いよいよ我慢のゴルフ論最終章です。
ナカヤマ博士にどうぞ惜しみない拍手をお願いいたします。
終章 我慢のゴルフを考える理由
「我慢、我慢のゴルフでした」、「今回のツアーは我慢の連続でした」等々、
プロゴルフに関する報道やインタビューでは事程左様に「我慢」という言葉が飛び交う
(特にMは不思議なくらい「我慢」という言葉を使う。
「自分はプロゴルファーではなく、プロ我慢屋である」とでも言いたげだ)。
ゴルファーらはどういうつもりでこの言葉を使うのか。
そして、そのことをわれわれが考える理由はなにか。
そうした考察をもって、本稿の締めくくりとしたい。
「我慢」という言葉を使うということ
わかりきっていることや、当たり前のことをわざわざ表明するということはどういうことか。
ここで1つ例を挙げたい。
ある力士がインタビューで「今日は相撲がとれた」と答えたとする。
力士が相撲をとるのは当たり前のことなので、この発言は、
本来ならわざわざ言う必要のない、無意味なものである。
しかし、この力士の前日の取り組みがひどい内容のものだったという事情がある場合にはどうか。
さらに、そうした事情の下で、今日は相撲がとれた」という表現に、
「昨日の取り組みのひどさは、とても相撲と呼べるものではなかった。
しかし、今日の取り組みは良かった」というメッセージをこめていたとしたらどうか。
その場合、「今日は相撲がとれた」という表現は、たちまち意味のあるものになる
(能條順一 『月下の力士』(民明書房)[1997] p.176)。
わかりきっていることや当たり前のことをわざわざ表明するということは、
本来は意味のないことなので行なわれないものである。
その表明が意味を持つとすれば、何らかの事情があったり、
その発言に何らかのメッセージがこめられたりしていると考えられる。
すべてのスポーツ選手が何らかの我慢をしているという前提において、
ゴルファーだけが「我慢」という言葉をしきりに使うのはなぜか。
ここで1つの仮説が成り立つ。
それは、ゴルファーが「われわれは他のスポーツ選手に比べて過剰な我慢を強いられているのだ」
というメッセージを発しているのではないかということである。
ゴルファーは過剰な我慢を強いられるか
ここでは、肉体的な負担と精神的な負担に分けて考えてみたい。
ゴルフには過剰な肉体的負担があるか。答えは「否」である。
50代、60代の人が一線で活躍していられるプロスポーツは、
ゴルフ以外にほとんど存在しないだろう 。
それでは、過剰な精神的負担があるか。
これも簡単には断定できない。すべてのスポーツ選手はな
んらかの精神的負担を強いられているはずだし、その負担の度合いを客観的に比べることはできない。
結局、他のスポーツに比べてゴルフだけが過剰な我慢を要求されるとはいえない。
我慢のゴルフ論とは
これまでの論述や学説から、我慢のゴルフとは、
ゴルフ特有の我慢すべきことがらを我慢することであるということ、
その「我慢すべきことがら」とは、我慢の程度において、
通常のスポーツ選手に当然に要求されるレベルであるということがわかる。
(Romeo, M.,The Divine Golf of Tragedy, Sym X Press [1990] p.247)
つまり、我慢のゴルフというものについて考察することは、
「ゴルファーは他のスポーツ選手に比べてものすごい我慢をしているというわけではないのに、
如何に自分が我慢しているかを強調したがるものだ」という1つの事実を浮かびあがらせる
(作戦変更説・途中棄権説・キャディ蹴とばし説いずれの立場によっても、
ゴルファーが我慢していることの内容は、
他のスポーツ選手を尻目に堂々と自慢できるほどのことではない。)。
我慢のゴルフ論は、
ゴルファーに向かって
「あなたがたは『我慢』という言葉をしきりに使うが、言っている意味が自分でわかっているのか。
自分が何を我慢しているのか理解しているのか」という
メッセージを突きつける。
ゴルフに限らず、プロスポーツの実況や解説、報道はその内容に意味のないものが多い
(よく見られるのが、プロ野球中継などの解説で「ここは1点でも多く得点しておきたいところです」
というものである。
当の選手らは、できることなら100点でも200点でも取りたいと思っているはずだというのに。
解説の名の下にこのような無駄な発言を許すあたり、スポーツ業界の懐の深さを感じずにはいられない)。
選手や報道関係者は、発言や記事の内容をよく考えて、意味のあるものにしなければならない。
我慢のゴルフ論はそのためのきっかけを与える。
ナカヤマ博士にどうぞ惜しみない拍手をお願いいたします。
終章 我慢のゴルフを考える理由
「我慢、我慢のゴルフでした」、「今回のツアーは我慢の連続でした」等々、
プロゴルフに関する報道やインタビューでは事程左様に「我慢」という言葉が飛び交う
(特にMは不思議なくらい「我慢」という言葉を使う。
「自分はプロゴルファーではなく、プロ我慢屋である」とでも言いたげだ)。
ゴルファーらはどういうつもりでこの言葉を使うのか。
そして、そのことをわれわれが考える理由はなにか。
そうした考察をもって、本稿の締めくくりとしたい。
「我慢」という言葉を使うということ
わかりきっていることや、当たり前のことをわざわざ表明するということはどういうことか。
ここで1つ例を挙げたい。
ある力士がインタビューで「今日は相撲がとれた」と答えたとする。
力士が相撲をとるのは当たり前のことなので、この発言は、
本来ならわざわざ言う必要のない、無意味なものである。
しかし、この力士の前日の取り組みがひどい内容のものだったという事情がある場合にはどうか。
さらに、そうした事情の下で、今日は相撲がとれた」という表現に、
「昨日の取り組みのひどさは、とても相撲と呼べるものではなかった。
しかし、今日の取り組みは良かった」というメッセージをこめていたとしたらどうか。
その場合、「今日は相撲がとれた」という表現は、たちまち意味のあるものになる
(能條順一 『月下の力士』(民明書房)[1997] p.176)。
わかりきっていることや当たり前のことをわざわざ表明するということは、
本来は意味のないことなので行なわれないものである。
その表明が意味を持つとすれば、何らかの事情があったり、
その発言に何らかのメッセージがこめられたりしていると考えられる。
すべてのスポーツ選手が何らかの我慢をしているという前提において、
ゴルファーだけが「我慢」という言葉をしきりに使うのはなぜか。
ここで1つの仮説が成り立つ。
それは、ゴルファーが「われわれは他のスポーツ選手に比べて過剰な我慢を強いられているのだ」
というメッセージを発しているのではないかということである。
ゴルファーは過剰な我慢を強いられるか
ここでは、肉体的な負担と精神的な負担に分けて考えてみたい。
ゴルフには過剰な肉体的負担があるか。答えは「否」である。
50代、60代の人が一線で活躍していられるプロスポーツは、
ゴルフ以外にほとんど存在しないだろう 。
それでは、過剰な精神的負担があるか。
これも簡単には断定できない。すべてのスポーツ選手はな
んらかの精神的負担を強いられているはずだし、その負担の度合いを客観的に比べることはできない。
結局、他のスポーツに比べてゴルフだけが過剰な我慢を要求されるとはいえない。
我慢のゴルフ論とは
これまでの論述や学説から、我慢のゴルフとは、
ゴルフ特有の我慢すべきことがらを我慢することであるということ、
その「我慢すべきことがら」とは、我慢の程度において、
通常のスポーツ選手に当然に要求されるレベルであるということがわかる。
(Romeo, M.,The Divine Golf of Tragedy, Sym X Press [1990] p.247)
つまり、我慢のゴルフというものについて考察することは、
「ゴルファーは他のスポーツ選手に比べてものすごい我慢をしているというわけではないのに、
如何に自分が我慢しているかを強調したがるものだ」という1つの事実を浮かびあがらせる
(作戦変更説・途中棄権説・キャディ蹴とばし説いずれの立場によっても、
ゴルファーが我慢していることの内容は、
他のスポーツ選手を尻目に堂々と自慢できるほどのことではない。)。
我慢のゴルフ論は、
ゴルファーに向かって
「あなたがたは『我慢』という言葉をしきりに使うが、言っている意味が自分でわかっているのか。
自分が何を我慢しているのか理解しているのか」という
メッセージを突きつける。
ゴルフに限らず、プロスポーツの実況や解説、報道はその内容に意味のないものが多い
(よく見られるのが、プロ野球中継などの解説で「ここは1点でも多く得点しておきたいところです」
というものである。
当の選手らは、できることなら100点でも200点でも取りたいと思っているはずだというのに。
解説の名の下にこのような無駄な発言を許すあたり、スポーツ業界の懐の深さを感じずにはいられない)。
選手や報道関係者は、発言や記事の内容をよく考えて、意味のあるものにしなければならない。
我慢のゴルフ論はそのためのきっかけを与える。
まえがきで予告された通り、「我慢のゴルフとは何か」という問いから始まったこの連載、最後は「我慢のゴルフ論にはどういう意味があるのか」に対する答えで終わりましたね。
とてもすっきりしました。
最後まで構成を考えてから書き始めるというのが、いかに大事かを改めて実感しました。
それにしても、末尾がスポーツ報道批判で終わるとは、思ってもみませんでした(笑)
私も論文を書くときは、一人でも多くの読者を喜ばせるようにしたいと思います。
さて、その手法が成功したかは、このコメントの主題とする所ではなく、ナカヤマ博士には、ぜひ、最近、課題となっている、「ヒーローインタビューにおける最高てす。」とは、何が最高なのか?
という問題にも、挑戦してもらいたいと思っています。