奄美の黒糖焼酎・まんこいを戴きました。蔵元は奄美市の弥生焼酎・・・以前、工場を観させていただきましたが、原料の黒糖に石垣島産が使われていることを知り、沖縄と奄美の繋がりに思いが及び感慨を深めたものでした。「まんこい」は「招き入れる」こと。商売繁盛を招き呼ぶ黒糖焼酎・・・琥珀色のお酒は水割りが美味しく飲めてお薦め!そういえば先週、吉祥寺のライブハウスで戴いたワンドリンクが「まんこい」でした。
洞爺湖サミットを間近に控えて、東京は厳重な警備体制です。駅はもとより繁華街は警備陣や車両が巡回しています。梅雨どきの上空はヘリコプターが旋回中。八年前の沖縄サミットを思い出しますねぇ・・・近所の公園、メキシカンセージが小さな赤い花を開きました。葉を擦(こす)るとハーブのほのかな香りがします。少し癒されるひととき・・・。
先程も高田馬場駅前を通過しましたが、チンドン屋さんは未だに営業中でした。往来の激しい道路際、駅前ガード下の立ち位置は喧騒のただ中ですが、なんの!軽快なチンドンメロディで踊りだす。おゃ、サックスの彼女が演奏するのは往年の名曲「黄昏のビギン」だ、素晴らしい。ひげ親父はちあきなおみバージョンが好きです。
雲の隙間さえ伺えない梅雨どき東京・・雨の気配はないようですが、湿気を帯びた空気が支配しています。自転車で散歩中、高田馬場駅前でチンドン家さんを見つけましたよ。チンドンのリズムが懐かしい・・・。立ち止まり、暫し見物人状態ね。駅前パチンコ店のリニューアルをピーアールしています。二人は町屋の町人風情、男性は着流しに髷(まげ)が似合います。サックス担当は若い女性、太鼓の女性からポケットティッシュを貰っちゃった。
午前中は商用で千葉県松戸へ・・新京成電鉄・松戸新田(しんでん)駅で降りました。気温が上がり汗ばむ陽気の中、地図携帯を片手に歩く道すがら・・軒先にオリオンビール提灯を幾つも賑やかにあしらった沖縄居酒屋に遭遇。表には大将らしき男性がお昼の開店準備でしょうか・・ひげの直感(オッ!この顔つきはウチナーンチュだ)・・すると相手も親父をジーッと見ておりました。さて、件の商用を済ませて初対面ながら商用相手と昼食でも・・・案内されたのは アララ、先ほどの居酒屋でした。男性は・・やはりお店の大将・・挨拶すると開口一番「あい、やっぱりウチナーンチュでしょう」と先方も直感したとか・。そうかなあ?そんなに沖縄的顔立ちでしょうか・・わたくし・・。久しぶりのソーキそばは美味しかったですよ。付け合わせのモズクやイカスミ豆腐・キュウリの和え物は、あっさり味の清涼感があって・これも美味でございました。
住まい近く、電車を降りて地下鉄の改札を抜けると沖縄民謡が構内に響いています。沖縄物産の出張販売ですね。都内では頻繁に見かけるようになりました。~イサ・ソイソイソイ、イサ・ソイソイソイ~谷茶前ですね、民謡の調べは客寄せに効果的、販売されているアイテムは以前に比較しても格段に増えました。サーターアンダギーにポークや黒砂糖・ウコンなどの定番に加えて種類豊富なレトルトパック、瓶入りこーれーぐーすなどの調味料、沖縄そばの乾麺・生麺パック、くるま麩、最近人気の海ぶどう・・・「海ぶどうは常温で保存して早めにお召し上がり下さい」・・・スタッフがお客さんに説明しています、売れ行き良さそうね。そういえば昨日、銀座わしたショップに入ると沖縄産パイナップルの甘い香りが店内に満ちるようでした。
奄美市のタウン情報を盛り込んだフリーペーパー・machi-iroの第3号と4号の二冊を戴きました。4号の表紙は淡いピンクの寒緋桜、おがみしょーら。ページを繰ると「なぜまち探訪」コーナーに写るは市内の高千穂神社ですね。かつて島が一丸となった復帰運動、その中心となり「復帰運動の父」といわれた泉芳朗さんが断食祈願を果たした神社です。その奄美の復帰が昭和26年・・今年は復帰55周年、記念日は12月25日ですね。やんご(屋仁川)特集も馴染みのお店が紹介されて、左党のひげ親父には嬉しい便りです。
気温は上がれども、風が吹いて肌に心地良い梅雨の晴れ間です・・・汐留界隈を歩いていましたら・・汐留駅から日本テレビに通じる通路の左右に「ごくせんフラッグ」が幾つも風になびいています。にっこり微笑む仲間由紀恵さんフラッグ・・誘われるまま奥のテラスに向かうと、からくり時計の隣に「ごくせん神社」ですよ。好調な番組人気にあやかりましょう・・。鳥居をくぐると賽銭箱を備えた小さな神社です。鳥居の右手には願いを込めた多くの「ごくせん絵馬」が掛けられて・・。願掛けしているのは修学旅行の中学生たちでしょうか・・。
6月23日・慰霊の日・・沖縄県条例で県内の学校、役所、会社関係は公休日・・ところが東京在住バーチャル都民は休めない・・う~ん。慰霊の日の吉祥寺・ライブハウスに詰めかけた満席70名余の観客が息を飲み、誰もが沈黙したのは語り部の方が戦争体験を話しだしたとき・・・。国内唯一の地上戦、悲惨な沖縄戦の只中に身を置き、死が隣合わせという極限状態の中、人間の人間たる尊厳は失われてしまう。できれば人前で語りたくない、辛い過去が蘇るから・・でもオジイは語り継ぐことにしました。永遠の平和を紡ぐことは語り継ぐこと、生き抜いたオジイの役割でもあるわけさあね・・。東京で沖縄を語ること、大事な事・・。