気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

岩壁に彫られた大磨崖仏(だいまがいぶつ)・・・奈良県

2008-12-29 11:51:35 | 気ままな旅
 12月13日(土)岐阜県多治見市内で2日間の所用を済ました後、東海環状自動車道鞍ケ池PAに20時30分頃到着し、遅い夕食を済まし、車中泊をしていた。
 夕方からはあいにくの雨模様の天気となってきたが、気温の極端な低下はなく、寒さをそんなに感じることなく熟睡することができた。
 14日(日)朝早くから目覚める。
 隣には家族連れの普通乗用車が、エンジンをかけたまま車中泊をしている。
 やはり、車のガラス面に断熱材などの工夫がなければ、車内が冷えて眠れないように思える。
 今朝の天候は、昨日の雨はあがっているが、上空には厚い雲がおおっている。
 雨さえ降らなければ、大阪までの帰宅途中にある、奈良県室生寺に寄って行きたいと思っていた。
 天気予報によると、大阪方面はすでに晴れており、奈良県の室生寺周辺の雨の心配はなさそうであった。
 少し慌しいが、朝食は走行中の車で摂ることにし、我が家自慢のコーヒーをたてて、すぐに出発した。
 愛車は東海環状自動車道から伊勢湾岸自動車道を通り、東名阪自動車道、名阪国道に入って行く。
 名阪国道の針ICから一般道に入り、室生寺に向かった。
 室生寺までの道中にあって、30年ほど前に訪れたことがあり、岩壁に刻まれた仏像を思い出して、立ち寄ることにした。
 この岩壁に出来た仏像は、宇田川をはさんで対岸にある大野寺(おおのじ)で祀られている。
 大野寺は古くから室生寺の末寺として「室生寺の西門」と呼ばれてきた寺である。
 伝承では白鳳9年(681年=飛鳥時代)役行者によって開基され、天長元年(824年=平安時代)に空海(弘法大師)が一宇を建立し、慈尊院弥勒寺と名づけられたが、後に地名から大野寺と呼ばれるようになった。
 大野寺境内には遥拝所が設けられ、対岸にある屏風ケ浦の大野寺弥勒磨崖仏(おおのじみろくまがいぶつ)を見ることが出来る。

          
           宇田川沿いに作られた公園と駐車場の側にある大野寺山門

           
        大野寺境内のしだれ桜 花期には多くの観光客やカメラマンで賑わう。

 宇田川の対岸にある弥勒大磨崖仏(みろくだいまがいぶつ)は、承元元年(1207年=鎌倉時代)、後鳥羽上皇の発願によって、京都笠置寺の弥勒石仏を模して刻まれたものである。
 弥勒大磨崖仏は高さ30mの大岩壁に刻まれている。
 岩壁を高さ13.8mにわたって光背に彫り窪め、その中を平滑に仕上げた上で、像高11.5mの弥勒仏立像を線で刻んで表している。
 作者は宗から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆくすえ)の一派と考えられている。
 対岸からは線が薄れ、肉眼では見えにくいのが残念である。

            
            公園にある東屋から対岸にある屏風ケ浦の弥勒大磨崖仏

             
            宇田川畔にある弥勒大磨崖仏 線が薄く見えにくい大磨崖仏

             
            上右の拡大写真このような像が  崖仏下にもこのような彫り物がある

 30年ぶりに訪れた岩壁に彫られた石像、前回に訪れた時には、岩壁に刻み込まれた仏像の線が、肉眼でもはっきりと見えた記憶があるが、今回は私の肉眼でも薄っすらとしか見ることは出来なかった。
 私の視力の低下もあるかもしれないが、石像全体が風化しているように感じ残念であった。
 やはり、このような石像まで異常気象の影響があるのだろうか! 
 800年前に出来た石像が、わずか30年で、こんなに風化していることに、驚かずにはいられない。
 もし、異常気象に原因があるのであれば、将来を考えるだけでも恐ろしくなってくる、地球温暖化防止などの対策に、地球に住む全ての国々や人々が、真剣にとらまえ、対策をこうじていく必要性を痛感させられる。
 また、異常気象防止に役立つ、ほんの小さなことでも、皆で取り組んでいければ大きな一歩となる、私も地球を愛し、小さな一歩を常に歩んでいきたいと思った。
 大野寺弥勒大崖仏の見学を終えた私たちは、女人高野として全国に知られている次の目的地、室生寺に向かって行った。 
 





女人高野の里―那須正喜写真集
那須 正喜
遊人工房

このアイテムの詳細を見る



神秘的で幻想的な赤目四十八滝

2008-12-26 15:14:59 | 気ままな旅
 11月22日(土)の夕方、私たちは室生赤目青山国定公園の中にある、赤目四十八滝を目指して、南大阪にある自宅を出発した。
 明日は天気も良さそうで、赤目四十八滝の紅葉を求める人たちで渋滞が予想される為に、今夜は近くの道の駅で車中泊し、朝早くから赤目四十八滝を目指したいと考えていた。
 出発する時には、どこの道の駅で車中泊するかは決めていなかったが、道中で赤目四十八滝に一番近くにある道の駅「宇陀路室生」に、到着予想時間などから判断して決めていた。 
 23日(日)朝早く目覚める。昨夜は9時過ぎに道の駅に到着し、10時過ぎには睡眠にはいっていた。
 朝の気温も少しひえているが、車内の気温は全ガラス面に断熱用のボードをはめ込んでいるせいか、エンジンを停止しても、そんなに寒さを感じず、ぐっすり睡眠をとることが出来た。
 幸いにして今日も上天気である。

 私は朝食を済ました後、我が家自慢のコーヒーをたてている時に、隣に駐車していた50代の夫婦に出会った。
 たてたばかりのコーヒーを勧めると喜んで飲んでくれた。
 この夫婦は兵庫県姫路市から来た夫婦で、学校関係の仕事をされているようで、これからは女人高野で知られている、室生寺に行かれるとのこと、礼儀正しい好印象の夫婦であった。
 談笑を終えた後、私たちは赤目四十八滝に向かって行った。
 赤目四十八滝の駐車場には、30分ほどで、午前9時30分頃に到着する。
 幸いにして時間的に早いせいか、駐車場には、まだ、ゆとりがあった。
 私達は早速、カメラをぶら下げながら赤目四十八の見学に出かけて行った。
 駐車場からは、商店街を通り、真っ直ぐに進んで行くと、日本オオサンショウウオセンターの建物が見えてくる
 ここが赤目四十八滝の入り口で、入山料を支払って中に入って行く。
 建物の中は、水族館のようにオオサンショウ魚の実物や、四季によって変わる赤目四十八滝のパネルなどが展示されている。
 見学を終えて外に出ると、渓谷に沿ってよく整備された遊歩道が通っている。
 天気は快晴であるが、深い谷間の渓谷には、太陽光線は届かなく、聳え立つ岩壁の頂きを明るく照らしだし、紅葉した樹木の鮮やかさが映しだされている。

 深い谷間の渓谷には、所々の段差の岩間を白い泡を発生しながら、清水が美しく流れている。
 平坦で水溜りの川では、蒼い苔が岩全体を覆い、倒木した樹木も蒼い苔で覆われている。
 そんな渓谷に、紅葉した絶壁の岩場が迫り、渓谷全体の景観を作り出し、神秘的で幻想的な雰囲気をかもし出している。
 また、渓谷の中にある巨大な岩にも、幾種類かの紅葉した樹木が自生し、その根が岩を覆い、苔や垂れ下がる枝などの光景も、赤目渓谷の情緒を、一層かもし出している。
 赤目渓谷の滝の名には、千手滝や不動滝などの、仏名と関わる名が多く、この地が自然によって造られ、深い信仰の対象となっていったことも、うなずける景観である。
 私たちは渓谷美を楽しみながら奥へ進んで行く。
 渓谷には、多くの人たちが訪れ、晩秋の景観を楽しんでいる。
 その為にか、絶壁に架かる遊歩道の狭い階段では、上り下りが同時に出来ず、長い行列が出来ている。 
 私達はすばらしい景観が続く渓谷を、奥へ奥へと進んで行く。

         
               赤目四十八滝の名に由来する赤目牛の像

  赤目四十八滝の名についての由来は、役の小角(えんのおづめ)が滝に向かって行を修めていると、不動明王が赤い目の牛に乗って出現したという伝説からきている。 
         
                  赤目四十八滝の紅葉

          
        上部滝と二段になって美しく流れ落ちる 霊蛇滝(れいじゃだき)
 
 高さ6m、幅3mの滝である。
 滝そのものものも美しい滝であるあるが、滝壺の透きとおった碧さも格別で、心に引かれる。
 霊蛇滝の名は、白蛇が岩をよじ登る趣があり、滝の流れの中に顔を出す岩が、龍のつめ痕を思わせることからつけられた。

           
  不動明に似ていることからつけられた不動滝  渓谷に聳え立つ絶壁と岩肌を覆う紅葉の谷

 不動滝は赤目五瀑に指定され、高さ15m、幅7mの名瀑である。
 不動明王にちなんで名づけられたもので、明治以前には”滝参り”とはこの滝に御参りすることで、明治の中頃まではこの滝から奥には入れなかった。 

          
      幾段かのごつごつした滝壁にぶつかりながら美しく流れ落ちる不動滝
 
           
 岩を伝わって千手のように流れ落ちる千手滝(せんじゅたき=写真左)  
 青々とした深い壷の中に一面の岩肌から糸を引いたように美しく流れる布引滝(ぬのびきだき=写真右)

 千手滝も赤目五瀑に指定されている。
 高さ15m、幅4mの滝で、複雑な形をした岩をすべる落ちる美しい姿から名づけられた。
 布引滝も赤目五瀑に指定されている。
 高さ30mの滝で、名の通り白布を長々とたらしたような優美な姿の滝である。
 水が掘り込んだ滝壺の深さも30mと、驚くべきべき深さである。

          
    多くの人たちも落葉した葉のある岩肌に立って楽しんでいる滝ケ壷(りゅうがつぼ)
 
 大きな一面の岩盤をすべるように落ちる、女性的な美しさの滝である。
 写真では見えないが、滝から流れる水の力が、一面の岩盤を切抜いて作られた滝壷は、底無しといわれるほど深い壷である。
 ここに龍が棲んでいるという伝説から名づけられた。 
           
崖の上から岩を伝わって雨が降るように落ちる雨降滝(あめふりたき=写真左) 
骸骨滝(がいこつたき=写真右)渓流にかかる小さな滝で、落ち口に骸骨に似た岩が横たわっていることから名がついた。
     
          
                  百畳岩(ひゃくじょういわ)と茶店 

 茶店の前から、一枚岩の大きな岩盤が広がっている。横が15m、幅が10mもあり、百畳ほどの広さがあることから百畳岩と呼ばれている。
 渓谷の中にくつろぎの空間を感じ、周りの景観を楽しめる場所でもある。

          
岩の上部から幾重にも根を垂らし、紅葉とうまく調和して独特の景観をかもし出している七色岩(なないろいわ)

 百畳岩の前にある大きな岩で、岩の上には何種類かの樹木が自生し、紅葉を見せている。
 写真は百畳岩の反対方向からで、岩の上の木根が岩を挟むように、地面まで伸びている。
 渓谷の中での複数の岩や樹木と紅葉の美しさは抜群である。

          
     両側には聳え立つ絶壁が迫り、清水が美しく流れ落ちる滝や、紅葉した渓谷を楽しむ人たち

          
    苔のある岩肌を寄り添うように、仲つつましく流れ落ちる姉妹滝(しまいだき)
 
 七色岩を少し過ぎた所から見えてくる、大小二つに分かれて落ちる滝である。
 仲の良い姉妹を思わせるような姿から、名づけられた。  

           
 姉妹滝と紅葉の渓谷(写真左)  滝も渕も小さく渓谷を清純な乙女のように流れる乙女滝(おとめだき=写真右)

          
            深い谷間にある一面苔で覆われた岩と神秘的な渓谷 
 
          
 赤目四十八滝の中で数段に分かれて美しく流れ落ちることから人気が高く、絶好の撮影ポイントの荷担滝(にないだき)

 荷担滝(にないたき)も赤目五瀑に指定されている。
 高さは8mであるが、二つに分かれて流れ落ちるさまから名づけられた滝である。
 個性的な姿が人気で、赤目四十八滝のシンボル的な存在の滝である。

          
             渓谷随一の景観と絶賛される荷担滝(にないだき)  

          
      幾段にもなって流れ落ちることから名づけられた雛壇滝(ひなだんたき)

 川が二つに分かれ、赤目渓谷の本流側にある初流で、一面の岩が幾段にもなった清流が流れ落ち、雛壇のように見えることから名づけられた。
 
          
            渓谷に紅葉した絶壁の谷間が迫り、神秘的な遊歩道を歩く人たち 

           
太陽光線も届かない谷間と絶壁の頂きの明暗さの渓谷 晩秋漂う静かな渓谷と紅葉

          
           落葉した渓谷を流れる清流と上流にある琴滝(ことだき)

          
           琵琶滝(びわだき)前で静かに流れる渓谷を楽しむ人たち

 琵琶滝も赤目五瀑に指定されている。
 高さ15mで、楽器の琵琶に似ていることから名づけられた。
 滝壺の色からも神秘的で魅力的な滝である。 

           
           渓谷と琵琶滝(びわだき)    深い渓谷の谷間に差し込む光線

          
              赤目四十八滝の最後の滝 巌窟滝(がんくつだき)

 滝の中腹に深い石穴があることから巌窟滝と呼ばれている。
 高さ7m、滝壺は小さく深さ3m程の滝である。 
       
 赤目四十八滝の48は数が多いことを意味し滝の数ではない。
 大小の滝を併せるともっと多いようである。
 古来よりこの滝は霊地として拝められ、修行や参拝する滝であった。
 妙法山の阿弥陀如来を配していることから、四十八滝を全周することで、諸願が達成されることに通じると、考えられているようである。
 赤目渓谷を訪れて感じることは、渓谷美全体から、今まで訪れたことのない神秘的で、幻想的な雰囲気が漂っているように感じる、何時までたってもあきる事の無い、大変印象深い渓谷と滝であった。
 

水間寺と窯業地の全国一は泉州・・・・大阪府 

2008-12-20 13:05:23 | 気ままな旅
 11月22日(土)今日は朝から快晴の天気となっている。
 妻と二人で近くにある水間寺に、紅葉を求めカメラをぶら下げながら行くことにした。
 水間寺には愛車を利用し、午前10時頃出かけて行ったが、水間寺の駐車場は、何かの催しを開催中で、満杯であった。
 その為、山裾にある第二駐車場にとめることにした。
 第二駐車場からは、すぐ脇にある境内の参道に入ると、そこは森林になっていて、ひと際大きな楠木がたっているが、もみじなどが紅葉するのは、まだ先のようである。
 そして、すぐ下には鏡池があり、池の中には小さな祠「瑞泉堂」が建てられている。 さらに、その周辺には幾つかの小さな伽藍も建てられている。
 その中にある行基堂は、水間寺の開基である僧行基を祀っている、水間寺の奥の院である。
 行基堂の側には、小さな薬師堂があり、その手前には白衣観音像が祀られている。
 薬師堂を過ぎると、その下は旧170号線が秬谷川(きびたにがわ)に沿って走っている。
 道路を通り過ぎると秬谷川に架かった赤い欄干の橋があり、渡るとそこは本堂の境内で、重層な趣のある本堂と、境内の中央に位置して建てられたと思われる、優美な三重搭が姿を現している。
 しかし、今日は水間寺の境内で「陶器まつり」が開催されており、出店者のテントが所狭しと張られ、多くの人たちで賑わっている。

 ※ 電車でこられる方は、南海本線貝塚駅で、水間鉄道に乗り換え、終点「水間」駅で下車、東の方へ徒歩7分ほどの距離にある。

 通称水間寺は龍谷山と号し、天台宗別格本山で聖観世音菩薩を本尊としている。 水間の寺号は、蕎原川(近木川)と秬谷川の合流地点に位置することから、水間の名前に由来したと伝えられている。
 天平年間(729年~749年=奈良時代)に、聖武天皇の勅願によって、僧行基が創建したと伝えられているが、和銅元年(708年=飛鳥時代)の開基の説もある。
 中世以来、貴族や武家の信仰を集め、特に江戸時代には、岸和田藩主の岡部氏のあつい保護を受け繁栄する。
 水間寺では、直木賞作家の今東光が、昭和36年から一時期に住職だったことも有名である。
 大阪府下で唯一現存する三重搭は、江戸時代後期に建てられたものである。
 毎年1月2日には、行基ゆかりの千本もちつきが行われる。     

          
                  境内にある大楠木と黄葉 

           
     紅葉の中にある奥の薬師堂と、左手前の伽藍には白衣観音像が祀られている

 薬師堂は伝説によると、「行基が勅令によって建立したもので、仏の冥助を破らず、且つ、また病災苦悩があるのにどうして、この大願を成就することが出来ようかと考えた挙句、薬師善逝の像を刻んで大願成就を祈った、まことに、この尊像の擁護の賜である」 と記載されている。

           
        水間寺の本堂と三重搭の建つ境内で陶器まつりが開催されている

            
陶器まつりの出店に寄り添う人たちと三重搭  七五三の御参りか! 記念撮影の親子

 三重搭は、かつては多宝塔で多宝如来を按置した。
 ふるい記録によれば、孝謙天皇(天平勝宝749年~757年=奈良時代)が舎利搭を按置したと伝える。
 天正の兵乱(安土桃山時代)に焼亡したので萬冶年間(1658~1661年=江戸時代)に改めて三層の搭を建て、釈迦仏の像を按置した。
 伊原西鶴の「日本永代蔵」に記載されたモデルの搭として考えられている。
 現搭は天保5年(1834年=江戸時代)に再建されたものである。

            
 柔らかい微笑みで私達を常に受け入れてくれる観音様  聖観世音菩薩出現の滝

 この聖観世音菩薩出現の滝である龍明神、降臨滝の渓流は由緒深く、いまからおよそ1300年以前、行基菩薩が龍神より聖観音像を授与された浄域である。
 この渓谷には、観音像が降臨されたという座光石の側面に、伝教大師が不動尊を刻まれ、弘法大師の名号石もある。
 この浄域を知らずに、穢して災いをこうむる人、しばしばあったと伝えられている。

           
     地元泉州で焼かれた泉州焼の「陶器まつり」が開催され、多くの商品が並んでいる

 私も泉州に住んでいるが、泉州で陶器が焼かれていたことは驚きであった。
 ただ、泉州の永い歴史的に考えて見ると、泉州に陶器が焼かれ、当時の中心部である畿内に、商品を供給していることに、全く違和感を感じない。

 当時の泉州は、日本で最初の焼〆陶器「須恵器」の産地であった。
 その後須恵器は、「行基焼」ともいわれるように全国各地に伝播し、今も六古窯として残る各地の産地が、新たな技法ともあいまって形成されていきました。
 その中にあって大阪府泉州は、本格的な産地としては発展しませんでしたが、焼物に適した陶土が各地で産出されたので、近代まで瓦や窯業が続けられました。
 そんな泉州で、足跡を残した窯元をご紹介する。
 堺市の湊焼や半田焼、和泉市の陶邑古窯址群、土の子陶房、貝塚市の和泉音羽焼、岬町の深日焼などである。

 ※須恵器とは、日本には古くから焼物が作られ縄文・弥生と土器の時代が続いていた。
 古墳時代になると、中国を源とする灰陶(かいとう)が入ってくる。
 中でも大阪府にある大阪府泉北丘陵では450年頃、朝鮮の伽耶(かや)土器に近い陶器(すえのうつわ)が作られるようになった。
 それらの陶器は、古墳の副葬品として一緒に埋葬され、今も全国から発掘されている。
 その後、奈良・平安時代と造り続けられ、久米田池(現大阪府岸和田市)にもニ基の窯が残されている。
 行基は、和泉国大鳥郡(大阪府堺市周辺)の生まれで、全国に寺院を作り、人々の為に尽くすが、陶器を全国に広めた人としても有名で、この陶器を人々は「行基焼」と永く親しんで呼んでいた。
 明治には祝部(いわいべ)土器と呼ばれるようになっていたが、昭和20年からは須恵器(すえき)呼ばれるようになった。
 この時代の窯業地の全国一は、茅渟県陶邑(ちぬのあがたのすえむら=大阪府堺市泉北ニュータウン周辺)と日本書紀に書かれている。
                                                              (轟陶磁史料室)

 須恵器は、土師器(はじき)と比べて丈夫で水を漏らしにくいという長所があるが、直接火にかけると割れてしまうため、煮炊きに使用することはできない。
 煮炊きには土師器(はじき)を使っていた。
 土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代~奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけに取って代わられるまで生産された素焼きの土器である。
 須恵器と同じ時代に並行して作られたが、土師器のほうが品質的に下であった。 埴輪も土師器である。

          
          動物や装飾用など様々な形に焼かれた陶器が陳列されている

           
    幾度か火災に見舞われた本堂 現在のものは1811(文化8年=江戸時代)に再建された

           
           厄除の観音様としてあつい信仰を集めている本堂拝殿 

           
             初詣には多くの参拝客が訪れごった返す本堂の拝殿

             
              本堂からの三重搭      三重搭と陶器まつり

           
          三重搭の初重の蟇股(かえるまた)に彫られている十二干支
 
 三重搭には、十二支彫刻が四面に三箇所ずつ、色鮮やかに彫られている。
 大阪府下では随一のものであるらしい。

 今日はあまりの上天気で、紅葉を見ようと妻と二人水間寺にやってきたが、残念ながら、時期的に早く紅葉を見ることは出来なかった。
 ただ、境内で開催されていた泉州焼の陶器まつりは初めてで、かつてこの地域が、全国一の生産地であったことは驚きであった。
 私自身は以前に、美濃焼の産地である岐阜県多治見市に住んでいて、陶器と言えば愛知県の瀬戸市や岐阜県の東濃地域(多治見・土岐・瑞浪・可児)が、昔からも中心であるとばかり、考えていたが、この地域で泉州焼の陶器が焼かれていたことに、大変驚かずにいられなかった。
 また、今回須恵器については、新たに勉強さしていただいて感謝に絶えない。

 水間寺に関しては、この地域でも厚い信仰を集め、年始には交通規制がしかれ、初詣の参拝者や、境内には赤いテントが所狭しと張られ、多くの店が出店して、大変な賑わいを見せている。
 また、通常も厄祓いの観音様として人気が高く、地元の人たちも、厄年の人やマイカーを購入した折には、厄落しや安全を祈願した、お祓いを受けている方を多く見かける。 

和泉葛城山から 大阪湾一帯の見事な眺望

2008-12-11 10:45:12 | 気ままな旅
 11月22日(土)朝起きると快晴の天気であった。
 全国各地から美しく紅葉した地域を紹介する、テレビニュースが流されている。
 私達もあまりの上天気に、自宅にじっとしていられなく、妻と二人、カメラをブラ下げながら和泉葛城山(いずみかつらぎさん)に出かけることにした。
 和泉葛城山は、大阪府と和歌山県の境にある、標高858mの山である。
 葛城山という山名からは、ほとんどの方が大阪府と奈良県の境にあって、金剛山(こんごうさん=標高1125m)の隣にある、大和葛城山(標高960m)を思い浮かべる人が多い思う。
 和泉葛城山は、知名度では大和葛城山に及ばないものの、地元では古くから信仰の山として親しまれている。
 葛城山頂上には八大竜王社があり一言主を祀っている。そのすぐ北側には、背中を合わせるように葛城神社も祀られている。
 私たちは自宅から貝塚市の蕎原(そぶら)に入り、搭原を経由して急坂の続く林道を通り、頂上近くにある五本松にやってきた。
 五本松には、よく整備された紀泉高原スカイラインが通り、その道に交わって行く。
 また、五本松には、広い駐車場やレストランがあり、手前の軒下では、地元で採れた柿などの農産物を、市価より値打ちの価格で販売している。
 この場所は、大阪湾側の北斜面と、紀ノ川沿いの南斜面の、尾根の部分あたる場所である。
 ここからは、和歌山方面に広がる山稜の景観や、眼下の紀の川沿いに見える街並みも、雄大で美しくみえている。
 紀の川沿いにある、緑に赤や黄色の混じった、斑模様の山稜も美しい。
 私たちは、柿などの買い物を済ました後、尾根伝いに作られた、紀泉スカイラインを北方向に進んで行った。
 絶好の天気に恵まれたスカイラインからの景観を、見ているだけでも楽しさが湧いてくる。
 愛車は程なくして、頂上近くにある展望台の下に到着する。
 展望台までは歩いて5分程の距離である。
 快晴の天気になった展望台からは、大阪湾をはじめ、関西空港や神戸方面、大阪市全域、淡路島など360度の大パノラマの眺望が楽しめる。
 真っ青な空に、真っ青な大阪湾、それに白く輝く街並みや、手前に見える緑豊かな森林に紅葉した樹木など、どれ一つ摂ってみても文句のつけようがない、すばらしい景観であった。
 私たちは、過去何回かここを訪れているが、こんなにはっきりと見える、すばらしい光景は初めてで、暫くの間、この展望台からの眺望に見とれていた。
 
          
          葛城山に行く道中で出合った「少年自然の家」近くの黄葉

          
          紀泉スカイラインからの景観 落葉した枝にまとわる紅葉とススキ

          
             紀泉スカイライインから 北方向にある和泉山脈

          
          西方向にある南の展望台(有料)とレストランのある建物(右)

           
  大阪湾など360度の景観が楽しめる展望台 ススキなどの秋の風物詩と和歌山市方面の景観

          
              展望台窓からの紅葉と南側大阪湾の景観

          
             展望台から泉佐野市や関西空港方面の景観

          
              展望台からの関西空港や後方の淡路島の景観 

          
          展望台から貝塚・岸和田・大阪湾 神戸空港・中心部の景観 

          
              展望台から堺市・大阪港・大阪市内の景観

          
              展望台から堺市・大阪市内方面の景観

          
          展望台から紅葉の山稜と堺市・大阪湾・大阪市方面の景観

          
           展望台から和泉山脈北側の和歌山県橋本市方面の山稜  

          
               和泉葛城山頂上付近に広がるブナの原生林

          
       葛城山ブナ林の石碑 「天然記念物和泉葛城山ぶな林」と彫られている

 葛城山頂付近に見られるブナ林は、森林として価値が高く、大正12年に国の天然記念物に指定されている。
 ブナはナラ・カシなどに近い落葉広葉樹に属し、月平均気温が6~13℃の涼しい地域で生育する。
 日本では主に中部地区から北の地域と日本海側に分布し、西日本の太平洋側ではほとんど分布していない。
 このことから、気候条件として、和泉葛城山のブナ林は南限に近い位置にある言えそうだ。
   
           
       展望台から葛城山頂上への道   葛城山頂上にある八大竜王社

 葛城山は、奈良時代に役小角(役行者)が開いたとされる葛城修験道場として、信仰を集めていました。
 伝説によれば、江戸時代の享保年間(1716年~1736年)、岸和田藩主岡部氏が狩りに来山した時に、白鹿を射殺すると、たちまち雷が鳴り、豪雨となって、全山が振動し、急ぎ下山して民家に難を逃れました。
 そこで、藩主は巨石で社殿を造り、葛城一言主命(かつらぎひとことぬしのみこと)・八大竜王を祀って山を鎮めたと言われています。
 以来、社は五ケ荘(搭原、相川、河合、蕎原、木積)の郷社とされ、特に雨の神として信仰されてきました。
 毎年7月18日、8月25日、9月22日には、祭礼が行われています。
 
          
            頂上にある葛城神社と社殿石宝殿(文化財建造物)
 

           
           葛城山頂上からの下り階段  葛城山頂上への上り階段
       
          
         葛城山頂上への階段に立てられた無数の寒中登山等の記念の碑 

          
     手前のベンチでは昼食の弁当を楽しむ光景が見られる。休憩所からの展望台


 今日の絶好の天気に、久しぶりの訪れた晩秋の和泉葛城山、私達は何度もここを訪れているが、こんなに綺麗に大阪湾一帯を、眺望できたのは始めてである。
 和泉葛城山も季節により、色々と色彩の変化を見せ、私達を楽しましてくれる。
 特に今回の、上記にある展望台からの、大阪湾方面の景観は見事というより他はない。
 楕円形状の端にある大阪港や、真正面に見える神戸や六甲山系、それに関西空港から飛び立つ飛行機や大阪湾を行き交う船なども、景観に花を添えているように感じる。
 少し残念なのは、南側の和歌山方面の景観が、天気が良すぎて、逆光となり、少し見えにくいことであった。
 本来なら、午前や午後などに分かれて来ると、また、違った景観を楽しめると思う。
 今日、このような上天気にこられたことは、私達にとって、最高の思い出になる一頁であった。




里山紀行―生駒・和泉葛城山系
青井 洋子
光村推古書院

このアイテムの詳細を見る

 

 

紅葉の石山寺と縁の深い源氏物語 ・・・ 滋賀県大津市

2008-12-09 12:42:04 | 気ままな旅
 11月14日(金)午前中は琵琶湖畔を通行するさざなみ街道から、景観を楽しみながら南下し、琵琶湖の唯一の出口である瀬田川までやってきた。
 瀬田川には天下に名高い唐橋が架かっている。
 その風光明媚な側を通り、石山寺にやってきた。
 私は予てより、この石山寺には是非行って見たいと思っていた。
 歴史ドラマなどでも度々登場する石山寺であるが、これまでここを訪れることは一度もなかった。
 数限りなく琵琶湖周辺には訪れているが、自分でも不思議なほど、石山寺とは縁がなった。
 今回、紅葉の真っ盛りの時期に、ここを訪れることが出来たのは望外の喜びである。
 駐車場から瀬田川沿いを通り、石山寺の山稜を見ると、所々に建つ伽藍の周辺に赤や黄色が緑に入った斑模様をしている。
 石山寺の入り口である東大門は、瀬田川に面した美しい景観の中に作られ、多くの人たちが出入りをしている。
 門の近くに行って、下から見上げていると、その大きさに迫力を感じるてくる。
 門の左右には仁王様が力強いポーズをとって、私達を出迎えてくれている。
 紅葉し真っ直ぐな参道を見ながら、東大門をくぐると、右には 「源氏物語千年紀in湖都大津」 の看板が掲げられている。
 石畳で出来た参道の左右には、桜や紅葉などの樹木がアーチ型で覆い、多くの人達が訪れて行き交っている。
 参道の上には幾重にも重なる、「源氏物語千年紀in糊都」のイベントの為に作られ、模様の入った旗や飾り物が参道の奥まで並び、イベント色を一層盛り上げている。

 ここ石山寺は聖武天皇の勅願により、天平勝宝元年(749年=奈良時代)に良辨僧正によって開基され、歴朝の尊崇あつい由緒ある寺院である。
 また、この寺は西国十三番の札所に指定されている。
 本堂は縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期に造られ、外陣は淀君の修補によるものである。

          
東大門(重要文化財)建久元年(1190年=鎌倉時代)源頼朝の寄進により創建。慶長年間(1596~1615年=安土桃山時代)に大修理

           
源氏物語千紀のイベント色の強い石畳で出来た参道  公風園カフェーの入り口

          
   色鮮やかに紅葉した日本庭園で コーヒーなどを楽しみながら くつろぐ人たち

          
             石山寺入り口ここから手前が有料(大人=500円)

           
             本堂への石段    石段を上った所から正面に石山と多宝塔を見る 

          
  石段を上ると正面に石山と多宝塔があり、右に観音堂と毘沙門堂が、左には蓮如堂の伽藍が建っている。  

          
    この巨大な岩は、石山寺の名前に由来する、天然記念物の石山硅灰石である。

 後ろの巨岩は天然記念物にも指定されている、石山寺硅灰石(けいかいせき)である。
 硅灰石は、石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用の為に変質したものである。
 通常は大理石となるが、この石山寺のように雄大な珪灰石となっているものは珍しいものであるらしい。
 この大岩塊は石山寺の 「石山」の名前に由来している。

          
     石山硅灰石の上には数本のもみじがあり、色鮮やかに紅葉を見せている。

                    
 蓮如堂の横にあるの本堂への参道から境内を望む、多くの人たちが写真撮影などをして楽しんでいる。  

           
         石段を上った所にある源氏の間 源氏の間で十二単をまとった紫式部

          
                      紫式部の像

 蓮如堂の横に展示してある「源氏物語屏風図」見て、石段を上ると本堂で、紫式部が源氏物語を書いたと伝えられている「源氏の間」がある。
 ここは、千年の時を得た石山寺の中でも、独特の雰囲気を感じる場所である。
 
 千年の昔、紫式部によって書かれた長編小説 「源氏物語」 はここ石山寺から誕生したと言われている。
 源氏物語は、光源氏という、魅力ある高貴な男性と、その周りにいる個性的で、魅力的な女性達との物語である。
 物語は五十四帖からなり、平安朝の雅やかな文化がかがやく、宮中の貴族の暮らしを通して、男女の愛や想いなどを、独特のタッチで表現している。
 どんなに時代が変わっても、愛する美しさや尊さを伝えたかっただろうか!
 紫式部は物語完成の祈願と、その構想を練るために、石山寺に七日間こもったと言われています。
 本堂横にある「源氏の間」には、その時に紫式部が使用した硯があり、千年のときを経ても、なお、鮮やかにこの物語の起筆の記憶を今に伝えている。

          
           源氏物語の屏風図(八曲一双=江戸時代)を熱心に見る人

 この屏風図の源氏物語五十四帖は八曲一双にわたって一場面ずつ、ほぼ物語順に描かれている。
 各場面は、金雲で区切られ独立するものの、樹木、土坡、水景、屋台などで場面間を出来るだけスムーズにつなげようとして描かれている。
 このように景観の連続性を考慮することで、単に異なった場面を規則的に並べる単調さを和らげるように工夫されている。
 なお、各帖名を金雲上に墨書するが、後世のものか、所々に誤りがあるらしい。
 描写は巧みであり、特に「葵」の車争いの場面や「手習」の田楽の場面など、動勢にとんだ描写に優れている。

          
               源氏物語屏風図

 源氏の間を左に進むと、本堂入り口があり、中には大きな提灯が掲げられている。
 石山寺は聖武天皇が、この地に伽藍を建てて、如意輪法を修するようにと夢告を受け、良辨僧正を開基として開かれた寺院である。
 本尊の秘仏如意輪観音像は、聖徳太子がお伝えになった、縁結び、安産、福徳などに霊験あらたかな仏様として信仰を集めている。 
 石山寺は奈良時代から観音の霊地とされ、平安時代になって観音信仰が盛んになると、朝廷や摂関貴族と結びついて高い地位を占めると共に、多くの庶民の崇敬をも集めるようになっていった。
 その後も、源頼朝、足利尊氏、淀君などの後援を受け、西国三十三番札所の観音霊場として、今日でも参詣者が後を絶たない。 

          
               多くの参拝者が訪れ賑わっている本堂

          
 本堂には急斜面に建てられた舞台があり、林立する紅葉のもみじや巨木が迫っている。

          
                石山寺本堂のすぐ側にある三十八社の紅葉

          
          天然記念物の石山硅灰石の上から、紅葉のもみじと境内を望む
           
           
             石段の下からの多宝塔   均整のとれた下からの多宝塔
 
          
      800年以上も建ち今なお優雅な姿を見せている日本最古の多宝塔(国宝) 

          
花山法皇が西国三十三所観音霊場を中興されて一千年の記念事業として建てられた心経堂
           
          
            季節によって美しさと落ちつきを見せる無憂園

          
      休憩所から日本庭園の風情のある無憂園の美しさを堪能出来そうである 

          
    紅葉に囲まれた日本庭園のシンボルである滝が無憂園を一層引き立てている。

          
       無憂園の休憩所横にある庭園の鮮やかで落ち着きを与えてくれる紅葉

          
 石山寺の境内には多くの黄葉や紅葉があり、境内には落葉した葉が晩秋のムードを盛り上げている

 晴天に恵まれ、紅葉した石山寺を始めて訪れることが出来て、本当に良かったと思う。
 紫式部の好んだ、月見亭からの中秋の名月と、瀬田川の景観のすばらしさは、言うに及ばず、当時の風情がそのまま伝わってきそうである。
 平安時代には、たくさんの女流歌人が誕生しているが、ほとんどの歌人が、石山寺のことを日記や随筆に記している。
 清少納言や和泉式部、蜻蛉(かげろう)日記の藤原道綱の母、更級日記の藤原孝標の娘などに、石山寺は芸術家や文人達に深い感応を引起し、女流文学の開花の舞台となったようである。
 その後も、松尾芭蕉や島崎藤村をはじめ、石山寺を慕う文人達を多く集めている。
 私もたまたま訪れた時期が、源氏物語千年紀のイベントや、紅葉の時期で、大変興味を引かれていった。
 この地が風光明媚で、石山の奇岩や伽藍、それを取り巻く景観や、季節ごとに味わう風情などが、多くの文学者を引き込んでいるのだろうか!
 いずれにしても、石山寺の見学を終えて感じることは、今までの寺院見学と全く違った感応が心に残ることであった。
 
 
 

           

さざなみ街道から 「晩秋の琵琶湖」

2008-12-06 12:54:03 | 気ままな旅
 11月14日(金)米原市の琵琶湖畔にある 道の駅 「近江母の里」 で、車中泊をしていて朝早く目覚める。
 昨日は長浜市内の顧客先で、午後8時過ぎまでビジネスをしていた。
 その為、大阪にある自宅には帰らずに、この道の駅で妻と二人車中泊をしていた。        
 今日も秋の青い空が一面に広がり、絶好の天気になっている。
 この道の駅の前は、湖岸のさざなみ街道が通り、その前には青々とした紺碧の湖、琵琶湖が広がっている。 
 琵琶湖の波静かな湖面には、二羽の白鳥と数十羽の渡り鳥が浮かび、思い思いにくつろいでいるが、時々水中に長い嘴を突っ込み、魚を漁っている光景も見られる。
 湖水ならではの、このような自然の光景に、湖独特の長閑さを感じ、微笑ましくなってくる。
 妻が朝たてた、我が家自慢のコーヒーを飲みながら、朝食を摂っていると、サイクリングの若者達が、次から次へとやってくる。
 それと同時に、自転車を何台も積んだ小型トラックと、ジャンボタクシーも一緒にやってくる。
 
          
            琵琶湖一周のサイクリングに挑戦する大手企業研修生

 最初はサイクリング大会かと思ったが、どうも様子からいって、そうではないらしい。
 50~60人位はいるようで、数人の女の子も交じっている。
 全員がサイクリングのスタイルである。
 たまたま、近くを通りっかった関係者に聞いてみると、このグループは、今年、大手企業に入社した社員で、琵琶湖大橋近くのホテルで、研修を受けているらしい。
 今日は研修の一環として、全員で朝早くからホテルを出発し、200km前後もある琵琶湖一周のサイクリングを、今日一日で走行するとのことであった。
 もうすでに40~50kmは走行しているようであるが、全員が元気そうであった。
 それにしても、すごいハードなスケジュールである、特に奥琵琶湖の道路はアップダウンが多く大変だと思うが、全員無事に完走してほしいと思う。
 また、この大手企業も、入社したばかりの若い社員に、200kmもある琵琶湖を一周させるすることで、何事に対しても、一度決意してやり始めたら、どんなに苦難があっても、あきらめずに最後までやり抜く気持ちを大切にする。
 将来の会社を担う人材育成の一環として、実施しているように思われる。

          
       道の駅「近江母の里」で休憩を終え出発して行くサイクリングの研修生 

          
         景観の美しい琵琶湖湖岸に沿って走っている「さざなみ街道」  

          
さざなみ街道沿いには、このような公園が所々にあり、琵琶湖の眺望を楽しんだり、くつろいだりして過ごしている。

 琵琶湖の東や南側には、このような琵琶湖畔に沿った道路が造られ、延々と続いている。
 道路の横にはサイクリングロードもあり、多くの人たちが楽しめるようにしている。
 道路の片方には琵琶湖があり、公園や季節によって水泳場やマリンスポーツ、釣りなどを楽しいでいる人たちが多く見られる。
 反対側には、近江平野の長閑な田園風景や、近代的なホテルやマンション、店舗など建築され、対岸の風景と共に、琵琶湖独特の美しい景観をかもし出している。
 私達も、この道路(さざなみ街道)を所々で、寄り道をしながら南下して行った。
   
          
                シーズンを終えた蓮と風力発電

 ここは全国的にも有名な広大な蓮の群生地である。
 7月頃にはこの一帯は、水面が見えないほど蓮の花で一杯になり、緑葉と彩り鮮やかな光景が広がり、多くのカメラマンの姿が見られるようになる。
 また、その奥には、「水性植物園」や「水の森」の施設が造られ、近くには「県立琵琶湖博物館」や「道の駅 草津」の施設もある。

          
    北国から来た渡り鳥は警戒心が強いのか、私が近寄ると一斉に飛び立った

 この時期に来て驚くのは、琵琶湖には多くの渡り鳥などの水鳥が、シベリアなどの北国から飛来して、越冬している光景である。
 私も琵琶湖の湖面に浮かぶ水鳥の多さに驚かされる。
 今朝出発した、道の駅からは、50~60kmは有に越えると思われるが、何処の湖域も、水鳥が切れる所がなかった。
 私には琵琶湖に何種類の水鳥が、どれくらいの数、飛来するのか想像も出来ないがすごい数である。 

          
                 水草の沖でくつろぐ水鳥と琵琶湖大橋

          
                   琵琶湖畔にある 「烏丸記念公園」 

 この公園の中央には、近畿池がアーチモニュメントの下に造られ、S字曲線の美しい川が流れ込んでいる。
 周りには12体の石像の他、長くて平行に並ぶ、石柱の上にアーチ屋根が架けられた休憩施設もあり、全体の景観を考慮して造られている。
 規模的には小さな公園であるが、中身の濃い、美しい公園である。

 この公園は、多くの人々の協力のもとに着工し、琵琶湖開発事業を記念して建設され、平成4年3月に竣工しものである。
(この公園の敷地内には、平成4年度「土木学会技術優秀賞」の記念の碑がある) 

 広場中央には、高さ15mのステンレス性アーチモニュメントを配置している。
 写真には写っていないが、アーチモニュメントの頂部にある琵琶湖を象ったノズルからは、下方の「近畿池」に向け、水を噴射できるようになっているらしい。
 これは、モニュメント全体で 「琵琶湖とその水で潤う近畿」 をイメージしている。
 また、このモニュメントの周辺には、人々の生きる姿や表情を表現した12体の石造彫刻を配置して、その雰囲気を高めているが、その一部の石像を紹介する。 

           
            石像(誕生)とアーチ    「抱擁」青春の時燃え上がる感情の高ぶりを表している。 
  
上左写真のアーチモニュメント下の中央にある石像(誕生)は、原石から生命が飛び出し、誕生した姿を表している。

          
                    「天を見つめる女」
公園の入り口の一番近い所に、二つの像が立っている、何かしらこけしのような、はにかんだ表情と
ほほ笑みで、訪れる人々を迎えてくれている 「天を見つめる女性」

          
                        「 愛 」
        子供から大人まで、母親の愛の中で育まれる姿を表している。

            
                      「 悩 み 」
人生は悩みの連続で、だれでも皆、悩みを持って生きている。両足を抱え悩んでいる姿を表している。

          
                    「語 愛(かたらい)」
 この二人の像は、この広場が生まれた時から語り合っている。これからも永遠に語り合いながら、愛情と理解が生まれ、
お互いに仲良く生きていくように感じる石像である。

          
        琵琶湖に浮かぶ水鳥の集団、対岸に聳える山は「比叡山=標高848m」

          
琵琶湖から唯一の出口である瀬田川橋付近(下流で宇治川、淀川となって大阪湾に注いでいる)

この上流を少し行った所に「瀬田の唐橋」があり、琵琶湖に通じている。
瀬田の唐橋は戦国時代 ”唐橋を制する者は天下を制する” といわれ、天下を目指す武将達によって熾烈な戦いが繰り広がられた、重要な場所であった。

          
         航行する瀬田川リバークルーズの外輪汽船「一番丸」 復元船

 明治2年(1862年)蒸気船「一番丸」が就航し、琵琶湖に蒸気船の時代が到来する。
 これは、湖国の人々に近代化の到来を実感さす出来事で、琵琶湖周辺の町は多いに栄えた。
 しかし、明治22年に東海道線の全通により、その役割を終える。
 近年になって、湖国の人々に愛され、親しまれた蒸気船は復元され、外輪汽船「一番丸」として新たに就航する。
 「一番丸」 は歴史と文化が溢れる石山、瀬田川畔を遊覧している。
 
 私達も琵琶湖岸のさざなみ街道を南下しながら、写真撮影したり、見学をしていると、何時のまにか、琵琶湖に別れをつげ、瀬田川沿いにある石山寺まで来ていた。
 石山寺前の、瀬田川沿いのもみじが鮮やかに紅葉し、晩秋の美しさを見せている。
 川の真ん中には、外輪船「一番丸」が、静かで紅葉が映る川面をすべるように進んでいる。
 私達は次の訪問先で、目の前にある石山寺駐車場に愛車を入れた。




※ 千年の昔紫式部は石山寺にある源氏の間で「源氏物語」を書いたと伝えられています。
  物語は光源氏という、魅力ある高貴な男性と、その周りにいる個性的で、魅力ある女性や達の物語です。

<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=jkbbytheseaja-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&asins=4062756331" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0">





心の変革を感じさす 「日本大正村」 ・・・ 岐阜県

2008-12-04 09:58:11 | 気ままな旅
 11月12日(水) 道の駅「土岐美濃焼街道 どんぶり会館」で地元の人達と談笑を終えた私たちは、町全体がテーマパークとして整備され、全国にアピールしている日本大正村に向かった。
 晩秋の東濃地方を行く愛車エステイマの車窓からは、美しく紅葉した山稜が移り変わっていく。
 愛車は程なく、小里川の橋を渡り前方を見上げると、大きな高架橋が見えている。
 平成16年に完成した小里川ダム建設の為、付け替え道路として作られた小里城大橋である。橋長=420m、橋脚の最大スパン=135m、橋脚の高さは79.5と日本でも、有数の高さを誇る橋である。
 あまりの高さに驚きながら、高架橋の下を通り抜けて、30分程で明智町(現在は恵那市)の大正村駐車場に到着する。 
 
 明智町は古くから南北街道と、中馬街道が交差する重要な交通の拠点であった。
 伊勢湾の塩を信州などの内陸に運び、山国の産物を沿岸に運び出す、商いや情報の道筋の一点として栄えていた。
 南北道は伊勢湾岸地から足助、明智、恵那、中津川、付知など現国道257号線を北上して下呂、高山など飛騨路へ至る。
 また、中馬街道は名古屋から瀬戸、柿野、土岐市、明智に至り、上矢作から南信州飯田に通じる道路であるが、狭く四~五匹の牛馬を、一人の親方が引ける程度の道であった為に、中馬と呼ばれていた。

          
             日本大正村入り口の看板を通り抜けて散策に向かう 

 日本大正村は、小高い山に囲まれた小さな街の中にあるテーマパークである。
 明治村(愛知県犬山市)や昭和村(岐阜県美濃加茂市)のような特定の敷地内に設けられた施設ではなく、街全体として大正時代前後に作られた多くの建築物が現存、店舗、資料館、博物館などが、当時の雰囲気をそのまま活かしている。
 その中心的な建物が、大正村役場、大正ロマン館、大正村資料館、おもちゃ資料館、大正時代館などである。 

                      
             駐車場の脇にあり快晴の空に映える銀杏の紅葉

           
             大正村ロマン館近くの大明山竜護寺の紅葉

          
昭和61年1月10日大正村初代村長 高峰三枝子歓迎セレモニーで大勢の人たちから大歓迎を受ける新村長

          
          1999年5月2日に就任、日本大正村二代目村長 司葉子

          
            駐車場横にある「浪漫亭」食事やショッピングが楽しめる

          
              駐車場近くののロマンコース橋付近

           
               大正露地          大正役場庁舎前の通り

 この露地は年貢米を納めた米蔵と、江戸時代から続く旧家の、呉服問屋の反物類を入れた蔵の並ぶ路地である。
 蔵の白と黒のコントラストが、日本風で鮮やかである。
 黒い羽目板を取外すと、一面が土壁となって防火壁の役目を果たしている。
 この緩やかな坂を真っ直ぐ上って行くと、日本大正村役場庁舎があり、突当りが紫式部の源氏絵巻などを展示している絵画館である。
 
          
               日本大正村役場庁舎

 明治22年7月明智町は町制を布き、明治39年明智町庁舎として建築された日本大正村役場庁舎。
 瓦葺き、寄せ棟造り、2階建ての木造洋館建て造りは、当時としては大変モダンな建物であった。
 以来、町の中心として衆議をはかり、町の発展を見つめてきた建物である。
 昭和32年まで町役場として、現在は日本大正村役場として使われている。
 平成12年に文化庁の登録有形文化財に指定される。

          
                  日本大正村役場庁舎入口

           
          源氏物語絵巻を展示している絵画館 非常時に打鳴らす半鐘

          
  玄関前の左に元春日野理事長、右に高峰三枝子初代村長の像が立つ大正ロマン館
 
 大正のモダンをイメージした洋風建築は、初代日本大正村長の高峰三枝子、初代議長の春日野清隆(元横綱栃錦)の記念館として、平成6年5月にオープン。
 両氏の遺品の品々が寄託され展示されている。
 10室の展示室には、この他大正時代のヨーロッパの家具やオルゴール、オリンピックの歩み、洋画の父と言われる当地出身の山本芳翠の絵画なども展示され、地代にちなんだ企画展も催されている。

          
                   大正ロマン館方向を望む 

          
                  大正村ロマンコースにある橋上より

          
           大正時代館(天久資料館)横には大正時代のカフェがある

 私は、日本大正村の役場庁舎や大正ロマン館などを散策していて、急に大正はどういった時代であったか! また、世界はどういったことが! など、急に興味が湧いてきた。
 鎖国の江戸時代から幕末を迎え、近代国家の樹立を目指した明治時代、そして近代化の打ち寄せえる波の中、大正時代はどんなことが起こっていたのだろうか!
 そのように考えている時に、この大正時代館にやってきた。

 大正時代の暮らしぶりなどをテーマに、一階には新聞やレトロなポスターなどが展示されている。
 当時のポスター画風を見ていると、すごく古いものを見ているようにも感じるが、何か新鮮で落ちついた印象を受けてくる。
 入口には当時の新聞を印刷する機械が設置され、自分の誕生日の新聞やニュースも知ることも出来る。(有料)
 
大正時代の十大ニュース(国内)
 ①関東大震災の発生、死者・不明10万人以上(大正12年9月1日)
 ②全国で米騒動、焼き討ち相次ぐ(大正7年)
 ③明治天皇崩御、乃木希典将軍殉死(明治45年ー大正元年)
 ④初の本格政党内閣の原敬内閣誕生・原首相暗殺(大正7-10年)
 ⑤大正政変、民衆が軍閥政治倒す(大正2年)
 ⑥大正天皇のご病気と皇太子の摂政就任(大正10年)
 ⑦普通選挙法と治安維持法の同時成立(大正14年)
 ⑧対華21ケ条要求、日中関係悪化(大正4年)
 ⑨桜島が大爆発、大隈半島と陸続きに(大正3年)
 ⑩吉野作造が「民本主義=国民の意思を尊重して政治を行うことを建前とする主義、実質的な民主主義に同じ」を提唱、大正デモクラシーの理論的支柱(大正5年) 
 日本の国内情勢は、民衆の声を背景とした政党政治を志向する力と、富国強兵を国是とする軍閥政治の対立によって彩られた。
 普通選挙法と治安維持法の成立に、これを端的に見ることが出来る。
 大正デモクラシーの言葉も生まれ、弾圧を受けながらも自由に考え、自由に行動する人々の層が増えた時代であった。
 特に、この時代は、東京、大阪、名古屋といった都市人口がいちじるしく増加し、人々の生活の都市化が進む。
 大都市にはデパートが作られ、電灯は勿論、電話、水道、ガスなどが普及していった。
 また、十大ニュースには入らないが、街では洋服姿の女性も現れ、「タイピスト」や「バスガール」などにも女性が進出、モダンなどの言葉と共にハイカラ文化が家庭内や、外出する時に人々を魅了したり楽しんだりしていた。
 大正時代は暗い時代という人がいるが、結構自由を謳歌した人も少なくなかった。
 明暗の挟間の中にあった時代と言えそうだ。
 
大正時代の十大ニュース(国際)
 ①第一次世界大戦勃発(1914年、大正3年)
 ②ロシアで社会主義革命(1917年 大正6年)
 ③ベルサイユ講和条約締結と国際連盟発足(1919年大正8年ー20年大正9年)
 ④ヒトラーがナチス党首に就任、ファッシズムの前兆(1921年大正10年)
 ⑤スペイン風邪が大流行、死者2500万人(1918年大正7年ー19年大正8年)
 ⑥ワシントン軍縮条約締結(1922年大正11年) 米、英、日の主力艦の比率を5:5:3と決定される。
 ⑦孫文が2回にわたり広東政府を樹立(1917年大正6年ー21年大正10年)
 ⑧モスクワでコミンテルン創立大会(1919年大正8年)
 ⑨インドでガンジーが不服従運動開始(1919年大正8年)
 ⑩アインシュタインが相対性理論を発表(1916年大正5年)

 大正の世界史は革命に誘発された内戦の時代であった。
 特に第一次世界大戦とロシア革命が世界各地に及ぼした影響は大きく、反戦平和を求める国、自国の政治体制に不満を持つ人々の台頭、民衆の力が強大になった時代であった。
 パナマ運河の開通は世界航路の円滑をもたらし、科学技術の目覚しい発展の頂点に、アインシュタインの相対性理論が生まれたのが、この時代の特徴である。
 スペイン風邪は国の規模をのりこえ、多くの若い日本人が死亡したことも伝えられている。

          
                   帝国高貴御対顔之図

 明治天皇・昭憲皇太后へ御対顔される嘉仁皇太子(のちの大正天皇)・九条節子(のちの貞明皇后)

          
                  大正天皇・皇后の写真

 大正天皇御成婚時(1900年)の写真、皇太子(大正天皇)満20歳、九条公爵四女節子(満15歳)。
 明治天皇とは対照的に、結婚後は子供に恵まれた。
 1901年に迪宮(みちのみや)後に昭和天皇、1902年に淳宮(あつのみや)後に秩父宮、1905年に光宮(てるのみや)後に高松宮がそれぞれ生まれ、元気に育った。
 皇太子は子煩悩で、三人の子供達と会食や合唱などをして、よく遊んだと伝えられている。
 皇太子は臣下や国民誰とでも屈託なく話したがる性格が、より発露されていた。
 謹言実直で余計なことはしゃべってはならぬ。 という帝王学を身につけていた明治天皇に対し、思ったことは率直にモノを言う性格であった。
 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇は皇后や皇太子などの皇族や生母が見守る中、葉山で崩御される。時に満47歳であった。
 明治天皇の59歳、昭和天皇の87歳に比べても、短すぎる生涯であった。 
 
          
               大正時代の喫茶店(カフエー)
 
 大正時代の服装をした女性がコーヒーを入れてくれる。
 大正時代の大きなラッパの蓄音機からは、霧島昇の「君は心の妻だから・・、」の曲が流れている。
 少し大正時代に帰ったような気分を味合わせてくれる。

         
                日本大正村資料館

 明治末期の建築で、この地方の城に匹敵する街のシンボル「銀行蔵」と、南隣の「大正の館」を含む一郭が中心になっている。
 いずれも、この建築物そのものも重要な資料としての役割を果たしている。
 資料館の中には、様々な大正文化の資料を展示している。
 季節や催しによって展示替えもされているようである。
                 
               大正の館入り口      大正村資料館入り口

          
             大正時代の情緒溢れるレトロ的なポスター

          
             現在も業務を行っている通信資料館(旧郵便局)

 久しぶりに訪れた大正村、こういった大正時代の施設がよく残っていると思う。
 見学していて、大正時代のことをもっと知りたいと思えてくる。
 明治と昭和の挟間にある大正時代、武士の世界の色濃さが残る明治と、それを脱して、近代化の世界に足を踏み入れた大正時代。
 日本人の心の大きな変革の時代で合ったように思えてくる。