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気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

ブラジル人夫婦と再度訪れた宮島

2008-05-29 18:37:37 | 気ままな旅

 5月11日(日)午前11時頃、観光用の小型バスに乗車して、阪神高速湾岸線を走行して、大阪市北区にあるホテルへ、セミナー出席の為に向かっていた。
 明日は岐阜県に住むブラジル人夫婦が、大阪の自宅へ訪れてくる予定である。
 ところが、この夫婦より緊急の連絡が入り、明日から3日間、店も休業し、広島に行きたく、私達の車で案内してほしいとのことであった。
 あまりにも急な話なので、最初は断ろうと思っていたが、どうしても行きたい
とのことで、家内と相談した結果、この夫婦は日本語がほとんど分からず、日本での旅行も、したことがないことや、ビジネスの関係もあることから、今回は同行して行くことに決めた。
 
 5月12日(月)の午前中に、広島市内の広島ユースホステルに、4名2泊の予約をした。
 このYH(ユースホステル)は昨年11月の、広島旅行の折に利用した、馴染みのYHである。

 昼の12時、愛車エステイマで、大阪の自宅を家内と二人出発する。
 岐阜県に住むブラジル人夫婦とは、新神戸駅(新幹線)で落ち合う約束である。
 13時20分に新神戸駅に到着し、ほどなくして、ブラジル人夫婦と落ち合った。
 
この夫婦は、岐阜から名古屋駅経由で、新幹線に乗車して、新神戸駅まで来たとのことであった。 岐阜県美濃加茂市で、ブチックとレストランを経営している。
 日本に来て8年ほどになるが、新幹線には初めて乗ったとのことであった、開口一番「そんなに速くなかった」であった。
 また、夫婦では始めての国内旅行で、楽しそうなルンルン気分のようであった。
 
 新神戸駅で落ち合ってから、早速、私達は阪神高速道路から第二神明道路へ入り、信号機の少ない国道2号線バイパスを、兵庫県竜野市まで走行して行った。
 そこからは、山陽自動車道 竜野ICまでは3km位の距離である。
 山陽自動車道は広島ICまで走行する予定である。 
 途中のSAでの休憩を挟みながら、5時頃には広島ICに到着、広島YHまでも広島ICから20分ほどで到着した。
 
 昨年、11月にも来た、馴染みのYHで、なかなかの美人で愛想の良いフロントの女性が出迎えてくれる。
 フロントで2部屋2泊で、4人分の料金(19520円朝食付)を支払った。
 やはりYHは2泊で 5000円/人 と極めて安く、何よりも魅力的である。
 外人夫婦もこの値段にはびっくり、私達にとっても、YHを利用し始めると、やめられなくなる。
 YHは基本的には、洗面用具などはなく、自分で持参したり、寝具のシーツなどの取替えは、自分達でしなくてはならない。
 勿論、バストイレや洗面所は室外に設置されていて、多少の不便さを感じるが、慣れてしまえば、全く気にかからなくなる。
 
今日は夕食の予約はしていないため、広島市内の中心部で、食事をすることにしていた。
 YHに到着してすぐに入浴、全員で公共交通機関「アストラムライン」 を利用して、市内の中心部へ出かけていった。
 「アストラムライン=地下鉄」の終点の 本通り駅で下車し、地上の紙屋町商店街アーケードの、入り口付近の居酒屋に決めて入っていった。
 ブラジル人夫婦にとって、居酒屋に入るのは、初めてとのことであった。
 感じの良い店である。
 50人~60人位は入れそうな店で、可愛い制服を身にまとった若い女性が応対に出てくる。
 私達を窓側の、眼下にアーケードを通行する人たちが、良く見える席に案内してくれた。 
 メニューは豊富だ、夫婦も大喜びで、自分達の好きそうな肉料理に目がいっている。
 隣の奥さんはダイエットを気にしてか、サラダ料理が目にとまっているようだ。 私達は魚料理が目にとまる。
 各々が好きな料理を発注して、ビールで乾杯だ。
 居酒屋の良さは、まず第一にメニューが肉や魚、野菜などと豊富で、経済的であることだ。
 ほどなくして注文した料理も出揃い、居酒屋のめずらしそうな料理を、おいしそうに食べる姿が印象的である。
 しかし よく食べるのには驚く、オーダーも3回をこえていた。
 お酒も、ビールから大吟醸の冷酒に変わり、日本のお酒が、こんなにおいしいのは初めてといって、大満足そうであった。
 2時間ほど過ごしたあと、近辺の市街を散策してYHへ帰っていった。

         
            居酒屋を初めて訪れたブラジル人夫婦

 入店前に、居酒屋玄関にある水槽の中を、泳ぎまわる魚を見て喜ぶ夫婦
     
         
                    干潮の大鳥居

 5月13日(火)今日の天気予報は曇り時々雨である。午前8時にYHを出発、広島市中心部を通り、2号線から宮島へのルートである。
 YHを出発して中心部を通りかかった時に猛烈な雨が降り始めた。
 通勤途中の人たちで、ごったがやしている中を、傘もささず、ずぶ濡れになりながら走って行く若い女性の姿があった。
 可愛そうに、風邪でもひかなければと思う光景である。
 車は中心部から、2号線バイパスに入り、宮島方面へ走行して行く。
 雨も走行していくに従って小降りになっていく。
 宮島フェリー乗り場に到着した頃には、雨は完全に上がっていた。

 宮島口に到着後に、愛車エステイマを近くの駐車場に止め、宮島に向かうフェリ-に乗って行った。
 今回の宮島厳島神社は、干潮で大鳥居の下まで、歩いていくことが出来る。
大鳥居の下では、数人の修学旅行生が記念写真をとったりして戯れている。
 ブラジル夫婦も厳島神社をバックに記念の撮影をする。 
  
         
                  干潮の砂浜からの厳島神社  

           
             宮島ロープウエー    広場からこの階段を登り頂上へ向かう 

 潮の引いた大鳥居や厳島神社を、砂浜から歩いて見学した私達は、神社の参拝を後にして、弥山(海抜=530m)をロープウエーで昇る事にした。
 ロープウェー乗り場は神社から歩いて15分程の所にある。
 ロープウェー頂上の獅子岩駅に到着して、眼下に広がる瀬戸内海のすばらしい眼望を満喫した後、弥山頂上を目指して歩いて行った。
 山頂への遊歩道は広い道だ。15分程登ると弥山本堂と霊火堂の広場に出る。
 広場から石段を登ると三鬼堂があり、つづいて文殊堂。巨岩が次々と現れて、石段を登ると、弥山山頂の広場に到着した。
 山頂には展望台があり、瀬戸内海の大パノラマを楽しむことができた。
           
                 弥山頂上から獅子岩駅と瀬戸内海の景観 

          
                  弥山頂上でのブラジル人夫妻 

          
               厳島神社の雅かで鮮やかな朱色の東回廊 
 
 弥山への観光を終えた私達は、厳島神社を訪れた。
 厳島神社のシンボルである大鳥居の周辺は、先ほどの干潮から潮が少しずつ満ちてきており、今は歩いていくことは出来なくなっている。
 神社の入り口で拝観料300円を支払って、雅やかで鮮やかな朱色の東回廊に足を踏み入れる。
 何回来ても、厳粛なたたずまいの神社回廊の朱色の美しさはあきることがない。
 ここから望む大鳥居の構図も見事な美しさである。
 私はこうした厳粛な神社の雰囲気から拝殿に進み、本殿で参拝する。 
 平舞台の周辺では多くの観光客で賑わっている。
 平舞台の西側からの、山の上に赤く聳え立つ五重の塔と神社の景色が美しい。なんともいえない構図である。
 厳島神社第一の撮影ポイントであると思われる。
 多くの方が、記念撮影のシャッターを盛んにきっている。
 ほどなくして厳島神社の見学を終えた私達は、近くの水族館を見学して、フェリーに乗船、下船後には愛車をとめてある駐車場に向かって行った。
 
          
                   干潮時の神社回廊  

           
                   本殿からの大鳥居を望む

           
                   神社火焼前(ひたさき)から大鳥居をバックに 

            
           五重塔をバックにブラジル夫妻 修学旅行中の女子学生と五重の塔 
           厳島神社内のこの場所からの撮影が第一ポイントと思われる

                                                    
                              五重塔

           
                満ちてくる潮の厳島神社を背景の夫妻

            
              帰りのフェリー内で女子学生と記念撮影の夫妻

 宮島からのフエリーから下船している折に、同じYHで宿泊するフランス人に出会った。今日の宿泊を確認した後、愛車に乗って一緒にYUまで帰ることになった。
 このフランス人の方は年齢が61歳で、一人で世界中を旅行しているとのこと、
日本も各地を旅行して明日は九州へ行って、観光した後、韓国に渡り、五月末には帰国するとのことであった。
 YHに帰って、入浴を済ました後、私達は市内の中心部で、夕食をすることに決めていた。
 このフイランス人にも声をかけたところ、快く快諾してくれた。
 今日は5人で出かけ、紙屋町の居酒屋に入った。
 フランス人も居酒屋は初めてとのこと、最初に日本酒の冷酒で乾杯する。
 お酒は好きそうである。乾杯のお酒をおいしそうに飲む姿が印象的であった。
 会話の言葉は、スペイン語、ポルトガル語、英語、日本語など独特の言葉が交じり合った会話になっているが、全員が楽しそうな笑顔を、絶やさない夕食のひと時であった。

 5月14日(水)YHで朝食を済ました後、昨夜も一緒だったフランス人も、一緒に市内にある、広島平和記念資料館を訪れた。
 
 昭和20年8月6日 原爆ドーム上空600mの空中で投下された原爆が爆発する。

 平和記念資料館は、原爆の凄惨さ、平和の尊さを後世の人たちに、伝える為につくられた資料館である。
 
 資料館では原爆直後の広島市内の写真や模型、凄惨な状況などが展示されている。   

          
                原爆死没者慰霊碑の前で
  
 原爆投下によって、24万人以上の方々が、生命を奪われたと言われている。
平和公園の中央にある碑には、花束が捧げられ、訪れるて慰霊する人も後を絶たない。

           
         広島平和記念資料館の前で私達に同行していたフランス人旅行者

          
              「原爆の子の像」の前広場で慰霊する子供達

 原爆で亡くなった全ての子供の慰霊を慰めようと建てられた慰霊碑である。
 多くの小学生が「原爆の子の像」前の広場で慰霊する光景が見られた。

          
             偶然に出会ったブラジル女性とフランス男性と一緒に 

         
                     原爆ドームの前で

          
                   満開のバラと原爆ドーム

 午前中で平和公園を訪れた私達は、見学も終え、フランス人も次の予定地、九州福岡へ旅立ち、私共も大阪方面の帰路についた。
 来た道の山陽自動車道を走行し、神戸駅までブラジル人夫婦を送り、私どもも大阪の家路に着いた。
          

  

四天王寺本坊庭園 「極楽浄土の庭」

2008-05-08 15:31:13 | 気ままな旅
 この庭は、中国の僧侶である善導が「散善義」で説いた「ニ河白道」(にかわびゃくどう)の喩話(たとえばなし)を基に改修、造園されています。
 「ニ河白道」の喩話は以下のごとくです。
 
「ニ河」は水の河と火の河を現し、水の河は人生の順境にある時の貧(とん=むさぼること)であり、火の河は人生の逆光にある時の瞋(シン=怒り恨むこと)であります。
 このニつの河は生き地獄であり、二つの河に挟まれた「白道」を、極楽浄土への道(仏法)と喩えているのです。
 ニつの河の真ん中に、極楽浄土に至る道が細く延びていますが、我々凡俗な者には、この道が見えません。
 しかし、極楽浄土への往生(死後、極楽に生まれること)を真に願う者には見え、「白道」を進むと極楽浄土へ達し、往生できるという教えなのです。

 極楽浄土は西方十万億土を過ぎた彼方にある、阿弥陀如来のおられる荘厳な美と歓喜の世界のことをいいます。
 そこは色とりどりの花や、かぐわしい香り、たえなる音楽等で満たされている楽園で、一切の苦しみがなく、楽しいことのみあるので、極楽浄土といわれています。
 極楽浄土に往生すれば、まのあたりに阿弥陀如来の説法を聞くことができ、たちまちに悟りを得て、仏となることができるとされています。
 古来四天王寺の西門石鳥居は、極楽浄土の東門の中心に当たるといわれており、
日本における彼岸信仰発祥の地となっています。
 このことから、この庭が極楽浄土を想起するに最もふさわしい庭園であります。


 最初に、この庭に入ると、入り口で釈迦三尊(お釈迦様=釈迦牟尼如来、文殊菩薩=仏の知恵を象徴する、普賢菩薩=仏の慈悲を象徴する)にみたてた庭石に迎えられます。
 ここで、人々は「さあ。極楽浄土を目指しなさい」 という釈迦三尊の励ましの声を聞き、前に進みます。
 前方には、二つの滝(釈迦の滝、薬師の滝)の水の流れで、池(瑠璃光の池)が広がり、遊歩道(白道)が通っています。

 遊歩道の右側は、貪りを象徴する「水の河」、
 左側は瞋(いか)りを象徴する「火の河」で、
 この二つの河が地獄を表わしています。

 遊歩道(白道)はさらに延びて、阿弥陀三尊にみたてた庭石が浮かぶ池(極楽池)に至ります。
 
人々は極楽浄土に到達し、季節の花が咲き乱れる庭園の美しさと相俟って、極楽浄土へ往生したかのような感動を味わうことができるでしょう。


          
                       水の河と釈迦の滝

    釈迦の滝の上近くに釈迦三尊石にみたてた庭石が私達を迎えてくれる。

                    
                釈迦の滝            河と釈迦の滝

          
                  瑠璃光の池に通じる火の河(瞋)

 瑠璃光(るりこう)は東方、十恒河沙(ごうがしゃ=インドガンジス河の砂のことで、無数を表わす単位)にある浄瑠璃世界(きわめて清浄な世界)におられる薬師瑠璃光如来(薬師如来)のことで、人々の心を癒し、苦悩を救う仏とされる。

          
                       瑠璃光の池と満開の桜

          
                      瑠璃光の池と薬師の滝

             
              白道と水の河(貪欲)後方は青竜亭と臨池亭

 この水の河(貧欲)の向こう側には火の河(瞋)が流れている、両河のに挟まれた極楽浄土への道が白道(仏法)である。

          
                      水の河(貪欲) 
             
          
                       和松庵の茶室

 松下電器創業者、松下幸之助により寄進された茶室。
 和松庵の「和」は聖徳太子の「17条憲法」第1条の「和を以って貴しとなす」より命名されたもので
 「松」は松下幸之助を表わしている。
          
          
           極楽池に浮かぶ阿弥陀三尊石(後方の石)と本坊の建物

          
          極楽池と阿弥陀三尊石、後方は方丈の建物(重要文化財)

           
                    極楽池と八角亭                                   

 明治36年(1903年)大阪で開催された、第5回内国勧業博覧会場内に建てられた、ルネサンス風の、八角洋風木造建築物である。
 当時のパビリオンで、現存している唯一の貴重な建造物であり、登録有形文化財に指定されている。

          
                  補陀落(ふだらく)の庭(観音浄土)

 南方海上にあるといわれる補陀落山(ポータラカ)のことで、観世音菩薩の霊場とされる。
 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の「大唐西域記」では南インドの海岸にあるとされる。

          
                 庭園内で桜の木の下におり立っている鳩

            
                   庭園内で満開に咲く紅白の桜  

 満開の桜の咲く庭園の見学を終え、私はあらためて日本庭園の美しさ、奥深さを感じる。
 それに、大阪市内にこのような庭園があることも、全く知らず驚きであった。
 私は若かりし頃より庭園が好きで、時々京都などの寺院の境内に造られた庭園の鑑賞に訪れている。
 特に印象深かったのは、竜安寺の石庭や銀閣寺の庭園であった。
 日本の庭園は、人間の心の原点を表わし、禅修行の中心的存在になっている。
 人間は誰しも、仕事や人間関係などにおいて、心の疲れを感じる時がある。
 そのような時に、静かに境内の片隅で庭園を眺めていると、自然と心が落ち着き、明日への希望と勇気を与えてくれているように感じる。 
 この極楽浄土のて庭園は、これをさらに突っ込み、善と悪、天国と地獄を表わし、人々の心の迷いや妄想を断ち切って、全ての人々が思いやりのある心豊かな幸せな国を築いていこうと呼びかけているようである。


度重なる災害に見舞われてきた四天王寺

2008-05-05 21:21:41 | 気ままな旅
 4月1日(火)幼馴染の友達と合う為に、天王寺駅で下車して、妻と二人で四天王寺へ向かった。
 戦国の歴史ドラマを見ていると、四天王寺が度々でてくる。
 それでいて、近くに住んでいながら、四天王寺へは行ったこともない人も意外と多い。
 私もその一人であった。
 最近、特に四天王寺に対して興味をもったのは、テレビで世界最古の企業、金剛組についての放映を目にしてからだった。
 この金剛組は、神社仏閣建築を古くから手がける宮大工の集団で、四天王寺の創建当時からの、関わりが強かったようだ。
 私の好きな言葉に「温故知新」という言葉がある。
 最近の世相で感じることは、過去の歴史や伝統などに、価値を見出さずに、新しいことのみを、取り入れようとしている人たちが、意外と多いように感じる。
 私は歴史の好きな人間である。
 多くの所を旅していると、その旅先の歴史を知りたくなる。
 これは人情として当然かもしれない。
 その地域の、文化や風習、風土なども一緒に知りたくなって、帰宅後にインターネットなどで調べることも多い。
 調べていると、大きな歴史の流れの中での関わりを、新たに知って驚くこともある。
 自分の無恥さを知ったり、逆に悦びに変わったりもする。
 自分達に関わる歴史や文化・伝統などを無くして、新しい考え方や、その効率のことのみを知っても、それは無味乾燥しているように思える。
 我々の先人達が一生懸命に生きてきた時代で、現代の我々から観て、結果的に良いもの、悪いものなど色々な歴史や考え方が、世間では語られている。

 どんな歴史や考え方であっても、結果だけでに判断基準をおかず、携わった時代の世相やプロセス・風習などを知って、歴史や考え方を、判断していくことが大切だと思う。
 こういった歴史の意味で、私は「温故知新」という言葉が大好きで、常にこの言葉を胸の中におきながら、偉大な先人達の知恵や、現代社会の進んだ科学、その恩恵など様々なことを考えて、現在を活きていきたいと思っている。

 さて、4月1日の四天王寺は、桜が満開に咲き、訪れた人たちの情緒を盛り上げている。
 私達は、下車した天王寺駅構内のスーパーで、昼食の材料を買いこみ、12時に幼馴染の友達と会って、四天王寺構内にある、無料の休憩施設で賑やかな昼食をとった。
 昼食後に四天王寺境内を三人で見学する。

 四天王寺は、蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における、本格的な仏教寺院として、最古のものである。
 創建は、今から1400年前の、推古天皇の時代に、聖徳太子によって、建立されたと伝えられている。
 建築様式も南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線で並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つである。
 
 四天王寺の宗派は、もと天台宗に属していたが、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として、既存仏教の諸宗派にこだわらない、全仏教的な和宗総本山として、1946年に独立宣言を出している。

 四天王寺は度重なる火災や自然災害の為に、貴重な文化財である、古い建築や美術工芸品など多数を消失している
 平安時代(836年)には落雷で、960年には火災で主要伽藍(がらん=寺院、僧院)を消失。
 近世以降も、1576年には、石山本願寺攻めの兵火で消失。
 豊臣秀吉によって再建去れるが、1614年の大坂冬の陣で消失、その後、江戸幕府の援助によって再建される。
 幕末の1801年には落雷によって消失し、1812年に再建される。
 この時の伽藍は、1934年の室戸台風で、五重塔と中門が倒壊、金堂も大被害を受ける。
 五重の塔は、1939年に再建されるが、数年後の1945年に大阪大空襲により、他の伽藍と共に消失。
 現在の中心伽藍は、第二次世界大戦後の1957年~1963年に、鉄筋コンクリート造にて、再建されたものである。

 聖徳太子の創建に関わる四天王寺は、このような度重なる火災や、自然災害などに見舞われながらも、多くの人々から厚い信仰を集めてきている。
 平安時代以降も太子信仰のメッカとして、四天王寺縁起として伝承されている。
 後醍醐天皇や平安から鎌倉時代の、最澄、真言宗の空海、融通念仏の良忍、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などが四天王寺に参籠(さんろう=神社や寺に祈願のために日数を定めてこもること) したことも知られている。
 
四天王寺境内の主な建物を見学した私達は、同じ四天王寺境内にあり、美しい庭で知られている「極楽浄土の庭」にやってきた。 (拝観料=300円)
         
          
                   四天王寺境内案内図

               
                  四天王寺中心伽藍の建物がある
           
            
                五重の塔      境内からの五重塔などの中伽藍 

           
                   極楽門からの五重塔 

           
                     亀の池と六時堂  
                                     
          
        石舞台 日本三舞台の一つ(住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)

           
                 北鐘堂           びんずる尊者

           
           亀遊嶋弁天堂(ご真言を唱えれば ー知恵、福徳円満!)
          
          
                        東大門