旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

408 昭和の映画

2015-03-28 04:40:31 | 思い出日記
  [健文太 昭和のスター 今星に!]つまない私の川柳です。駄目な上塗りで、新聞に応募したのですが、はがきが古くて郵便料金の2円不足で返されました。と言う訳で、この川柳は何処にも出していない、本邦初公開です。余り、褒められないですが、誰かに聞いてもらいたくて済みません。

 深作欣二監督の「仁義なき闘い」広能省三役の文太さんの「山村さん 弾はまだ残っとるがよう」このように話題になった映画には、忘れられない名セリフが残っています。この山村さんこと金子信雄さんの憎たらしい親分役も良かったです。映画は脇役で持っているともいえます。小林旭、成田三樹夫等と脇役が素晴らしかった。
 新しい所で、宮崎駿さんが「千と千尋の神隠し」の「釜爺」はジブリの鈴木敏夫さんが勧めて声役を文太さんがやったのですが、この声の脇役も良かったでした。この菅原文太さんが死の間際まで、沖縄に行って反戦の運動をしていたのです。

 健さんの私の思い出に残る映画は「幸福の黄色いハンカチ」、日本映画に珍しいハッピーエンドで終る所も良かった。本来涙涙の映画なのですが、ここでも脇に武田鉄也が必死に桃井かおりをナンパする所がマタマタ面白くて良かったです。健さんの東映時代の絶頂期は余り知りませんが、「網走番外地」はビデオで見たので余り偉そうに言えません。
 「幸福の黄色いハンカチ」と同時期の映画「人間の証明」とを比較して、ある評論家が新聞で批評していました。両方見た私が嘘でしょうと言いたくなったのは、双方の映画を見終わった観客が、「...ハンカチ」を見た観客が見終わった後、つまらなそうに出てきたが、「人間の証明」を見終わった観客が未だ余韻が冷めやらない様子だったと言っていました。映画を見ていないに違い無いと思いました。健さんは素晴らしかったでした。
 
 淀川長春さんは「どんな映画にもいいところがある」と言っていました。素晴らしい言葉と思い、これ以来、ありとあらゆる分野の映画を今まで見てきました。この頃は、時間とお金が今まであったのが不思議ですが、そんなに余裕がありませんので、自分が良いと思って見る映画を選んでいます。貴重な時間と金の有効利用です。

 「映画って、本当にいいものですね。さよなら、さよなら。」懐かしいフレーズです。最近はテレビで映画を見なくなりました。一人で映画で見た「エイリアン」は本当に怖かったですが、それをテレビで見て、怖さの頂点に達した時に、CMが間に入って来て、その映画の怖い面白さを無くしてしまったからです。それ以来、金が無くても、自分が見て良さそうな映画は映画館かDVDで観るようにしています。
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407 半世紀 いろいろありました

2015-03-21 04:15:23 | 思い出日記
 50年前と言うより、半世紀前と言うと凄く昔のように感じますが、驚く事に私はすでにそれ以上生きています。しかも平成27年にもなり、加速をつけて、もっと時が過ぎるのは早くなりました。

昔、我が家には、自慢ですが屋号入りの番傘が何本もありました。時代ものだと思っていましたが、残さなくてはと言う前に、いつの頃か無くなっていました。小さい時、朝鮮戦争が終わってから大分経つのに、遊ぶ時は何も知らずに自分等の陣地を分ける時に線を引いて、ここが38度線と言っていたのは 大人になるまで、全く、北と南朝鮮の国境線とは知らなかったです。

 高校の時に、引っ越しした友人の家に遊びに行った事がありました。今なら信じられない、私はその時に初めて洋式トイレを知りました。当時は殆ど全ての庶民の家が和式トイレで、洋式は珍しくて、この様に使うのだと説明を受けました。まだ、設置した方も説明が正しく無かったようにに思います。
 その友人は、生まれてからズ~と東山区に住んでいましたが、山を越して山科に移り住みました。引っ越しして初めての朝、日の出を見ようと東山を見ていたら後ろの方が明るくなって来たという事でした。学生時代、この様な友人ばかりでした。

  当時、我が家では、トイレットペーパーで無く、まだ落とし紙使っていました。なかたい紙を揉んで鼻をかんでいた時代です。今では考えられないですが、場所によっては新聞紙を四角く切って使っていました。京都市内に住んでいましたが、汲み取り式で、なんとなく覚えていて、不確かですが天秤で運んでいた様に思いましたが、ある時からバキュームカーで汲み上げるようになりました。
 京都の家々は奥行があるので、長いホースが必要でした。今思うと、全ての家がトイレ(便所言っていました)が家の奥庭にありました。今なら考えられないですが我が家はトイレ迄、何と約40メートル以上もありました。吸い上げるバキュームは凄かったと思います。

 暫くして、海外旅行が一般化してトイレの上に両足をのせて用をするおばさんが転んだとか話題になった事が嘘のようになりました。今では殆どの家が、洋式で何でもいいものは取り入れて行くのが日本人の良いところです。

 子供の頃を思い出すと、50年は長かったと思わざるをえないと感じます。自分も年を感じなくてはいけないですが、なかなか感じないです。
 
 
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406 夢 小説家

2015-03-14 04:53:43 | 思い出日記
 早朝から忙しすぎて、夜9時になると眠くなってしまいます。そんな時に、友人に本でも書いてみたらと言われたことを思い出し、ちょっとその気になりました。

 長編は無理でも、エッセイ集なら自分でも書けるのではと思いました。そこで、種々雑多の本を読んでいて、何か共通点が見つからないか考えました。

 例えば、航空・旅行会社の旅行業界の裏話、営業から空港のチェクイン迄仕事をして、云わばこの道のプロでした。しかし、ここ数年LCCが話題になって、業界も日進月歩、もう辞めて話は古くなりました。まして大した事を知っている訳で無いので無理、ノンフィクション物は到底駄目です。

 何か、もの凄く好きである事。熱中している。余り人が知らない、読んでいる人がそのような事もあるかと思わせたら成功と思います。

 その1つと言えるのが、アメリカンピットブルと聞いて分かる人は少ないと思います。体重がそれ程重くはないが、ただ闘う為だけに飼育された闘犬であるそうです。その犬が檻から逃げて女性を襲ってという、闘犬に造詣深い著者、驚く事に30年前に人気絶好調の川上宋薫が推理小説を出していたのです。
 本は色あせていましたが、勿論、女性がらみで、楽に直ぐ読めました。本に書いているから、アメリカンピットブルと聞いて実際にいる犬だと理解していますが、本物を見た事無い犬で、それなりに想像力を掻き立てました。

 他にも、歴史小説は、年代公証さえ間違いなければ、本当に合ったかのように書けます。勿論、嘘ばっかり書いても教科書に採用するつもりが無いのなら、又、それに載る事が無いので問題が無いと思います。
 何藩の誰それが親を切り出奔して、その仇討に何十年、今や国本からの仕送りも途絶えがち、つまり、その場でどのように感じたか、どのように言ったか等、分かるはずがなく、筆者の好き勝手に本当らしく書いていけば良いのです。

 又、多くの資料は歴史上、勝ったもの勝ち、自分のいいように歴史を作れば良いのです。私は資料を調べる事は到底できません。それは言い訳で、時間があっても無理です。自分の事は分かります。

 洋書は出て来る人の名前を覚えるのが苦手で、余り読まなかったのですが、前から読もうと思っていたアサー・ヘイリーの「ホテル」を偶々、色の変わった本(こんな本ばかり読んでます)を読みました。

 ホテルで起こりうるあらゆる状況を無理なく網羅しています。経営不振におちいって買収の危機、従業員の不正、人種問題、宿泊有名人のひき逃げ、恋、売春、強姦、エレベーターの落下等、あらゆるものを無理なく取り上げて1週間の事を書いています。この本は思った以上に良かったです。又、この様な本を書くのは到底無理。

 どのパターンも、十分に面白いですが、自分で書くとなると難しいのでもう少し違うことを考えます。考えている間に、夢と消え人生終りそうです。
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405 食べず嫌いは...

2015-03-08 20:26:26 | 思い出日記
 小さい頃、我儘であったので食べるものも偏っていました。と云うのも、偏食で好き嫌いがはっきりしていていました。

 煮たき物が嫌いで家族みんなが鍋物をしている時、私だけトンカツを肉屋さんから取ってもらって食べていました。お祭りには、みんなが鯖寿司を食べている時に、巻き寿司だけを食べていました。今、我が家で殆ど食べることが少なくなった、蟹、鯖寿司、それに牡蠣をその頃は大嫌いでした。数の子、そして、煮たもの、特におでんは匂いもいやでした。これ以外にも、数えきれない程、嫌いなものがありました。親が生きていたら違う人間と間違うほど今やなんでも食べます。思えば思うほどもったいない事をしたと後悔しています。

 いつの頃か、ズ~と前、とりあえず小さい時、丸焼き(味は忘れましたが、たこ焼きにタコが入っていないもの)を食べに行った所で、おでんも売っていたのです。その匂いが嫌いでした。何が入っていたのか怪しげなものです。公園で売っていたベタ焼き、現在風に言うと、クレープ風お好み焼き=言い方で良くなります。これは、美味しかった思い出です。

 学生の時に初めてピッザを北白川でアメリカ人に奢ってもらったのでした。当時はチーズと言うものが好きでなかった、というより我が家の献立には無かったので、どんな感想か思い出せないです。食べず嫌いが治ったのは、欧州に行って何でも食べなくてはならなかった為でした。

 友人のバスク人に何処か知らない今となっては不明ですが、スペインの北、ネズミの形をした半島で地元の人間しか行かない地下にあったレストランに連れて行って貰いました。多分、地元の人だけしか入れない所だったので、友人が入る許可を得て、食べた焼き魚が一番おいしかった事を思い出します。それまで、2年程欧州にいて、ここ以外に、目にした事が無い初めてのバーベキュー式の本格的な焼き魚でした。

 社会人になってから、マドリッド郊外の町で食べたと言っても食べられなかった、豚ばっかりのレストランの豚の耳は記憶に残るものでした。
 
 初めて覚えた英語の食べ物が、今や大好きな「Oyster」でした。残念に思うのが、ニューオーリンズ行った時に、すすめられても食べられなかった事です。その後、友人に京都のレストランで美味しい生の牡蠣を、勧められて1つ食べたのが美味しくて、それ以来、生の牡蠣好きには目が無いです。

 今、毎朝食べている納豆ですが、弊社東京の営業の女性に、こんな腐ったものは食べられないと言ってしまった事を悔いています。人それぞれに、食べ物の美味しさは違うのですから、今や何でも人が美味しいと言われるものを食べています。今、食べられないものは、クサヤです。これだけはダメです。
 時、そして年とともに、私の味覚は変わりました。今度は食べたくても、食べられないものが増えました。好き嫌いは本当に良くありませんです。
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