしたが誰もいない所で夜を過ごす事になったのでした。欧州での経験がこんな事もやったのでしょうか、やはり、暗い所にいる自分自身を、心細かったのか良く覚えています。
 寒さをしのぐ為の物は何も無く、ベンチに横になって寝たのですが、勿論そんな馬鹿な事をしているのは私一人だけでした。どうにか無事に一晩を過ごせたのです。これも、怖いもの知らずであったという事でして、今となってこんな所で泊まったとは信じられません。

 そこからグランドキャ二オンに行ったのですが、バスを降りて普通の広い道を歩いて行くとそこにヴューポイントがあってそこから見たのですが、その雄大さには感激はありませんでした。
私の想像していたものと余りに違い、地上にボコッと穴が開いている感じがしたのでした。いつの間にか、高い所に来ていたので何かイメージしたものと違いました。
 未だに、そこで感激しなかった理由を知る為にもう一度行こうと思っていますが、未だ再訪できずに今日に至っています。

 道中は、見事に忘れてしまいましたが、サンフランシスコで冬なのにTシャツでいる人を横に見て(そもそもアメリカ人は子供の時に冷暖房の部屋で過保護に育っていて、汗をかかないから皮膚感覚が麻痺して、それと皮下脂肪が多いので暑さ寒さに鈍感になっているのに違い無いと言うのが私の考えです。)公衆トイレに入ってマタマタビックリ(各国トイレは色々)しました。

 各ドアの所に料金を支払う有料トイレでしたがその有料には驚きませんが、一番奥、一箇所トイレにドアが無いのでした。
決してドアを壊した物ではなく普通の個室でした。私の想像ですが、多分お金の無い人の為にそこを開けていたと思ったのでした。アメリカでトイレの足元が総て見えるのにも驚いたけれどこのドアの無い有料トイレには正直驚き参りました。
(その当時は、映画でもトイレの映る場面は殆ど見られないでしたが、現在の映画の暴力場面でトイレは良く見られますが、当時はまだまだ足元が総て見えるのがなかったですから、その時は驚きました、西部劇時代の名残かとも思いました。
そもそも、京都ではやっと水洗が一般に普及して、高校時代に山科に引越しした家で生まれて初めて、洋式トイレを見たのでした。それから、何年も経って無いのにこのトイレには参りました)

考えてみたら女性用はどうなっていたのでしょうか?残念ながら知るすべも無かったのでした!多分女性の方が金をもっていて、トイレには、ドアがついていた事でしょう。
 
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