戦後に生まれの私ですから思うのですが、戦争中、敵性用語を使っては駄目だと馬鹿な考えを現実化したものと思います。当時は外来語がまだ現在より段違いに少なかったから可能になったのと思うのです。そんな精神論で戦争に勝てると思ったのでしょう。
敵性用語として、清水義範さんが本の中で、キャバクラ(水商売)、ディスコ(舞踏場)、セクシーなスーツは(性的な上下揃い服)、ボディコンは(肉体挑発服)、トレンディ(当世風)テレビ(電映機)ビデオ(録映機)レーザーディスク(光針式映盤)パンク(破裂風)ファッション(時装)デザイナー(創装家)コーヒー(黒茶)等、色々言ってます。もう既に古くなっている言葉もありますが、中国語も書いていますが、必然的に日本人同士の会話は難くなって来ます。
カタカナそしてひらがな等が無い中国は、それを多分、反面、実践しているのは凄いと思います。日本人は戦後直ぐに、英語を日本語に取り入れた事といい、戦争をした相手と言う事を忘れ去りました。これは明治維新前と同じ事で、古い話としてしまうのも民族性なのでしょう。
話がそれました(何の話か忘れました)が、その昔、英国で英語を習っている時に、英語が一番語彙が豊富であると先生が強調して言いました。その言葉は7つの海にまたがり、世界中から色んなものを吸収したと言うのでした。英語が語彙の多さは、世界で一番だと言い切っていました。そんなはずが無いのにと聞いていました。英国に誇れるものは、当時は言葉だけだったのかも知れません。
英国病と言われる時、ある英国の大臣は、輸出するものは英語だと言っていたのも理解できます。現在の日本はもっと自信を持って言葉を誇りを持って言語を輸出するべきだと感じます。
日本語には大文字が無い、代わりに漢字があり、音訓と1つの語から幾つも発音と言葉ができます。英語はそのローマ字の数が少なく、限度があると思われます。反面、益々ついて行けなくなるほど日本語の語彙が増えていますが、外国はどうなっているのでしょう。
実際、江戸時代までは、日本語も限られた世界で話されていたのですから、日常語しか使わなかったでしょう。今の私状態、歩いていける所だけ、会う人々、生活範囲が、ほぼ人生総てであったと想像できます。我々の先祖は、この状態で、新しい事とかも無かったはずですから、語彙も限られていた事と思います。
それが、今や簡単に日帰りで大阪から東京に行けるのが当然のようになって、海外も近くなりました。そしてテレビ、ネットで何でも手に入る様になり、限り無く広い世界におかれて、新しい言葉が増えました。
フツーニヤバイ(=‘おせいじ抜きで凄い’)とばかり言ってられないほど、我々年代の人間、ついて行くのが恐ろしい程です。言葉が増えると言う事はボケの対策として良いと思うのは私だけでしょうか?
今ある言葉で大丈夫と無視しているかも知れないです。私もそうならない様に気をつけます。
敵性用語として、清水義範さんが本の中で、キャバクラ(水商売)、ディスコ(舞踏場)、セクシーなスーツは(性的な上下揃い服)、ボディコンは(肉体挑発服)、トレンディ(当世風)テレビ(電映機)ビデオ(録映機)レーザーディスク(光針式映盤)パンク(破裂風)ファッション(時装)デザイナー(創装家)コーヒー(黒茶)等、色々言ってます。もう既に古くなっている言葉もありますが、中国語も書いていますが、必然的に日本人同士の会話は難くなって来ます。
カタカナそしてひらがな等が無い中国は、それを多分、反面、実践しているのは凄いと思います。日本人は戦後直ぐに、英語を日本語に取り入れた事といい、戦争をした相手と言う事を忘れ去りました。これは明治維新前と同じ事で、古い話としてしまうのも民族性なのでしょう。
話がそれました(何の話か忘れました)が、その昔、英国で英語を習っている時に、英語が一番語彙が豊富であると先生が強調して言いました。その言葉は7つの海にまたがり、世界中から色んなものを吸収したと言うのでした。英語が語彙の多さは、世界で一番だと言い切っていました。そんなはずが無いのにと聞いていました。英国に誇れるものは、当時は言葉だけだったのかも知れません。
英国病と言われる時、ある英国の大臣は、輸出するものは英語だと言っていたのも理解できます。現在の日本はもっと自信を持って言葉を誇りを持って言語を輸出するべきだと感じます。
日本語には大文字が無い、代わりに漢字があり、音訓と1つの語から幾つも発音と言葉ができます。英語はそのローマ字の数が少なく、限度があると思われます。反面、益々ついて行けなくなるほど日本語の語彙が増えていますが、外国はどうなっているのでしょう。
実際、江戸時代までは、日本語も限られた世界で話されていたのですから、日常語しか使わなかったでしょう。今の私状態、歩いていける所だけ、会う人々、生活範囲が、ほぼ人生総てであったと想像できます。我々の先祖は、この状態で、新しい事とかも無かったはずですから、語彙も限られていた事と思います。
それが、今や簡単に日帰りで大阪から東京に行けるのが当然のようになって、海外も近くなりました。そしてテレビ、ネットで何でも手に入る様になり、限り無く広い世界におかれて、新しい言葉が増えました。
フツーニヤバイ(=‘おせいじ抜きで凄い’)とばかり言ってられないほど、我々年代の人間、ついて行くのが恐ろしい程です。言葉が増えると言う事はボケの対策として良いと思うのは私だけでしょうか?
今ある言葉で大丈夫と無視しているかも知れないです。私もそうならない様に気をつけます。