気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・鎖国から開国・・・・(5)

2017-03-25 23:03:19 | 思い出

     ジョン万次郎(中浜万次郎)は、1827年、現高知県土佐清水市中浜で生まれる。

1841年土佐沖で出漁中に遭難し、漂流する。

 漂流先の鳥島で、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・フィールド船長に助けられ、船長の故郷、アメリカ東海岸にあるフェアヘーブンでの学校で、英語、数学、測量、航海術などの専門教育を受け、優秀な成績で卒業する。  

 米国での学校教育の他に、アメリカの民主主義や男女平等などを学び体験する。

基本的には、身分格差のない国家体制、大統領を選出する国民選挙など、当時の日本人にとって、全く新鮮な概念にも触れ大きな影響を受ける。

 学校を卒業した万次郎は、一等航海士として、捕鯨船に乗船して世界の海で活躍する。 

 下船後は、カリフォルニアの金山で帰国資金を稼ぎ、ハワイにいる漂流仲間3人と共に、ハワイからの貨物船に乗船し、鎖国の日本(現在の沖縄県那覇市)に上陸、帰国する。

万次郎27歳の肖像画

琉球に帰国後、薩摩藩におくられたが島津斉彬公から厚遇され、、西洋式帆船などを造船,高い評価を受ける。

その後、長崎におくられ、江戸幕府の長崎奉行所で厳しい取り調べを受ける。

土佐藩でも、長期間の尋問を受け、1852年やっと故郷の中浜に帰り、母や親族との11年ぶりに涙の対面をする。

しかし、故郷に帰って3日後には、土佐藩から出頭命令があり、高知城下で侍に取り立てられる。

 翌年の1853年、土佐藩では、藩校 「教授館」 の教授に任命された。 この時の聴講生のなかには、後に活躍する藤象二郎や三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎がいた。

万次郎は高知城下で侍の身分で教授として活躍している時に、米国のぺリ-艦隊が浦賀に来航し、日本中が騒然となる。 

ペリー率いるアメリカの艦隊が久里浜(横須賀市)に上陸した時の絵図。

 

1853年(寛永6年)6月3日 米国、東インド艦隊司令長官ペリー率いる軍艦4隻が浦賀(久里浜)にやってくる。

大砲を備えた巨大な 「黒船」 の出現に、幕府は困惑し 慌てふためいている。 

どのように対応するのか! 外国に関する情報は全くと言っていいほど入っていなく事情も分からなかった。

 追い払うにも、そんな武力は日本にはなかった。

 

 ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊は、ペリー長官が乗船している旗艦サスケハナ号(外輪蒸気船2450t、大砲数9門)、

ミシシッピ号(外輪蒸気船1692t、大砲数10門)、プリマス号(帆船989t、大砲数22門)、サラトガ号(帆船882t、大砲数22門)の4隻である。

 旗艦であるサスケハナ号の2450トンという大きさは、今日の感覚では中型の護衛艦というところで、当時としては世界最大級の軍艦であった。

 

これに対して、当時の日本での大型船というと、千石船である。 千石というと、約100トン~200トン程度の小さな木造船であった。

突然やって来た黒船を、初めて見る当時の日本人は、サスケハナ号が小山のような巨大艦と思えたのも無理はなかった。

この当時の江戸は、大消費地で、ほとんどの物資を大阪からの海上輸送に頼っていた。

そこで活躍していた和船が、一般貨物専用の菱垣廻船と、酒などを入れた樽物を中心に運ぶ樽廻船である。

当時、一番危惧されていたのは、外国艦船に、東京湾の入り口を封鎖されれば、大都市 江戸への物資の供給に多大な影響を及ぼすことであった。

 

 ペリー艦隊の軍艦に搭載している艦砲は、特にその主力艦である蒸気軍艦が、外輪部に邪魔されて、あまり大砲を搭載できない関係から、合計63門に過ぎなかった。

 この当時、サスケハナ号程度の排水量のある帆走戦艦なら、一隻で80門程度は搭載していた。 

しかし、これに対して、当時、江戸湾にあった多数の砲台に設置されていた計99門の砲のうち、これに比較できる程度の大型砲はわずか19門にすぎなかった。

しかも、その大半は射程の短い臼砲(きゅうほう)で、ペリー艦隊まで届かず、幕府が震え上がったのも無理のないことであった。

ペルー司令長官は、各艦隊の艦船に搭載している不気味に砲口を町に向け、威圧を十分に与えた上で、武装した数百名の海兵隊を従えて、久里浜に上陸する。

日本側が見守るなかでアメリカ海兵隊員が整列し、ぺりー長官が久里浜に上陸しようとしている状況の絵図。

アメリカ海兵隊員が進行している絵図

 

今回の目的は、フィルモア大統領の親書を徳川幕府に手渡して開国を要求するためである。

ペリーは海軍礼服に装い、武装した400人の海兵隊員らを従えて久里浜(横須賀市)に上陸し、浦賀奉行に大統領親書を手渡した。

その後、艦隊は江戸を目指して北上させる示威行動を行ったために、江戸市民は恐怖におののき大混乱に陥った。

幕府は、将軍徳川慶喜の病状などを理由に、返答を1年間の猶予を求めた。

ペリーは、幕府の要求を受け入れて、再度やってくることを明言して 艦隊は浦賀を出港して琉球へ向かった。

 

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず」

とにかく 脅威は去った。 江戸庶民もホット安堵したが、幕府はそれからが大変であった。

幕府の老中阿部正弘は、対応策に関し諸大名にも諮問した、しかし、知恵を出そうにも、新興国アメリカについては何もわからなかった。

そんな折、進歩的な蘭学者が万次郎の登用を進言してきた。

阿波正弘も、長崎奉行から、土佐の万次郎に関して

「頗る(すこぶる)怜悧(れいり)にして、国家の用となるべき者なり」 との報告が入っていた。 

早速 アメリカの知識を必要とする老中阿部正弘は、土佐にいる万次郎を召し出すように、土佐藩に要求する。

 

万次郎は、「何としても、母国 日本を守らねば」 との思いを強くしながら、来春の再来を言い残して、ペルーが去って、2ケ月半後の8月30日、江戸に到着した。

待ちかねていた、老中阿波正弘は、即刻 万次郎を呼びつけ アメリカなる国についての質問をする。

 

時は来た、、、、万次郎は、アメリカで生活していた時に、日本に関するニュースやアメリカ政府の考え方、今後の方針などの情報を聞き、日本が心配でならなかった。

やっと、日本国の中枢にある人に自分が培わしてきた知識や技術、情報を話す機会が訪れたのである。

万次郎は感慨深かった。 自分は、この日のために、アメリカから鎖国を続ける日本に帰国してきたのである。 といっても過言ではなかった。

 

万次郎は、島津斉彬公や土佐の教授館で聴講生に語ったように、老中阿部正弘にも熱弁した。

アメリカの基幹産業である捕鯨漁を維持するためには、食料や水の補給を確保したい。 台風などのに遭遇した際の避難する港が欲しい、 だけの話であり、日本を侵略する意図は全くない。 なのに日本は、外国船を見たら問答無用で追い払う。 それは、世界の国々からは評価されない。

たとえば、漂流船員に対して、日本とアメリカでは大きな違いがある。

自分は、アメリカの船に救われ手厚い保護を受け、しかも教育まで施してくれた。

アメリカは、それを当然のことと思っている。 

このようなアメリカの国であるから 「日本のやり方は人道的でない」 との強い非難の声がでている。

蒸気機関の出現により交通機関は発達し、世界中に物や人が自由に行けるようになった時代である。

もはや、一国が単独で存在できる時代ではなく、日本は世界の国々と共存していくことが必要な時代である。 と万次郎は話をする。

また、今回のアメリカの開国要求を拒否すれば、他の国々から強硬手段に打って出てくる恐れが気がかりである。

すでに ロシアがその動きを見せているように、列強諸国の日本への侵攻が始まり、遅かれ早かれ、日本が列強に植民地にされる可能性が高くなってくる。

今回の危機を回避するためには、「アメリカに対して国を開き、友好関係を築いていくべきである」 と万次郎は提言する。

十余年の永きにわたってアメリカ社会で暮らし、高等教育まで受けた万次郎の話しは、頭の中で考えたものではなく、自分が体験してきた話であることから

強い説得力があった。  老中阿部正弘の脳裏には深く食い込んだ。

阿部正弘は、万次郎の話を聞いて、隣国である清が、イギリスとのアヘン戦争で敗れた惨状を思い浮かべ、 薄々、鎖国政策の限界を、改めて感じていた。

万次郎は、この時、この人は動き、国は動く、と思った。

 その後、万次郎は、幕府随一の開明派と言われた江川太郎左衛門に預けられた。 

 

※ 開明派=国内のことばかりでなく、海外情勢や世界潮流についての情報を積極的に収集し、

それに合わせて、日本国が  “停滞することなく 次にどう展開、変化していけばいいのか”  を真剣に考えていた人々のこと をいう。

つまり、それまでの常識にはとらわれない、保守的思考を好まない人々のことです。  島津斉彬や勝海舟がその代表的人物と言える。

 江川のもとに預けられて間もなく、老中阿部正弘によって万次郎は幕府直参に取り立てられた。

「 御 普 請 役 格 」  二十俵二人扶持。

これにより万次郎は、出生地の土佐国中ノ浜から性を得て 「中浜万次郎信志=なかはま まんじろう のぶゆき」 と名乗ることになった。

この時、万次郎は 26歳であった。

 

翌年の1854年2月13日(寛永7年1月16日) 予告通り、浦賀沖にペルーが旗艦で、最新鋭の大型軍艦 ポーハタンに乗船、7隻の艦隊を率いて再び来航した。

 さらに、後ほどには2隻が来航して、最終的には9隻の大艦隊となった。

ペルーの旗艦であったポーハタン号 2425トン、3本マスト、バーク型外輪機帆船 船体長77.3m、船体幅13.6m、大砲22問 蒸気機関1500馬力、アメリカ海軍最大の軍艦、

 

前回の時と同様に、アメリカの全権を担っているペリーは、幕府に対して強硬な姿勢で開国を迫っている。

幕府側は、林大学頭が中心になって交渉に臨んだ。

 

当初、幕府は、交渉の筆頭窓口を江川太郎左衛門に命じ、万次郎に通訳をさせるつもりであったが、幕府のご意見番である 水戸斉昭公から、万次郎に対してスパイ容疑がかけられた。

そのために、アメリカとの交渉窓口には、江川も万次郎も立つことはなかった。

ペリーも交渉の場にどうして万次郎がいないのか! それをいぶかい、不思議に思っていた。

アメリカの記録によると、この交渉は、一旦、日本語からオランダ語に訳し、さらに英語に訳し、伝えるというものであった。

老中阿部正弘は、江川宛ての手紙で、万次郎を疑うわけではないとした上で、

「交渉のために万次郎を米艦に乗り込ませ、もし そのままアメリカ側に万次郎を連れ去られでもしたら・・・・」 と危惧を述べている。

スパイでは! の疑いをかけながらも、万次郎が、幕府にとって重要な存在であることは、水戸斉彬公も阿部正弘も認めていた。

 

日米両国で幾度かの交渉を得て3週間後の、 1854年3月3日、横浜で 「日米和親条約(神奈川条約)」 が結ばれた。

日本側は、アメリカに対し、薪水、食料、石炭などを供給、その補給寄港地として、下田、函館の2港を開港する。 難破船や遭難乗組員は救助する。 

これにより、日本の二百数十年に及ぶ鎖国は終了し、世界に門を開く第一歩となった。

下田、了仙寺で、アメリカ海兵隊員が整列、日米和親条約の細部を決めた 下田条約が締結される。

 

ぺりーは、その後、下田、函館の両港を視察、 再び下田に来て、5月25日、日米和親条約の細目を詰めた付録(下田条約)を締結。  6月2日、日本を去った。

 

27歳になった万次郎に縁談が舞い込んだ。 

 江戸本所亀沢町で道場を開き、剣道を指南する団野源之進の二女お鉄である。 

当初、万次郎は、見合いを勧められても、渋り、何度か断っていた。

見合いなどというものは、アミリカにはなく、結婚は自分の意思で決めるもので、他人に決めてもらうことではないと思っていた。

太郎左衛門の奥方から

 「万次郎さん、ここはアメリカではなく、日本ですよ。 日本には日本の流儀があります。 なにを迷っているのですか!」 

と諭され、もはや逃げることはできなかった。

見合いをすると、お鉄は目鼻たちがきリきりした17歳の美しい娘であった。

また、父親の源之進も、剣術に生きてきた人間らしく、ものにこだわらない、さっぱりとした性格であった。  

江川太郎左衛門らの仲立ちで 安政元年(1854年)2月 江川邸で挙式は行われた。 お色直しが3回あり、お鉄はとても綺麗だった。

万次郎は、邸内で準備をしてくれた新居で新婚生活に入った。

 

結婚を期に、万次郎に再び運が向いてきた。  大型の西洋式帆船を造る機運が全国で起こり万次郎はひっぱりだこだった。

同年、幕府は、万次郎に対してアメリカの航海術書の翻訳を命じた。

西洋式帆船の導入や日本への出入、物が輸入されるに伴って、日本でも船を操って遠洋へ進む航海術の知識が必要であった。

日本では、オランダの航海術書が使われていたが、初めてアメリカの航海術が紹介されることになった。

万次郎は、他にも幾つかの書物を、日本語に翻訳しているが、英語の意味は理解できても、それを日本語に翻訳するのには大変な苦労であった。 

万次郎は、日本での教育は、ほとんど受けていないために、日本語の基礎教育から進めなくてはならない大きなハンデイキャップがあった。

 

英語が理解できても、それを日本人が理解できる言葉に翻訳しなければならないが、適当な日本語が見つからなかったり、

 日本語そのものに言葉がなかったりして、どう表現するか! どう伝えるか! 多くの時間を必要としていた。

万次郎は、日本語の翻訳に関しては、その専門分野に詳しい方々に相談したり、協力していただいて、翻訳(新アメリカ航海士便覧)を完成させたのではと思われる。

 

翌年、万次郎のよき理解者で、何かと協力してくれた、江川太郎左衛門が55歳で急死した。(1855年(安政2年)1月16日)

この年、万次郎には、待望の第1子(娘すず)が誕生しする。万次郎も人間的に丸みを帯び、周囲の人たちに温かく接するようになっていた。

1857年(安政4年) 今度は、万次郎のよき理解者であった老中阿波正弘が39歳の若さで病没した。

新しい日本つくりに大きな影響力のある人たちを次々と失って、万次郎は何とも言えない寂しさを味わっていた。

 

この年の4月、万次郎は、江戸に設けられた講武所の軍艦教授所教授に任命され、航海術などを教えることになった。

 

この年、万次郎に待望の長男が誕生する 東一郎 である。

30歳を過ぎてからの子供であることから、万次郎は溺愛した。

「そのように甘やかしてはなりません」 子育てにお鉄は厳しかった。

実家の道場はいつも門弟がいて、二女のお鉄は、小さい時から甘やかされることなく、自立心の強い子に育っていた。

留守がちの万次郎にとって、お鉄の実家も近く、子供たちの面倒をよく見てくれていた。

男が仕事するうえで、家庭は大切で、いつも陽気で明るく接するお鉄には常に感謝していた。

 

また、10月には、勘定奉行 川路聖謨(かわじとしあきら)から、捕鯨事業を興すため、万次郎を北海道函館奉行手付に任命、「函館で捕鯨方法を伝授せよ」 との辞令が出された。

はっきりとした記録は残されていないが、捕鯨船がなかったことから考えて、地元の漁民たちに捕鯨方法を教えてたり、捕鯨基地としての函館の調査などをしたのではと推察される。

1859年(安政6年)2月、改めて幕府から 「鯨漁之御用」 を命ぜられる。 

実際の船を使っての捕鯨で、船は伊豆半島西側にある君沢郡戸田(へた)村で造られた 、本格的な西洋式帆船 「君沢形壹番御船」(戸田号)であった。

この西洋式帆船は、当時ロシア特使プチャーチンの乗ったデイアナ号が、地震に伴う大津波で下田沖に難破しており、その乗組員たちの指導を受けて、日本の船大工たちが造ったものである。

ロシアの乗組員は、この船で送還され、その後、日本に寄贈された。 それが 「君沢形壹番御船」(戸田号)である。(同型艦は10席造られる)

万次郎は、この船の船長となり、捕鯨に必要な機材(天体観測器、気圧計、捕鯨用の道具など)、ボート2隻、鯨の見張台(帆柱の先端)などを取り付けた。

日本初の捕鯨船である。

安政6年3月に品川沖を出航、江戸湾を南下し小笠原諸島に向った。 その折に暴風が起こり、船は転覆寸前に追い込まれた。

帆柱を1本切倒して、やっと転覆は免れ、伊豆の下田に帰った。

せっかくの西洋式捕鯨の実習は、ついにご破算となった万次郎は、 がっかりしたが、万次郎は捕鯨の夢は捨てきれなかった。

 

話しは前後するが、ペルーが引き揚げてから2年後の安政3年(1856年)アメリカ国 ハリスが通商条約を締結するために来日した。

ハリスは、翌年10月、老中堀田正睦(ほったまさよし)、続いて将軍徳川家定と会見し、第14代米国大統領ピアスの親書を手交して、自由貿易の公認を要求した。

このころから日本国内は大混乱の時期に挿入していく。

開国して通商に応じていくか! 鎖国して攘夷(外国人を追い払って入国を拒む)するか! で意見が対立する。

安政5年 彦根藩主井伊直弼が大老に就任してまもなくのときである。

ハリスの 「英、仏大艦隊が日本に来航する」 いう情報を憂慮した幕府は、全権を井上清直、岩瀬忠震(ただなり)に命じていた。

井上と岩佐は、6月19日、神奈川沖に停泊中のポーハタン号を訪れ、天皇の勅許を得ないまま、日米通商条約に調印する。

同条約に基づいて幕府は、外国奉行の新見正興(まさおき)を正使とするする批准使節団を。ポーハタン号でワシントンに派遣することになった。

また、使節団の護衛を兼ねて航海演習のため、咸臨丸(かんりんまる)をおくることになった。

吉田松陰が外国留学のために密航を企て接触したのは、このポーハタン号である。

 

3本マストの咸臨丸 スクリュー付の木造蒸気船で幕府がオランダから購入する。

江戸幕府の洋式軍艦でバーク型機帆船である。 重量 620トン、船体長48.8m、船体幅8.74m、大砲12問、100馬力の蒸気機関でスクリューを動かす機帆船、

スクリュー推進は、港の入出航時や風のない時に使われ、帆走中は、抵抗を減らすため船体に引き入れる構造になっている。

 

咸臨丸の最高責任者に軍艦奉行 木村喜毅(よしたけ)、指揮官に軍艦操練所頭取の勝麟太郎が任命され、中浜万次郎は教授方、通弁(通訳)として同情することになった。

咸臨丸の乗組員は、総勢96名で、福沢諭吉も加わっている。 

日本人乗組員に交って、ジョン・ブルック海軍大尉ら11人のアメリカ人が、遠洋航海の経験のない日本人を助けるために同乗することになった。

咸臨丸は、1860年(万延元年) 1月16日 横浜港を出航、同19日浦賀を経て太平洋に出ると、アメリカ サンフランシスコを目指す航海にでる。

ポーハタン号は、それより3日後に横浜港を出港する。 出航した翌日から、天候は荒れ難航する。

 

当時の日本には、国際感覚を身に着け、英語を自由自在に使いこなせるのは、万次郎一人だけである。

幕臣に登用されても、国と国が威信をかけた条約締結に、万次郎や江川太郎左衛門が出席できなかったのは国家的損失である。

だが、当時の幕閣たちは、国家的な条約が、永く鎖国を続けたためにか、内容を理解できてなく、不平等な条約であることにも気が付いていないようである。

後から、条約内容を知った万次郎は、どんな思いであったのか! 想像するのも難しくはない。

ただ、万次郎が、徳川幕府にとって、なくてはならない存在であることはよく理解できる。

万次郎は、航海術書などの専門的な翻訳以外にも、英会話の本「日米対話捷径」の出版を行うと共に、自宅でも教えを乞う者に英語を教え、世界を語り、新しい日本の人づくりに貢献している。

万次郎の世界を語る言葉に、誇張も先入観もない正確な西洋の情報こそが、幕末の若い多くの志士たちの心に訴え、行動に走らせたモチベーションであったといえる。

このモチベーションが、サムライ国家から近代国家へと進んでいく日本の大きな礎になっているように思われる。

 

 

 

 

 


日本の夜明けに貢献 ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・鎖国日本へ帰国・・・・(4)

2017-03-06 23:34:33 | 思い出

 1851年2月2日 万次郎、伝蔵、五右衛門の3人は、 11年前に土佐沖から5人の乗った小さな漁船は,鳥島に漂着、通りかかったアメリカの捕鯨船に救助される。

           それから12年、万感の思いで、夢にまで見た祖国、日本が目の前に見えている。 

アメリカの商船サラ・ボイド号に乗船、ハワイホノルルを出港して30日余、船は黒潮に乗って琉球沖に接近して行く。

琉球・沖縄

サラ・ボイド号の船長以下、乗組員の方との別れの時が来た。

 何かと親身になって心配してくれる、ホイットモアー船長らの好意に対して、感謝の言葉を述べると、乗組員たちは、パンや飲み物をのどをボートに積んでくれた。

いよいよ、アドベンチャー号がゆっくりと甲板から海上に下ろされ、サラ・ボイド号の全乗組員が見送る中を、小さなアドベンチャ号に乗り込んでいく。

そして、波間にもまれながら、万次郎達3人が乗ったアドベンチャー号は、陸を目指して進んで行く。

アドベンチャー号は、しばらく帆走していたが、この日は、折あしく、帆を上げていられないほどの強風と、みぞれ交じりのあいにくの天気で寒い、

3人は、帆を下ろし、オールを漕ぎながら、湾内に入って行く。 それを見届けた、サラ・ボイド号は、開帆して去って行った。

間もなく日も暮れ、波風は収まったが、上陸は無理と判断し、陸から千数百メートルの地点のボートを止めて仮眠する。

万次郎(左)と 伝蔵(右)の洋装の姿

 

アドベンチャー号で仮眠した翌朝(1851年2月3日)万次郎・伝蔵・五右衛門の3人は、オールを漕ぎ、ゆっくりと接岸していく。

「日本だ!、日本にとうとう帰ってきたんだ!」 3人は喜びをかみしめていた。 

しかし 喜んではいられない。 これから役人による取り調べが待っているのだ。 鎖国を続ける日本の役人から、どんな取り調べをうけるか! 不安な気持ちも漂ってくる。

万次郎たち3人が上陸したのは、現在の沖縄県糸満市大戸浜である。

 

万次郎たちの服装は、服にズボンという異人の姿である。

島の人が数人集まってくるが、万次郎たちの姿をみると、姿を隠していく。 

残った人に声をかけても、いっこうに返事が返ってこない。 3人は家のある方へ歩いて行った。

伝蔵が漂流してからの顛末を村の人に話すと、村の人は それを役人に伝え、薩摩藩からの指示を待つことになる。

この当時、琉球は、薩摩の統治下にあった。 

薩摩藩の役人は、番所に入り、入れ替わり、立ち代り、何度も同じようなことを7ケ月間に渡って尋問する。

万次郎たちは、琉球での取り調べ中の間、地元の言葉も覚え、村民たちとも交際をした。

琉球には1844年と1846年の、2回にわたってフランス軍艦が来航しており、薩摩藩は諸外国の動きに注目して情報収集に躍起になっていた。

そのためにか、薩摩藩は、万次郎たちからの海外情報を知りたがっていた。

そんなおり、薩摩藩は3人を鹿児島に召喚することを決め、1851年7月、那覇から薩摩藩の船「大聖丸」で出航し、12日後には鹿児島湾入りする。

 

万次郎一行を厚遇し、海外情報入手に熱心だった薩摩藩主 島津斉彬公

薩摩に着くと、3人には屋敷を提供され、衣装のほかに、金銭を与え、酒食を供にして賓客並みに扱って厚遇した。

薩摩での取り調べは、琉球からの情報が届いているのか、万次郎一人に、連日、集中的な取り調べが行われた。

特に万次郎一行に興味があったのは、薩摩藩士 島津斉彬公であった。

斉彬公は、開明家で西洋文物に関心が強く、自ら万次郎に海外の情勢や文化、国家体制等についても興味深々としていた。

斉彬公は、今までの役人とは取り調べが全く違っていた。 万次郎を罪人としてではなく、初めてアメリカで学んだ者として、また、先進的な多くを経験した知識人としての扱いであった。

万次郎は、このような若い殿様がいるのに驚き、また、うれしくなってくる。 自分の知っている全てを伝えようと思った。

そのことが、日本を狙っている外国に対して、抵抗力を強めると信じていた。

万次郎は、英語交じりのたどたどしい日本語で、アメリカという国の生い立ちから、現状まで、国民がすべて、法の下で自由であり、平等であること、

国家体制や大統領を選ぶのは、全国民の数(投票)で選ばれること、蒸気機関などの文明の実情、捕鯨の話などを情熱的に話をする。

斉彬公は、万次郎が西洋の船に航海士として乗船し、世界の海を航海したことに強い関心を示していた。

斉彬公は、万次郎に西洋船を造ることができるか! 万次郎は、船大工を集めてくれれば可能であると返答する。

斉彬公は、早速、藩内の腕のいい、船大工を3~4人を万次郎の基に派遣して、西洋船の造船技術を学ばせた。

万次郎は、捕鯨船 ジョン・ハウランドやフランクリン号の隅々まで、覚えており、絵を描いて、船の構造、仕組みを解説した。 蒸気船についても、教えた。

斉彬公の特命で、捕鯨船の模型が造られ、 また、この模型船をもとに、小型の帆船をも試作された。

洋式帆船は、地元船大工と伝蔵や五右衛門も手伝って、日夜の突貫工事で造船を急ぎ、わずか48日で完成さした。

進水の日、錦江湾内は、地元の人にとって、奇異な形の船に興味を持ち、一目見て見たいとの思いで黒山の人たちが見守ってていた。

この帆船は、「越通船(おっとせん)」と名付けられた。 その船が錦江湾(鹿児島湾)を見事に帆走する姿を

磯御殿から眺めていた斉彬公は、 「でかしたぞ、でかしたぞ」 と拍手喝采しながら喜んでいた。 

斉彬公は、万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の開成所(洋学校)の英語講師として招いている。

 

万次郎たちは、やがて薩摩から、長崎におくられた。

島津斉彬公は、長崎奉行 牧志摩守宛てに送り状を添えていた。

3人の漂流民に邪宗等の問題が一切なきことに加え、

「万次郎が儀、利発にして、覇気あり。将来必ずやお国のために役立つ人材であるがゆえ、決して粗末に取り扱わぬよう」

 

江戸幕府の長崎奉行所での取り調べは10ケ月間も続いた。(1851年から1852年)

奉行 牧志摩守 が中心になって 「踏み絵」も試され、キリスト教徒でないことが証明され、外国から持ち帰った物は没収された。

 

万次郎が日本に持ち込んだ品

書籍(ボーデイッチの航海術書、数学、辞書、歴史、ジョージ・ワシントン伝記、農家歴など13冊の英書と地図7枚)

日用品(薬、かみそり、マッチ、裁縫道具、はさみ、時計等)

道具類(船具、のみ、かんな、オクタント(八分儀、天体観測器)、コンパス、石板、ピストル、鉄砲など)

衣類(西洋衣装、靴、帽子)、貴重品(砂金、金、銀)

金と銀については、日本銀85.3匁(もんめ)(一匁は小判一両の六十分の一)と好感された。

これらの没収品のほとんどは、後に江川太郎左衛門らの努力によって返還された。

 

※ 「江川太郎左衛門(1801~1855)」

「江戸幕府の世襲代官。文化4年 兄の英虎の病死により、代官職を継いだ。天保4年、高島秋帆より西洋砲術の伝授を受け、伊豆韮山に鋳造所を設け、諸藩の求めに応じた。

嘉永6年、黒船来航に当たり、海防の儀に参画した。

品川の台場設置、湯島や韮山での大砲製作、また、韮山郊外に反射炉を設けて鉄砲を製造するなど海防に尽力した。

嘉永6年、万次郎は幕命により江戸に及ばれた。万次郎の能力を高く評価した江川は幕府に願い出て、万次郎を御普請役として自分の手付とした。

蒸気船を造船中であった江川は、万次郎を本所の屋敷に住まわせ、蒸気船の乗組員を呼び、操帆術を学ばせた。

嘉永7年、黒船が再来した際、交渉役の江川は通訳に万次郎を起用するつもりであった。 しかし、水戸烈公と阿部伊勢守に反対され、結局、万次郎は、交渉の通訳をしなかった。」

 

 

 長崎の取調べは、万次郎を時々いらだたせた。 

せいぜい1ケ月もあれば終わると考えていたが、同じことを何度も聞かれ、万次郎は深い失意に陥っていた。

アメリカと日本ではこれほど違うのかと、万次郎は国の違いを、いやというほど見せつけられた。

アメリカは移民の国であり、異国人に対しては寛大である。 何年も暮らせば市民権も与えてくれる。

ところが日本は、かたくなに鎖国をまもり、異人を卑しみ嫌い、漂流した自国民を犯罪者として取り調べている。

万次郎は、納得できなかった。

 海の彼方の国はどんどん進歩している。 

このままの日本では、取り残され、やがて占領される恐れさえある。

何とかしなければと思いが強くなってくるが、何ともし難いと、地団駄ふんで悔しがる万次郎であった。

 

それにしても、鎖国体制下にあっても唯一の窓口であり、国際情勢に一番明るい立場にいる長崎奉行所が、この体たらくでは、失望するほかはなかった。

長崎奉行と薩摩の対応の違いを身を以て感じていた、薩摩の島津斉彬公は、進歩的で異例中の異例であったかも知れない。

万次郎はさらに奉行に海外事情の説明をする。

「アメリカの大統領は、能力と学識によって、人民の中から選ばれる。 任期は4年で、人民から評価されて、徳を備えていれば、任期がきても解任されない」

「身分の高いお役人が道を通るときでも、商人や百姓は、土下座する必要はなく、また、誰でも役人になれる。 身分の差などはないのです」

奉行は、その都度万次郎に 「 待て、待て、その話は危険な考えであるぞ」 とか 

「でたらめを申すな」 「そちの話は どうも偏っている。 気を付けて喋れ」 などといっている。

これに対して万次郎は、奉行に 「私は自分の考えをお話しているのではありません。 アメリカのことを話しているのです」

「このようなお話も、薩摩のお殿様にもお話をしました。 お殿様は そうか!そうか!と言って、よく聞いてくれていました」

などを話して、奉行に応答している。 

長く続けられている長崎奉行所での取り調べていた最中に、土佐藩主 山之内容堂公より 「3人の漂流民を引き取りたい」 との連絡がはいってくる。

万次郎たちは、喜び、「これでやっと 故国 土佐に帰れる。 おっ母に合える」

 

その後、長崎での取り調べは終わり、土佐藩から身柄を引き取りに来た17名の役人と共に、6月25日、長崎を徒歩で、郷里土佐を目指して行った。

一行は船を乗り継いで伊予(愛媛県)に着く。 さらに国境を越え、土佐国に入りして 7月11日 高知に着く。

 

大手門から、高台にそびえる高知城天守閣を望む

 

高知城下に着くと、万次郎たち漂流民を一目見ようと大勢の人たちが出迎えに集まっている。

一行は物見高い群衆の中を通り、その日は城下の旅籠で宿をとった。

山之内容堂公は、島津斉彬公より、万次郎の稀有まれな体験や博識ぶりを聞いており、一日も早く帰国を望んでいたが、幕府長崎の取り調べが長期間に及び、やっと願いがかなった思いであった。

容堂公も開明派の主君で、ものの道理をわきまえていたが、家臣のおおくは、保守的で頑固な人たちであった。 

高知でも、やはり万次郎ら3人が高知入りした時から役人による尋問責めが続けられていた。

しかし、数日たって様子が変わってくる。 

土佐藩重臣の吉田東洋が選んだ、高知城下随一の知識人 河田小龍が尋問にあたることになった。

小龍は幼い時から秀才ぶりを発揮、特に絵画は藩より認められ、江戸にも出て腕を磨き、帰国するや吉田東洋の門下にはいる。

吉田東洋の海外政策論に傾倒し 「鎖国はもう古い。大船を建造し、大砲を製造して、異国とも付き合わねばならぬ」 という思想に共鳴し、学問に励んでいた最中に、万次郎が帰国したのである。

小龍の尋問は、罪人としてではなく、すこぶる穏やかで、万次郎が喜んで海外事情を伝えたい!と思うほどであった。

小龍の願いもあって、小龍の家で寝食起居を共にしながら、万次郎は熱心に海外事情の話をしていった。

小龍は、万次郎から聞きとっった海外事情を丁寧に記載し、後に 「漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)」 にまとめる。

万次郎にとっても、小龍との出会いで、小龍の人徳に惹かれた。 逆に、小龍から日本事情や日本語を学び、教養・知識の幅を広げることができた。

これは、万次郎のその後の人生を、きわめて有意義に過ごすのに大いに役立っていく。

 

長崎奉行の保守頑迷な態度の比べ、土佐の開明思想は際立っているように思える。

河田小龍は、高知城下で学問塾を主宰するテキストに、万次郎の話した漂巽紀略を使用していた。

門下生には、日本の夜明けに大きく貢献した坂本竜馬、中岡新太郎、三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などを輩出する。

万次郎は、土佐藩主の山之内容堂や吉田東洋、河田小龍のどの重臣に気に入られ、生まれ故郷の土佐で羽ばたくことになる。

 

高知城下での3ケ月に及ぶ、取り調べも終わり、万次郎たち3人は高知城下を後にして 、伝蔵の故郷である宇佐浦(土佐市)に陸路で向かった。

伝蔵の村では、心温まる大歓迎を受け、新しく用意された伝蔵の家で一泊して、万次郎は、翌朝一人で足摺岬を目指し、仲ノ浜に帰って行く。

 

高知を出て4日目に中ノ浜に着く。 万次郎が宇佐浦を出たことは、昨日のうちに中ノ浜に伝わっていた。

峠には何人もの村人が万次郎を出迎えに来ていた。 峠を越えると、11年ぶりに見る懐かしい故郷の光景が広がっている。

昔と変わらないリアス式の美しい海岸線があり、子供の頃によく遊んだことが昨日のことのように思い出され、やっと故郷に帰った実感から心が奮い立ってくる。

「とうとう帰ってきたのだ!」 「 夢にまだ見た 故郷に帰ってきたのだ」

万次郎は,出迎えてきてくれた一行と共に、まず庄屋の家に帰国の挨拶に出向くことになった。

峠から曲がりくねった坂道には、大勢の村人たちが、万次郎を一目見ようと集まり、庄屋の家までぞろぞろと一緒に歩いて行く。

万次郎の生家のある現在の中の浜地区(土佐清水市)

庄屋の家の門をくぐると、村人の視線が万次郎に集中する。 大勢の村人たちが集まっている。 見覚えのある顔が並んでいる。

兄の時蔵、姉のせきと志ん、妹の梅、その真ん中には、片時も忘れることがなかった母親の汐が座っていた。 

さらに、万次郎の家族を大勢の村人たちが集まり、取り囲んでいる。

集まった全員が、万次郎と家族の感激の再会を固唾を呑んで見守っている。

「おっかさん ただいま帰りました!」

と いうなり万次郎は、母親の膝にすべり寄って母親を抱いた。 兄弟、姉妹のすすり泣きで泣いている。

この感激シーンに、多くの村人たちも、もらい泣きしたのか! 目には一杯の涙を浮かべている。

母親の汐は、万次郎と抱き合いながらも、庄屋の方を何度も振り返り、

「ほんとうに万次郎ですか!私の倅の万次郎ですか! 」 幾度も問い返した。

「間違いなく汐さんの大事な倅、万次郎さんだよ」 庄屋は、笑顔できっぱりと答えた。

「ほんとうに、万次郎ですか! ほんとうですか!」

想像もできないほど別人のように立派に、逞しく育って、12年ぶりに見る倅を母親を見上げていた。

「万次郎・・・・・」

母親の汐は、感激にむせんで、目を手ぬぐいで押し当てたままで言葉が出てこなかった。

万次郎も 「ただいま帰りました。お達者で・・・・」 というのが精一杯で、目には大きな涙がこぼれていた。

母親の汐は、倅は海で亡くなったものと思い、近くの大覚寺の境内に自然石を置いて、それを、万次郎の空墓とし、一日とも欠かさずに、毎朝 お参りを続けていた。

「自分が 宇佐浦などに漁師見習いに、だしさえしなければ」 と、己の過ちを責め続けていたのである。

それが、1年ほど前に、 薩摩へ漁に行った者から、「万次郎は生きており、メリケの国から帰ってきたらしい」 との噂が流れていた。

信じられなかった。 しかし 2ケ月前に、土佐藩の役人が現れ、聞き取りの調べも済み、万次郎が帰ってくるとの連絡を受けていた。 噂は本当であった。

 

万次郎の中ノ浜(土佐清水市)にある生家

12年ぶりに再会した万次郎と家族、親子水入らずでゆっくり落ち着いた生活もあっという間に過ぎ去った。

中ノ浜に帰って3日後、万次郎に高知城から出頭命令が届いてくる 。

万次郎を定小者(さだめこもの)とういう士分に取り立て、高知城下の教授館(学校)の教授に任命するというものであった

身分制度の厳しい時代に、一漁師から下級武士であっても、さむらいに昇格するのは異例の出世である。

 

この時代は、万次郎が侍に昇格するよりも、世界の先進国で学んだ知識や経験が、当時の日本が必要で、万次郎の国際的な高い知識や能力が活かされる時代が到来したのである。

当時25歳の万次郎は、高知に出ると、教育に情熱をそそいでいく。

聴講生には、吉田東洋の門下生の若者たちが多くをしめていた。 みんな一語一句も聞きもすまいと真剣に受講していた。、

後藤象二郎とともに山之内容堂公に勧めて、大政奉還を将軍徳川慶喜建白させた坂本竜馬や三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎などもいた。

万次郎は、自らの体験したアメリカの民主主義、自由、平等、独立の精神、さらに航海術や捕鯨船による活動状況などについて講義した。

土佐の若い聴講生の目は輝き、新しい日本の姿などに夢を膨らましていた。

また、万次郎は英語の教育にも力を入れ、耳から覚えられるように、発音やイントネーションに優れた授業を行った。

書く力も、現在の大学生の平均値より高いといわれ、英語的な表現方法も、さすが本場仕込みと思えるほどである。

軍艦4隻を率いて浦賀にやってきたアメリカのペリー提督

1853年6月 日本に大きな事件が発生する。ア メリカの提督ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に現れ、開国を要求する事件(黒船)が起きる。

この事件は、万次郎の耳にも入った。 「いよいよやって来たか!」 と 万次郎は予期していた。

大砲を備えた 「黒船」 の出現に幕府は慌てた。 追い払おうにも、そんな武力は日本にはなかった。

軍艦の砲口を町に向けて、不気味に威圧した上で、武装した数百名の海兵隊員を従えて、ペルー提督は久里浜(横須賀市)に上陸し、親書を浦賀奉行に突き付けた。

アメリカ大統領から鎖国を解き、開国するようにとの要望書であった。

来春に再び来るまでに、返答を用意しておくように一方的に言い放った。

4隻のペリー艦隊が浦賀から江戸湾を航行したコース、測量も行っていた。

 

ペリー艦隊は、江戸の至近まで接近させ、号砲をうつなどの示威行動で江戸市民を震え上がらせ6月12日(西暦7月17日)悠然と去った。

浦賀に現れた黒船 ポーハタン号

幕末の西洋艦船の外輪船

ぺリー-艦隊が去って江戸庶民はホットしたが、幕府は、それからが大混乱に陥っていった。

老中阿部伊勢守正弘は、対応策に関して諸大名に諮問したが、情報が分からず、知恵を出そうにも新興国アメリカの情報は、全くと言っていいほど入っていなかった。

そんな時、進歩的な蘭学者が土佐の万次郎の登用を進言してきた。

万次郎のことは、阿部正弘も知っていた。

長崎奉行から 「頗る(すこぶる)怜悧(れいり)にして、国家の用となるべき者なり」 との報告が入っている。

急ぎ 阿部正弘は、土佐藩江戸屋敷に 「万次郎と申す者を、外国の様子等を尋ねたいので江戸に呼び寄せて貰いたい」 との書状を届けた。

書状を受け取った土佐藩江戸屋敷や江戸から報を受けた高知城下も慌てて対応していた。

土佐藩では、幕府が必要としている重要人物に、自分の藩では、足軽にも及ばない最下級の身分しか与えていなかった。

このままでは、幕府に 「人材も見抜けない愚かな藩だ」 と思われる可能性があった。 これは、土佐藩の威信にかかわる問題だ。

急いで万次郎の身分を 「定小者」 から 「徒士格(かちかく)」 へ引き上げた上で、江戸へ送り出したのである。

 

ペリーが去って1ケ月後に、ロシアの艦隊が長崎に強引に入港して、通商を要求して来たとの情報も万次郎に入っていた。

しかし 万次郎は驚かなかった。

 ロシアもアメリカが、浦賀に軍艦を引き連れて強引に開国を要求したとの情報を入手した後の行動だと思った。

日本の混乱ぶりをみて、力による外交交渉を始めてきたのである。

万次郎が恐れていたことが、本当に始まろうとしている。

「何としても、母国 日本を守らねば」 との思いを強くしながら、来春の再来を言い残して、ペルーが去って、2ケ月半後の8月30日、万次郎は江戸に到着した。

待ちかねていた、老中阿波正弘は、即刻 万次郎を呼びつけ アメリカなる国についての質問をうけた。

 

時は来た、、、、万次郎は、アメリカで生活していた時に、日本に関するニュースやアメリカ政府の考え方、今後の方針などの情報を聞き、日本が心配でならなかった。

やっと、日本国の中枢にある人に自分が培わしてきた知識や技術、情報を話す機会が訪れたのである。

万次郎は感慨深かった。 自分は、この日のために、アメリカから鎖国を続ける日本に帰国してきたのである。

といっても過言ではなかった。