気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

中山道の馬籠宿・妻籠宿・濁河温泉(混浴)の旅と道中感激の対面

2015-10-04 16:17:50 | 気ままな旅

2015年7月12日(日)朝6時00分頃 近所に住む夫婦が車でやって来る。

今日は岐阜県と長野県の県境にはさまれた秘境「濁後温泉」と「新穂高温泉」への2泊3日の旅に出る予定である。

ここのところ台風の影響で雨天の日が多くなっている。

今回の旅行も台風の進路によっては、中止せざるを得ないと思っていたが、幸いにして進路がはずれ、旅行先の天気予報も良好のようであった。

今回、同行する夫婦とは、10年来の交友で日頃から何かとお世話になった夫婦で、気心もお互いに知り尽くしている。

この夫婦が自宅にやって来て、休憩や荷物の積み込みなどを終えると、私の愛車、プリウスα(7人乗り)で、6時30分頃4人で自宅を出発する。

南大阪の自宅から阪和自動車道水間ICに入り、松原JCを走行、西名阪道から名阪道に入って行く。

名阪道も車は渋滞もなく、スムーズに走行している。 ほどなくして4人を乗せた愛車は東名阪道に入り、御在所SA(三重県)に近づいて来た。

出発して、2時間近くたち、時間も8時30分頃に達している。 

朝食も摂らずに出発したことから,御在所SAで食事と休憩を摂ることにした。

 

最初の休憩をとった東名阪道 御在所(ございしょ=三重県)SA(サービスエリア)

御在所SAに到着するとすぐにで4人で麺類の朝食を摂る。このSAも近年改装され、近代的な意匠を施している。 改装前とは様変わりして、魅力ある商品が展示販売されている。

30分ほど休憩したあと出発し、名古屋方面に走行して行く。

愛車は、程なくして木曽三川の揖斐川・長良川の河川橋を渡ると、すぐに木曽川にかかっていく。

ゆったりと流れる大河、木曽川を渡ると田園風景の中に、工場や住居の建物が散乱している光景が目に入ってくる。

こうした車窓からの光景を楽しんでいると、愛車は名古屋西ICに入り、そのまま、名古屋環状自動車道を走行して行く。

その時、わたくしが同乗している女性に、「そういえば、この近くに子供さんが住んでいるのでわ! 電話してあげたら・・」と話をする。

すると、女性はすぐに息子さんに電話をかける。 「電話口の息子さんが、子供も今、一緒にいるので、是非、会いたい」 とのことだった。

私が、「現在、名古屋環状自動車道を走っている。10分後には、一宮南ICに到着できます。」 との話をする。

こうして、一宮南IC近くのお店で、女性の息子さんと、女性の孫娘に初めて会うことになった。

同乗している夫婦と孫は、色々な理由が会ってか、まだ、一度も合ったことがなかった。

同乗の女性は、「孫に会いたい、合いたい」と切望しながらも、今日まで会えることはなかった。

女性には、思いもがけない孫に、突然、会えることになって、大きな感激が湧いてきているようであった。

車がレストランに到着すると、すぐに、女性は孫の乗っている車に向かって行く。 

この孫娘は、おばあちゃんを見つけると、初対面のような感覚はなく、すぐに抱きついてきたようであった。 

突然に訪れた、念願であった息子さんの孫に初めて対面し感激し、大喜びをするおばあちゃん。

女性は、常時、孫娘を膝に乗せ、食事などの世話をする。孫もおばあちゃんの居心地がいいのか離れることはなかった。

偶然の出会えた孫との楽しいひと時も、旅の予定から40分程しか時間の余裕はなかった。

「孫と別れた後も、会えるとは夢にも思ってなくて、会えてほんとによかった」と

車中の中で感慨深く話をする姿が印象的であった。

私たちは国道22号から近くにある一宮ICに入り、名神・東名高速道路を走行し、中央道を中津川方面に走行して行く。

中央高速道も、渋滞もなくスムーズに走行し、快適なドライブが続いている。

やがて、かつて私が住んでいた岐阜県多治見市の、懐かしい丘陵地の風景が見えてくる。

さらに走行し、車窓からは土岐市、瑞浪市の風景に代わって行く。

中央高速道の車窓からの風景を楽し見ながら走行していると、愛車は間もなく中津川ICに入って行く。

中津川ICから国道19号に入り、長野方面に10分程走行し、江戸時代に宿場町として栄え、

その名残を今日まで伝えている馬籠(まごめ)・妻籠(つまご)方面に入り口に差し掛かってきた。

国道から山間部に通じる曲がりくねった道路をゆりやかに上って行くと、15分ほどで中山道宿場町「馬籠」に到着する。

愛車を近くの駐車場に止めると、私たちは4人は、すぐに馬籠宿の見学に出かける。

駐車場の周辺にも、当時の建物など、今に残る江戸時代の風情が漂っている。

宿場の北側には、青々とした山間部の美しい田園風景が広がり、宿場町の情緒を、時代の木造建築物と共に醸し出している。

そして、その中心には、江戸時代の情緒を醸し出す、中山道(なかせんどう)馬籠宿と書かれた石碑が立っている。 石碑には、下方には「江戸 80里半・京52里半」と書かれている。

当時のイメージを損なわないように造られた、入り口にある馬籠館とバス停留所

私たちは、馬籠宿入口の看板を横に見ながら、ゆりやかな坂道をゆっくりと上って行く。

道路の両側には、江戸時代の家屋が立ち並び、歴史的な情緒豊かな街並を醸し出ししている。

 

歌川広重の浮世絵(馬籠峠(標高801m)からの馬籠宿や、中央の高い山が恵那山(標高2191m)方面が描かれている。

 

馬籠宿は69次のうち木曽には11の宿場があり、江戸からは43番目の宿場である。 距離は332km(83里六町)である。

馬籠宿は、街道が山の尾根に沿った急斜面を通っていることから、その両側に石を積んで屋敷を造る 「坂のある宿場」が特徴となっている。

宿場の中央には、高貴な人の宿泊に備えた「本陣」や「脇本陣」、荷物運搬を差配をする「問屋」などが置かれている。

一般の旅人は、通常、「旅籠」を利用する。 馬篭宿には18軒あった。

この他「飯屋」や「馬宿」などがあって、中山道(なかせんどう)を利用する多くの旅人で賑わっていた。

明治22年(1892年)に、木曽川沿いに国道が開され、さらに明治45年(1912年)には、国鉄中央線が全線開通することにより、宿場としての使命を終えていく。

 

東海道に次ぐ主要な街道で会った中山道の馬籠宿、江尾時代の趣きを、そのまま、今に伝えている。

江戸時代の面影を残す馬籠宿には、相変わらず多くの旅行者で賑わっているが、なかでも、外国人旅行者の多さには驚かされる。

わたしは、何度もこの馬籠宿を訪れているが、こんなに外国人が多いのは初めてである。

私たちは、江戸時代の情緒豊かな宿場の光景を楽しみながら、ゆっくりと街並みが続く坂道を進んで行く。

 

両側に江戸時代の街並みがあり、石畳みが敷かれ、情緒を高めている坂道のある中山道馬籠宿。多くの観光客が訪れて 賑っている。

(馬籠宿はかつては長野県木曽郡山口村に属していたが、平成17年に長野県から岐阜県中津川市へ越県合併している)

  

ここで、少し江戸時代の道路について触れておきたい。

江戸時代には、各地区と江戸を結ぶ道路が整備されている。 

一里(約4km)毎に一里塚(=土を高く盛った道しるべ)や、一定間隔ごとに宿場が造られた。

主要な道路として江戸を起点として造られた五街道がある。

○東海道(日本橋から京都三条大橋まで 53次の宿場、492kmの街道)多くの大名が利用した主要街道だが、大井川などの川止がある。

○日光街道(日本橋から日光東照宮まで 21宿、143kmの街道)

○奥州街道(日光街道の宇都宮追分から別れ、福島県白河まで11宿の85kmの街道であるが、青森県三厩(みんまや)まで続いている。

○中山道(日本橋から京都三条大橋まで69次の宿場、534kmの街道)

東海道に次ぐ主要街道である中山道は、碓氷峠や和田峠、木曽の山中の難所が多い街道であったが、川止が少ないことから利用者が多かった。

○甲州街道(日本橋から中山道下諏訪宿までの 44次219kmの街道)

また、五街道以外にも各地区を結ぶ主要な街道が整備されている。

馬籠宿水車の前で(この地は、桝形と呼ばれる宿場の入り口にあたる地で、道路を直角に二度曲げたもので、軍事的な目的で作られている。

 

私たちがさらに進んでいると、上記写真のように石畳の道路(右側)と、石段の道路(左側あ)が並行して造られている場所があった。

右側が新道で左の石段が桝形になっていて、突き当りには水車小屋がある。

その先で直角に二度、折曲げてあり、この部分の山手側は桝形になっている。

これは、城郭建築の桝形を模したもので、これが「桝形」といわれていた。 

れは本来、宿場が軍事的な目的をもって造られたことを示している。

桝形は、敵方の騎馬などに攻められた折に、道路が直角に曲がっていると、騎馬はスピードを落とさざすを得ず、防御しやすくなることから造られている。

桝形になっている水車小屋の前で記念写真をとる。

さらに、石段を登って行くと、先ほど石畳の道路に出る。 両側には江戸時代の街並みが保存され、店先では、お土産品や、民芸品・飲み物などが販売されている。

 

私たちは、真夏の太陽が照り続ける中、さらに坂道を上って行く。すると、近くにある民芸品や飲み物などを販売している店から、妻たちがアイスクリームを買ってくる。

汗をかいた時に食べるアイスクリームの味は格別で、4人とも食べながら体と心を癒している。 

さらに、坂道を上っていくと、和風建築物の馬籠郵便局の建物が見えてくる。

その先には、石垣の上から萩の花の群生が、赤い可憐な花をつけ、道路側に美しく垂れ下がり、訪れた人たちの目を楽しませてくれる。

さらに、その先には、黒い板塀に囲まれ、大木を鳥居のように加工して造られた門のある建物が見えてくる。 ここが「藤村記念館」である。

馬籠宿にある藤村記念館、(私たちは時間の関係から入館はできなかった)

明治・大正・昭和の三代にわたって活躍したの文豪「島崎藤村」の文学館である。 

藤村がこの地の出身であることから、藤村にまつわる資料など、6,000点が所蔵されている。

島崎藤村(本名=島崎春樹)明治5年(1872年)馬籠で生まれる。

生家は江戸時代、本陣、庄屋、問屋をかねた旧家である。

作品には、破壊、夜明け前など数々の作品がある。

作品以外でも初代ペンクラブ会長など日本文学界のリーダー的な活動をもする。

昭和18年(1943年)大磯の自宅で死去 71歳

馬籠の菩提寺 永昌寺では命日の8月22日、藤村忌が執り行われている。

江戸時代の馬籠の風景や情緒に魅せられてか! カメラのシャッターを切る外国から来た旅行者の女性と左側の男性。

 

私立ちは藤村記念館を少し過ぎた所からUターンして、もと来た道を下り、駐車場まで戻って行く。

駐車場に戻ると、時間も丁度、お昼頃になっていた。 空腹も感じていたことから、みんなで相談して昼食をとることにした。

隣にあるお食事処で、信州そばを食べることにする。

やはり、木曽で食べるそばは、おいしく、店員の方の笑顔もよかった。

昼食を終えた後、私たちは次の訪問地、中山道「妻籠宿」に向かって行く。

馬籠宿から妻籠宿までは、馬籠峠(標高801m)を挟んで隣接している、距離にして7kmである。

馬籠峠には、情緒豊かな一軒の茶屋があり、中山道と現在の車道が交わっている。

 

歌川広重の浮世絵にも描かれているように、峠道まで上ってきて、人休憩する人と、それを気遣う人との、心の触れ合いが描かれている。

この浮世絵には、馬籠峠から妻籠宿方向が描かれている。

 

ほどなくして、妻籠宿の駐車場に着いた私たちは、すぐに江戸時代にタイムスリップしたような街並みが残る宿場方面に向かって行く。

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道69次の中で42番目の宿場である。現在は長野県木曽郡南木曽(なぎそ)町に属している。

隣接する馬籠宿は、馬籠峠を超える旧中山道史跡と合わせて木曽路を代表する観光名所になっている。

江戸時代の文献によると、妻籠宿には、宿内家数は31軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒である。

私たちは江戸時代の情緒を醸し出している街並みを楽しみながらゆっくりと歩いて行く。

里山を感じ出すような小さな水車小屋があり、木の樋から流れ落ちている流水によって水車がゆっくりと回転し、妻籠宿の情緒を一層高めている。

 

江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていた。

中山道69次のうち、江戸から数えて42番目となる妻籠宿は、中山道と伊那街道が交叉する交通の要衝として、古くから賑わいをみせている宿場街であった。

  

江戸時代の情緒ある宿場を、そのままに伝える中山道42番目の宿場「妻籠」の街並み。

妻籠宿は、全国で初めて古い町並みの保存を始めたと伝えられる宿場で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

木造建築物の出梁造りや格子など江戸時代の建築様式を、そのままに伝える町並みが特徴で、300年の江戸時代へタイムスリップしてしまったように感じる。

中山道妻籠宿人馬会所の様子、本陣前で出発または到着した折、旅の侍や、侍のお供、荷物、馬指役、馬役や籠の人夫など、当時の宿場状況が分かりやすく描かれている。 

公家や大名など身分の高い人が宿泊した妻籠宿本陣

 

宿駅が制定されると妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、庄屋を兼ね勤めていた。

島崎藤村の母の生家であり、最後の当主は藤村の実兄で、馬籠から伯父の所へ養子にきた広助(ひろすけ)であった

 本陣は明治に入り取り壊され、その後明治32年に御料局妻籠出張所が建設される。

 本陣の復原は、妻籠宿の保存が始まった当時からの念願であり、島崎家所蔵の江戸後期の絵図をもとに、平成7年4月に復原される。

妻籠宿の中では、このように木のボールペン造りなどの民芸品を実演する店もあり、多くの見学者で賑わっていた。

妻籠の宿内には、このような水車小屋があり、小川から樋で水をひっぱり、水車を回転さしている。この風景が江戸時代の妻籠宿の情緒を一層高めている。

整備がいきとどき、趣のある入口の、妻籠宿脇本陣 奥谷(林家住宅・歴史資料館)

妻籠宿の脇本陣をつとめた林家が、明治になって建てられた豪邸を、林家伝来の家宝とともに、南木曽町営資料館として公開されている。

林家は、隣接する馬籠宿出身の文豪 「島崎藤村」 の詩 「初恋」 の少女といわれる「おゆう」 の嫁ぎ先であり、展示室には彼女の愛用した品々も展示されている。 

美しく整備された日本庭園のある妻籠宿、脇本陣前にて

江戸時代の街並みが残る妻籠宿

妻籠宿は、江戸時代から営々と続く暮らしを守りながら、宿場の景観を今によみがえらせ、伝える宿場の街並みである。

江戸時代の旅篭風情をそのままに、出梁造り(だしばりつくり)や竪繁格子(たてしげこうし)の質素な家並みが私たちを迎えてくれる。

2階の出梁りや竪繁格子が、江戸時代の街の情緒を一層高める、歴史的な街並みが保存されている中山道妻籠宿

 

時代が変り、明治になり、交通網が次第に整備されていく。鉄道や道路が新たに造られてくると、宿場としての機能を失い妻籠宿は衰退の一途をたどっていった。


やがて昭和になり、経済成長の中、江戸時代の宿場の姿を色濃く残している街並みが見直され、ここに全国に先駆けて保存運動が起こっていく。


妻籠の人たちは町並みを守るために家や土地を、 「売らない・貸さない・壊さない」 という3原則をつくり、

ここで生活しながら、江戸時代の街並みという貴重な財産を後世に伝えている。

江戸時代の街並みをそのまま伝える中山道馬籠宿や妻籠宿は、外国からの観光客にも大人気で、日本の侍の情緒を感じさしてくれるようである。

 

江戸時代にタイムスリップしたような街並みが保存されている中山道馬籠宿や 妻籠宿の見学を終えた後、私たちは、国道19号に入り、木曽福島方面に向かって行く。

日本の伝統的で地味な木造家屋が立ち並ぶ街並みを見ていると、何故か心が落ち着いてくる。

特に竪繁格子の家屋には、風情を感じるとともに、2階にある出梁造りは、映画の時代劇でよく見られるように、

浴衣姿の若い娘さんが、団扇をもって出梁に腰を掛け、賑わっている道路の状況を眺めていたり、声をかけているシーンが目に浮かんでくる。

当時の旅人たちも、賑わう街並みの様子を、出梁から楽しんでいたのでわ! と想像する。

 

国道19号は長野と名古屋を結ぶ交通の要所である。

木曽の深い谷間に木曽川が流れ、それに沿って国道が造られている。 中央高速道の開通によって、主役を取って代わられたが

、道路は整備され、走りやすく、車は渋滞もなくスムーズにながれている。 ドライブを楽しむのには、もってこいのコースである。

30分から40分ほど走行していると、木曽の景勝地 「寝覚の床(ねえざめのとこ)」に到着する。

 

中山道や木曽路で 木曽八景 として数えられる景勝地「寝覚ノ床(ねざめのとこ)」

木曽の名勝「寝覚ノ床」は、中山道の上松と須原の間の道沿いにあり、県歌「信濃の国」にも歌い込まれ紹介されている風光明媚な景勝地である。


写真は、展望所を兼ねたレストランの土産物店からの撮影した光景で、手前にはJR中央線が走っている。

寝覚ノ床は、木曽八景随一の名勝地であり、花崗岩の岩盤を木曽川の激流が長い間に水触して出来たものである.

景勝地「寝覚の床」の眺望を楽しんだ後、私たちは愛車に戻り、国道19号を木曽福島方面に走行して行く。

出発して10分程で、木曽福島の国道19号バイパスを通り、トンネルを通過して行く。

通過して直ぐに近くにある交差点から、開田高原方面の国道361号に入って行く。

開田高原は御嶽山の裾野に広がる高原で、標高は1000m以上の高地にあるため、その気候は一年を通して冷涼である。

また、開田高原は木曽馬の里として、リゾート地としても知られている。

開田高原から見る御嶽山の眺望は抜群であるが、残念ながら、雲に覆われて見ることはできなかった。

私たちは、開田高原の、雄大な自然と懐かしい農村風景を楽しみながら、さらに走行して行く。

長野県側から岐阜県側に代わり、しばらく行くと濁河温泉の標識が左方向方面と案内されている。

標識に従って走行して行くと、白樺やから松などの樹木が多く見られるような光景に代わってくる。

濁河温泉の上部に聳える御岳山の最北端にある継子岳(標高2859m)

 

愛車は曲がりくねった道路に従って高度をどんどん上げ、30分ほど走行すると、今日の宿泊先である 濁河(にごりご)温泉 旅館「御岳」に到着する。

標高1800mに位置する濁河温泉、7月だというのに愛車から外に出ると肌寒さを感じるほどであった。

早速、旅館のフロントで、宿泊手続きをすますと、4階の10畳程の広い和室に案内される。

 

 濁河(にごりご)温泉は、霊峰御嶽山の飛騨側登山口として知られ、標高1,800mでの通年営業温泉街としては、日本でも有数の高所温泉地である。

 明治20年ごろから温泉宿地として開拓され、登山者が宿泊できるようになったといわれている。

昭和30年に久々野から秋神温泉を経て濁河温泉までの車道通行が可能となり、宿泊温泉地となる。

 昭和33年には岐阜県の小坂側からの道路も完成し、より多くの観光客が訪れるようになってくる。

御岳山麓に位置し、主要道路からも離れていることから、秘湯ムードが漂い、原生林が生い茂る自然情緒豊かな温泉である。

また、濁河温泉は、標高1800mの御嶽山7合目あたりの高さに属することから、登山基地としても親しまれている。

 

この旅館には、脇を流れる濁河川の谷底へ160段(高低差50m)の階段を下りた所には、混浴の渓谷露天風呂がある。

私たちは30分ほど部屋で休憩した後、4人で館内にある混浴の渓谷露天風呂に出かける用意をする。

混浴の露天風呂に対する興味が深々と湧いてくる。

旅館の浴衣に着替え、ゆっくりと長い通路を渓谷露天風呂に向かって回廊を下りて行く。

絶壁の渓谷に造られた下り階段を露天風呂に向かって下りて行く。 渓谷には清流の流れる音や野鳥たちの鳴き声が、心地よく聞こえ、癒される気分である。

しばらく回廊を露天風呂に向かって下りて行くと、このような「金勢大明神」が祀られている。

 

金精神は勃起した男根の形をしており、金は金色に輝くような、精は勢であり、精力絶倫な男根を意味しているとされている。

金精神は、豊穣や生産に結びつく性器崇拝の信仰によるものから始まったとされている。

子宝、安産、縁結び、下の病や性病などに霊験があるとされるが、他に豊穣や生産に結びつくことから商売繁盛にも霊験があるとされている。

祈願者は石や木や金属製の男根を奉納して祈願する。

 

旅館の回廊にある階段を160段下りるて行くと、男女に分かれた粗末な木造の脱衣小屋があった。

小屋の中も、粗末な造り付けの棚が2段造られ、脱衣用のかごが置かれている。

この温泉は、混浴のためにバスタオル巻きや水着の着用も許されている。

脱衣室のドアを開けると露天風呂は目の前にあり、緑の林の中に見事な巨石を組み合した温泉である。

温泉の奥には、樋で導かれた温泉が滝のように勢いよく、流水音を発しながら注ぎ込んでいる。

自然美豊かな渓谷の中に巨石を組み合わせてできた露天風呂、秘境の温泉ムードが漂っている。

秘境の混浴露天風呂に大喜びしながら体験する。湯加減も丁度良く、長旅の疲れをも癒してくれる思い出の温泉である。

秘境の渓谷に造られた混浴の露天風呂に浸っていると、せせらぎの音や野鳥の鳴き声が心地よく聞こえてくる。

向かい側の断崖絶壁の岩肌には、小さな白糸の滝が流れ、岩肌に寄生するように生えている緑の樹木が温泉の情緒を一層高めている。

渓谷にある露天風呂の湯に、のんびり浸りながら過ごしていると、体が癒され、時間も忘れるほどであった。

露天風呂のある渓谷の風景、自然の迫力ある風景に思わず時間も忘れるほど見とれていた。

  

               秘境の旅館にて湯上りの乾杯 味も格別である。  翌朝の朝食。      朝食後の旅館 ロビーにてコーヒー。

 

旅館御岳からの眺望

 

7月13日(月) 晴れ 御岳山の7合目あたりの秘境にある濁後温泉。 

昨日は南大阪から長野県と岐阜県にまたがる濁後温泉までやってきた。 楽しく良い旅であった。

今日もよい天気になりそうで、上高地と新穂高温泉を予定している。

朝食を済ました後、コーヒーでリフレッシュした後、午前8時半ごろ、旅館御岳を後にし、愛車プリウスアルファーで出発する。

 

御岳山継子岳をバックに記念の撮影

濁後温泉からなだらかな高原の道を下って行くと、素晴らしい御岳山北側にある継子岳2859mが美しく聳えたっている。

さらに走行しながら開田高原方面に下って行くと、頂上部に雲のかかった御岳山が見えてくる。

御岳山麓、白い泡を立てながら流れる川、散在する家や農地、その脇を大きなカーブを描きながら走る道路が、独特の農村風景を醸し出している。

御岳山をバックに記念の撮影、残念ながら頂上部は雲に覆われてしまった。

御岳山全景, 右側が継子岳(2859m)左側が摩利支天山(2959m)、最高峰のっ剣が峰(3067m)は、さらに左側にある。

雲で覆われている御岳山最高峰剣が峰(3067m)方面、頂上部は、昨年(2014年)9月27日に噴火した折の灰で覆われている。

この風景を見ていると2007年8月に登った御岳山が思い出されてくる。

また、今回の噴火で数十人の方が犠牲になられた。 まだ、5名の方が行方不明になられているとのこと。

一日も早く発見され、ご家族のもとへかえられます様に願わずにはいられなかった。

以下の3枚の写真は、2007年8月に妻と二人で登った時のものです。

 

             妻と二人で登った田の原登山口からの御岳山 八丁ダルミからの御岳山最高峰、剣ケ峰3067m、 剣ケ峰から二ノ池方向を望む。

 

 私たちは、御岳山をバックに写真撮影した後、開田高原の中心部に向かって行く。 すると、公園のような緑地に、白樺が林立して、高原の情緒を醸し出している。 

 しかも、御岳山も見え、絶好の撮影ポイントになっている。

開田高原で白樺が林立し、そこから御岳山が眺望できる、高原情緒、豊かな場所があった。

 

撮影が終了した後、私たちは開田高原から木曽福島に出て、国道19号を北上、途中の藪原から県道に入り、上高地や乗鞍高原方面に向かって行く。

通りがけに信州そばの店があり、そこで、昼食を4人ですます。その後、愛車に戻り、走行して行くと、松本からの国道158号に入り、上高地への中継地、沢渡まで走行する。

私たちは、沢渡の駐車場に愛車を止め、タクシーで上高地へ行くことにした。

上高地へのシャトルバス乗り換え欺地沢渡駐車場

 

しばらくタクシーを待っていると、黒塗りのタクシーがやって来る。

 15年ほど前に、上高地は訪れているが、その後どうなっているのか! 

何度訪れても、あきることのない、魅力を持っている上高地!

私の胸がワクワクしながら、みんなと一緒にタクシーに乗り込んで行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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