goo blog サービス終了のお知らせ 

気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

外国からの新婚さんと孫娘たちとの思い出旅(土佐)

2008-04-27 11:48:59 | 気ままな旅
 4月6日(日)香川県にある栗林公園と、国営まんのう池公園を観光した私は、国道32号線を通り、大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)に立ち寄って撮影した後は、真っ直ぐに高知県佐川町にある実家に帰った。到着したのは午後9時ごろであった。

 妻はインドネシアバリ島へ行っており、今回は一人旅の帰省となった。
高知のこの家は、以前は私の母が一人で住んでいたが、私が大阪の家に引き取ってからは、ずっと空き家になっている。
 その母も一昨年に、この家のリニューアル中に、95歳でこの世を去り、今は私が法事やお墓参りなどで、時々帰省しているような状況である。
 
 今回は、私が幼少の頃に、過ごした佐川町尾川、昨年、日本に来て、同行したブラジルからの新婚カップルと、アメリカフロリダ州から来た孫娘たちとの、思い出の写真を披露しながら書き込んでいきたいと思います。
 
          
               新婚カップルの家族と妻(大歩危小歩危)

          
              アメリカからやってきた孫娘と妻(大歩危小歩危) 

 ブラジルから来た新婚カップルと、花嫁の母が昨年4月大阪の我が家にやってきた。
 母親は何回か我が家を訪れているが、ブラジルに住む花嫁花婿は、日本を訪れることも初めてであった。
 花嫁の母親は日系ブラジル人で父親はイタリア系のブラジル人である。花婿はブラジルの社会保険庁に勤める、ヨーロッパ系のブラジル人で、日本に来るのは、勿論、初めてで今まで、日本との縁は全くなかった。
 当初の予定は大阪で数日間過ごす予定であったが、急遽、私の急用の為に、高知へ同行して行くことになった。
 
 昨年の4月15日(日)一泊2日の研修を終えて帰宅して、間もなくブラジル人の新婚旅行中のカップルが、母親と一緒に我が家にやって来た。
 母親は栃木県に住んでいて、ブラジルに住む娘が結婚して新婚旅行で来日、母親が日本の主な観光地を案内しているとのことであった。
 私の急用の時間の関係で、高知へは夜中の3時に出発することになった。
 
 愛車エステイマに5人乗り、計画通り午前3時に出発した。
 湾岸線から阪神高速へ入り、淡路鳴門自動車道の明石海峡大橋を経由、して徳島自動車道に入り、井川池田ICから国道32号線に入った。
 夜も明け始めた午前6時頃には、大歩危小歩危渓谷の駐車場に到着していた。
 新婚カップルはぐっすり眠っている。
 母親がブラジルにはない、このV字谷渓谷の景観に驚嘆し、娘夫婦に見せようとして起こす。
 娘夫婦は車外に出て初めて見る景観の第一声が
 「この景観を見ただけで、ここまで来た甲斐があった、ほんとに良かった」 であった。 暫くこの景観を見とれている姿が印象的であった。
 
 また、50日後にはアメリカフロリダ州から来た二人の孫娘たちも、同じようにここに連れて来る。
 同じ景観を見て、はしゃいでいる姿も思い出されてくる。

 大歩危小歩危の観光を終えた私達は、近くの大豊ICから高知自動車道に入る、伊野ICまで行って、国道33号線を松山方面へ走り、そこから40分ほどで、私の故郷佐川町尾川に到着する。
    
                    

               土佐の里山「佐川町尾川」の長閑な風景   

                   
         「ふれあいの里尾川」入口にあずまやや花壇などが整備されている

           
          ふれあいの里尾川の建物 手前の下には川が流れている 
 
                    
         稚木(わかぎ)の桜 本町出身の牧野富太郎博士が尾川で発見
            
            
                   
            稚木(わかぎ)の桜、3m程度で小さくて可憐な愛らしい桜         
          
              新婚旅行中の仲むつましいブラジルのカップル

 私の故郷である高知県佐川町は、高知市より西へ約25kmほど行った所にある、人口15000人程度の小さな町である。
 JR土讃線で特急も停車する佐川駅から5kmの所に、私の故郷の里山「尾川」がある。
 尾川の中央には清水の川が流れ、6月頃には蛍が舞わっている光景も見られる。
 地域交流促進の為に造られた施設「ふれあいの里 尾川」も家のすぐ近くにある。
 
                       
            湯の森(中津渓谷)にて            横波スカイラインにて 
          
                      横波スカイラインにて

 湯の森は中津渓谷の一角にあり、佐川町から松山方面へ、30分ほど行った所にある山裾と、渓谷に囲まれた温泉施設である。
 湯の泉質も良く、評判の良い温泉である。新婚夫婦や孫達も、この温泉が大変気にいっていた。
 特のブラジルの花婿は入浴後「こんな温泉がブラジルにあれば毎日でも入りたい」言うほど気に入っていた。
 
 佐川町から南方面に30分ほど行った所に、海の街、須崎市がある。
 須崎市から、さらに南へ行くと風光明媚で太平洋に面した、横波スカイラインがある。
 私は彼らをそこに案内した。孫娘たちの時も同じである。
 山間部の道を暫く走ると亜熱帯の植物が目に入り始めると、すぐに景観が一変し、青い空の下、岩壁の眼下に広がる太平洋が突然目に入ってくる。
 岩壁の岩場には荒々しく押し寄せてくる、太平洋の波が、真っ白な泡となって、新たな景観をつくっている。
 この絶景に感嘆の声を出して、見とれているカップルの姿があった。
 孫娘たちの時も同じ様に、歓声の声をあげ、はしゃいでいる姿が思い出されてくる。

                  
             桂浜を裸足で歩いたり戯れるブラジル夫婦

          
        荒々しく真っ白な泡を立てながら打ち寄せる波を背景に孫たちと妻 

 横波スカイライン終点の、宇佐大橋手前の公園で、昼食をすませた後は、海岸線の道路を通って桂浜に行った。30分の距離である。
 桂浜はよさこい節で月の名所として歌われた大変景色の良い浜辺である。
 また。坂本竜馬の像や水族館、土佐犬の闘犬センターなどもある。
 ブラジルのカップルもこの浜辺が大変気に入った様子で、すぐに靴を脱ぎ、裸足で波と戯れたり、水際を歩く姿が印象深く残っている。
 熱帯のブラジルの人たちは海が好きだなーと改めて思った。
 孫達もこの浜辺が気に入って慶んで戯れている姿もあった。
 土佐の新鮮なかつおなどの魚や、さわち料理にも大満足であった。

           
             坂本竜馬の像に抱きつく孫立ち(桂浜)   

          
  )          五台山(高知市)の南国土佐を後にしての石碑の前で

          
            土佐のさわち料理人数により盛り付け内容が違ってくる  
          
                活きの良いかつおを中心とした刺身

 2泊3日の高知への旅を終えて、大阪に帰ってきた私たちは、前々から近所の人たちと約束していた、ガーデンパーテイを4月19日に開催した。
 その席で、ブラジルの花嫁に着物を着せたいとの話しが持ち上がり、近所の人たちの協力によって20日に着せることになった。
 勿論、花嫁は着物を着たことは一度もなく、振袖を着ることに、小さい時から、あこがれていたとのことであった。
 翌日の朝、近所から着物が届く、着物の着付けの方も近所にいる、髪に手入れは、妻が元美容師で合ったことから問題なく出来た。
 思いがけない娘の振袖姿に、感慨ひとしおの母親の姿があった。
 写真のようなきれいな花嫁が見られ、私達も大満足の一日であった。
 花婿の和服は私の物だが、身長で17cmの差があり、小さいがやむを得なかった。
 それにしても美しい花嫁姿である。
 本人も念願かなって「着物が着れて本当に良かった」「一生の思い出になります」と、花嫁の言葉があった。
 花婿も自分の花嫁の着物姿に、感動している様子であった。 
 ブラジルに帰国してからの連絡によると、私が撮影したCDを見て、両親が大喜び、友達も毎晩のように自宅を訪れ、日本でのCDを見て、うらやましく帰るとのことであった。
 最近の連絡では、待望の赤ちゃんがお腹の中に出来たとの吉報があった。
 当時、カップルは自分達の子供に関して、女の子なら「さくら」、男の子なら「かつお」に命名したいといっていた。

  
大阪城を背景に和服が良く似合う 映画「ラストサムライ」に似ている 和室での記念撮影

               
              初めての着物で図柄を見せる花嫁


ふれあいの里尾川  http://www.town.sakawa.kochi.jp/silk/fursato.htm

歴史ロマン漂う大歩危小歩危の渓谷

2008-04-21 12:58:56 | 気ままな旅
 4月6日(日)午前中の栗林公園、午後からの国営讃岐まんのう池公園の観光を終えた私は、愛車エステイマで、私の故郷、高知県佐川町方面へ向かった。
 いつものは妻が助手席にいて、運転している私にコーヒなどのサービスをしてくれる。
 今回はそれを一人でしなくてはならない。
運転しながら我が家自慢のコーヒーを飲む味は、また格別である。
 満濃池から琴平町の国道32線に出る。
 高速道路が開通していない時は、帰省の度に走っていた思い出の道である。

 琴平から猪の鼻峠のトンネルを抜けると、もうそこは阿波池田(徳島県三好市)である、四国山脈の険しい山がそびえ立ち、その山稜には多くの家が点在する。
 この地域独特の光景である。初めて来た人が四国徳島に来て第一に驚く光景だ。
 眼下には太陽光線の光が、水面に反射してゆっくりと流れる四国三郎と呼ばれる吉野川と、池田町の街並みも、走るに従ってはっきりと目に映ってくる。
 絵葉書にでも、のせたくなるようなすばらしい眺望である。

 阿波池田からは、きれいに整備され、ドライブを楽しませてくれる吉野川側沿いの32号線を高知方面へ走って行く。
 四国山脈を横切る吉野川沿いのこの地は、V字形の谷になっていて、結晶片岩が水蝕されて出来た渓谷は、千態万様の奇観を見せている。
 大股で歩いても、小股で歩いても危険であると言われていることから、大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)の名前がついたと言われている。
 約8kmにわたる吉野川沿いの渓谷である。
この渓谷は国道32号線や、JR土讃線からも渓谷美を楽しむことができる。
 私が通過したのは夕暮れ迫る6時前後であったが、写真のように渓谷に鯉のぼりが架けられ、泳いでいる姿は改めて季節を感じさしてくれている。

 昨年の同じ時期に、ブラジルから日本に初めて来たハネムーン中のカップルを、高知へ案内した折にここに立ち寄った。
 カップルから「本当にここにこられて良かった。この景観を見ただけで、一緒に来た価値が十分にあった」と微笑ましく言っていたことを思い出す。

 大歩危小歩危から少し行った所を、左に曲がり20分ほどで行くと、そこは日本三大秘境(他に岐阜県=白川郷、宮崎県=椎葉村(しいばそん))で有名な祖谷(いや)のかずら橋がある。
 
今回は祖谷方面には行かず高知方面へ車を走らせて行った。
 暫く行くと、吉野川を挟んだ川向こうの駅で警報が鳴り続け、特急列車が停車しそうだあった。
 撮影しようと進路を変え、JRの駅方面へ行ってご覧のような撮影が出来た。
高知と岡山・高松を結ぶ特急列車の南風号である。
 下り特急列車が停車して暫くすると、今度は上り特急列車が通過して行った。
 特急列車の乗客が車窓を通して、四国山脈ど真ん中にある渓谷美を楽しんでいるようであった。

 吉野川に平行して走る国道32号線沿いには桜の花が満開で、ここから見渡せる険しい山の頂き近くまで家が点在している。
 この付近一帯は祖谷に近く源氏との戦いに敗れた平家の落人が、追っ手から逃れる為に、山里深くに移り住んだという伝説の歴史ロマンがある。
 
 私はさらに愛車エステイマを走らせ、高知自動車道の南国ICまで国道32号線を走って行った。
 南国ICから伊野ICまでの間は、一般道の高知市内が良く込み合う為、高速道路を走った。
 伊野ICから私の故郷佐川町までは、松山に通じる国道33号線を走らせて、40分ほどの距離にある。


           
                 大歩危小歩危の渓谷になびく鯉のぼり

          
                鯉のぼりと大歩危渓谷遊覧船乗り場
  
                  
             上り特急列車を待合わせする高知方面行特急南風号
           
          
                 通過する上り岡山方面行特急南風号
             
          
          特急列車が通過した土佐岩原駅前からの国道32線沿いの桜

          
           夕暮れ迫る吉野川沿いの景観 奥山高く家が点在している
                 


花や自然・遊び心を創造する 「国営讃岐まんのう公園」

2008-04-20 18:33:27 | 気ままな旅
  4月6日(日)晴天の天気となった午前中の栗林公園の散策を終えて、峰山公園経由で「国営讃岐まんのう公園」へと向かった。
  峰山公園は栗林公園のすぐ近くにある山の公園である。
 道中の並木道にも桜が多く植えられ、満開の道を愛車エステイマで通り抜けて行くのも最高の気分であった。
 峰山公園も多くの花見客で賑わっていたが、道中の道路が狭く対面通行の折には一台しか通行できない為に、どうしても時間がかからずをえなかった。
 満濃池は高知へ向かう、片側2車線の整備された国道32号線を走り、金刀比羅宮で有名な琴平町に入った道沿いの看板から15分ぐらいの所にあった。

 多くの観光客で賑わっている。
 この公園は、空海(弘法大師)が修築した日本最大のため池に隣接する国営公園である。
 広大な園内には讃岐の懐かしい風景を保全した自然生態園や、オートキャンプ場などが有り、整備の良く整った公園である。
 

          
             峰山公園道中からの高松市街の眺望 後方は屋島

          
           記念撮影のスポットになる花の竜(まんのう公園入口にある)

          
          垂直の石組に沿って落差9mを流れ落ちる 「昇竜の滝」
 大地の裂け目から湧き出る水の流れと、その中を天に向かって昇る竜の姿を表現して造られた滝である。
 この公園景観のメインとなる滝で、花一杯の風化の庭などからは、
 景観のバックに見渡されるように造成されている。  

          
                     風化の庭
 四国山脈の険しい山並みをイメージしているのだろうか、ロックガーデンのように岩と色彩豊かな花を
バランス良く植樹して、そこから見渡される昇竜の滝とのコントラストは見事と言うほかはない。

          
                       ネモフィラの花

 風化の庭からコバルトブルーの花が飛竜池の方向の斜面に向かって一面に咲いている。
 北海道の富良野や美瑛を思い出すような光景である。
          
           
                    広大な芝広場

 周囲ぐるっと、8つのお椀型の山々に囲まれた約4haの敷地で夏には緑のジュータンとなる。
穏やかな讃岐の風土と、空海が安住の地として描いた ”八葉蓮華(はちようれんが)の景観イメージを表現している。
 親子で球技を楽しんだり、シートの上に寝そべったりと、多くのファミリーが思い思いに過ごしている微笑ましい光景が
この広場の中にあった。
          
          
                   水仙の花広場

 風化の庭から飛竜池の側を進んで行く飛竜の花道に、黄色や白の花をつけた水仙が咲きほこっている。
 その花道を小さな子供達が、歓声を上げながら走りすぎていく。
 側のベンチでは、静かに花を見つめながら、くつろいでいる人もいる。
 このような微笑ましい光景が公園内のいたる所で見かけられた。

          
                       池の芝桜 
           飛竜池の周りに植えられ、ジュータンのような満開の芝桜

           
              彩とりどりのチューリップ       黄色いチューリップ 

          
                  ひと際目立つ赤い色のチューリップ 

 このチューリップの花は芝生広場に隣接する花畑「花竜の道」にある。
 花の多さから言って一番の見どころで、夏や秋にも季節を変えた花が咲きほこっていると思う。
 この花道を着物姿の女性が日傘をさしながら通り過ぎて行く。
 洋風の花畑にも和服はよく似合っていると思った。
  
          
              自然生態園の中にある逆様池(さかさまいけ)
 この池は水草がたくさん自生する宝庫になっている。
            生き物もたくさん生息、シーズンにはよく観察できるとのこと。

          
                   自然生態園の中にある北の谷
 湿地の状態をよく保っている。豊富な湿性植物が観察できる谷である。
 園内は「自然生態観察園」と「自然生態展示館」で構成されている。
 訪れた人々が懐かしい風景や生き物に触れながら、自然の仕組みや、人と自然の関わりに感心を持って、理解を深め、共存のあり方を、考えていただくように造られているようだ。


          
                      ドラの夢 泉の広場

   霧につつまれてた竜の祠(ほこら)より流れ出る水と親しめる広場。
   砂利で水の流れを変えたりして自由に遊べることが出来る。
   子供達が裸足になって思い思いに水と、楽しそうに戯れている姿があった。
             
          
                大型のネットジャングルジムで遊ぶ子供達

 この公園で驚くことは、子供の遊ぶ遊具施設が充実していることだ。
 すり鉢状のトランポリン遊具、ふわふわドーム、スリル満点の超ロング滑り台などが設置され、子供や大人達までの自由な遊び心と創造力をかきたているようである。
 この公園の入場料も大人400円ときわめて経済的で、ファミリーでも、大人のカップルでも、一日過ごすのにはもってこいの場所である。
 広大な園内には無料のバスも定期的に巡回しており、疲れた折にでも安心して過ごすことが出来る。
              
          
                   満 濃 池  
 
 飛竜の花道の園路からバリアフリーの木製デッキが満濃池の方にのびている。
そこから美しい満濃池が眺望出来る。
 この池は、日本一の大きさをもつ、灌漑用のため池として知られているが、
 空海(弘法大師)により修復されたことでも有名な池である。         

日本が誇る特別名勝の庭園 「栗林公園」

2008-04-17 23:14:17 | 気ままな旅
 4月6日(日)朝6時過ぎに目覚める、高松市に隣接する香南市の道の駅「香南湯楽」で車中泊をしていた。
 今日も天気は良さそうだ。
 よく眠れ意気揚々としている。
 早速、きれいに整備された道の駅の施設内で朝食の準備に取り掛かった。
いつも持参している小さなガスコンロで湯を沸かし、我が家自慢のブラジルコーヒーをたてる。
 立てたコーヒーはポットに入れて保温し、好きな時に飲めるようにしている。
朝食はパンと果物、ヨーグルト、野菜ジュースなどとコーヒーである。
 朝食後は道の駅近くの公園を散策した。
 その後に高松市内にある国の特別名勝庭園の栗林公園へ向かった。

 栗林公園に一番最初に訪れたのは小学校の修学旅行の時であった。
 その後も友達や親類の者と何度か訪れているが、何時、何回来てもあきない、魅力ある庭園である。

 日本三名園(兼六園=石川県金沢市、後楽園=岡山市、偕楽園=茨城県水戸市)があるが、一説に寄例えば
 「明治43年文部省発行の高等小学校読本の文章中風致の美を持って世に聞ゆる 水戸の偕楽園、金沢の兼六園、岡山の後楽園にして、之を日本の三公園と称す、然れども 高松の栗林公園は、木石の雅趣、却って此の三公園より優れリ」
 と記され、飛来峰から南湖を望む景観の写真が掲載れている。

 私は偕楽園は訪れたことがなく分からないが、他の庭園よりも優れているように思える。
 この庭園は国指定の特別名勝庭園に指定されていて、庭園の中では最大の広さを誇っている。
 1625年頃、讃岐領主 生駒隆俊によって、南湖一帯が造営され、1624年入封した松平頼重に引き継がれた、それ以後松平藩主五代に渡り、100年をかけて完成した。
 明治新政府の管理下におかれた後は、1875年に県立公園に指定され一般公開されている。
 1953年には国の特別名勝庭園に指定された。
 
 日本独特の庭園、この讃岐高松の地にこのような名園が、中世にできたのはなぜだろうか! と考えてみる。
 日本庭園には色々と違った形態がある。
 自然の景観そのものをコンパクトにまとめたものや、仏教の教えに従った、人間の心や宇宙の世界を表現しようとするなど、様々な様式が考えられて造られている。 枯山水の庭などもその一例である。
 栗林公園の庭園も瀬戸内海に浮かぶ、島並みの美しさを表現して、造られているようにも思える。
 日本には橘俊綱と言う公家の方が、庭つくりの台本になる「作庭記」を中世に発表している。
  この本の中に「乞(こ)はんに従う」と言う言葉がある。
 この言葉は庭師の間では、現在もも使われているらしい。
 これは自然を活かしたり、自然に従った庭造りをするという意味である。
 この栗林公園の庭園も、紫雲山という山が北にあり、その山の恩恵の湧き水が数箇所あって流れ出し、池泉を形成、築山や島を造り、匠に庭石や草木を配した手法がとられている。
 それに日本独特の木造建築物との調和もバランスよく保たれ、庭園を観賞する我々の心を魅了してやまない。
 今回は桜の満開の季節に訪れることが出来たが、次回は秋の季節にもまた来たいと思う、四季それぞれにも変化があり、
また違った楽しみ方ができそうだ。
  
         
            飛来峰から南湖を望む、奥の山は紫雲山

 中央の弓形の橋は偃月端(えんげつきょう)で、この庭園第一の眺望で写真でによく紹介されるところである。

         
          飛来峰から偃月橋(えんげつきょう)と奥の掬月亭を望む

         
             芙蓉峰から北湖を望む 後方の赤い橋は梅林橋

         
               南湖からの掬月亭(北側より)

 この建物は南庭の要に位置する四方正面の数寄屋造りで、回遊式庭園の中心施設として
歴代藩主に大茶屋と呼ばれ、広く愛用されていた。


                       
                南湖からの掬月亭(南側より)

          
               梅林橋下の鯉 あまりの鯉の多さに驚く

                    
             吹上亭の前で見事な鯉に餌をやったりして楽しむ人達

          
          見事な枝振りの松 永年の手入れの良さを感じる(箱松)

          
          満開の桜を楽し見ながら園内を観賞する人達
                 
今日は日曜日、大勢の方がそれぞれのグル-プに分かれ花見を楽しんでいる

ロマン溢れる源平古戦場の屋島

2008-04-16 14:10:43 | 気ままな旅
 4月5日(土)午前10時、近所の人に見送られ大阪の自宅を出発した。
今回の気ままな旅は、妻がバリ島(インドネシア)に住む、娘宅へ出かけている為、私一人の旅となった。
 いつものように愛車エステイマを運転、四国高松を目指した。
 湾岸線から阪神高速神戸線へ、第二神明道路から国道2号線を通るルートを選んだ。
 山陽自動車道も平行して走っているが、このルートの方が何よりも経済的で、しかも高架になったバイパスが多く、所要時間も大きな差はないと判断した為である。
 第二神明道路と国道2号線は直接結ばれ、乗り換える必要はない。
 加古川バイパスから姫路バイパスへ、そこからも西姫路バイパスへとつながっている。
 ほとんどが高架で、信号機もなくスムーズに通行できる道路であった。
 備前市からは国道2号線から、海岸の景色の美しい岡山ブルーラインを通行した。
 この道路はかつて有料道路であったが、今は無料道路になっている。
 リアス式海岸の変化にとんだ美しい景色が多く、私はこの近辺を通行する時は、
この道路を利用、車窓に広がる景色を楽しむことにしでいる。
 道の駅も「黒井山グリーンパーク」と「一本松展望園」の二つがある。
 大変景色の良い場所に造られ、複合施設の公園も、家族向きで人気があり、多くの人達で賑わっている。
 岡山からは、かつて四国からの玄関口として賑わった宇野港を目指して行った。
30分ほどで宇野港に到着するが、かつての高松駅と宇野駅を結んだJR連絡船の姿は、
今はなく、ターミナルも小さくひっそりとしているのに驚く。
 私は高知への帰省の度に、この駅で下車して桟橋に停泊している連絡船に乗り換えたものであった。
 帰省の帰りも連絡船が宇野桟橋に到着するたびに、多くの乗客たちが、停車中の急行「鷲羽号」の席を確保しようと、
慌しく異動している姿などが懐かしく思い出されてくる。
 私もその一人で、桟橋から列車が停車しているプラットホームまでの長い距離を、
大きな荷物を持ってよく走ったものであった。

 宇野港からは国道フェリーで高松港へ向かった、エステイマの搬送料金は2900円と安さに驚く。
所要時間は55分である。
 瀬戸内海の思い出深い景色は、昔とほとんど変わる事がないが、西の彼方に新しく開通した瀬戸内海をまたぐ、
鉄道道路併用橋の瀬戸中央大橋が見えてくる。
 改めて時代の流れを感じさずにはいられなかった。
 高松に近づくに従って、屋根の形をした屋島の前景がはっきりと見え出した。
 この時間(15時)なら屋島の観光は出来そうである。

 高松港に到着後は屋島にカーナビを設定、エステイマを走らせて行った。
 15分ほどで屋島ドライブウエイ入り口に到着、通行料金(610円)を支払った。
 ドライブウエーの緩やかな斜面をエステイマは登って行く。
 道沿いの桜の花は満開で、桜と瀬戸内海に浮かぶ島々や、
その周りの景観が見事に演出され、美しさをかもし出している。
 
                    
                   フェリーからの宇野港

 JR宇高連絡船や桟橋、巨大な宇野駅ターミナルなどのかつての面影は消え、こじんまりと、
きれいに整備された港や街並みが出現している。

                    
                瀬戸内海を航行するフェリー(高松→宇野)

 フェりーから見る瀬戸内海のに浮かぶ島並みや、頻繁に行き交う船舶などが思い出深く、
 いつまでたってもあきることがない景観を楽しむ事ができる。

                  
                 フェリー船上からの屋島全景

                    
                  源平合戦の屋島壇ノ浦古戦場

 車は走るに従って高度を上げて行く。
 眼下の街並みや瀬戸内海の景色は絶景である。
 ほどなくして源平合戦の屋島古戦場跡地に到着する。

                
                 古戦場の真向かいにある談古領

 屋島三台展望台のひとつ。ここからは源平の古戦場「壇ノ浦」が一望できる。
 那須与一の扇の的、義経の弓流し、平家軍船の泊地「船隠し」など
 平家物語の屋島合戦の舞台が眼下に一望できる場所である。
 対岸には五剣山がそびえている。
 この場所には、ここから見る全景の写真パネルに、分かりやすい説明文をいれて展示している。

           
                     源平合戦の絵図

 色鮮やかに描かれた源平合戦の絵図を想い見るには談古領は絶好の地であった。

                   
                     瑠璃宝池(血の池)

この池は源平合戦の折、義経をはじめ、源氏軍が血刀を洗ったところ、
池は真っ赤に染まったといわれたことから、
別名を「地の池」といわれている。

          
                       屋島寺境内

 屋島寺は鑑真(がんじん)和上過海大師が開創の基を開き、その弟子恵雲律師空鉢(くうはつ)が初代の住職になったと伝えられ、初めは律宗であったが、弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八所の八十四番札所である。

                  
               夕暮れの屋島から高松市街望む(獅子の霊厳)

 この下に断崖に大きな岩が突き出て、その形が獅子に似ていることから獅子の霊厳と呼ばれている。
 昔、弘法大師が屋島寺本堂を建立しょうと、早朝に着手したが、工事途中で太陽が西に傾きはじめた折に、大師はこの巌に立ち、扇を持って夕陽を招き返し、一日で工事を完成さしたという伝説がある。
 また、この展望広場には昭和6年に訪れた明治の歌人、与謝野寛、晶子夫妻のパネルも展示され、情緒を一層かもし出している。
 若い恋人達が寄り添いながら、自分達の未来のことを語り合い、景観を楽しむロマンスが想像される絶好の場所である。
   
                    
                    満開の屋島の桜 
                   
                 屋島からの高松港方面の夕日
 
 屋島からの高松市街の夜景も見たいと思っていたが、今日はどこで宿泊するかまだ決めていなかった。
 勿論、車中泊である。明日も天気は良さそうだし、高松市内にある栗林公園に行きたいとおもっている。
 あまり遠くには行きたくなかった。
 カーナビで道の駅を調べ、15km先にある香南市の道の駅「香南楽湯」に決めて、セットしエステイマを走らせて行った。
 途中で夕食の買い物を済ませた後、ほどなくして道の駅に到着する。
 この道の駅は名前の通り温泉が併設されている。ありがたいと思った。
 早速、入浴の準備を整え、受付で入浴料700円を支払って入浴する。
 土曜日のせいか入浴客も結構たくさん入っている。
 「木の風呂」と「石の風呂」、それに露天風呂があった、無色透明の湯である。  やはり温泉はいい。
 一日の疲れを取り除いてくれ、安らぎを感じさしてくれる。
 入浴を終え、受付で靴箱のキーを返したところ 「50分以内の入浴でしたから」 と200円バックしてくれた。
 思わず顔が微笑む。ありがとう。
 車に帰ると遅い夕食をとった。
 私はどちらかといえば、外食はあまり好きではない。
 仕事が営業であったことから、いつも外食ばかり食べていたからだろうか!
 一人でも車にセットしている食卓で食べるほうが、なんとなく気持ちが落ち着く。
 夕食時の最初の一杯の味は最高で、何もかも癒してくれる。
 夕食もほどなくして終え、今日撮影したデジカメの写真を、持参しているノートパソコンに移し替えるなどして整理をはじめ、
終わった頃には11時近くになっていた。
 そして、特性のベッドの上に用意してある敷物に毛布かけて寝る準備をして就寝に入っていった。
 勿論、就寝時はいつの季節でも、車のエンジンは切っている。
 そうでないと、音や振動などで眠れないからだ。
 トランジシタラジオから流れる音楽を聴きながら、深い眠りに入っていった。

     



明治維新に発生した堺の事件

2008-04-02 14:24:32 | 気ままな旅
 前回は3月16日(日)に訪れた堺で与謝野晶子や旧堺港の灯台について投稿したが、今回は明治維新前後の混乱期の事件について触れたいと思う。
 前回で堺港を見学して思ったことは、中世にあれだけ繁栄した堺港が、現在には繁栄せずに、神戸港がどうして繁栄していったのか!  疑問に思いつつあった。
 ただ、たんに大和川の付け替え工事によって、大和川を大阪湾に直接引き込み、それによって大量の土砂が堆積、堺港が狭小しただけの理由ではなさそうに思えていた。
 理由は、幕府は中世以来、海外貿易港の拠点として栄えた堺港を、再度、海外貿易港として開港するが、堺港の近くには「仁徳天皇稜」などの稜が数多く付近に存在し、在留中の外国人の行動範囲に入ることから、幕府は朝廷側との紛争を恐れ、神戸開港に切り替えたとのことであった。

 南海電車堺駅近くにある「天誅組上陸の地」と「明治初年仏人撃攘の処」の二つの石碑は、前回のボランテイアのおじさんに、案内してもらって初めて知ったが、恥ずかしながら私は、明治維新に発生したこの件に関しては、予備知識をほとんどもっていなかった。

 天誅組(てんちゅうぐみ)について
 文久3年(1863年)8月13日(維新の5年前)孝明天皇が大和畝傍山詣で、稜前で攘夷(じょうい)断行の勅命を幕府に下す為に、天皇みずからが大和行幸(天皇が皇居から外出すること)を宣言される。

(攘夷とは皇威をかがやかし、外国人の排斥を主張した排他的な思想。当時の状況:ペリーの黒船来航以来、朝廷の許可なしで幕府が開国したことに対して攘夷論者の人々から、幕府に対しての不満が噴出していた)
 
 天皇大和行幸の露払いとして、また討幕軍の先鋒になろうと、行幸宣言の翌日、公家中山侍従忠光を主将にいただき、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石を総裁にして天誅組が旗揚げされる。(天誅=天の刑罰、天罰、天罰として殺すことの意)
 文久3年8月、長州藩勤皇派(勤皇=天皇に忠勤をはげむこと)が天皇の攘夷祈願の大和行幸と称して討幕軍を企てていた。 
 これに呼応した天誅組が先回りして、討幕軍を迎えようと京都を出発、淀川を下り、大阪湾から堺に上陸する。
 堺に上陸した天誅組は大和に向かって、五条の代官所などを襲撃する。
しかしながら、政変により長州藩勤皇派が失脚し、天皇の大和行幸が中止になった為に、幕府は天誅組討伐を紀州藩などに命じ壊滅さした。

 現在に至っても天誅組の理念や思想には評価が二分されているように感じる。
 旗揚げされた理念の根幹は、200年以上に及ぶ幕府の支配政治を終わらせ、天皇中心の新しい国家や、政治体制の起立にあるようであるが、吉村寅太郎など天誅組発足に携わった人たちの終局は不運であった。 

                    
                       堺事件と天誅組の碑

 堺事件(明治初年フランス人撃攘の処)
 攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年(1868年)2月15日、幕府の大政奉還後の、混乱した世情の中で事件は発生した。
 フランス領事一行が陸路で堺に入ろうとしてた。
 事前に外国事務局からの通報がなかった警備の土佐藩兵は、これを拒み中途で引き返させた。
 同日夕刻、領事一行を迎えるべく、フランス海軍のデユプレクス号は堺に入港し、仕官以下数十名の水兵が上陸して市内を徘徊していた。
 土佐藩軍艦府は警備の藩兵に取締りを命じ、帰艦を諭したが、手続きの不備や言葉の問題から誤解が生じ、混雑する中、フランス水兵側が土佐藩隊旗を倒伏し、逃亡しようとした為に、土佐藩兵が咄嗟に発砲、フランス人水兵11名を殺傷する、また、海に落として溺死させる事件が発生した。
(土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだとされる)
 フランス政府は、各国在阪公使と話し合い、事件の下手人の斬刑、陳謝、賠償など、5か条からなる抗議書を日本側に提出している。
 明治政府は事件を大変憂慮し、イギリス公使に調停を求めたが失敗、22日にはやむなく賠償金15万ドルの支払いと、事件関与者の処刑などの主張を飲まざるをえなかった。
 このような明治政府の対応は、維新当時の国力の差が歴然としており、日本側にとっては無念きまわりなき要求であったが、受けいれざるを得なかったように思われる。
 この事件は本来、捕縛すべき事件であったが、発砲による殺傷を目的とする野蛮な対応を、警備兵がしたことから、各国は混乱した日本の世情とはいえ、事件の再発を恐れ、在外国者を震撼せしめていた。
 フランス政府は、20名の切腹を要求し、29名のものが大阪市内にある土佐稲荷神社で、籤を引いて切腹するものを決めた。
 2月23日、大阪裁判所の宣告により、堺の妙国寺でフランス兵を殺傷した土佐藩士20名の刑の執行が行なわれたが、藩士たちは切腹の場で、自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に、投げるという凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長が途中で、日本の外国判事に中止を要請し、9名が助命された。
 一説に暮色四辺に立ち込め、ついに日暮れに至り、軍艦長は帰路の襲撃を恐れたからだともいわれている。
 
24日は日本の外国総督がフランス艦に行き、謝意を表し賠償金15万ドルを交付した。
 切腹した土佐藩士11名は、妙国寺(堺市材木町)にあつく葬られ、その後、遺体は妙国寺向かいの宝珠院に葬られている。
 昭和13年(1938年)に土佐十一烈士墓として国に指定された。
 また、後にフランス兵の慰霊碑も神戸外国人墓地に建立された。
 
 鎖国が200年以上も続き、サムライの国家から近代化に移行する明治維新を向かえ、混乱した中で事件は発生している。
 天誅組も土佐藩士も自分達は、悪いことをしているわけではないとの思いを感じる。
 むしろ天誅組も幕政を終わらせ、新しい日本をつくろうと、志を新たにして立ち上がった人たちであった。
 堺の警備をまかされた土佐藩士も、警護上の当たり前の任務をこなしたとの思いが強く、自分達は何の罪で処刑されるのか、分からないままに刑を執行されている。
 フランス兵についても、いきなり発砲され、多くの犠牲者を出したことに対して、混乱した時代の事件とはいえ、心を痛める大変な事件であった。
 
 大政奉還=1867年(慶応3年)10月、土佐の前藩主山内豊信の勧めにより、15代将軍徳川慶喜が政権を天皇に返したこと。
           
           
                     堺市内にある妙国寺