平成21年6月25日(木) 今朝は長野県と新潟県の県境にある道の駅「しなの」で車中泊をしていて、朝早くから目覚める。快晴の天気の中、高原特有のからっとした、さわやかな空気が漂い、すがすがしい気分にさしてくれている。
道の駅の目の前には黒姫山がどっしりとした流線型の山陵を現し、新潟方面には妙高山が、長野方面には霊仙寺山が、それぞれの美しい景観をかもし出し、私達を魅了して何時までたってもあきる事のない景観を見せてくれている。
周辺にある小林一茶の生家や、野尻湖などを観光した後、私たちは国道18号線を長野市や小布施方面に向かって行った。
一時間ほどで小布施ハイウエイオアシスに到着する。
このオアシスは、高速道路のPAと一般道・道の駅と複合して整備され、市民憩いの公園や美術館の施設などがある。
私達も道の駅での情報入手と、広々とした公園内を散策することにして出かけて行った。
小布施ハイウエイオアシスのメイン通り、奥には噴水、野外ステージ、芝生広場、美術館などがある。
池の中にある噴水など整備されたオアシスで、思い思いに楽しむ母と子供たち
小布施ハウエイオアシスの見学を終えた後、私たちは小布施町中心街に向かって行った。
道中の道路は四方をリンゴ畑に囲まれ、青い実をつけたリンゴの木が、車窓から手を伸ばせば取れそうな所まで垂れ下がっているのが印象的であった。
小布施町は半径2kmに全ての集落が入る、長野県で一番小さな町である。千曲川と松川が合流する地点にあり、二つの川が合う「逢う瀬」が「小布施」になったと言われている。
600年の歴史を持つ栗や郷土料理が自慢で、古くから画人や文人を魅了し、葛飾北斎や小林一茶などの作品が多く残されている。
小布施町の表玄関 「長野電鉄 小布施駅」 長野市から20分ほどの距離にある。
セーラ・マリ・カミングスさん (プラウザの紹介HPより)
セーラ・マリ・カミングスさんは11年前に米国より来日し、信州小布施を舞台に、長野オリンピック時のアン王女列席のもと英国選手団激例会の招致・国際北斎会議の企画・運営をはじめ、老舗酒蔵枡一市村酒造の活性化、町おこしなど、精力的に活動を続け、ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞を受賞している。
(株式会社桝一市村酒造場取締役、利酒師、日本酒造組合中央会日本酒青年協議会員など)
私は5年程前に「清美由美著=セーラが町にやってきた」を読んで、かつてから興味をもち、小布施を訪れることを望んでいた。念願がかなってほんとによかったと思っている。
小布施町の高台にあるあけびの湯
小布施駅を訪れた後、時間も午後5時近くであったことから、通り行く町の人に入浴施設を尋ねると、町外れの高台にある「あけびの湯」を教えていただいた。
早速、愛車で向かって行くと10分足らずで到着する。温泉は2軒あり隣りには「穴観音の湯」の看板が上がっている。
あけびの湯はエレベーターに上部階に上がり、北信五岳(飯綱山=1917m。戸隠山=1911m、黒姫山=2053m、斑尾山=1382m。妙高山=2446m)の抜群の眺望が望める場所にあった。
私達は、北信五岳の抜群の眺望を温泉で満喫し、体を癒した後、元来た道を戻って街中に帰っていった。
今夜の夕食は、セーラさんを書いた著書に出てくる和食レストラン「蔵部」で夕食することに決めていた。
セーラさんの尽力によりアン王女を迎える舞台になった古い酒蔵が、和食レストラン「蔵部」に生まれ変わる。
近くの駐車所に車を止め、町の中心部にある和食レストラン「蔵部」に向かって行った。
蔵部は武家屋敷を思わせるような黒塗りの重厚ドアの入り口があった。
そのドアをくぐり抜けると、ダイナミックな空間のあるレストランが眼前に広がっている。
昔の蔵や時代劇に出てくる囲炉裏の煙でまぶされたような建物空間の中に、黒光する柱や梁、それに厨房内にある大きな竈(かまど)が並んでいる。
私たちは、厨房をとりこ込むように作られたカウンターに腰を下ろして、冷酒や料理を注文する。
枡一市村酒造の酒蔵から運ばれてくる冷酒で妻と乾杯しながら飲む杯も格別で、幾種類かの日本酒をオーダーする。
料理も魅力たっぷりである。それに、手際よく応対してくれるはっぴを着た青年の印象もよく、厨房内はすごく清潔に保たれ、中で動く人たちの動作も機敏であった。
勿論、運ばれてくる幾種類かの肴や、新鮮野菜などもよく、妻も満足そうであった。
小布施中心部のメタセコイアの大木が茂る小布施駐車場
6月26日(金) 今朝は小布施町の中心部にある駐車場で車中泊をしていた。
昨夜の「蔵部」での夕食時に妻とかたむけた杯の味がよかったのか、ぐっすり眠ることが出来、壮快な気分で朝を向かえることが出来た。
今日は午前中に小布施を見学し、午後からは志賀高原方面に行こうと考えていた。
早速、朝食を済まして、葛飾北斎の絵画などを展示している「北斎館」に向かって行った。
画狂老人「葛飾北斎」肉筆画の世界を現した「北斎館」
北斎館は、小布施町界隈の中心部にあった。さっそく入館料500円を支払って入館して行く。
この館は、葛飾北斎が晩年の80代に、弟子であった高井鴻山に招かれ、小布施に滞在して描いた天井絵の肉筆などを展示している。
ここには、版画である浮世絵はなく、日本唯一の肉筆画の他、掛け軸や屏風など展示品はすべて一枚ものである。
どれも北斎が80才代の年齢で書いたとは思えない、すばらしい色彩美と迫力には驚かされる。
特に、屋台展示室にある北斎の天井絵が書かれた、大きな祭り屋台が昔から有名である。
最近、小布施町を訪れる観光客は、年間120万人以上に達している。
これは、セーラさんたちの小布施の町おこしの活動の一環として、'76年にオープンした北斎館の成功から、本格的な町おこし活動が始まったといわれている。
以来、北斎館は地方美術館の先駆けとして注目され、今も小布施の中心的観光スポットになっているようである。
葛飾北斎(かつしか ほくさい=1760? ~ 1849年)は、日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人である。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家として有名である。
80才代の北斎が小布施で描いた肉筆画 祭り屋台天井絵「龍」
イタリアレストラン傘風楼と栗の小径
北斎のダイナミックな絵に感動、余韻を残しながら外に出てみると、目の前に大きなメタセコイアの木が立っている。
その横にはイタリアレストランの傘風楼があり、珍しい栗アイスクリームを販売している。 妻が興味を示し早速、買ってきて、前にあるベンチに座って食べ始めると、数羽の人懐こい雀が飛んできて、私たちのアイスクリームをねだってくる。
スプーンで差し出すと直ぐに食べ始める。
これほど人懐こい雀は初めてで印象的であった。
レストランの隣りには路地があり、この路地は、小布施のシンボルである栗の木を、レンガのように並べて造られている栗の小径である。
私たちは、この栗の小径を通って高井鴻山記念館に向かって行った。
北斎の描いた傘風子図にちなで造られた洋菓子工場の傘風舎(さんぷうしゃ)
栗の小径を100mほど進むと高井鴻山記念館はあった。
この記念館は、幕末から明治にかけて活躍した小布施の豪商「高井鴻山」の屋敷の一部を解放し、高井鴻山の絵や功績などを紹介展示している。
葛飾北斎を含む鴻山の幅広い交友関係や、絵画などに優れた才能を偲ぶことが出来る記念館である。
建物は中庭を囲む様に鴻山の祖父が、江戸時代に建てた京風建築で、 鴻山の書斎や居間になっている。
また、この邸宅で鴻山を訪れる幕末の志士や、多くの文人墨客が語り合った場所でもあった。
建物には忍者屋敷のような、いろんなからくりが造られているのも大変興味深いものであった。
鴻山や北斎の作品や遺品が展示されているが、一方では激動の幕末に幕府の監視の中、過激攘夷志士たちをも迎え、活発に激論を交わした幕末の雰囲気も伝わってくる館である。
北斎を招いた豪農商・幕末の先覚者 「高井鴻山記念館」入り口
北斎が滞在したはなれの碧漪軒(へきいけん)がある高井鴻山記念館の庭
高井鴻山は(文化3年~明治16年=1806~1883=江戸時代)。幕末維新の激動期に陽明学の"国利民福"の信条をつらぬいた人である。
15歳から16年間、京都や江戸へ遊学で各界第一人者から多彩な学問や芸術を納め、自由で幅広い人脈を築き、佐久間象山をはじめ思想家や文人たちと交流、日本の行く末を憂い、巨万の財力を使い、幕末の変革に関わった。
江戸の浮世絵師「葛飾北斎」など文人墨客を招き、小布施を文化の街とする一方、飢餓の窮民を救い、維新では教育に尽力し、東京、長野に私塾を開いた。
高井家は浅間山麓から移住し、北信越きっての豪農商となり、信州を始め、江戸、京阪北陸、瀬戸内までを商圏とする商いをしていた。
鴻山の祖父作左衛門は、天明の飢餓に倉を開き、築いた巨万の富を困窮者の救済に当て、その功績から幕府に認められ、「高井」の苗字と帯刀を許された。
葛飾北斎が住んだ碧漪軒(へきいけん)
信州小布施を生地とし、造酒業を主とした豪農商にして、陽明学等の学問にも通じた高井鴻山は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。
この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、83歳の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。
鴻山は感激し、はなれの「碧漪軒(へきいけん)」を建てて厚遇している。
それ以来、北斎の小布施への訪問は4回に渡っている。
滞在中は、鴻山の全面的援助のもとで、北斎は肉筆画を手がけ、町の祭り屋台や岩松院の天井絵などを描いている。
北斎が寝食を共のした部屋 小布施シンボルの栗の木で造った栗の小径
栗の小径でできた路地、小布施の名物小径になっている。
街並みの修景事業が行われ、歴史的な建物が生かされ、調和のとれた界隈が作り出されている小布施の町並み
調和のとれた町並みの一角にあったカブトムシのオブジェが私達の目を楽しませてくれる。
元は栗菓子の老舗で、現在は洋菓子の全てを取り揃えた売り場と、和料理などがある小布施堂本店
天保13年(1842年)初めて訪れた葛飾北斎や弊堂にゆかりの深い人たちが、幾たびもくぐり抜けた小布施堂正門。今も本通を行き交う人を見守り続けている。
高井鴻山記念館や小布施堂などの界隈を見学した後、私達は少し離れた所にある「おぶせミュウゾアム・中島千波館」に向かって行った。
10分ほど歩いて行くと、緑に囲まれた公園のような広々とした敷地の中にあった。
中島千波は、疎開先であった小布施で、昭和20年に生まれた日本画家で、桜やボタンなどに代表されるみずみずしく華やかな花の作品、ライフワークとする人物画の大作など幅広い活動で知られ、現代日本画を代表する作家の一人として高く評価されている。
おぶせミュージアム中島千波館の広々とした中庭
中島千波さんの絵画(淡墨桜)
館内には中島千波氏の代表作「樹霊淡墨桜」や「富貴華宴」の牡丹の絵など多数が展示され、絵画好きな人たちにとっては興味の尽きないミュージアムである。
また、ミュージアムの奥には屋台蔵があり、小布施の民俗文化財である祭り屋台5台が展示されている。
祭り屋台は江戸時代から明治の初期に造られ、当時の小布施の経済的な繁栄と小布施の人の心意気を現しているようであった。
江戸末期に葛飾北斎や多くの文化人・維新の志士たちが訪れたのもこのような土壌が合ったからこそといえそうである。
私達は小布施の観光を終えた後、町の一角にあった信州そばの食堂で昼食をすまし、愛車を志賀高原方面へ走らせて行った。
道の駅の目の前には黒姫山がどっしりとした流線型の山陵を現し、新潟方面には妙高山が、長野方面には霊仙寺山が、それぞれの美しい景観をかもし出し、私達を魅了して何時までたってもあきる事のない景観を見せてくれている。
周辺にある小林一茶の生家や、野尻湖などを観光した後、私たちは国道18号線を長野市や小布施方面に向かって行った。
一時間ほどで小布施ハイウエイオアシスに到着する。
このオアシスは、高速道路のPAと一般道・道の駅と複合して整備され、市民憩いの公園や美術館の施設などがある。
私達も道の駅での情報入手と、広々とした公園内を散策することにして出かけて行った。
小布施ハイウエイオアシスのメイン通り、奥には噴水、野外ステージ、芝生広場、美術館などがある。
池の中にある噴水など整備されたオアシスで、思い思いに楽しむ母と子供たち
小布施ハウエイオアシスの見学を終えた後、私たちは小布施町中心街に向かって行った。
道中の道路は四方をリンゴ畑に囲まれ、青い実をつけたリンゴの木が、車窓から手を伸ばせば取れそうな所まで垂れ下がっているのが印象的であった。
小布施町は半径2kmに全ての集落が入る、長野県で一番小さな町である。千曲川と松川が合流する地点にあり、二つの川が合う「逢う瀬」が「小布施」になったと言われている。
600年の歴史を持つ栗や郷土料理が自慢で、古くから画人や文人を魅了し、葛飾北斎や小林一茶などの作品が多く残されている。
小布施町の表玄関 「長野電鉄 小布施駅」 長野市から20分ほどの距離にある。
セーラ・マリ・カミングスさん (プラウザの紹介HPより)
セーラ・マリ・カミングスさんは11年前に米国より来日し、信州小布施を舞台に、長野オリンピック時のアン王女列席のもと英国選手団激例会の招致・国際北斎会議の企画・運営をはじめ、老舗酒蔵枡一市村酒造の活性化、町おこしなど、精力的に活動を続け、ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002大賞を受賞している。
(株式会社桝一市村酒造場取締役、利酒師、日本酒造組合中央会日本酒青年協議会員など)
私は5年程前に「清美由美著=セーラが町にやってきた」を読んで、かつてから興味をもち、小布施を訪れることを望んでいた。念願がかなってほんとによかったと思っている。
小布施町の高台にあるあけびの湯
小布施駅を訪れた後、時間も午後5時近くであったことから、通り行く町の人に入浴施設を尋ねると、町外れの高台にある「あけびの湯」を教えていただいた。
早速、愛車で向かって行くと10分足らずで到着する。温泉は2軒あり隣りには「穴観音の湯」の看板が上がっている。
あけびの湯はエレベーターに上部階に上がり、北信五岳(飯綱山=1917m。戸隠山=1911m、黒姫山=2053m、斑尾山=1382m。妙高山=2446m)の抜群の眺望が望める場所にあった。
私達は、北信五岳の抜群の眺望を温泉で満喫し、体を癒した後、元来た道を戻って街中に帰っていった。
今夜の夕食は、セーラさんを書いた著書に出てくる和食レストラン「蔵部」で夕食することに決めていた。
セーラさんの尽力によりアン王女を迎える舞台になった古い酒蔵が、和食レストラン「蔵部」に生まれ変わる。
近くの駐車所に車を止め、町の中心部にある和食レストラン「蔵部」に向かって行った。
蔵部は武家屋敷を思わせるような黒塗りの重厚ドアの入り口があった。
そのドアをくぐり抜けると、ダイナミックな空間のあるレストランが眼前に広がっている。
昔の蔵や時代劇に出てくる囲炉裏の煙でまぶされたような建物空間の中に、黒光する柱や梁、それに厨房内にある大きな竈(かまど)が並んでいる。
私たちは、厨房をとりこ込むように作られたカウンターに腰を下ろして、冷酒や料理を注文する。
枡一市村酒造の酒蔵から運ばれてくる冷酒で妻と乾杯しながら飲む杯も格別で、幾種類かの日本酒をオーダーする。
料理も魅力たっぷりである。それに、手際よく応対してくれるはっぴを着た青年の印象もよく、厨房内はすごく清潔に保たれ、中で動く人たちの動作も機敏であった。
勿論、運ばれてくる幾種類かの肴や、新鮮野菜などもよく、妻も満足そうであった。
小布施中心部のメタセコイアの大木が茂る小布施駐車場
6月26日(金) 今朝は小布施町の中心部にある駐車場で車中泊をしていた。
昨夜の「蔵部」での夕食時に妻とかたむけた杯の味がよかったのか、ぐっすり眠ることが出来、壮快な気分で朝を向かえることが出来た。
今日は午前中に小布施を見学し、午後からは志賀高原方面に行こうと考えていた。
早速、朝食を済まして、葛飾北斎の絵画などを展示している「北斎館」に向かって行った。
画狂老人「葛飾北斎」肉筆画の世界を現した「北斎館」
北斎館は、小布施町界隈の中心部にあった。さっそく入館料500円を支払って入館して行く。
この館は、葛飾北斎が晩年の80代に、弟子であった高井鴻山に招かれ、小布施に滞在して描いた天井絵の肉筆などを展示している。
ここには、版画である浮世絵はなく、日本唯一の肉筆画の他、掛け軸や屏風など展示品はすべて一枚ものである。
どれも北斎が80才代の年齢で書いたとは思えない、すばらしい色彩美と迫力には驚かされる。
特に、屋台展示室にある北斎の天井絵が書かれた、大きな祭り屋台が昔から有名である。
最近、小布施町を訪れる観光客は、年間120万人以上に達している。
これは、セーラさんたちの小布施の町おこしの活動の一環として、'76年にオープンした北斎館の成功から、本格的な町おこし活動が始まったといわれている。
以来、北斎館は地方美術館の先駆けとして注目され、今も小布施の中心的観光スポットになっているようである。
葛飾北斎(かつしか ほくさい=1760? ~ 1849年)は、日本の近世にあたる江戸時代に活躍した浮世絵師であり、とりわけ後期、文化・文政の頃(化政文化)を代表する一人である。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家として有名である。
80才代の北斎が小布施で描いた肉筆画 祭り屋台天井絵「龍」
イタリアレストラン傘風楼と栗の小径
北斎のダイナミックな絵に感動、余韻を残しながら外に出てみると、目の前に大きなメタセコイアの木が立っている。
その横にはイタリアレストランの傘風楼があり、珍しい栗アイスクリームを販売している。 妻が興味を示し早速、買ってきて、前にあるベンチに座って食べ始めると、数羽の人懐こい雀が飛んできて、私たちのアイスクリームをねだってくる。
スプーンで差し出すと直ぐに食べ始める。
これほど人懐こい雀は初めてで印象的であった。
レストランの隣りには路地があり、この路地は、小布施のシンボルである栗の木を、レンガのように並べて造られている栗の小径である。
私たちは、この栗の小径を通って高井鴻山記念館に向かって行った。
北斎の描いた傘風子図にちなで造られた洋菓子工場の傘風舎(さんぷうしゃ)
栗の小径を100mほど進むと高井鴻山記念館はあった。
この記念館は、幕末から明治にかけて活躍した小布施の豪商「高井鴻山」の屋敷の一部を解放し、高井鴻山の絵や功績などを紹介展示している。
葛飾北斎を含む鴻山の幅広い交友関係や、絵画などに優れた才能を偲ぶことが出来る記念館である。
建物は中庭を囲む様に鴻山の祖父が、江戸時代に建てた京風建築で、 鴻山の書斎や居間になっている。
また、この邸宅で鴻山を訪れる幕末の志士や、多くの文人墨客が語り合った場所でもあった。
建物には忍者屋敷のような、いろんなからくりが造られているのも大変興味深いものであった。
鴻山や北斎の作品や遺品が展示されているが、一方では激動の幕末に幕府の監視の中、過激攘夷志士たちをも迎え、活発に激論を交わした幕末の雰囲気も伝わってくる館である。
北斎を招いた豪農商・幕末の先覚者 「高井鴻山記念館」入り口
北斎が滞在したはなれの碧漪軒(へきいけん)がある高井鴻山記念館の庭
高井鴻山は(文化3年~明治16年=1806~1883=江戸時代)。幕末維新の激動期に陽明学の"国利民福"の信条をつらぬいた人である。
15歳から16年間、京都や江戸へ遊学で各界第一人者から多彩な学問や芸術を納め、自由で幅広い人脈を築き、佐久間象山をはじめ思想家や文人たちと交流、日本の行く末を憂い、巨万の財力を使い、幕末の変革に関わった。
江戸の浮世絵師「葛飾北斎」など文人墨客を招き、小布施を文化の街とする一方、飢餓の窮民を救い、維新では教育に尽力し、東京、長野に私塾を開いた。
高井家は浅間山麓から移住し、北信越きっての豪農商となり、信州を始め、江戸、京阪北陸、瀬戸内までを商圏とする商いをしていた。
鴻山の祖父作左衛門は、天明の飢餓に倉を開き、築いた巨万の富を困窮者の救済に当て、その功績から幕府に認められ、「高井」の苗字と帯刀を許された。
葛飾北斎が住んだ碧漪軒(へきいけん)
信州小布施を生地とし、造酒業を主とした豪農商にして、陽明学等の学問にも通じた高井鴻山は、江戸での遊学の折、北斎と知り合い、門下となっている。
この縁によって数年後の天保13年(1842年)秋、83歳の北斎が小布施の鴻山屋敷を訪れた。
鴻山は感激し、はなれの「碧漪軒(へきいけん)」を建てて厚遇している。
それ以来、北斎の小布施への訪問は4回に渡っている。
滞在中は、鴻山の全面的援助のもとで、北斎は肉筆画を手がけ、町の祭り屋台や岩松院の天井絵などを描いている。
北斎が寝食を共のした部屋 小布施シンボルの栗の木で造った栗の小径
栗の小径でできた路地、小布施の名物小径になっている。
街並みの修景事業が行われ、歴史的な建物が生かされ、調和のとれた界隈が作り出されている小布施の町並み
調和のとれた町並みの一角にあったカブトムシのオブジェが私達の目を楽しませてくれる。
元は栗菓子の老舗で、現在は洋菓子の全てを取り揃えた売り場と、和料理などがある小布施堂本店
天保13年(1842年)初めて訪れた葛飾北斎や弊堂にゆかりの深い人たちが、幾たびもくぐり抜けた小布施堂正門。今も本通を行き交う人を見守り続けている。
高井鴻山記念館や小布施堂などの界隈を見学した後、私達は少し離れた所にある「おぶせミュウゾアム・中島千波館」に向かって行った。
10分ほど歩いて行くと、緑に囲まれた公園のような広々とした敷地の中にあった。
中島千波は、疎開先であった小布施で、昭和20年に生まれた日本画家で、桜やボタンなどに代表されるみずみずしく華やかな花の作品、ライフワークとする人物画の大作など幅広い活動で知られ、現代日本画を代表する作家の一人として高く評価されている。
おぶせミュージアム中島千波館の広々とした中庭
中島千波さんの絵画(淡墨桜)
館内には中島千波氏の代表作「樹霊淡墨桜」や「富貴華宴」の牡丹の絵など多数が展示され、絵画好きな人たちにとっては興味の尽きないミュージアムである。
また、ミュージアムの奥には屋台蔵があり、小布施の民俗文化財である祭り屋台5台が展示されている。
祭り屋台は江戸時代から明治の初期に造られ、当時の小布施の経済的な繁栄と小布施の人の心意気を現しているようであった。
江戸末期に葛飾北斎や多くの文化人・維新の志士たちが訪れたのもこのような土壌が合ったからこそといえそうである。
私達は小布施の観光を終えた後、町の一角にあった信州そばの食堂で昼食をすまし、愛車を志賀高原方面へ走らせて行った。