1月2日(金)南大阪にある自宅から、雪の十津川街道(R168号)を通り、紀伊山地熊野本宮大社までやってきた。
現在の時間は午後3時、何とか日没までは初詣が出来そうであった。
先ほどまでは山稜に、雪が見えていたが、ここ熊野から見渡す限り雪はなかった。
先ほど休憩した十津川の道の駅付近より温かく感じる。
到着するとガードマンに、熊野川河川敷に出来た、臨時駐車場に案内された。
臨時駐車場から熊野本宮大社に向かって歩いて行く。
左側には、旧熊野本宮の大鳥居が見え、目の前には本宮大社の森が見えている。
ここは、2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されている。
紀伊山地は、自然信仰に発する日本人の宗教心を育んだ原郷である。
蜿蜒(えんえん)と連なる峰々、巨木や奇岩を抱えて生い茂る深い森、渓谷を走り瀑を懸けて、大小の川を作りながら海に注ぎ、天空が一体化するような海原を形成している。
ここは、熊野三山と呼ばれる自然環境から生まれた聖地で、伝統的な信仰を積み重ね、伽藍や墓所、修行の場を併せ持っている場所でもある。
熊野三山は、熊野川を遡上した所にある「本宮(ほんぐう)大社」、熊野川河口近くの「速玉(はやたま)大社」、滝をご神体とする「那智大社」は、熊野灘に注ぐ那智川流域にあり、これらの3つの神社をまとめた呼称である。
熊野本宮大社では、熊野三山の三神に共通する神を祀っている、熊野三山の中心的存在で、日本全国3000を越える熊野神社の総本社である。
本宮大社は「家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来」、速玉大社は「速玉大神=薬師如来」、那智大社は「夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音」をお祀りしている。
平安時代から鎌倉時代にかけては、皇族や貴族などの「熊野詣」が大流行し後白河院 {1122~1192年=第77代天皇、即位の翌年、保元の乱が起こり、譲位して法皇となって院政をしき、広大な荘園を所領した。梁塵秘抄(りょうじんひしょう=平安時代末期の歌謡集、後白河法皇編、当時流行していた今様(いまよう)が集められている)を著したといわれる} の参詣は34回に及んでいる。
それに伴い熊野街道が発達し、各地から熊野への道も発展していった。
日本各地へも熊野信仰が広がり、一般民衆の間でも熊野は「日本第一霊験所」として考えられ、「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになっていた。
その昔、熊野三山を参詣する人々は、必ず山を登り、川を越え、森を抜け、太陽を拝し、水に感謝することになる。
これを体得することによって、霊験あらたかになるといわれている。
熊野に行くには中辺路(なかへち)・小辺路・伊勢路のどのルートが開発されていたが、どのルートから来ても、最初に参詣するのが熊野本宮大社であった。
日本サッカー協会のシンボルマークにも使われている八咫鳥(やたがらす)
熊野では、八咫鳥(やたがらす)は神の使者と言われ、三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表し、本宮大社では、主祭神「家津美御子大神(けつみみこのおおがみ)」の御神徳である 智・仁・勇 または 天・地・人の意を表している。
鳥は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をするとされており、熊野の地へ神武天皇御東征の砌(みぎり)、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫鳥がお導き申し上げたという意があります。
また、歴史上の一端より触れて述べれば、源平合戦の折、那須与一出身地(栃木県)鳥山城は、鳥が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したと伝えられている。
また、日本では、最近、サッカーが大変人気をおびているが、日本サッカー協会のマークも八咫鳥である。
サッカー協会に使用された意味は 「相手チームのゴールをはずすことなく、きちんとボールをとらえて、納める」 という意から来ていると言われている。
このことから本宮大社では八咫鳥を
◎ 人の道を開く開運・人生・目的達成する。
◎ 現在地 ~ 目的地の間、無事に到達するの意、海上安全、交通安全、旅行安全、通学安全
などの守護として仰がれている。
初詣の人たちで賑やう熊野本宮大社総門付近
私達も熊野本宮大社総門の前にやって来た。 多くの初詣の人々が訪れ賑わっている。
熊野本宮大社総門にある石柱
本宮境内の到る所に掲げられている 謹賀新年の挨拶
総門のある正面入口からの参道 参道にある158段の石段
昔から土着の神を祀る熊野本宮は、今から2000年ほど前の崇神(すじん)天皇の頃に鎮座したと伝えられている。
古くは熊野神社と呼ばれ、近くの音無川・岩田川が熊野川に合流する地点に位置する大斎原(おおゆのはら)にあった。
明治22年の大洪水で川岸の集落もろとも流され、十二社のうち上四社は現在の地に再建され、中、下の四社は旧社地大斎原に残されている。
本宮は熊野三山の中心として、多くの人々があこがれ、訪れた聖地でもある。
総門から杉木立が両脇を埋める参道を100mほど進み、158段の石段を上ると、神門があり、門をぬけると入母屋造り、檜皮葺きの社殿(重要文化財)が立ち並んでいる。
延名長寿、家庭円満、交通安全などの神として昔も今も多くの人々に深く信仰されている。
大斎原(おおゆのはら)旧熊野本宮絵図
多くの参拝客で賑やう参道から158段の石段を上った所の神門近辺
「天を仰ぎ、地に感謝」 熊野本宮大社の本年の標語
第一殿の夫須美大神 第二殿の速玉大神 第三殿の本殿証誠殿
四の社殿前には、多くの参拝客が訪れ、社殿に向かって列を作って並んでいる。
左手に相殿があり、次の第一殿には夫須美神、第二殿には速玉大神、第三殿の本殿証誠殿には家都美大神が祀られている。
私達は、最初どの社殿から参拝すればよいか分からなかったが、神門から列に加わっていると自然と、第三殿の本証誠殿に参拝することが出来た。
続いて第二殿の速玉大神、第一殿の夫須美大神、第四殿の天照大神の順で参拝する。
私はいつも参拝する時は、過去の御礼と良き世の中や社会への貢献・健康を祈念して参拝している。
弟四殿の奥にも社があり、行ってみると若いカップルがお参りをしている。
此処は満山社で縁結びや人と人を結ぶ神様であった。
私達も早速お参りをさしてもらった。
第二殿の速玉大神の入母屋造、檜皮葺きの社殿
大社造り様式の特徴の千木
大社造り様式で造られている入母屋造、檜皮葺きの社殿
四つの社殿が並ぶ境内入口にある神門、参拝者が続々と訪れ、それぞれの社殿に向かって列をなしている。
境内にある第一殿・第二殿・第三殿に列を作って並ぶ参拝者
第三殿 証誠殿 家都美御子神に参拝に並ぶ人々
第四殿には天照大神が祀られている
満山社(縁結びの神・八百満の神)
此処のお祀り申し上げている玉石は、親と子の結び、夫婦の結び等人と人の縁を結ぶ再生の玉石である。
この御社殿は平成19年9月に、115年振りに復興されいる。
平安朝の宮廷女人歌人「和泉式部」の祈願塔
熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて
奉幣かなはざりければ
”晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて
月の障りとなるぞ かなしき”
その夜 熊野権現の霊夢ありて
”もろともに塵にまじわる神なれば
月の障りの何かくるしき”
かくて身を祓い清めて 多年あこがれの「熊野詣で」を
無事すませしと云う。
このように和泉式部は詠っている。
※紫式部=平安中期の女流歌人、はじめ和泉守橘道真に嫁して小式部を生み、のち離別し中宮彰子に仕え、さらに藤原保昌に嫁した。
情熱的な恋愛歌人として有名であった。
歌は拾遺集(しゅういしゅう)その他に多くのせられている。
また、代表作に「和泉式部日記」があり、和歌、散文をまとめた自伝体の物語で、冷泉院の皇子敦道親王との恋愛生活を描いている。
平安時代のローマン主義の先駆者である。
旧社地の大斎原(おおゆのはら)に立つ日本一大きい鳥居
本宮大社の初詣を済ました後、私たちは帰り際に旧社地の大斎原に立ち寄ってみた。
農地の中に日本一大きい鳥居が建っている。
近くに行くとその大きさに驚かされる。
「熊野本宮旧社地の大斎原(おおゆのはら)」は、霊場「熊野三山」を構成する「熊野本宮大社」に含まれる遺跡で、樫の枝に神々が三枚の月型となって降臨した地として伝えられ、明治22年の熊野川大洪水まで、熊野本宮大社が鎮座していた。
遺跡の中央には、神々の社殿が軒を並べていた、切石積みの基壇が遺されている。
本宮から霊場「吉野・大峰」までは山伏の修業の道「大峰奥駆道」、霊場「高野山」までは「熊野参詣道小辺地」、さらに遠く伊勢神宮までは、那智山と結ぶ「雲取越」を経由して「熊野参詣道伊勢路」が続いており、「祈りの道」の面影が信仰の基盤となった文化的景観と共によく遺されている。
大鳥居にある八咫鳥のマーク
明治22年の大洪水まで本宮大社が鎮座していた大斎原(おおゆのはら)旧熊野本宮
大斎原鳥居から熊野本宮大社方面を見る
熊野川にかかる堤防から熊野本宮大社方面を見る
熊野本宮大社の初詣と見学を終えた頃には、太陽は西に傾き、黄昏時を向かえている。
熊野本宮大社の初詣と見学を全て終えて感じることは、やはり熊野は歴史的に考えても「すごい」の一言に尽きる。
1000年の古の昔、公卿や貴族、その後の武士や一般庶民が先を争うように熊野詣でにあこがれ、蟻の熊野詣でと言われるほど盛んであった。
江戸時代によく行われていた伊勢神宮への参拝と、熊野詣は同じような信仰心をもっていても明らかに違いを感じる。
伊勢神宮まではどのルートであっても、険しい山はなく、比較的平坦であるのに対して、熊野は険しい谷あり、山ありが連続する熊野古道を行き交っている。
まるで山伏が険しい山の聖地に入り、修行しているような感さえする。
伊勢神宮は参拝することで御利益を考えたのに対して、熊野詣では、道中そのものが厳しい修行であり、霊感新たなる自分との戦いであったように感じてならない。
険しい道中を乗り越え、熊野に到着して、身を祓い清めてお参りする時の、心の充実感は何にましても替えがたい喜びであったに違いない。
最近人気のある四国遍路(歩き)も、全てを歩き終えた時の充足感も同じように思える。
私達は河川敷の臨時駐車場に帰ってくると、熊野川沿いに走っている国道168号線を新宮方面に南下して行った。
今日はどこで宿泊するか決めていなかったが、新宮近くの道の駅で宿泊したいと考えていた。
明日は熊野三山の一つ速玉神社への初詣と伊勢志摩方面を予定している。
現在の時間は午後3時、何とか日没までは初詣が出来そうであった。
先ほどまでは山稜に、雪が見えていたが、ここ熊野から見渡す限り雪はなかった。
先ほど休憩した十津川の道の駅付近より温かく感じる。
到着するとガードマンに、熊野川河川敷に出来た、臨時駐車場に案内された。
臨時駐車場から熊野本宮大社に向かって歩いて行く。
左側には、旧熊野本宮の大鳥居が見え、目の前には本宮大社の森が見えている。
ここは、2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されている。
紀伊山地は、自然信仰に発する日本人の宗教心を育んだ原郷である。
蜿蜒(えんえん)と連なる峰々、巨木や奇岩を抱えて生い茂る深い森、渓谷を走り瀑を懸けて、大小の川を作りながら海に注ぎ、天空が一体化するような海原を形成している。
ここは、熊野三山と呼ばれる自然環境から生まれた聖地で、伝統的な信仰を積み重ね、伽藍や墓所、修行の場を併せ持っている場所でもある。
熊野三山は、熊野川を遡上した所にある「本宮(ほんぐう)大社」、熊野川河口近くの「速玉(はやたま)大社」、滝をご神体とする「那智大社」は、熊野灘に注ぐ那智川流域にあり、これらの3つの神社をまとめた呼称である。
熊野本宮大社では、熊野三山の三神に共通する神を祀っている、熊野三山の中心的存在で、日本全国3000を越える熊野神社の総本社である。
本宮大社は「家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来」、速玉大社は「速玉大神=薬師如来」、那智大社は「夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音」をお祀りしている。
平安時代から鎌倉時代にかけては、皇族や貴族などの「熊野詣」が大流行し後白河院 {1122~1192年=第77代天皇、即位の翌年、保元の乱が起こり、譲位して法皇となって院政をしき、広大な荘園を所領した。梁塵秘抄(りょうじんひしょう=平安時代末期の歌謡集、後白河法皇編、当時流行していた今様(いまよう)が集められている)を著したといわれる} の参詣は34回に及んでいる。
それに伴い熊野街道が発達し、各地から熊野への道も発展していった。
日本各地へも熊野信仰が広がり、一般民衆の間でも熊野は「日本第一霊験所」として考えられ、「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになっていた。
その昔、熊野三山を参詣する人々は、必ず山を登り、川を越え、森を抜け、太陽を拝し、水に感謝することになる。
これを体得することによって、霊験あらたかになるといわれている。
熊野に行くには中辺路(なかへち)・小辺路・伊勢路のどのルートが開発されていたが、どのルートから来ても、最初に参詣するのが熊野本宮大社であった。
日本サッカー協会のシンボルマークにも使われている八咫鳥(やたがらす)
熊野では、八咫鳥(やたがらす)は神の使者と言われ、三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表し、本宮大社では、主祭神「家津美御子大神(けつみみこのおおがみ)」の御神徳である 智・仁・勇 または 天・地・人の意を表している。
鳥は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をするとされており、熊野の地へ神武天皇御東征の砌(みぎり)、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫鳥がお導き申し上げたという意があります。
また、歴史上の一端より触れて述べれば、源平合戦の折、那須与一出身地(栃木県)鳥山城は、鳥が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したと伝えられている。
また、日本では、最近、サッカーが大変人気をおびているが、日本サッカー協会のマークも八咫鳥である。
サッカー協会に使用された意味は 「相手チームのゴールをはずすことなく、きちんとボールをとらえて、納める」 という意から来ていると言われている。
このことから本宮大社では八咫鳥を
◎ 人の道を開く開運・人生・目的達成する。
◎ 現在地 ~ 目的地の間、無事に到達するの意、海上安全、交通安全、旅行安全、通学安全
などの守護として仰がれている。
初詣の人たちで賑やう熊野本宮大社総門付近
私達も熊野本宮大社総門の前にやって来た。 多くの初詣の人々が訪れ賑わっている。
熊野本宮大社総門にある石柱
本宮境内の到る所に掲げられている 謹賀新年の挨拶
総門のある正面入口からの参道 参道にある158段の石段
昔から土着の神を祀る熊野本宮は、今から2000年ほど前の崇神(すじん)天皇の頃に鎮座したと伝えられている。
古くは熊野神社と呼ばれ、近くの音無川・岩田川が熊野川に合流する地点に位置する大斎原(おおゆのはら)にあった。
明治22年の大洪水で川岸の集落もろとも流され、十二社のうち上四社は現在の地に再建され、中、下の四社は旧社地大斎原に残されている。
本宮は熊野三山の中心として、多くの人々があこがれ、訪れた聖地でもある。
総門から杉木立が両脇を埋める参道を100mほど進み、158段の石段を上ると、神門があり、門をぬけると入母屋造り、檜皮葺きの社殿(重要文化財)が立ち並んでいる。
延名長寿、家庭円満、交通安全などの神として昔も今も多くの人々に深く信仰されている。
大斎原(おおゆのはら)旧熊野本宮絵図
多くの参拝客で賑やう参道から158段の石段を上った所の神門近辺
「天を仰ぎ、地に感謝」 熊野本宮大社の本年の標語
第一殿の夫須美大神 第二殿の速玉大神 第三殿の本殿証誠殿
四の社殿前には、多くの参拝客が訪れ、社殿に向かって列を作って並んでいる。
左手に相殿があり、次の第一殿には夫須美神、第二殿には速玉大神、第三殿の本殿証誠殿には家都美大神が祀られている。
私達は、最初どの社殿から参拝すればよいか分からなかったが、神門から列に加わっていると自然と、第三殿の本証誠殿に参拝することが出来た。
続いて第二殿の速玉大神、第一殿の夫須美大神、第四殿の天照大神の順で参拝する。
私はいつも参拝する時は、過去の御礼と良き世の中や社会への貢献・健康を祈念して参拝している。
弟四殿の奥にも社があり、行ってみると若いカップルがお参りをしている。
此処は満山社で縁結びや人と人を結ぶ神様であった。
私達も早速お参りをさしてもらった。
第二殿の速玉大神の入母屋造、檜皮葺きの社殿
大社造り様式の特徴の千木
大社造り様式で造られている入母屋造、檜皮葺きの社殿
四つの社殿が並ぶ境内入口にある神門、参拝者が続々と訪れ、それぞれの社殿に向かって列をなしている。
境内にある第一殿・第二殿・第三殿に列を作って並ぶ参拝者
第三殿 証誠殿 家都美御子神に参拝に並ぶ人々
第四殿には天照大神が祀られている
満山社(縁結びの神・八百満の神)
此処のお祀り申し上げている玉石は、親と子の結び、夫婦の結び等人と人の縁を結ぶ再生の玉石である。
この御社殿は平成19年9月に、115年振りに復興されいる。
平安朝の宮廷女人歌人「和泉式部」の祈願塔
熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて
奉幣かなはざりければ
”晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて
月の障りとなるぞ かなしき”
その夜 熊野権現の霊夢ありて
”もろともに塵にまじわる神なれば
月の障りの何かくるしき”
かくて身を祓い清めて 多年あこがれの「熊野詣で」を
無事すませしと云う。
このように和泉式部は詠っている。
※紫式部=平安中期の女流歌人、はじめ和泉守橘道真に嫁して小式部を生み、のち離別し中宮彰子に仕え、さらに藤原保昌に嫁した。
情熱的な恋愛歌人として有名であった。
歌は拾遺集(しゅういしゅう)その他に多くのせられている。
また、代表作に「和泉式部日記」があり、和歌、散文をまとめた自伝体の物語で、冷泉院の皇子敦道親王との恋愛生活を描いている。
平安時代のローマン主義の先駆者である。
旧社地の大斎原(おおゆのはら)に立つ日本一大きい鳥居
本宮大社の初詣を済ました後、私たちは帰り際に旧社地の大斎原に立ち寄ってみた。
農地の中に日本一大きい鳥居が建っている。
近くに行くとその大きさに驚かされる。
「熊野本宮旧社地の大斎原(おおゆのはら)」は、霊場「熊野三山」を構成する「熊野本宮大社」に含まれる遺跡で、樫の枝に神々が三枚の月型となって降臨した地として伝えられ、明治22年の熊野川大洪水まで、熊野本宮大社が鎮座していた。
遺跡の中央には、神々の社殿が軒を並べていた、切石積みの基壇が遺されている。
本宮から霊場「吉野・大峰」までは山伏の修業の道「大峰奥駆道」、霊場「高野山」までは「熊野参詣道小辺地」、さらに遠く伊勢神宮までは、那智山と結ぶ「雲取越」を経由して「熊野参詣道伊勢路」が続いており、「祈りの道」の面影が信仰の基盤となった文化的景観と共によく遺されている。
大鳥居にある八咫鳥のマーク
明治22年の大洪水まで本宮大社が鎮座していた大斎原(おおゆのはら)旧熊野本宮
大斎原鳥居から熊野本宮大社方面を見る
熊野川にかかる堤防から熊野本宮大社方面を見る
熊野本宮大社の初詣と見学を終えた頃には、太陽は西に傾き、黄昏時を向かえている。
熊野本宮大社の初詣と見学を全て終えて感じることは、やはり熊野は歴史的に考えても「すごい」の一言に尽きる。
1000年の古の昔、公卿や貴族、その後の武士や一般庶民が先を争うように熊野詣でにあこがれ、蟻の熊野詣でと言われるほど盛んであった。
江戸時代によく行われていた伊勢神宮への参拝と、熊野詣は同じような信仰心をもっていても明らかに違いを感じる。
伊勢神宮まではどのルートであっても、険しい山はなく、比較的平坦であるのに対して、熊野は険しい谷あり、山ありが連続する熊野古道を行き交っている。
まるで山伏が険しい山の聖地に入り、修行しているような感さえする。
伊勢神宮は参拝することで御利益を考えたのに対して、熊野詣では、道中そのものが厳しい修行であり、霊感新たなる自分との戦いであったように感じてならない。
険しい道中を乗り越え、熊野に到着して、身を祓い清めてお参りする時の、心の充実感は何にましても替えがたい喜びであったに違いない。
最近人気のある四国遍路(歩き)も、全てを歩き終えた時の充足感も同じように思える。
私達は河川敷の臨時駐車場に帰ってくると、熊野川沿いに走っている国道168号線を新宮方面に南下して行った。
今日はどこで宿泊するか決めていなかったが、新宮近くの道の駅で宿泊したいと考えていた。
明日は熊野三山の一つ速玉神社への初詣と伊勢志摩方面を予定している。