気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

堺の明日を象徴する日本庭園(大仙公園)のおもむき と 千利休・つばき展

2008-02-28 21:15:34 | 気ままな旅
 前回は大仙公園の日本庭園について紹介いたしましたが、今回は前回に表示しました”わび””さび”の世界から千利休と、日本庭園休憩所で開催中の、つばき展についてふれていきたいと思います。
 千利休は1522年(大永2年)堺に生まれました。当時の堺は「黄金の町」として世界から注目を集め、戦国時代には堺港が中国との貿易(遣明船)の発着港になったのをきっかけに、国際都市として繁栄を極め、多くの豪商が誕生しました。 千利休も豪商の一人で、若年から茶の湯を楽しみ、17歳で茶の湯の改革にも取り組んでいました。
 自宅近くにある南宋寺にも参禅し、その本山京都大徳寺とも親交を深め、「わび茶」を完成さしました。
 また、利休は草庵茶室の創出者でもあります。それまでは4畳半を最小としていた茶室を、3畳、2畳の茶室を採り入れ、躙り口(潜り)や下地窓、壁、五(四)尺床などを工夫しています。
 中でも、特筆されるべきものは「窓」を採用したことで、利休は茶室を一旦壁で囲い、そこに必要に応じて窓を開けるという手法を取り入れました。
 これは「囲い」の誕生で、その後の日本建築に大きな影響を及ばしています。
 また、茶室のある周りの露地にも気をくばり、単なる茶室への通路に過ぎなかった部分を、茶の空間としてとらえ、もてなしの空間として創出しています。
 このことにより茶の湯は、初めて客として茶室を訪れ、共に茶を喫して退出するまで、全てを 「一期一会」 の時間とする総合文化(芸術)を完成さしたといえます。

 利休は織田信長、豊臣秀吉の二人の天下人に仕えましたが、信長の死後、天下人となった秀吉との間に、茶道に対しての考え方が、全くと言っていいほど違ってきておりました。
 秀吉は派手な 「黄金の茶室」を好んでいたのに対して、利休は、木と土と素朴な草庵を理想としていました。
 さらに、利休は 「一度茶室に入れば、人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中では平等になる」と考えています。
 
利休は、たとえ相手が、天下人の秀吉であっても、自分の茶の道に対する己の美学を、一歩も譲ることはありませんでした。たとえ死すとも と言っています。
 利休は70歳の時、秀吉の怒りにふれても、自分の茶の道に対しての、信念を曲げることがなく、その為に生涯を閉じています。
 現在でも”茶聖”としての千利休は、千家流の始祖として引き継がれています。
       
「つばき展」
 現在も日本庭園正面の、総檜つくりの休憩所では、つばき展を開催中です。
 展示中のつばきは、全て肥後つばきで、「肥後長寿楽」「日の丸」「肥後満月」「満載楽」というつばきです。
 
つばき以外にも肥後には、幾つかの銘花がありますが、観賞するには、まず「芯を見よ」と言われています。
 芯は心であり、肥後人の心だそうです。
 肥後つばきの芯も梅心と言われ、できばえの判断基準のひとつになっています。
 
 花全体的には、花芯の優美さ、一重一文字咲の花形の整正さ、花芯の清純さが求められています。

 また、日本国土に分布する野生のツバキは、ヤブツバキ(北海道を除く日本全土に分布)、ユキツバキ(北陸、東北地方山地の多雪地帯に分布)ユキバタツバキ(日本海側の山麓部に分布)、リンゴツバキ(屋久島の標高500m~1300mに分布)
の4種があって、日本産のツバキの園芸品種は、全てこれらが母体となっているようです。
 改良されたツバキの園芸品種は、1200種類以上あると言われています。
 展示されているツバキは、どれもしっかりした芯に、見事な花を咲かせています。


               
            純和風総檜つくり、銅版葺きで建てられた休憩所

          
                  休憩所裏側に広がる日本庭園

          
      樹齢何年か!見事な太い芯、満開に咲いて玄関前に展示されている梅の盆栽

               
                  休憩所館内で開催されるつばき展

                    
                    白い清純な花輪をつけたつばき

                
           水鉢の上に色採りどりの花輪を浮かせ情緒を誘うつばき
    
          
              白つばきにピンクの模様の入った可憐なつばき
               
                    
               しっかりとしたピンクの花輪をつけた見事なつばき

堺の明日を象徴する日本庭園(大仙公園)のおもむき - ①

2008-02-26 23:40:33 | 気ままな旅
 2008年2月24日(日)は快晴であったが風が強く少し寒かった。
 ブラジルから来た従姉妹を伴って大仙公園日本庭園を訪れた。
 私にとっては一年ぶりの訪れである。
 この公園は四季そぞれれに変化があり、日本庭園独特の漂うたたずまいがある。
 ここ堺市は、その昔(15~17世紀)は、日本と世界を結ぶ海外貿易港として、また、国内では例のない、自冶権を持った、自由都市を形成して大いに繁栄しました。
 今でも受け継がれるている茶道・三味線・小唄など、日本の伝統文化をつくり、育てたのも堺の商人たちでした。
 日本庭園は、古代の歴史を秘めた古墳群、仁徳・履中稜を両端に、緑に囲まれた大仙公園の中に、新しい国際都市堺の、市制100周年を記念して生まれた築山林泉回遊式庭園です。
 
             
         築山・池泉・流水の造園技術と日本家屋の建築に枠を集めて造る
    
          
      大海に見立てた池泉の河口の島にかかる二つの橋(印月橋と映波橋=右)

 堺は遠い昔から、世界に向かって開かれていた先端都市でした。
 明(中国)との貿易で重要な役割を果たしていた会合衆(納屋衆)の集会所や、連歌などを楽しんでいたと思われる「流杯亭」。
 豪商の強力な経済力とはうらはらな ”わび” ”さび” を漂わせたたたずまい。
 織田信長や豊臣秀吉の時代に大活躍した、千利休も堺の豪商人の出身でした。
 千利休は茶の湯に取り組み、「わび茶」の完成や茶草庵茶室の創出者でもある。
 また、侘び、寂び、などは後の俳諧につながり、芭風俳諧の根本精神にもなっている。
 この日本庭園の見立ては、総檜つくり、銅板葺きの休憩所が、海外貿易港の堺の街並みを表現、前の池泉が大海の東シナ海を、池の対岸が中国(明)を、そして、二つの橋まで流れてくる、せせらぎの川やあづまやなどが、日本の心の故郷を、表現しているように思えてくる。
 この景観は、私達に落ち着きと安らぎを与えてくれているようだ。
 そして、せせらぎの川の上流部には、桃源台の広場や流杯亭があって、それを牡丹などの花が取り囲んでいる。
 ここは日本(堺)と明(中国)などの国際都市との友好を願って造られているように思える。
 この庭園を見ていると、一つ一つに奥行きがあり、堺の永い歴史を感じさしてくれる、すばらしい庭園である。
 
ブラジルから初めて日本に来た従姉妹も、何もかもブラジルと違う日本の風景、
いつまでもあきることなく、楽しそうに眺めている。
 特に今日は、ブラジルにはない、日本の庭園を訪れて嬉しそうであった。

                    
          総檜づくり・銅版葺きの休憩所から傘亭・二つの橋方向を望む

          
        紅梅が満開の杜若池周辺、初夏は花菖蒲などの花が風情をさそう

              
           心静かなひと時を過ごせるあずまや青苔亭からの紅梅

           
                  色鮮やかなに咲く満開の紅梅
   
           
          あずまや知春亭、床面には花崗岩を加工した曲水の流杯亭がある

外国人のお店と真冬の車中泊 (日本昭和村・里山の湯=岐阜県)

2008-02-24 22:24:12 | 気ままな旅
 
 今回は私の顧客でも、私が協力者でもある外国人が経営するお店や、真冬の車中泊体験などを紹介いたします。 
 2月19日は、今までの寒さも和らぎ暖かい上天気となった。
 午後からは、岐阜県美濃加茂市にある、外国人のお店と、日本昭和村での車中泊を予定し、愛車エステイマを運転して行った。
 本当は午前中に出発したかったが、仕事の関係で午後の出発となった。
 走行ルートは大阪→藤井寺→名阪国道→東名阪→都市高速→小牧→R41→美濃加茂市内のルートである。
 名阪国道で集中工事による大渋滞で、一旦一般道に迂回するなどの状況に直面したが、そのほかは極めて順調なドライブであった。
 美濃加茂市内の外国人のお店には、5時30分ごろ到着する。所要時間は3時間30分であった。 
 この外国人のお店は、ブラジル人夫婦が経営する店で、レストランに洋品店を併設して経営している。
 この店のオーナーは38歳の女性で、日本人を父に、欧米系人を母に持ち、片言の日本語で話してくる。夫は純然たる欧米系のブラジル人で、会社に勤めながら店を手伝っている。
 私達との関係は3年前からで、私の娘がバリ島で経営、製作するリゾートウエアーや、アクセサリーを取り扱うようになってからである。
 日本のことが良く分からない彼女は、私に何かと相談してくる。
 その度に私は親身になって相談にのり、丁寧に対応している。
 相談内容は、役所への提出書類の通訳分であったり、車でのトラブルであったりの様々であるが、このお店を借りる時に、家主と交渉したり、賃貸契約の保証人にもなっている。
 人間的にも、すごく頑張りやさんで正直である。何とか日本で成功して、永住する足固めを築いていってほしいと思う。
 
11月28日付けの中日新聞岐阜版には、日本で永住する覚悟で頑張る外国人として、娘さんと二人の写真付で紹介されている。 
 
それに、3月3日もしくは10日の月曜日に朝日テレビ系(名古屋は11チャンネル)の、17時35分からのニュース番組で、永住を決意して頑張る外国人の内容で、放映される予定になっている。
 テレビ局が取材に訪れた折に、たまたま私も同席しており、日本語があまり話せない彼女に代わって、説明したりしていた。
 私の妻も彼女がTY局のインタビューを受けた折には、通訳としてカメラの前に一緒に立っていた。
 もしかすると一緒に放映されるかも知れません。
 都合のいい方は是非見てやってください。

 話しは前後するが19日(火)美濃加茂市内の、このお店での話し合いが終了したのは、午後8時30分をまわっていた。
 今夜の夕食の買い物を、近くのスーパーで済ませ、道の駅「日本昭和村」へ向かった。
          
                    日本昭和村の案内図

                 
                      かいこの家の居間

               
                 中村玉緒「たまおの家」の館内
     
           
                 それぞれのテーマパークを結ぶどんぐり号

 日本昭和村は昭和30年代の、里山の風景を再現したテーマパークを併設。パンや豆腐などの食品の手作り体験や、染色や陶芸などのクラフト体験もできる。(入場料=800円)
 また、「昭和銭湯里山の湯=600円(土日祝=700円)」も併設されている。
 到着後は早速、体を癒してくれるこの湯に入った。
 まるで鎌倉時代の武家の屋敷を思わせるような造りになっている。
 山沿いの沢に建てられてあり、建物の外側には大きな廊下がある、廊下の外側には露天風呂が横と前面に配置して作られている。
露天風呂の前と横の庭には、原生林を思わせるような大きな樹木があり、真っ黒な闇の中の樹木を、下から光線を放つライトが、所々に設置され、照らしている。
 露天風呂に浸りながらの、この光景は、一日の疲れも癒してくれると共に、心の落ち着きと安らぎを与えてくれる、すばらしい眺めの湯である。
 
 入浴後には道の駅の大駐車場に移動して遅い夕食が始まった。
 時間も10時になっている。空気が澄んでいるのか星空も明るく、明日も上天気を約束してくれているようだ。 
 夕食は下部の写真のように運転席と助手席の間に特性の板をはめ込み、その上に食材を並べて食事をする。夫婦二人分の食事テーブルとしては十分の大きさである。
 カーナビのテレビを見ながらの食事も、我が家の居間と全く変わらず、落ち着いた雰囲気にさしてくれる。
 
 食事後はすぐに就寝の準備に取り掛かった。
 特に今回は冬場用として、車の全ガラス面に、プラボード(ダンボール紙のように内面に空気層があるプラスチックボード)を予め、それぞれのガラス面の形状にあわせて加工した物を、貼り付けていった。
 その上にカーテンをかけていく。
 助手席後部のドアーのみを開閉するようにする。このドアーの面はさらに、開けたと時の冷気の進入を防ぐ為に、厚手の長いカーテンを設置している。
 合板で加工したベットにはジュータンのような敷物2枚とマットを敷いて、その上に毛布を包み込んだ寝袋で睡眠をとる。
 外気温は2~3度位と思われるが、寒さは全く感じなかった。
 勿論、睡眠時はエンジンoffの状態だ。
 下部の写真を参考にしてください。 

           
  ①セカンドシートの二人用座席のみを倒してベットにする。
   凹凸があると熟睡が出来ない為、一枚物のベニヤ板を加工してベットをにしている。
   その上に寝具をセットして寝ます。気温によっては毛布などの枚数の調整が必要。 

        
     
  ②車中の食事テーブルは運転席と助手席の間に板を挟み込んで設置する。
   フロントガラス面には同じ大きさに加工したプラボードを内側に張っている。  
   
           
                 運転席と助手席の間のテ-ブル 
  
          
                   愛車トヨタエステイマ         


 下記は以前に投稿(北海道ドライブ旅行車中泊の楽しさ(追記))した内容に修正を加え投稿しています。
      
1.車中泊する理由を述べますと
  ①ホテルや旅館などを予約すると、天気が悪くても予定通りの行動しかできなくなります。
   また、事前に宿泊先を調査して予約する手間が省けます。
  ②車中泊は天気次第で時間にとらわれずに自由に行動することが出来ます。
  ③明日の日程によっては行き先の近くまで行って泊まる事も可能で行動範囲が広がります。
  ④非常に経済的です。 
  ⑤その他
       
 2.愛車エステイマの設備や常備している物は以下の通りです。
  ①冬場は寒さ対策も必要になります。私達の場合は睡眠時はどうしてもエンジンを切らないと振動などで寝れなくなります。
 そこで内部のカーテンだけでなく、ガラス面は全面プラスチック製ダンボールのように裏表面の間に空気層のある白色のプラボード(大きさ=1800Cm*90Cm*0.2CM)を、それぞれのガラスの大きさに加工して取り付けています。
 それに夜中等に出入りする助手席後ろドアー部分に、冷気の進入を少しでも防ぐ為の、ロングカーテンを設置しています。
 これで寒さ対策は十分です
  ②車内の保温や睡眠中など、外から見えない用に厚生地のカーテンを四方に装着しています。
  ③クーラーBOX
  ④お湯を沸かす為のカセットコンロや登山用のコンロ。
  ⑤鍋、マホービン、懐中電灯、家庭用に一般的に使う食事用の備品一式。
  ⑥車外で食事する時に使うコンパクトなテーブルや椅子。
  ⑦パソコン、デジタルカメラ、ラジオ等(撮影写真はPCに取り込んでいく)
  ⑧その他
 私の車にはこのほかにカーナビや携帯電話、それに、バッテリー充電用のコンセントを装着しています。
 雨の日や寒い時は車内でカーナビのテレビを見ながら食事をします。
 これは、お茶の間に早変わりしたようで、独特の落ち着きを感じます。   

 車中泊する場所は道の駅をほとんど利用しています。
 道の駅はトイレなど、日常生活に欠かせない24時間利用可能な設備が整っており、安心して利用することが出来ます。
 特に北海道の道の駅は、建設されて新しい物が多く、設備的にも、機能的にもすばらしいものが多く見受けられました。

 また、最近はどこの道の駅に行っても、車中泊する多くの車が見かけられます。
 大型のキャンピングカーやワゴン車、軽ワゴン車、一般のセダンの車など、様々な車を利用して観光や車中泊をを楽しんでいるようです。

 また、車中泊していると、それとなく挨拶から始る人との出会いも多く、お互いの車を見せたり、見せてもらったりで、様々な工夫をこらしていることが伺えます。
 お互いの話の中で気付くことは、旅行日程も気ままに旅する方が多く、滞在期間や行き先なども、その日の天気次第で、決めているような人がほとんどでした。

 毎日入りたいお風呂ですが、旅先では温泉が多く、どこに行っても困ることはありません。入浴料も経済的な温泉が多いです。
 
皆様の中で、日程的に制約を受ける人は別としても、自由に行動できる方は一度、車中泊でのドライブ旅行を計画してみてはいかがですか!

 最初は戸惑いもあるかも知れませんが、少し慣れれば、これほど気楽で楽しい旅はありません。
 
 


てつのくじら館(海上自衛隊呉資料館)を訪ねて - 広島県呉市

2008-02-17 16:43:02 | 気ままな旅
 大和ミュージアムの見学を終えた私達は、隣接して建てられたいた「てつのくじら館=海上自衛隊呉資料館」を訪れた。
 てつのくじら館の前には、実際に使われていた、本物の潜水艦が玄関前の上空に展示されている。
     
                   
           「てつのくじら館」前の潜水艦「あきしお」排水量=2250トン
この空中に浮かぶ潜水艦は驚きであった。
 排水量は2250トン、長さが76mもある潜水艦で、非常に大きく見える。
 この資料館は無料で入館できる。
   1階  海上自衛隊の歴史
   2階  掃海艇の活躍
   3階  潜水艦の活躍や展示の潜水艦「あきしお」の艦内体験
 資料館はこのような内容で展示されている。

 2階では海に囲まれた海洋国家、日本を守る海上自衛隊員の活動から、掃海のあゆみについて、
 特に戦後は、たくさんの機雷によって、恐怖化した日本の海を、危険も顧みずに機雷除去活動をする隊員や、掃海具などを紹介している。
 3階では潜水艦乗組員の生活や、実物の潜水艦に乗艦して艦長室や、士官室等の艦内構造、潜望鏡などを、触ったりして見学することも出きる。
 これは一般人の我々にとっては、日頃目にするこことが出来ない貴重な体験だと思う。

 資料館の内容を見ていると、海上自衛隊の歴史や、潜水艦の歩みが良くわかる。
 私も潜水艦の構造や歴史は、今まで全く無知といっていいほど知識がなかった。
今回この館を訪れて、ある程度のことが理解できたと思う。
 潜水艦のコーナーでまず最初に目に入ったのは「Know Yowr Bort= 潜水艦の乗組員の第一歩は、己の艦を、徹底的に理解することから始る」 の説明文である。
 これは任務にあたっている時は、何が起こるか分からない、生と死が表裏一体で、万が一の時は、艦に対して躊躇することなく最善の対応策を、とっていくことが要求される。その為に潜水艦の乗組員には、強い精神力と、高い訓練が求められているように思われた。

 この機会に潜水艦について、知りたくなって少し調査をしてみた。
 まず最初に潜水艦の主な歴史は(世界)どうだろうか!
   ①1776年にアメリカ人が2つのスクリューで動く手動の潜水艦を開発
   ②1936年ドイツのUボート(水中ボートの略)を開発、デイーゼル機関と電気推進機関が動力であったが、125km進むごとに浮上する必要性があった。
   ③この間には英国、伊国、仏国、独国などでも潜水艦に対して、戦略的重要性が高まり、新型潜水艦の導入を図る為の開発を争っていた。 
   ④第二次大戦後の1954年 アメリカの原子力潜水艦ノーテイラス号が登場している。

 日本国内では
   ①明治37年 ポーランドから潜水艇 5隻が分解された状態で輸入され、翌年に組み立てが完成し、1号艇が竣工した。
 残り4隻も次々と竣工し潜水艦隊が編成された。
   ②明治39年3月には6号、7号の国産潜水艇が完成する。
 その後も英国、仏国、伊国などから新しい潜水艦を購入して、徹底的な調査研究が行なわれ、日本の建造技術を高めていった。
  
 ※第一次大戦(1914~1918)後の5ケ国(日、米、英、仏、伊)の海軍軍備会議(ワシントン開催)で主力艦保有量が日本は米、英の60%に制限される。
 これは日本海軍が、いかなる戦略をもっても勝算はないと判断していた。
 
 この会議で主力戦艦の保有量を制限された日本海軍は、保有量の制限されてない潜水艦を開発し、戦略的な劣勢を補う方針を打ち出して、様々な潜水艦の開発に力を入れていった。
 大正8年には日本海軍独自で設計、計画されて建造した潜水艦「海中型」が竣工。
 大正13年には海大1型の大型潜水艦が竣工。
 昭和9年には海大6型が竣工、速度も23ノットの高速高速艦であった。
 甲、乙、丙型と呼ばれる機種別に分類された艦も開発された。
 さらに改良に改良をを加えた、海大7型と呼ばれる高速艦が開発された。

 この時には潜水艦3隻で、一隊を組む艦隊が編成されている。
 旗艦の潜水艦には、巡船潜3型と呼ばれる艦と、甲型潜水艦があてられ、司令部設備と、強力な無線通信設備を備えて潜隊を指揮していた。
 巡潜型は、独国の潜水艦を基本に作られた艦である。

 昭和10年代に入って、日本海軍は主機関でも、輸入した外国機関に改良に改良を加え、大出力のデイーゼル機関を開発。それにともない付随する精密工業、化学工業、潜望鏡、水密測距儀、二次電池なども国内で優秀なものを、生産出きるようになっていた。
 こうして国内での生産設備が整った日本海軍は、先進国の米国、英国、仏国などが、驚嘆する潜水艦を次々と竣工させ、日本海軍は世界最高と謳われる潜水艦隊を編成した。
 さらに戦時中には、世界で類例のない潜水空母を完成さした。
 この潜水空母は搭載機を3機格納できる大きさを持つ艦で、排水量=3530トンである。

 しかし、戦局の悪化にともない、特別攻撃隊用潜水艇の海竜や回天などが開発され、尊い若い隊員の命が散っていって終戦を迎えた。

終戦後は海上自衛隊潜水艦は様々な任務を果たしてきた。

第1期(昭和30年~40年) 水上部隊よる対戦訓練の標的をつとめた時代
 「くろしお」初代「おやしお」「はやしお」「なつしお」「あさしお」などの6隻が任務にあたった。

第2期(昭和41~平成2年)キューバ危機の米ソが軍拡競争期で、核弾頭搭載原潜の配備が進められ、相手に発見されにくい、静かで深く潜る潜水艦の開発を争った時代。

第3期(平成3年~  )米ソ冷戦後、潜水艦の静粛か進み、探知が困難となった。
 その為に水上部隊が再び任務を担うようになった。
 世界の政治情勢も変わり、戦術的な目標も多様化し、米国は陸上の軍事施設やテロに備えた監視を強めている。

 日本も周辺海域での哨戒を主に、あらゆる事態に対応できる柔軟な能力確保に努めている。

          
         展示の潜水艦「あきしお」全長=76.2m、速力=20ノット 乗員=75名
                 
         潜水艦の内部の構造 「己の艦を徹底的に知る」ことから始る
           
          
                 隊員の服装と哨戒具等の装備品
  
          
                     掃海具 S-4機雷処分具

                        
           機雷除去用 「はつしま」型搭載 20mm多銃身機銃JT61 
 
           
                各国で使われている機雷除去用ロボット 

                            
                      艦載対潜無人へリコプター

           
              呉港ターミナルより艦船停泊、造船所方向を望む

大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館) -広島県呉市

2008-02-14 23:24:19 | 気ままな旅
 今回は広島県呉市にある博物館「大和ミュージアム」を訪れました。
 この博物館は呉市が明治以降の日本の近代化に多く携わった、呉の歴史と造船、鉄鋼をはじめとする各種の科学技術を、当時の状況に触れながら紹介しています。
 そして、日本の将来を担う子供達に、科学技術のすばらしさや、未来に夢と希望を抱いていただき、この博物館が地域発展の為に、寄与することを目的として造られました。

                  
               大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)

 戦艦大和が建造された呉の歴史をみていきたいと思います。
呉には明治政府の方針により、
 明治22年(1889年)に鎮守府(ちんじゅふ=各軍港における海軍軍政諸般の事務を行なった役所)と、
明治36年、呉海軍工廠(かいぐんこうしょう=海軍直属の軍需品工場)が設置され、戦前には当時世界一といわれた戦艦「大和」が建造されました。

           
          戦艦大和 満載排水量7万2800トン、全長=263m、幅=38.9m
 
          
           戦艦大和斜め上部 主砲46cm 射程距離=4万m   
                   
          
                戦艦大和 前上部方向        
           
           
                   戦艦大和 後方の部分  

 ペリー艦隊の来航をきっかけに、200年以上続いた徳川幕府による鎖国政策は終わり、西洋列強の著しく発達した技術や、それを基にして造られた軍事力を、目にした日本は、危機感を抱き、西洋の進んだ技術の導入を図りました。
 中でも海軍は、近代的な船の建造に力を入れ、日本の各地に鎮守府を設置していきました。
 呉でも建造を国産化するために、呉海軍工廠が設立され、呉の街は日本一の技術を支える工員や水兵達で賑わいました。
 海軍工廠では、質の高い造船技術の開発にも力を入れ、それを支える人材育成も図られていました。
 それに、海軍航空機の開発も行なわれ、零式艦上戦闘機などが開発されました。
 こうした永年の日本の建造技術の集大成として、史上最強の戦艦「大和」が設計されました。
 戦艦「大和」は構造がが極めて複雑で、予定通りに工事を完成させるためには、
緻密な計画が必要で、建造も機密に細心の注意が払われていました。
 戦艦「大和」は国力面おいて、アメリカの ”量”的優位性に対して、
日本が”質”で対抗しようとした艦であり、当時の最新技術の結晶と言えるものでした。
 戦艦「大和」を建造した技術は、戦後日本の復興と高度経済成長を支え、現代に引き継がれています。

                 
                  戦艦大和側面の主要部分

                     
              戦艦大和後部 推進=4ケ所 最大速力=27.46ノット

                           
                         戦艦大和前底部
   
 戦艦「大和」は、昭和16年(1941年)12月16日に進水後は、日本連合艦隊の旗艦として、様々な海軍作戦を指揮しました。しかし、世界の、戦場の主役は、戦艦から航空機へと移り替わり、戦争終局時に沖縄へ出撃した戦艦「大和」は、昭和20年4月7日、3332名の乗組員と共に東シナ海へ沈んでいきました。
 そして、昭和20年8月6日には広島に、3日後には長崎に原爆が投下され、日本は敗戦を迎えました。
 戦後の呉市は、平和産業の港湾都市として復興を目指し、世界的な造船の街として名を馳せ、科学、技術、製造文化等の多方面での発展を見ました。
 戦艦「大和」で培われた技術は、造船にとどまらず、自動車、家電などに幅広く応用され、各分野で戦後の日本を支えてきました。
 
 

江田島で触れ合った人たちとの思い出

2008-02-14 20:58:50 | 気ままな旅
 11月27日 旧海軍兵学校の見学を終えて、私達は今日の宿泊先をどこにするかを、決める情報収集のために、近くにある小用港のターミナルに行った。
 ターミナルで、女店員に聞くと江田島には、道の駅はないとのことだった。
 温泉は能美にあるとのことで、場所を親切に教えてくれた。
 早速、能美の温泉へ向かった。時間は6時を回り辺りは暗くなっている。
能海の温泉には20分ほどで着いた。
 国民宿舎「能美海上ロッジ」がすぐ側にあり、その前に「シーサイド温泉のうみ」があった。
 600円の入浴料をを払って、2階にある温泉で入浴した。露天風呂もあった。
 なかなかいい温泉である。
 入浴後に、近くに車中泊できるような施設はないか!と訪ねていると、子供連れの入浴客のおばさんが、それなら「さくら」があるといって、親切に教えてくれた。
 おまけに籠に入っていた、みかんを2個プレゼントしてくれる。
 そして「また、この能美へ来てほしい」といわれた。
 地方に住む人は親切な方が多い。
 旅には、こういったことが時々あり、私たちの旅を一層楽しくしてくれる。
 カーナビで場所を確認して「さくらへ」向かった。
 途中のスーパーで夕食の買い物を済ませ、さくらへ着いたのは8時近くになっていた。
 車中でのテレビを見ながらの遅い夕食が始まった。
 クーラーボックスから冷たい缶ビールを取り出し、温泉で癒した後に、妻と二人で飲む味がたまらなくおいしかった。
 程なく夕食をを済ませた。
 車中泊している目の前の湾から、さざ波の音を聞きながら熟睡していった。
 
 11月28日の朝、今日も天気はよさそうだ。
 ”今朝も暖かい 朝食は外でしょう”
 私たちのいる場所は、小高い山に囲まれた湾のすぐ側にいる。
 私たちが車中泊した「さくら」は正式的には
 「江田島市交流促進センター ふれあいプラザ さくら」で大原湾に面している。
 地元の人は、道の駅です。といっていたが、地図には表示されていなかった。
 朝食は外でしよう。
 早速、車の中からコンパクトなテーブルと椅子を用意して、二人の朝食が始まった。
 ブラジルコーヒーも出来上がっている。
 朝食をしている所に、おじさんが通りかかり、話しかけてくる。
 コーヒーをおじさんに勧めた。
 おじさんは「おいしい」といって飲んでくれた。
 話しが弾みだした。
 このおじさんは、幼少時代をこの島で過ごし、大阪で定年まで働いた後、故郷の この島に帰ってきたとのこと、この近辺の海も幼小時代とは、様変わりして、海が痩せ、魚もあまり獲れないと、さびしそうに語っていたことが印象的であった。
 この後に私達は、今日の予定である、呉市の大和ミュージアムへ向かった。
 早瀬大橋と音戸大橋を経由するルートである。 

          
      平清盛が800年前に開削した音戸の瀬戸、幅90m、一日550隻が通過する

              
         江田島交流促進センター「ふらあいプラザさくら」からの逆光の海

旧海軍兵学校(海上自衛隊幹部候補生学校)を訪ねて・・・江田島(広島県)

2008-02-13 12:00:00 | 気ままな旅
私たちは呉の「歴史の見える丘」や「海上自衛隊の艦船が停泊する港」の見学を終え、江田島にある旧海軍兵学校に向かった。
 呉からは音戸の瀬戸で有名な音戸大橋を経由して倉橋島に渡り、倉橋島からは早瀬大橋を経由して江田島へと走って行った。一時間ほどで旧海軍兵学校の正門前に到着した。
 ところが、正門前でここが旧海軍兵学校で見学できる場所かどうか! 確認しょうとしたところ、いきなり 「閉門」 の看板が下ろされた。
 時間も丁度午後3時00分になっていた。「本日の見学時間は過ぎました」「明日着てください」とのこと。
 私は、再度交渉して何とか見学さしてほしい旨の懇願をした。
若い水兵のような隊員は、「しばらくお待ちください」 といって上司と相談してくれた。
 許可が下りたらしい。明日の予定を考えるとありがたかった。
 この時には、校内を20人ほどの見学者が訪れ、係りの者が引率中とのこと、若い隊員が「引率中のグループまで私が案内します」とのことで、私たち二人を連れて行ってくれた。
 程なく私たちもグループに合流し旧海軍兵学校を見学してまわった。

 旧海軍兵学校(現海上自衛隊幹部候補生学校)は明治21年東京築地から広島県にある江田島に移築、その間に多数の海軍士官を養成、終戦による昭和和20年12月1日に幕を閉じた。
 帝国大学や陸軍士官学校と並ぶ、日本のハイレベルの学校であった。
 国際的に見ても海軍兵学校は、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスと共に世界3大兵学校として、その名を世界にはせていた。
 
 見学通路を進んでいると、玄関がギリシャの神殿造りを思いおこす大講堂の建物や、赤いレンガの建物が目に入ってくる。

赤いレンガの建物が旧海軍兵学校の庁舎で、現在は幹部候補生学校庁舎である。
 この赤いレンガの建物は、日清戦争前年の明治26年にイギリスの建築家の設計、管理で造られたものであるが、一世紀を得た今日でも、建物の外観や色彩などの光沢が全く変わってないのに驚く。すごくきれいで、とても100年前に出来た建物とは思われない。
 赤いレンガの建物の隣には、教育参考館があるが改修工事中で見学は出来なかった、その展示物は隣の建物に仮移転して展示したあった。

展示室の中は写真撮影は一切禁止されており脱帽での見学が求められた。
 この展示室には日本海軍にまつわる様々な方の写真や遺書、遺品が展示されている。
 日露戦争での日本海海戦で、ロシアのバルテイック艦隊と戦って大勝利に導いた、東郷元帥や、太平洋戦争で活躍した山本五十六元帥の遺髪を初め、各層にわたる海軍関係者の遺書や遺品などが展示されていた。
 特に私の心に強く感銘を与えたのは、第二次世界大戦において
 「日本の勝利を固く信じ、愛する父と母、兄弟姉妹が、そして日本中の人々が、
幸せになれるようにと願って」 特攻隊員を志願して自らの若い命を、国の為にささげて散っていった特攻隊員の、遺書や遺品を目にしている時であった。
 同じ見学者の方々にも涙声や、すすり泣く人、目に涙を一杯浮かべながら見学する人などがいた。
私もこんなに若くして散っていった直筆の遺書などを見ていると、私の心にも深い感銘を受けずにはいられなかった。
 そして、散りゆくこの若者達の、最後の言葉の中に 「また、靖国で合おう」 と書いている方が多く見うけられた。
 私は見学していて、今の日本の繁栄も、この人たちの犠牲の上にたっていることを、決して忘れてはならないと思った。
 そして、靖国神社に対しても、外国の言うことは別にして、国家の為に、尊い命をささげた大切な方々を、お祀りしていることを深く認識して、真摯に接していかなければならないと思った。
  
 写真の中での特殊潜航艇(回天特攻隊)も、敗戦濃厚な太平洋戦争末期に開発された。
 この艦も 国または愛する人々を守る為に、回天(人間が操縦して敵艦に体当たりする魚雷)特別特攻隊員として出撃し、尊い命を散らして行った若者達の記録である。このことも、同じように私達は、決して忘れてはならないと思った。

 私は恥ずかしながらも、何の予備知識ももたずに訪れた旧海軍兵学校、今回 ここを訪れることが出来て、本当に良かったと思った。
 私達はいつの時代においても、正しい歴史を認識し、今後の世代に活かしていかなければならなない。これは、日本国民として必然的なことである。
 また、世の人のため、国のため、愛する人々の幸せを祈って尊い命を捧げて、散っていった若者達が、この国にいたことを誇りに思い、決して忘れてはならないと思った。
 
 全ての見学を終えた私達は 若くして特攻隊員として尊い命を捧げていった方々、国の為に戦って亡くなられた方々、そして、全ての戦争犠牲者に対して、心よりのご冥福をお祈りしながら旧海軍兵学校を後にした。
 
旧海軍兵学校(海上自衛隊第1術科学校)のHP
http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/

          
             旧海軍兵学校(赤レンガ館=幹部候補生学校庁舎)

          
            旧海軍兵学校(赤レンガ館=幹部候補生学校庁舎)

           
          大講堂(大正6年に国会議事堂と同じ倉橋島御影石で建設)

                      
                   いつまでも美しい赤レンガ館の廊下

   改修工事中の教育参考館(平成20年秋に完了予定)

          
         特殊潜航艇「海竜」230隻建造されたが一度も使われなかった
          
           
                特殊潜航艇「右は甲標的、左奥は海竜」

          
                       戦艦「陸奥の主砲」

「歴史の見える丘と港」 = 呉市 (広島県)

2008-02-11 21:43:35 | 気ままな旅
 11月27日(火)広島平和記念資料館の見学を終えた私達は、次の目的地である呉市の大和ミュウジアムへ向かった。約1時間ほどで到着した。
 ところが、大和ミュウジアムの火曜日は、あいにく休館日であった。
仕方なく、昔から興味を持っていた、呉の街並みを見たいと思い、高台から見下ろせそうな場所へ車を走らせて行った。
 高台はすぐに見つかった。眼下に造船所や呉港が見渡される。
 その場所に、75歳前後のおじさんが、一人で造船所方向を見つめている姿が目にはいった。
 話しかけてみると、造船所や大和にまつわることを親切に教えてくれる。
 また、「この見学を終えたら、江田島の旧海軍兵学校がいいから行きなさい」と勧めてくれた。
 さらに、おじさんはすぐ近くの「歴史の見える丘」を案内してくれ、色々と説明してくれた。大変ありがたかった。おじさんありがとう。

「歴史の見える丘」は戦艦大和を建造した旧呉海軍工廠を眼下にを望むことが出来る地である。丘のなかには掲載写真の戦艦大和の主塔が両サイドに砲弾を添えて建てられていた。

現在の呉市は軍港都市から平和産業都市へ変貌をはかり、大和を建造した造船所では、軍艦の変わりに大型タンカーが建造さられていた。
 ここで建造した戦艦大和は海の底に沈んだが、大和を造った、当時世界一ともいわれる造船技術は、世界でも類を見ないほどの大型タンカー建造に活かされているようである。

 
          
                    戦艦大和を造った造船所

          
                   戦艦大和を造った造船所と呉市街

          
                     戦艦大和と航空母艦の模型
        
                    
                       戦艦大和塔と砲弾

                     
                          戦艦大和塔
     
                
                呉港に停泊する海上自衛隊の潜水艦

          
                  呉港に停泊する海上自衛隊の艦船

          
                呉港から大和の造られた造船所方向を望む

☆ 原爆の惨劇を伝える・・・広島平和記念公園 

2008-02-08 20:41:50 | 気ままな旅
 1945年8月6日の朝、原爆ドームの上空600mで原子爆弾が爆発。
 死傷者の数は24万人を越えると言われている。
 原爆の惨劇のつめ痕を残し、1996年に世界文化遺産に登録された原爆ドーム。
 絶えることがなく、常に花が供えられる原爆死没者慰霊碑。
 私達は死没者の冥福を心から祈りながら「広島平和記念資料館」へ足を運んだ。
 東館、本館に分かれ、原爆の悲惨さと平和の尊さをあらためて思い知らされた。
 掲載した写真は資料館に掲示されているものを撮影いたしました。
 (資料館の中ではフラッシュ撮影が禁止されている為に不鮮明になりました)
 ご覧の写真のように人類や、地球上の全てのものを破壊する核の恐ろしさ、悲惨さをこの資料館をはじめて訪れて実感する。
 そして、あらためて24万人もの死没者の方々のご冥福と、核廃絶と世界の恒久平和を祈りながら資料館を後にする。
 ご覧になってない方は是非一度広島を訪れてはいかがですか!

広島平和記念資料館 http://www.pcf.city.hiroshima.jp/ 

          
                   平和記念資料館前の嵐の母子像

          
                      広島原爆ドーム

           
                    原爆投下前の爆心地の街並み

          
               赤い玉(上空600m)の位置で原子爆弾が爆発

          
                     投下直後の爆心地 
 
          
                投下直後の道路に横たわる人や戸惑う人々

           
                投下直後の負傷者を手当てする人と女子学生

             
                 投下直後の広島市街のパネル写真

          
           平和記念資料館から原爆死没者慰霊碑、原爆ドームを望む
  
                         
             原爆でなくなった子供達の霊を慰める「原爆の子の像」

                     
                           原爆慰霊碑

    

近所の愛犬サリーとの散歩

2008-02-06 20:10:06 | 今日の出来事
 今日の夕方、私達は夫婦二人で散歩に出かけた。
 ところがすぐ近くの愛犬サりーの家の前にさしかかると、サリーが私達に気付き、連れて行ってほしいーといわんばかりに数回飛び上がって訴えてくる。
 家の人の了解を得て、サリーと散歩に行くことになった。
 散歩コースは私達がいつも行く和田山に登り、永楽ダムを経由して帰るコースである。(約7km)
 喜ぶサリー、最初は私達に何回か、飛び掛かり喜びのしぐさをする。
 団地からの階段を下りた、高架橋の下の道で、首輪からロープをはずしてやると、道の周りの草花の臭いを盛んにかぎながら進んでいく。
 新池の横の道を通り、さらに進むと和田山(標高=171m)への、木の登り階段にさしかかった。
 頂上までは300段近くある長い階段だ。
 サリーは常に私達の前を行ったり来たりしている、私達が気になるのか、少し登った所から、私達をじっと見つめている。
 サリーに私達が追いつくと、また離れ、上から見つめている。
 こんなことを何回か繰り返しながら頂上にたどり着いた。
 頂上からの展望もすばらしいが、サリーが私達に対するしぐさも愛らしい。
 頂上からは反対方向のふれあいセンターへおりて行った。
 ふれあいセンターからは道路を通り永楽ダムへ行く。
 永楽ダム周辺も最近になって新たに整備された公園になっている。
 大阪みどり100選にも選ばれている。
 ダムサイトは桜の木が多く、シーズンには花見客でにぎ合う、市民憩いの公園でもある。
 サリーは疲れも見せず、臭いをかぎながら進んで行く。
 決して遠くへ行ったり、勝手なことをしない、大変しつけの良い賢い犬である。
 途中から小雨も振り出し帰宅する頃には薄暗くなっていた。

                 
               階段の上からじっと私達を見つめるサリー

          
               和田山頂上で愛らしいしぐさのサリー

          
               和田山頂上からふれあいセンターと別所池望む

           
                   和田山頂上から新池望む