気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

与謝野晶子と中世の日本と世界を結ぶ海外貿易の拠点 ・・・ 堺

2008-03-22 00:41:53 | 気ままな旅
 3月16日(日)は快晴の天気であった。
 妻と二人で堺の歴史に触れたくなって再度訪れた。
 2月24日に堺市内にある大仙公園内の日本庭園を訪れて、堺の歴史に興味を持ち始めたのがきっかけとなった。
 私達は南海電車 和歌山線堺駅の近くに車を止め、駅構内にある観光案内所を訪ねた。
 女性係員の方とボランチアのおじさんが、私達が行きたいと思っている名所や旧跡を地図を表示しながら親切に教えてくれた。 
 ありがたかった。
 さらにおじさんが 「これから堺港にある旧灯台方面に出かけるので」 と言って、私達を案内してくれた。
 
まず最初に案内してくれたのが、同じ堺駅西口にある与謝野晶子の像である。

 与謝野晶子は、明治11年に堺市の和菓子屋の3女として生まれ、女学校時代から文学に親しみ、家業の帳簿を手伝いながら、源氏物語などのを読み漁り、歌や詩などをつくっていた。
 明治33年には、大阪に来ていた与謝野鉄幹と出会い、堺にある浜寺海岸で熱い恋に落ち、翌年には上京して結婚する。
 その後、晶子は明星派の中心的歌人として、ロマン的夢幻的作品を数多く発表し、近代短歌に大きな影響を与える。

                                 
                      与謝野晶子の像
   
 「前髪の みだれし額をまかせたる その夜の御胸 ああ熱かりし」

 この歌は明治34年に出版された「みだれ髪」で、晶子の夫、鉄幹へのあふれる愛と、青春のみずみずしさを歌い上げたものとして、
 当時の若い世代の圧倒的な支持を受けた作品であった。
 また、晶子は明治37年には、日露戦争で日本全体が戦意高揚している中で、女性の立場から、弟の身をあんじると共に、
反戦の感情を表した詩でもある 「君死にたもふことなかれ」 を発表している。
 
 ああ、弟よ、君を泣く、 君死にたもふことなかれ。末に生まれし君なれば、
 親の情けは勝りしも、親は刀をにぎらせて 人を殺せと教へしや。
 人を殺して死ねよとて、二十四までを育てしや。

 堺の街のあきびとの 老舗を誇るあるじにて、親の名を継ぐ君なれば、
 君死にたもふことなかれ。 旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ。
 君は知らじな、あきびとの 家のおきてになかりけり。

 君死にたもふことなかれ。すめらみことは、戦いに おほみずからは出でまさね、
 互いに人の血を流し、獣の道に死ねよとは、死ぬるを人の誉れとは、
 おおみこころの深ければ もとより如何で思されん。

 ああ、弟よ、戦いに 君死にたもふことなかれ。過ぎにし秋を父君に
 おくれたまえる母君は 嘆きのなかに、いたましく、我子を召され、家を守り、
 安しとき聞ける大御代も 母の白髪は増さりぬる。 
 
 暖簾のかげに伏して泣く あえかに若き新妻を 君忘れるや、思へるや、
 十月も添はで別れたる 少女ごころを思ひみよ、 この世ひとりの君ならで、
 ああまた誰をたのむべき。君死にたまふことなかれ。
  
 観光を終えて帰宅した後、与謝野晶子のことを知りたくなって調べてみると、このような歌や詩に再度出会った。
 私の若かりし頃が思い出されてくる。
 何年たっても与謝野晶子の歌や詩は、私の心に訴えてくる大きなものを感じる、すばらしい作品である。
  
           
               周辺は公園として整備されている現在の堺港

 近代女流歌人の与謝野晶子像を見学した後、ボランテイアガイドのおじさんは、ハットとマットをまとった南蛮人の像が立つ、南蛮橋を渡って堺港へ向かった。
 
 向かう途中には堺事件(明治初年警護の土佐侍によるフランス人襲撃事件)と天誅組上陸の碑の前に案内してくれた。
 この項に関しては後日に触れたいと思う。維新の混乱期に、お互いの言葉も分からずに発生した、大変痛ましい事件であった。
 
 国道26号線の橋の下をくぐると、茶系のタイル張りで、きれいな公園として整備された小さな堺港があった。
 右の奥には大きな乙女の像が立ち、堺の街並みを見つめている。
 そして手前には、白い船体を見せる、真新しいヨットが数十艘係留されている。
 この港が中世に大繁栄した日本の表玄関だった面影は見当たらない。
 もっと大きく賑わっていたはずである。

 ガイドのおじさんによると、江戸時代に大和川の付け替え工事があって、その大和川から流れてくる大量の土砂によって、堺港は狭まれていった。
 付け替え前の大和川は奈良県から河内長野をえて、蛇行しながら今の大阪市を囲むように西に流れ、淀川方面まで流れていたらしい。
 当時の大和川は流域で度々洪水を起こし、大きな災害をもたらしていた。
 困った流域住民達は、大和川の付け替え工事を繰り返し幕府に陳情していた。
 大和川の付け替え工事は現在の松原市付近から、出来る限りの最短距離で大阪湾に注ぐように、行なわれたとのことであった。
 
 戦国時代の堺は、唐明船の発着場になったことから、南蛮貿易、キリスト教宣教師の来日などによって海外交流拠点となる。
 当時の堺は、世界でもめずらしい環濠都市を形成し、船舶の往来や荷役などがスムーズに出来る貿易都市、自由都市として、繁栄をほしいいままにしていた。
 
 堺の豪商の一人でもある千利休が茶の湯(わび茶)を完成させるなど、様々な文化も花開き、訪れた宣教師は、堺の繁栄ぶりを見て「東洋のベニス」と表現するほどだった。
その後、江戸時代に改修が行なわれ、現在の旧堺港の原形が造られた。

さらにガイドのおじさんに、きれいに整備された公園内を、案内されながら進んで行った。
 高架になっている高速道路の下に木造で出来た白い小さな灯台があった。


                   
           堺港のシンボル乙女の像      堺港の旧灯台
        
          
              明治10年に灯火された日本最古の洋式木造灯台

 この灯台は、明治15年9月15日に点灯された、日本最古の洋式木造灯台で、1968年までの100年間、港を行き交う船や、大阪湾を航行する船舶の、航路標識ら、水先案内人として活躍する。
 白ペイントの六角錘型の洋式木造灯台で、お雇い外国人の設計と指導があったが、予算的には大変厳しく、多くの町衆からの拠出金と、技術を結集して築造された民間灯台であった。
 堺旧灯台の構造は、海底から9mの花崗岩で出来た、石積み基台があって、その上に、13mのヒノキ材で造られた木製六角錘の灯塔部と、灯室部から成る灯台である。
 石積み基台の形状も、永年の激しい風波に耐えられるように工夫されて、このような形状になったとのことであった。
  
                    
                世界の貿易港としての面影が漂う南蛮像

  このハットとマント姿の巨大な南蛮人像は、堺駅近くの南蛮橋の上に立っている。 
          
          
                大浜公園内にある蘇鉄山山頂
 
 ガイドのおじさんに案内されて訪れた、大浜公園内にある日本一低い山「蘇鉄山」
 最初に、日本一低い山は天保山では・・・との私の質問に対して 
 ガイドのおじさんは、蘇鉄山は一等三角点として標高は6.8mの、日本一低い山であるが、
 天保山は一等三角点の山ではないとのことでした。

 さらにガイドのおじさんは、南海堺駅近くにある神明神社で「蘇鉄山登山認定証」を発行してくれるとのことで、神社まで案内してくれ、
 私と妻の二人分の登山認定証を発行してもらった。 (発行No239、240)
 一時間30分位の見学時間であったが、ガイドさんの案内で多くのことを理解することが出来、私も妻も大変満足な一日であった。
 観光協会の皆様、ガイドのおじさん ほんとにありがとうございました。




 




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