気ままな旅

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明治維新に発生した堺の事件

2008-04-02 14:24:32 | 気ままな旅
 前回は3月16日(日)に訪れた堺で与謝野晶子や旧堺港の灯台について投稿したが、今回は明治維新前後の混乱期の事件について触れたいと思う。
 前回で堺港を見学して思ったことは、中世にあれだけ繁栄した堺港が、現在には繁栄せずに、神戸港がどうして繁栄していったのか!  疑問に思いつつあった。
 ただ、たんに大和川の付け替え工事によって、大和川を大阪湾に直接引き込み、それによって大量の土砂が堆積、堺港が狭小しただけの理由ではなさそうに思えていた。
 理由は、幕府は中世以来、海外貿易港の拠点として栄えた堺港を、再度、海外貿易港として開港するが、堺港の近くには「仁徳天皇稜」などの稜が数多く付近に存在し、在留中の外国人の行動範囲に入ることから、幕府は朝廷側との紛争を恐れ、神戸開港に切り替えたとのことであった。

 南海電車堺駅近くにある「天誅組上陸の地」と「明治初年仏人撃攘の処」の二つの石碑は、前回のボランテイアのおじさんに、案内してもらって初めて知ったが、恥ずかしながら私は、明治維新に発生したこの件に関しては、予備知識をほとんどもっていなかった。

 天誅組(てんちゅうぐみ)について
 文久3年(1863年)8月13日(維新の5年前)孝明天皇が大和畝傍山詣で、稜前で攘夷(じょうい)断行の勅命を幕府に下す為に、天皇みずからが大和行幸(天皇が皇居から外出すること)を宣言される。

(攘夷とは皇威をかがやかし、外国人の排斥を主張した排他的な思想。当時の状況:ペリーの黒船来航以来、朝廷の許可なしで幕府が開国したことに対して攘夷論者の人々から、幕府に対しての不満が噴出していた)
 
 天皇大和行幸の露払いとして、また討幕軍の先鋒になろうと、行幸宣言の翌日、公家中山侍従忠光を主将にいただき、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石を総裁にして天誅組が旗揚げされる。(天誅=天の刑罰、天罰、天罰として殺すことの意)
 文久3年8月、長州藩勤皇派(勤皇=天皇に忠勤をはげむこと)が天皇の攘夷祈願の大和行幸と称して討幕軍を企てていた。 
 これに呼応した天誅組が先回りして、討幕軍を迎えようと京都を出発、淀川を下り、大阪湾から堺に上陸する。
 堺に上陸した天誅組は大和に向かって、五条の代官所などを襲撃する。
しかしながら、政変により長州藩勤皇派が失脚し、天皇の大和行幸が中止になった為に、幕府は天誅組討伐を紀州藩などに命じ壊滅さした。

 現在に至っても天誅組の理念や思想には評価が二分されているように感じる。
 旗揚げされた理念の根幹は、200年以上に及ぶ幕府の支配政治を終わらせ、天皇中心の新しい国家や、政治体制の起立にあるようであるが、吉村寅太郎など天誅組発足に携わった人たちの終局は不運であった。 

                    
                       堺事件と天誅組の碑

 堺事件(明治初年フランス人撃攘の処)
 攘夷論のいまだおさまらぬ慶応4年(1868年)2月15日、幕府の大政奉還後の、混乱した世情の中で事件は発生した。
 フランス領事一行が陸路で堺に入ろうとしてた。
 事前に外国事務局からの通報がなかった警備の土佐藩兵は、これを拒み中途で引き返させた。
 同日夕刻、領事一行を迎えるべく、フランス海軍のデユプレクス号は堺に入港し、仕官以下数十名の水兵が上陸して市内を徘徊していた。
 土佐藩軍艦府は警備の藩兵に取締りを命じ、帰艦を諭したが、手続きの不備や言葉の問題から誤解が生じ、混雑する中、フランス水兵側が土佐藩隊旗を倒伏し、逃亡しようとした為に、土佐藩兵が咄嗟に発砲、フランス人水兵11名を殺傷する、また、海に落として溺死させる事件が発生した。
(土佐藩側ではフランス人が迷惑不遜行為に及んだとされる)
 フランス政府は、各国在阪公使と話し合い、事件の下手人の斬刑、陳謝、賠償など、5か条からなる抗議書を日本側に提出している。
 明治政府は事件を大変憂慮し、イギリス公使に調停を求めたが失敗、22日にはやむなく賠償金15万ドルの支払いと、事件関与者の処刑などの主張を飲まざるをえなかった。
 このような明治政府の対応は、維新当時の国力の差が歴然としており、日本側にとっては無念きまわりなき要求であったが、受けいれざるを得なかったように思われる。
 この事件は本来、捕縛すべき事件であったが、発砲による殺傷を目的とする野蛮な対応を、警備兵がしたことから、各国は混乱した日本の世情とはいえ、事件の再発を恐れ、在外国者を震撼せしめていた。
 フランス政府は、20名の切腹を要求し、29名のものが大阪市内にある土佐稲荷神社で、籤を引いて切腹するものを決めた。
 2月23日、大阪裁判所の宣告により、堺の妙国寺でフランス兵を殺傷した土佐藩士20名の刑の執行が行なわれたが、藩士たちは切腹の場で、自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵に、投げるという凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長が途中で、日本の外国判事に中止を要請し、9名が助命された。
 一説に暮色四辺に立ち込め、ついに日暮れに至り、軍艦長は帰路の襲撃を恐れたからだともいわれている。
 
24日は日本の外国総督がフランス艦に行き、謝意を表し賠償金15万ドルを交付した。
 切腹した土佐藩士11名は、妙国寺(堺市材木町)にあつく葬られ、その後、遺体は妙国寺向かいの宝珠院に葬られている。
 昭和13年(1938年)に土佐十一烈士墓として国に指定された。
 また、後にフランス兵の慰霊碑も神戸外国人墓地に建立された。
 
 鎖国が200年以上も続き、サムライの国家から近代化に移行する明治維新を向かえ、混乱した中で事件は発生している。
 天誅組も土佐藩士も自分達は、悪いことをしているわけではないとの思いを感じる。
 むしろ天誅組も幕政を終わらせ、新しい日本をつくろうと、志を新たにして立ち上がった人たちであった。
 堺の警備をまかされた土佐藩士も、警護上の当たり前の任務をこなしたとの思いが強く、自分達は何の罪で処刑されるのか、分からないままに刑を執行されている。
 フランス兵についても、いきなり発砲され、多くの犠牲者を出したことに対して、混乱した時代の事件とはいえ、心を痛める大変な事件であった。
 
 大政奉還=1867年(慶応3年)10月、土佐の前藩主山内豊信の勧めにより、15代将軍徳川慶喜が政権を天皇に返したこと。
           
           
                     堺市内にある妙国寺


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