気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

アメリカ女性と北斎が愛した町 「小布施(信州)」

2010-01-21 11:53:16 | 気ままな旅
 平成21年6月25日(木) 今朝は長野県と新潟県の県境にある道の駅「しなの」で車中泊をしていて、朝早くから目覚める。快晴の天気の中、高原特有のからっとした、さわやかな空気が漂い、すがすがしい気分にさしてくれている。
 道の駅の目の前には黒姫山がどっしりとした流線型の山陵を現し、新潟方面には妙高山が、長野方面には霊仙寺山が、それぞれの美しい景観をかもし出し、私達を魅了して何時までたってもあきる事のない景観を見せてくれている。
 周辺にある小林一茶の生家や、野尻湖などを観光した後、私たちは国道18号線を長野市や小布施方面に向かって行った。
 一時間ほどで小布施ハイウエイオアシスに到着する。
 このオアシスは、高速道路のPAと一般道・道の駅と複合して整備され、市民憩いの公園や美術館の施設などがある。
 私達も道の駅での情報入手と、広々とした公園内を散策することにして出かけて行った。
   
          
小布施ハイウエイオアシスのメイン通り、奥には噴水、野外ステージ、芝生広場、美術館などがある。 

                  
   池の中にある噴水など整備されたオアシスで、思い思いに楽しむ母と子供たち

 小布施ハウエイオアシスの見学を終えた後、私たちは小布施町中心街に向かって行った。
 道中の道路は四方をリンゴ畑に囲まれ、青い実をつけたリンゴの木が、車窓から手を伸ばせば取れそうな所まで垂れ下がっているのが印象的であった。 
 小布施町は半径2kmに全ての集落が入る、長野県で一番小さな町である。千曲川と松川が合流する地点にあり、二つの川が合う「逢う瀬」が「小布施」になったと言われている。
 600年の歴史を持つ栗や郷土料理が自慢で、古くから画人や文人を魅了し、葛飾北斎や小林一茶などの作品が多く残されている。

          
      小布施町の表玄関 「長野電鉄 小布施駅」 長野市から20分ほどの距離にある。

           
              セーラ・マリ・カミングスさん (プラウザの紹介HPより) 

 セーラ・マリ・カミングスさんは11年前に米国より来日し、信州小布施を舞台に、長野オリンピック時のアン王女列席のもと英国選手団激例会の招致・国際北斎会議の企画・運営をはじめ、老舗酒蔵枡一市村酒造の活性化、町おこしなど、精力的に活動を続け、ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞を受賞している。
(株式会社桝一市村酒造場取締役、利酒師、日本酒造組合中央会日本酒青年協議会員など)
 
 私は5年程前に「清美由美著=セーラが町にやってきた」を読んで、かつてから興味をもち、小布施を訪れることを望んでいた。念願がかなってほんとによかったと思っている。
 
           
              小布施町の高台にあるあけびの湯

 小布施駅を訪れた後、時間も午後5時近くであったことから、通り行く町の人に入浴施設を尋ねると、町外れの高台にある「あけびの湯」を教えていただいた。
 早速、愛車で向かって行くと10分足らずで到着する。温泉は2軒あり隣りには「穴観音の湯」の看板が上がっている。
 あけびの湯はエレベーターに上部階に上がり、北信五岳(飯綱山=1917m。戸隠山=1911m、黒姫山=2053m、斑尾山=1382m。妙高山=2446m)の抜群の眺望が望める場所にあった。
 私達は、北信五岳の抜群の眺望を温泉で満喫し、体を癒した後、元来た道を戻って街中に帰っていった。
 今夜の夕食は、セーラさんを書いた著書に出てくる和食レストラン「蔵部」で夕食することに決めていた。

           
セーラさんの尽力によりアン王女を迎える舞台になった古い酒蔵が、和食レストラン「蔵部」に生まれ変わる。

 近くの駐車所に車を止め、町の中心部にある和食レストラン「蔵部」に向かって行った。
 蔵部は武家屋敷を思わせるような黒塗りの重厚ドアの入り口があった。
 そのドアをくぐり抜けると、ダイナミックな空間のあるレストランが眼前に広がっている。
 昔の蔵や時代劇に出てくる囲炉裏の煙でまぶされたような建物空間の中に、黒光する柱や梁、それに厨房内にある大きな竈(かまど)が並んでいる。
 私たちは、厨房をとりこ込むように作られたカウンターに腰を下ろして、冷酒や料理を注文する。
 枡一市村酒造の酒蔵から運ばれてくる冷酒で妻と乾杯しながら飲む杯も格別で、幾種類かの日本酒をオーダーする。
 料理も魅力たっぷりである。それに、手際よく応対してくれるはっぴを着た青年の印象もよく、厨房内はすごく清潔に保たれ、中で動く人たちの動作も機敏であった。
 勿論、運ばれてくる幾種類かの肴や、新鮮野菜などもよく、妻も満足そうであった。

           
            小布施中心部のメタセコイアの大木が茂る小布施駐車場

 6月26日(金) 今朝は小布施町の中心部にある駐車場で車中泊をしていた。
 昨夜の「蔵部」での夕食時に妻とかたむけた杯の味がよかったのか、ぐっすり眠ることが出来、壮快な気分で朝を向かえることが出来た。
 今日は午前中に小布施を見学し、午後からは志賀高原方面に行こうと考えていた。
 早速、朝食を済まして、葛飾北斎の絵画などを展示している「北斎館」に向かって行った。

          
                画狂老人「葛飾北斎」肉筆画の世界を現した「北斎館」

 北斎館は、小布施町界隈の中心部にあった。さっそく入館料500円を支払って入館して行く。
 この館は、葛飾北斎が晩年の80代に、弟子であった高井鴻山に招かれ、小布施に滞在して描いた天井絵の肉筆などを展示している。
 ここには、版画である浮世絵はなく、日本唯一の肉筆画の他、掛け軸や屏風など展示品はすべて一枚ものである。
 どれも北斎が80才代の年齢で書いたとは思えない、すばらしい色彩美と迫力には驚かされる。
 特に、屋台展示室にある北斎の天井絵が書かれた、大きな祭り屋台が昔から有名である。

 最近、小布施町を訪れる観光客は、年間120万人以上に達している。
 これは、セーラさんたちの小布施の町おこしの活動の一環として、'76年にオープンした北斎館の成功から、本格的な町おこし活動が始まったといわれている。
 以来、北斎館は地方美術館の先駆けとして注目され、今も小布施の中心的観光スポットになっているようである。

 葛飾北斎(かつしか ほくさい=1760? ~ 1849年)は、日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人である。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家として有名である。

               
          80才代の北斎が小布施で描いた肉筆画 祭り屋台天井絵「龍」

          
                 イタリアレストラン傘風楼と栗の小径

 北斎のダイナミックな絵に感動、余韻を残しながら外に出てみると、目の前に大きなメタセコイアの木が立っている。
 その横にはイタリアレストランの傘風楼があり、珍しい栗アイスクリームを販売している。 妻が興味を示し早速、買ってきて、前にあるベンチに座って食べ始めると、数羽の人懐こい雀が飛んできて、私たちのアイスクリームをねだってくる。
 スプーンで差し出すと直ぐに食べ始める。
 これほど人懐こい雀は初めてで印象的であった。
 レストランの隣りには路地があり、この路地は、小布施のシンボルである栗の木を、レンガのように並べて造られている栗の小径である。
 私たちは、この栗の小径を通って高井鴻山記念館に向かって行った。

          
      北斎の描いた傘風子図にちなで造られた洋菓子工場の傘風舎(さんぷうしゃ)

 栗の小径を100mほど進むと高井鴻山記念館はあった。
 この記念館は、幕末から明治にかけて活躍した小布施の豪商「高井鴻山」の屋敷の一部を解放し、高井鴻山の絵や功績などを紹介展示している。
 葛飾北斎を含む鴻山の幅広い交友関係や、絵画などに優れた才能を偲ぶことが出来る記念館である。
 建物は中庭を囲む様に鴻山の祖父が、江戸時代に建てた京風建築で、 鴻山の書斎や居間になっている。
 また、この邸宅で鴻山を訪れる幕末の志士や、多くの文人墨客が語り合った場所でもあった。
 建物には忍者屋敷のような、いろんなからくりが造られているのも大変興味深いものであった。
 鴻山や北斎の作品や遺品が展示されているが、一方では激動の幕末に幕府の監視の中、過激攘夷志士たちをも迎え、活発に激論を交わした幕末の雰囲気も伝わってくる館である。
 
          
          北斎を招いた豪農商・幕末の先覚者 「高井鴻山記念館」入り口

          
       北斎が滞在したはなれの碧漪軒(へきいけん)がある高井鴻山記念館の庭

 高井鴻山は(文化3年~明治16年=1806~1883=江戸時代)。幕末維新の激動期に陽明学の"国利民福"の信条をつらぬいた人である。
 15歳から16年間、京都や江戸へ遊学で各界第一人者から多彩な学問や芸術を納め、自由で幅広い人脈を築き、佐久間象山をはじめ思想家や文人たちと交流、日本の行く末を憂い、巨万の財力を使い、幕末の変革に関わった。
 江戸の浮世絵師「葛飾北斎」など文人墨客を招き、小布施を文化の街とする一方、飢餓の窮民を救い、維新では教育に尽力し、東京、長野に私塾を開いた。
 高井家は浅間山麓から移住し、北信越きっての豪農商となり、信州を始め、江戸、京阪北陸、瀬戸内までを商圏とする商いをしていた。
 鴻山の祖父作左衛門は、天明の飢餓に倉を開き、築いた巨万の富を困窮者の救済に当て、その功績から幕府に認められ、「高井」の苗字と帯刀を許された。

          
            葛飾北斎が住んだ碧漪軒(へきいけん)

 信州小布施を生地とし、造酒業を主とした豪農商にして、陽明学等の学問にも通じた高井鴻山は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。
 この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、83歳の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。
 鴻山は感激し、はなれの「碧漪軒(へきいけん)」を建てて厚遇している。
 それ以来、北斎の小布施への訪問は4回に渡っている。
 滞在中は、鴻山の全面的援助のもとで、北斎は肉筆画を手がけ、町の祭り屋台や岩松院の天井絵などを描いている。

           
          北斎が寝食を共のした部屋  小布施シンボルの栗の木で造った栗の小径

          
           栗の小径でできた路地、小布施の名物小径になっている。

           
街並みの修景事業が行われ、歴史的な建物が生かされ、調和のとれた界隈が作り出されている小布施の町並み

            
 調和のとれた町並みの一角にあったカブトムシのオブジェが私達の目を楽しませてくれる。  

           
 元は栗菓子の老舗で、現在は洋菓子の全てを取り揃えた売り場と、和料理などがある小布施堂本店 

           
天保13年(1842年)初めて訪れた葛飾北斎や弊堂にゆかりの深い人たちが、幾たびもくぐり抜けた小布施堂正門。今も本通を行き交う人を見守り続けている。 

 高井鴻山記念館や小布施堂などの界隈を見学した後、私達は少し離れた所にある「おぶせミュウゾアム・中島千波館」に向かって行った。
 10分ほど歩いて行くと、緑に囲まれた公園のような広々とした敷地の中にあった。

 中島千波は、疎開先であった小布施で、昭和20年に生まれた日本画家で、桜やボタンなどに代表されるみずみずしく華やかな花の作品、ライフワークとする人物画の大作など幅広い活動で知られ、現代日本画を代表する作家の一人として高く評価されている。

          
             おぶせミュージアム中島千波館の広々とした中庭 

          
              中島千波さんの絵画(淡墨桜)         

 館内には中島千波氏の代表作「樹霊淡墨桜」や「富貴華宴」の牡丹の絵など多数が展示され、絵画好きな人たちにとっては興味の尽きないミュージアムである。
 また、ミュージアムの奥には屋台蔵があり、小布施の民俗文化財である祭り屋台5台が展示されている。 
 祭り屋台は江戸時代から明治の初期に造られ、当時の小布施の経済的な繁栄と小布施の人の心意気を現しているようであった。
 江戸末期に葛飾北斎や多くの文化人・維新の志士たちが訪れたのもこのような土壌が合ったからこそといえそうである。           

 私達は小布施の観光を終えた後、町の一角にあった信州そばの食堂で昼食をすまし、愛車を志賀高原方面へ走らせて行った。

土佐の里山で雑草との悪戦苦闘

2010-01-16 22:24:40 | 今日の出来事
  平成22年1月5日(火)は、正月参賀日を大阪の自宅で過ごし、妻と二人土佐の高知に帰省することにしていた。
 高知の家は、私が幼き時に過ごした故郷で、母が一人この地で過ごしていた。
 しかし、高齢の為、私が大阪の自宅に母を引き取り、暫く一緒に過ごしていた。
 その母も3年前、95歳で他界してしまった。
 高知には家や田畑、それに墓が残り、私が年に数回、管理の為に帰省し、家やお墓の掃除などを行っている。
 今回は年末に帰省が出来なかった為に、墓の掃除も行っておらず、気がかりになって正月明けに帰省しょうと、妻と相談して決めていた。
 5日(火)に帰省することを決めていたのは、混雑緩和と高速道路利用料金、1000円が適用され、経済的に有利なためであった。
 南大阪にある自宅を、5日午後一時ごろ、愛車エステイマで出発する。
 愛車は阪神高速湾岸線から神戸線に入り、明石海峡大橋を通過して行く。
 晴天の中、渋滞もなく快調に進み、神戸淡路鳴門自動車道を走って行く。 
 高速道の休日割引がなければ高知方面へは、板野IC(鳴門ICの次のインター)で下車し、一般道に入り、3km先にある徳島自動車道の藍住ICに入って、走行した方が距離的にも、時間的にも速く行けるが、高速道を一旦、下車すると、再度通行料金1000円が発生するため、高松自動車道を走行し、川之江JCTから高知自動車道に入ることにした。
 私は徳島県から高松方面に走ることは、全く初めてで、車窓からどのような景観か望めるか、楽しみでもあった。
 風光明媚な鳴門海峡大橋を通過し、徳島県からの高松自動車道を走行していく。
 車窓からは、点在した小島が浮かぶ瀬戸内海の景観が広がっている。この景観もすばらしく、私達のドライブを一層楽しく、満足さしてくれている。 
 やがて、愛車は、屋島や讃岐七富士と呼ばれる小さな丘のような山々など、美しい景観の続く高松道を西に走行していく。
 高松市内を過ぎて暫く進むと、坂出と岡山を結ぶ瀬戸中央自動車道の景観に代わり、海の小島の間に数本の橋脚が聳え立ち、間に垂れ下がったワイーロープで支えられた鉄道と高速道の二重構造になった大橋が北に向かって伸び、瀬戸内海に独特の美しい景観をかもし出している。
 愛車は瀬戸内海に沿って出来た高松道を西に向かって進み、途中の川之江JCTから高知自動車道に入って行く。
 高知自動車道は今まで対面通行であったが、高知ICまで最近片側2車線化が完成し、大変走りやすくなっている。
 私たちは伊野ICで下車し、国道33号線に入り、私の故郷佐川方面に向かって行く。
 途中のスーパーで夕食の買い物を済まし、自宅に到着したのは午後7時過ぎであった。

          
    故郷佐川町尾川の景観、この川で幼き時にはよく泳いだことが思い出されてくる。

 1月6日(水)久しぶりの我が故郷でぐっすり眠ることが出来たが、朝方はずいぶんと冷え込んでいるように感じる。
 それも台所と居間は、三方をガラス窓で囲まれ、特に台所は、流し台の前と右の窓がカーテンすら施してなく、外部の冷気が室内にそのまま伝わってくる。 
 昼間は、太陽の明るい日差し受け、関西よりも強く温かく感じるが、日が沈み暗くなってくると、土佐の山里は、とたんに冷え込んでくる。
 朝方、雨戸を開け、外に出ると空一面に、青い透き通るような空が広がり上天気になっている。
 朝食を済ませた後、少し離れた所にある駐車場と隣接する畑に行ってみると、我が畑が草茫々となっているのを見て愕然とした気持ちになってくる。
 この畑は総面積150坪(約500㎡)あり、昨年までは、近所の人が生姜などの作物を栽培していたが、高齢と家族の介護などで、今年から栽培が出来なく荒地になっている。

 どうすればよいのか悩んでしまったが、取り合えず佐川町役場に行って相談することにした。
 役場で知り合いの人に相談すると 「佐川町には未耕作地が多く耕してくれる人が見つかるかどうかわからない」 隣の農業委員会の部署が、未耕作地などを担当しているとのことで紹介していただいた。
 農業委員会では 「定期的に委員会を開催しているので次回の会で話をしておきます」 とのことであった。

 草茫々としている荒地をそのまま放置しておくことは、近所の方々や、雑草の種などが隣接地に飛んで迷惑をかけるために出来ないと思った。
 どうしても雑草を刈り取らなければならなかった。
 しかし、150坪(約500㎡)の面積に、背丈ほどに伸びていた雑草を、どうして刈るのか、道具も経験もなかった。
 自分で狩るのか! それとも誰かにお願いするのか! と思案していた。

          
        夏は鮎などのも獲れる清流だが改修中の故郷の河川(仁淀川の支流)

 1月7日(木)朝早くから目覚める。今日も天気は良さそうであるがずいぶんと冷え込んでいる。昨日から妻と草刈のことで相談した結果、エンジン付の草刈機を購入して自分達で刈ることにした。
 早速、近くのホームセンターに行って草刈機と、燃料の混合オイルを購入してくる。
 畑に行って、買ってきたばかりの草刈機のエンジンを、かけようと試みてみるが、なかなかかからない。
 30分発ってもかからないために、ホームセンターへ電話すると、直ぐに駆けつけて指導してくれた。
 原因は、私が説明書の細い字をメガネをかけずに読んでいた為に(開)と(閉)を間違え、逆に操作していたようだった。
 担当員の方が細部にわたって指導してくれた為に、初めて使う私にも直ぐ理解することが出来た。
 早速、エンジンをかけてみる。エンジンは直ぐにかかった。体に草刈機のショルダーをかけ、保護メガネをかけて作業を開始する。
 畑の四隅の端から草刈りを始め、外側から内側に移動するようにして刈っていく。
 初めて使う草刈機、草はスムーズに刈りれるが、刈った草が寝ているために、刈り取った草は、一々刈り取り機の上に乗せ、1.5mぐらい横にずらさないと刈れない。
 これを刈取る度に、毎回行っていくから、腕にパワーがかかって大変である。
 妻は私が刈り取ってずらした草を拾い集め、鍬でならしてくれている。
 昼食の時点では、3分の一が終了した程度であった。
 午後からも、明るいうちに作業を終わりたい一心で、休憩もほとんどとらずに刈り取り作業を懸命になって進めていく。
 しかし、私の肩ははり、刈り取り機を持つ手の握力がなく、雑草を横にずらすのが大変になってきていた。
 妻もなれない仕事で、腰に負担がかかってきているのか、時々体を伸ばしているが、疲れきった表情が見えている。
 こうした状況の中でも作業を続け、太陽が西に傾き、黄昏時の薄暗い時間にようやく作業を終了することが出来た。
 作業終了後、私も妻も、雑草に覆われた畑から、雑草のない、見違えるような畑に変わり安堵した気持ちで一杯になっていた。
 
          
          刈り取り前の草茫々の我が家の畑(150坪=500㎡)(北西から)

          
               雑草で覆われた我が畑(南東から)

          
           悪戦苦闘の刈り取り作業を終え、見違えるようになった畑

          
        野焼きしてくれる人の指示で刈り取った雑草は二つの山に積み上げる。 

          
        刈り取った雑草は野焼きの為、家から出来るだけ遠い位置に積み上げる。

 草刈り作業終了間際に、昨年までこの畑を耕していたおじさんがやってくる。
 この土地は元々は、この叔父さんが所有していたものを、私の母が生前に買い取っていたが、これといったこの土地の用途はなく、このおじさんが生姜などを昨年まで栽培していた。
 ところが、このおじさんは高齢で腰が曲がり、体力的にきつくなった事と家族の介護で農作物の栽培が今年から出来なくなっていた。
 おじさんは私達夫婦が草刈を終えたのを見て、ほっとしたのか、後の草の処理や、処理後雑草が生えにくいように、乗用トラクターで耕しておくとのことであった。 
 私達にとっては、大変ありがたい話しであった。 
 このおじさんも、今まで自分が耕していた土地が草茫々になって心を痛めていたようで、それだけに、私達が雑草を全て刈ってしまってことを、喜んでくれているようであった。

 今回は思いもかけないような畑の草刈りが待っていたが、これで近所の方々に迷惑をかけずに住むと思うと、何かほっとした気持ちになって大阪に帰ってくることが出来た。
 今年に、耕す人がみつからなければ、夏と秋の2回は草刈が必要になってくる。
 今回の経験から、草刈りは出来るだけこまめに実施した方が得策だと思え、これからは帰省回数もふえてきそうである。

日本の近代化を物語る 「旧八百津発電所資料館」

2010-01-03 15:16:01 | 気ままな旅
 2009年(平成21年)11月18日(水)午前中に人道の丘博物館を見学、元外交官「杉原千畝」の人道的な決断に感銘を受け、博物館を後にした私たちは、元来た道をゆっくりと下って行った。
 八百津町の丘陵地が続く車窓からは、木曽川が蛇行するように流れ、その両側には街並みが広がり、美しい景観をかもし出している。
 前方の道路の標識に、旧八百津発電所資料館と書かれ、左方向の案内が出ている。
 この資料館についての予備知識はないが、時間的にも余裕があり、寄ってみる事にした。
 愛車は、案内標識に従って、曲がりくねった小さな道を進んで行く。
 すると紅葉に囲まれた駐車場が見えてくる。駐車場の下には木曽川が太陽光線を反射させながらゆっくりと流れている。
 旧八百津発電所資料館は、木曽川に寄り添うようにして建てられ、その奥には、丸山発電所が見え、さらに奥には赤いアーチ型の橋が美しい景観をかもし出している。 この近辺からが蘇水峡(そすいきょう)である。
 旧八百津発電所の建物は、アーチ状の窓開口部をもつ欧風の浪漫な建物で、ひと際目立った近代的な建物であった。

          
           対岸からの旧八百津発電所資料館と丸山発電所(手前)

          
          旧八百津発電所資料館、左上には貯水槽の設備が見えている。

          
          旧八百津発電所と丸山発電所(後方)・橋の所からが蘇水峡。

          
  旧八百津発電所完成図、貯水槽からの水圧鉄管が本館へ、下の小さい建物が放水口発電所。

 木曽川の流れと逆方向に造られている門を通り、真っ直ぐに下って行くと、旧八百津発電所資料館の入口があった。
 欧風の面影を残したモダンな建物で、優雅と風格に満ち溢れイギリスのレンガ造り、白モルタル塗りの外観を見せている。
 この発電所は明治44年(1911年)に木曽川水系初の本格的なダムとして建設され、明治・大正・昭和の三代にかけて、日本の産業近代化へ大きく貢献してきた。
 しかし、昭和49年(1974年)、上流に出来た丸山発電所の完成により、63年に及ぶ役割を終え、発電の歴史に終止符をうった。
 平成10年(1998年)5月、日本の水力発電の歴史を物語る貴重な資料として国の重要文化財に指定され、新たに資料館として開館、水力発電の歴史や、電化による人々の生活様式の変化、木曽川の筏流しなどの歴史を伝える資料館として新しい使命をにない現在に至っている。

          
            発電所上部にある貯水槽の水量調整設備

          
発電所上部にある貯水槽、ここから四本の水圧鉄管で発電所に流水され、その水が水車を廻し発電される。

           
旧八百津発電所は現在の主流であるダム式ではなく、水路式で上流 9.7km先から取水、水路から貯水槽に貯えられ、落差で流入して発電するしくみである。

           
発電所裏側にある水圧鉄管敷設跡、貯水槽から内径2.1m、延長181mの水圧鉄管4本が本館に延び、4つの水車を回転させていた。

          
            発電所内部の発電設備(手前が発電機、後方が水車)

 私達は入館料320円を支払って本館に入館して行く。本館の建物は、発電設備のある発電棟と送電設備のある送電棟に分かれている。
 発電棟の広々とした室内には、20トンの天井クレーンが設置され、その下には圧倒されそうな大きな水車に直結された発電装置が3組設置されている。

 発電が開始された当初は、送電技術がなく都市近郊の火力発電が主であったが、送電技術の向上により水力発電へと変わっていった。

 この水力発電所は最新の発電機器を導入した最初の発電所であったが、国産の設計施工管理であった。しかし、その水準は高いものではなく、発電所の立地や機器の選定を誤っていた為、難工事や水車の破裂事故を招き、工事費も大幅に超過した。
 しかし、結果的に多くの課題を解決、国産技術の向上に貢献することになった。

 明治44年の竣工当時は、米国製の横軸フランシス型水車4台と発電機4台が設置されていたが、大正12年に発電機の改造工事と水車の取替工事が行われ、現在展示されている国産の発電機と水車に変更されている。

          
          芝浦製作所製の発電機(3200KW/台)手前とフランシス水車

 明治44年11月、発電機工事の完了検査時に水車事故が発生、発電機と水車の試験にとりかかると調整機が作動せず、水車の回転数があがり、水車ケーシングが破裂。当時の大規模発電所の水車は、ほとんどが欧州製であったが、八百津発電所は米国製の水車(4200馬力)を使用していた。
 事故原因分析により、コイルの巻き替えが芝浦製作所によって行われ、水車は国産の原動社原動機製作所によって、大正11年~13年に製造された4600馬力の物に取り替えられ、国産技術による出力の増強が図られた。
 このことは、その後の発電所用水車の設計・製造技術の向上に役立ち、国産技術自立化の出発点となっていった。

          
            米国GE社製の横軸回転界磁型発電機

 大正時代に芝浦製作所によってコイル巻替えが行われ、出力が7500kwから9600kwに増強された。
 水車に直結されている発電機の軸が回転すると、軸に固定されている電磁石が、外環状コイルの中を回転し、磁界を切る事によってコイルに電流が流れる。
 発電機の電磁石への電気の供給は、励磁装置によって行われた。

 励磁装置は、親発電機の電磁石に直流を送るための発電装置で、励磁機用水車と直流発電機から成っている。
 当初は発電室中央に、二組の励磁装置が設置されていたが、昭和39年に新しい励磁装置に取り替えられ、その後撤去されている。
       
          
   横軸単輪複流渦巻型フランシス水車(電業社原動機製作所製)と発電機(後方)
 
 貯水槽から水圧鉄管を流水した高圧の水は、渦巻きケーシング内に流入、水流はケーシング内を回りながらガイドベーンを通って水車のライナー(ランナ)に入り、ライナーは水の力で勢い良く回転し、ライナーと一体となった水車と発電機の軸が回転し発電するしくみである。
 水車を廻した水は左右の排出管から方水路に流れていく。
 代表的な水車には、フランシス水車の他にぺルトン水車、カプラン水車がある。
         
           
                  フランシス水車のしくみ

         
            自動油圧式調速機(ガバナー)(電業社原動機製作所)

 調速機(ガバナー)はフランシス水車の回転数を一定に保つ装置で、負荷の増減に応じてガイドベーンを開閉し、水車のライナーに入る水量の調節を行う装置である。

           
        水車の軸に直結されている発電機     20トン天井クレーン

 発電棟と同じ建物内にある送電棟は、1階母線室から2階の配電室からなっている。
 現在の資料館では、日本の電力史、産業史、八百津発電所の位置づけや発電技術、明治からの人々の暮らしと、電気の係わり合いなどが、写真パネルや展示品などで詳しく紹介されている。

          
                    母線配電室

          
          発電機から送られてきた電流の電圧を高める変圧器(トランス)

          
                     放水口発電所 

 本館から外に出ると、木曽川沿いに小さな建物が建っている。
 この建物は、電力需要が増加した大正時代に、本館発電所の放水口から出る落差7mの水を再利用する放水口発電所である。
 第一次世界大戦で電力需要が急増、有効落差6.67mしかなかったために水車式選定は困難であった。
 その為に低落作用水車に連成水車を採用、これは大きな発電機をその左右に2台ずつ、計4台の連成水車で廻すという、他に例のない貴重な発電装置(日立製作所製)で、最大1200kwを発電していた。

          
  二輪単流露出型横軸4連フランシス式水車(日立製作所製、出力1800馬力(8台))
 
 当時欧米では、低落差用の発電用水車の研究開発は盛んに行われていたが、発電技術自立期の日本では、開発は困難であった。
 その為に、既存の露出方双輪水車を練成し、左右に4台つなげる。
 日本にある当時の既存技術を導入改良して、限界まで高度に利用するという、貴重な産業遺産であり、日本の生産技術の特長を示した典型的な例であるといえる。

          
             横軸回転界磁型発電機(国産)出力1200kw 

          
          放水口発電所内部、この下に発電機が取り付けられている。

          
              木曽川の筏流し

 旧八百津発電所資料館の木曽川対岸は、かつて木曽の木材を筏に組んで下流へ運んだ「錦織綱場=にしきおりつなば」があって、上の写真の筏模型が本館資料館に展示さられている。
 この資料館では。大切な歴史遺産である木曽川筏や、その技術、歴史なども知ることが出来る。

          
           木曽川 錦織綱場についた木材流し(蘇水峡)

 八百津発電所資料館の木曽川対岸には、木材を集める錦織綱場の旧跡がある。
 ここは木曽の山林で伐採された木材を、集荷して筏に組んで下流にある美濃や名古屋などに流送していた。
 錦織綱場の開設年代は、鎌倉時代に起源するといわれ、足利時代には役所が設けられ、通関税及び使用料を取り立てていた記録も残されている。
 この綱場が本格的に運用されるようになったのは、尾張藩が木曽山林や木曽川運材の権利を領有するようになってからであり、寛文5年(1665年=江戸時代)には、この場所に役所が設けられ、奉行以下138名が常駐していた。 
 木曽の山から伐り出された材木は、一本一本木曽川を狩り下げ、ここで筏に組まれ、犬山、名古屋方面へ流送された。
 年間30万本もの単材が筏に組まれ、通常水量が安定する秋の彼岸から春の彼岸まで筏流しが行われた。  

           
            現在の蘇水峡 上記写真と同じ場所  

 この施設の見学を終えて感じることは、このような日本の近代化に向かって明治、大正、昭和の三つの時代を歩んできた歴史的な資料館の価値に大きな感動が湧いてくる。
 江戸時代の封建社会から脱却し、明治時代の急速な外国技術を取り入れるために、お雇い外国人を高額で多数招きいれ、近代国家設立を苦心をしながら、成し遂げてきた歴史が感じられる。
 ひとつひとつの外国の基礎技術を学び、それを応用しながら、新しい技術やモノを創りあげていった先輩達の聡明さと、叡智に深く感動せずにはいられなかった。
 明治時代には、生活の中に電灯が灯り、蒸気機関などの新技術により産業革命が発生、鉄道、通信、工場の生産設備新設により、生産が飛躍的に発展する。
 このことが人々の生活にも大きな変化を興すなど、何事にも興味が尽きない時代であった。
 また、数百年前から行われていた木曽川の筏流しにまつわる、山林伐採をする人たちの生活や、山の神への信仰心から生まれてくる自然への共生心なども分かりやすく説明され、改めて自然環境の大切さを教えていただいた様に感じる。
 それに、この資料館で受付をされている女性に、館内を案内していただいた。発電設備や歴史なども、親切に教えていただき大変ありがたく感謝の気持ちに絶えない。
 時代は大きく変わり現在の日本も、高度成長から先端技術を多く持つ国へと代わってきているが、やはり日本はモノ造りや技術の原点を忘れてはならない国家だとあらためて思えてくる。
「温故知新」この言葉の意味を痛切に感じさせられた今回の見学であった。

2010年 謹 賀 新 年 ・・・・ 気ままな旅 (希間々兼行)

2010-01-01 00:23:10 | 今日の出来事
         
 
            平成22年(2010年) 明けましておめでとうございます。

          
 今年は庚寅(かのえとら)年で、変化の多い年、猛虎ような波乱、動乱の多い年だと言われています。

 寅は螾(イン=動く意)で、草木が春の暖かさにより地上に芽を出す状態を表し、寅の月は正月であり、立春の時と暦に書かれています。
 
          

 旧年中は 「気ままな旅」へお越しいただきありがとうございます。

 昨年は、思い出に残る山陰、北陸、信州、北海道などの気ままな旅の写真や感想などを添えて投稿させていただきました。
 本年も昨年同様に、妻と二人で愛車を中心とした、気ままな旅を続けていきたいと思います。

 昨年は100年に一度といわれる経済不況や、政権交代などの激動と、暗く痛ましい事件などが多い年でもありました。
 本年も変化の年だといわれていますが、自分自身が変化を先取りする前向きな考えや、前向きな姿勢で乗り切って活きたいと思います。

 この一年が皆様やご家族にとって、ご多幸の明るい年でありますように心からお祈り申し上げます。

 また、時間的にゆとりのある時などには、「気ままな旅」にお立ち寄りいただければ幸いに存じます。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

 平 成 22年(2010年)   元 旦

                                 希間々兼行