木村草太の力戦憲法

生命と宇宙と万物と憲法に関する問題を考えます。

「ご」で謝る

2011-11-07 13:12:42 | ちょっと一言
先日、しかられた幼児Xを目撃した。

さしあたり、ここでは幼児Xが
しかられてもしょうがないことをした
ということを前提にしてほしい。

そして、Xはそのしょうがないこと故に、
Yに対し、謝罪をしなければならない状況である
ということも前提にしてほしい。

Xの両親は当然、Yに対し、
「ごめんなさい、っていいなさい」と叱る。
よくある光景である。
おそらく2000年前のギリシアに行っても観察できる光景であろう。

さて、ここでのXの行動は、極めて興味深いものだった。

Xは、巨大な怒声で「ご!」と発言し、
「ごめんねの『ご』をいったから、
 もう謝った!」
と主張した。


このXの理屈は、大変に興味深い。

シニフィアン(記号)とシニフィエ(内容)の結びつきは恣意的である。

ある言語体系中で、愛という意味の単語が、
ある言語体系中では卵(Ei)という意味になる。

ある言語圏では、ありふれた人名が
ある言語圏では、ちょっと面白い名前になってしまうのも
良く観察される現象である。

三大テノールのホセ・カレーラス氏のチラシを見るたびに
カレーライスを食べたくなる方は多いはずである。
また、インドの超能力者サイババ氏の日本でのブレイクの一因は
サイババという名前にある、というのも数々の指摘のあるところである。
さらに、思想家メルロ・ポンティ氏、そして哲学者マイケル・ダメット氏であるが、
絶対に名前が・・・。
(後に行くに従い、シニフィアン云々と関係がなくなった)


さて、Xの理屈を整理すると次のようになろう。

「謝罪(シニフィエ)を『ごめん』という音声(シニフィアン)で
 表現するのは、あくまで一つの言語体系であり、
 私の言語体系では、『ご』といえば、
 謝罪の意味である。
 私は既に『ご』と発言したため、
 謝罪を示した。だから、もう謝る必要はない。」

確かに理屈は通っている。通り過ぎている。

しかし、親としてはこれを許すわけにはいかないだろう。

だいたい、謝罪をする気持ちをもっているなら、
「ご」といったから謝ったという奇妙な理屈を持ち出さずに
「ごめん」と言えばいいはずだ。
むしろ、ここで表示しているのは、
絶対に謝罪の念を示さないという確固たる信念である。

ところで、私は、この現象に触れ、
改めて謝罪ということについて考えされられた。

この幼児にとって「ごめん」という言葉は重たい。
だからこその奇妙な論理である。

これに対し、日本の裁判官にとっての「ごめん」は軽い。
別にこの程度強制したって良心には関係プーじゃん、と言えるくらい軽い。

そんな言葉の軽い人間に判決を書いてもらいたい
と思う人は少なかろう。

そこで、民法に
「法律上の謝罪は、ご、という言葉により表現する」
という趣旨の条文を付け加え、
今後、強制される謝罪広告では、
「ご」と一言書けばよいことにしてみてはどうだろうか。

代替執行される謝罪広告なるシニフィアンで表現される
シニフィエなど、「ご」程度のものである、と思われる。

*若干(?)の誤植を訂正しました(11月7日23時32分)

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12 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (col)
2011-11-07 17:33:22
お久しぶりです。

爆笑しました。いえ、ディスプレイの前に1人なので、黙笑しました。


本文と直接関係ありませんが、そもそも謝罪という行為の社会学的意味というのはよくわかりませんよね。

何らかの権利侵害があった場合、人は必ずといっていいほど、「謝罪を要求する」と言いますが、「すみませんでした。」と言われることにどういった意味があるというのでしょうか?そんなことよりも、権利を回復してもらう方がずっとよさそうな気もするのに。

もし、謝罪を受けることが、権利侵害による精神的損害の回復のためだとするならば、「ごめんなさい」と言うことで、慰謝料の支払額を減らしてもらうことができるのでしょうか。
・・・たぶん、できないでしょうね。
じゃあ、何のために求めるんでしょうね?


また、「謝罪」というのは、謝罪するという内心の状態を表すことに意味があるのか、それとも、内心とは無関係な「ごめんなさい」という言語表現や頭を下げるという行為自体に意味があるのか・・・。

少なくとも、最高裁は、陳謝の意を示すに留まる謝罪広告は思想・良心の自由の制約にならないとするわけですから、「謝罪する」という心を抱くことと「謝罪を表明する」という言語行為ないしは物理的行為は別物と考えているということなんでしょうか。



取り留めがなくなってきました。
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Unknown (冥王星)
2011-11-07 18:44:51
メルロ=ポンティは名前の名作です.彼の書いたものを読んだことのない私ですが,彼が深い思索の人であることくらいは容易にわかります.

さて,謝罪広告判決です.これは私がもっとも憎んでいる最高裁判例です.君が代裁判で判例を支持しては,人権に対する感受性が欠落しているだの散々な人格的非難を受けている私ですが,非難する側が謝罪広告判決についてはこれを支持しているとなると,「逆だろ,逆.感受性を欠いているのはお前の方だろ」と一喝したくなります.

まあ,何というか,この謝罪広告判決(判決でよかったですよね・・・)は,最高裁が謝れ文化に媚びて心の内面の自由を売り飛ばした,戦後もっともスキャンダラスな判例だと思います.

なお,判決にもかかわらず反省せずに謝罪も当然なかった旨を,被告の費用による広告の代替執行で晒す(もう一つ別の判決が必要になる)のはギリギリ合憲と考えます.謝罪広告そのものとは,似ているけど,全然違います.

追記:各分野でもっとも尖った論者を一堂に集めたジュリ1400,読みました.私自身は強い共感を覚えましたが,なんですね,木村定跡は私人側勝訴の筋を示しているにもかかわらず,プロ市・・・護憲活動に熱心な方々の心は捕まえられそうにありませんね.そんな理由で勝っても,政治的勝利とは言えない,敗訴しても政治的勝利がほしい,と言われそうです.国家による真の抑圧を隠蔽する危険な議論ともw
で,俗な意味での政治性を極力排したような形になってしまうのは,(それが直接の狙いではないのでしょうが)木村定跡の必然のような気はします.

>col様
興味深く読みました.法律上はともかく,社会的にはまさしく実体的に道徳的責任が減少すると,日本社会では考えられているのでは?

日本以外の多くの国・文化においては,謝罪の謝罪部分よりも自白部分が圧倒的に重大であるやに聞いております(印象論に過ぎませんが).
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さすがです! (檸檬)
2011-11-07 21:47:24
天声人語を読んでいる気分でした。
感嘆しました。おもしろかったです!



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>檸檬様 (kimkimlr)
2011-11-09 15:45:11
返信する
>colさま (kimkimlr)
2011-11-09 15:46:15
お久しぶりです。
どうもありがとうございます。

そうですね。
そもそもなぜ謝罪広告なるものが必要なのか
よくわからなくなってきます。

というわけで、次回は、この点について記事を書いてみようと思います。
しばしお待ち下さい。
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>冥王星さま (kimkimlr)
2011-11-09 15:48:40
こんにちは。ありがとうございます。

悩ましい問題が山積です。

ちなみに謝罪広告については、
蟻川三部作によるきわめてすぐれた定跡が
整えられております。

というわけで、また
「最強!蟻川システム」の記事にてお会いいたしましょう。
返信する
謝罪 (冥王星)
2011-11-09 21:14:49
「なごやかに」という先生の言葉にもかかわらず,戦闘的になってしまって,申し訳ございませんでした.「ビバ!表現の自由!」で心のギアがセカンドにアップしていたところ,謝罪広告でサードに入り,一気に加速しました.と,ここまで書いて,「原因を先生の記事に帰すお前は,本当に謝罪する気があるのか」と自分突っ込みをしてしまいました.謝罪はまったくもって難問です.

さて,私なぞは謝罪広告判決なんか明らかにダメダメじゃんとしか思わなかったのですが,やはり敵も様々な変化を持った戦法だから,「システム」で体系的かつ柔軟に受け,返す必要があるということなんですね.蟻川システム,楽しみ過ぎです.

で,決定的な答を聞いてしまう前に,それと関係あるかないかは不明ですが,内心の自由についての私の考えをムリヤリ記しますので,ご批判いただければ幸いです.●内心の自由については,間接的制約の場合,人格破壊的な事態が現に生じるかその具体的危険があってはじめて違憲となる.剣道受講強制や(木村定跡で構成できる場合の)ピアノ伴奏強制が典型で,クェーカー教徒みたいなもの.(先生も指摘されていた点ですが)便宜上自由と称しつつ,本人にとって実は不自由●直接的制約は,絶対的にアウト.洗脳は当然として,
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謝罪(つづき1) (冥王星)
2011-11-09 21:44:59
字数制限にかかりましたか?よくわからないので,後半部分を再入力します.

●内心の自由については,間接的制約の場合,人格破壊的な事態が現に生じるかその具体的危険があってはじめて違憲となる.エホバの証人剣道受講強制や(木村定跡で構成できる場合の)君が代ピアノ伴奏が典型で,クェーカー教徒みたいな感じ.(先生も指摘されていた点ですが)便宜上自由と称しつつ,本人にとっては不自由に外ならないとこがポイント●直接的制約は,絶対的にアウト.洗脳は当然として,人格破壊を必ずしももたらさない謝罪広告の代替執行も違憲●ではなぜ,謝罪広告の代替執行が通常人格破壊まではもたらさないにもかかわらず,内心の自由の問題となるのか?思想に反する君が代歌わされるといって怒りまくる教員と,俺は悪いとは思っていないと怒鳴り散らすオヤジとが,社会的にそんなに変わるとは思えない(どちらも元気一杯・意気軒昂).にもかかわらず,謝罪広告は言説・思想の帰属を直接示してしまうから,違憲
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謝罪(つづき2) (冥王星)
2011-11-09 22:06:52
●翻って人格破壊的な事態を生じる場合がなぜ内心の自由の侵害となるのか?社会的には公権力に帰属する言説を強制されても,外面の強制に過ぎないのでは?それは自分にも自由にならない自分の心(超自我?!)に,たとえ強制されたとしても現にお前は剣道をした,輸血を受けた,マリア様の絵を踏みつけた,それはまさにお前のしたことだと宣告されるがゆえに,内心の自由の問題となるのである.つまり,ここでも問題も公権力による言説帰属状態のでっち上げ●自由にならない自分の心に対する「でっち上げ」が生じるのは稀であろうが,現に生じた場合には人格破壊をもたらす.だから違憲●元気一杯に君が代はんたーい,では帰属の問題は生じない(市民的不服従は内面の自由の問題とはならない)

以上,またも加速しました.申し訳ございません.謝罪広告判決の前では私も自由な存在ではないようです(私の超自我:謝罪する気は・・・)
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>冥王星様 (kimkimlr)
2011-11-10 15:10:14
コメントありがとうございます。

おそらく判例は、「間接的制約」という言葉を
権利制約がない、という意味でつかっています。

そういう意味で、不起立訴訟の文脈での
間接的云々は、猿払事件判決の間接的付随的云々とは
ちょっと違う言葉です。

ではでは、またお会いいたしましょう。
「気になったこと」コーナーもご覧ください。
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