気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

古の人々のあこがれの地「熊野本宮大社」

2009-01-31 13:33:44 | 気ままな旅
 1月2日(金)南大阪にある自宅から、雪の十津川街道(R168号)を通り、紀伊山地熊野本宮大社までやってきた。
 現在の時間は午後3時、何とか日没までは初詣が出来そうであった。
 先ほどまでは山稜に、雪が見えていたが、ここ熊野から見渡す限り雪はなかった。
 先ほど休憩した十津川の道の駅付近より温かく感じる。
 到着するとガードマンに、熊野川河川敷に出来た、臨時駐車場に案内された。
 臨時駐車場から熊野本宮大社に向かって歩いて行く。
 左側には、旧熊野本宮の大鳥居が見え、目の前には本宮大社の森が見えている。
 ここは、2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されている。
 紀伊山地は、自然信仰に発する日本人の宗教心を育んだ原郷である。
 蜿蜒(えんえん)と連なる峰々、巨木や奇岩を抱えて生い茂る深い森、渓谷を走り瀑を懸けて、大小の川を作りながら海に注ぎ、天空が一体化するような海原を形成している。
 ここは、熊野三山と呼ばれる自然環境から生まれた聖地で、伝統的な信仰を積み重ね、伽藍や墓所、修行の場を併せ持っている場所でもある。
 熊野三山は、熊野川を遡上した所にある「本宮(ほんぐう)大社」、熊野川河口近くの「速玉(はやたま)大社」、滝をご神体とする「那智大社」は、熊野灘に注ぐ那智川流域にあり、これらの3つの神社をまとめた呼称である。
 熊野本宮大社では、熊野三山の三神に共通する神を祀っている、熊野三山の中心的存在で、日本全国3000を越える熊野神社の総本社である。
  本宮大社は「家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来」、速玉大社は「速玉大神=薬師如来」、那智大社は「夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音」をお祀りしている。
 平安時代から鎌倉時代にかけては、皇族や貴族などの「熊野詣」が大流行し後白河院 {1122~1192年=第77代天皇、即位の翌年、保元の乱が起こり、譲位して法皇となって院政をしき、広大な荘園を所領した。梁塵秘抄(りょうじんひしょう=平安時代末期の歌謡集、後白河法皇編、当時流行していた今様(いまよう)が集められている)を著したといわれる} の参詣は34回に及んでいる。
 それに伴い熊野街道が発達し、各地から熊野への道も発展していった。
 日本各地へも熊野信仰が広がり、一般民衆の間でも熊野は「日本第一霊験所」として考えられ、「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになっていた。
 その昔、熊野三山を参詣する人々は、必ず山を登り、川を越え、森を抜け、太陽を拝し、水に感謝することになる。
 これを体得することによって、霊験あらたかになるといわれている。
 熊野に行くには中辺路(なかへち)・小辺路・伊勢路のどのルートが開発されていたが、どのルートから来ても、最初に参詣するのが熊野本宮大社であった。

          
     日本サッカー協会のシンボルマークにも使われている八咫鳥(やたがらす)
 
 熊野では、八咫鳥(やたがらす)は神の使者と言われ、三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表し、本宮大社では、主祭神「家津美御子大神(けつみみこのおおがみ)」の御神徳である 智・仁・勇 または 天・地・人の意を表している。 
 鳥は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をするとされており、熊野の地へ神武天皇御東征の砌(みぎり)、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫鳥がお導き申し上げたという意があります。
 また、歴史上の一端より触れて述べれば、源平合戦の折、那須与一出身地(栃木県)鳥山城は、鳥が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したと伝えられている。
 また、日本では、最近、サッカーが大変人気をおびているが、日本サッカー協会のマークも八咫鳥である。
 サッカー協会に使用された意味は 「相手チームのゴールをはずすことなく、きちんとボールをとらえて、納める」 という意から来ていると言われている。
 このことから本宮大社では八咫鳥を
  ◎ 人の道を開く開運・人生・目的達成する。
  ◎ 現在地 ~ 目的地の間、無事に到達するの意、海上安全、交通安全、旅行安全、通学安全
    などの守護として仰がれている。
 
             
              初詣の人たちで賑やう熊野本宮大社総門付近

 私達も熊野本宮大社総門の前にやって来た。 多くの初詣の人々が訪れ賑わっている。

          
                熊野本宮大社総門にある石柱

          
            本宮境内の到る所に掲げられている 謹賀新年の挨拶
   
           
         総門のある正面入口からの参道   参道にある158段の石段

 昔から土着の神を祀る熊野本宮は、今から2000年ほど前の崇神(すじん)天皇の頃に鎮座したと伝えられている。
 古くは熊野神社と呼ばれ、近くの音無川・岩田川が熊野川に合流する地点に位置する大斎原(おおゆのはら)にあった。
 明治22年の大洪水で川岸の集落もろとも流され、十二社のうち上四社は現在の地に再建され、中、下の四社は旧社地大斎原に残されている。
 本宮は熊野三山の中心として、多くの人々があこがれ、訪れた聖地でもある。
 総門から杉木立が両脇を埋める参道を100mほど進み、158段の石段を上ると、神門があり、門をぬけると入母屋造り、檜皮葺きの社殿(重要文化財)が立ち並んでいる。
 延名長寿、家庭円満、交通安全などの神として昔も今も多くの人々に深く信仰されている。 

          
               大斎原(おおゆのはら)旧熊野本宮絵図

          
        多くの参拝客で賑やう参道から158段の石段を上った所の神門近辺

          
            「天を仰ぎ、地に感謝」 熊野本宮大社の本年の標語

          
        第一殿の夫須美大神 第二殿の速玉大神  第三殿の本殿証誠殿

 四の社殿前には、多くの参拝客が訪れ、社殿に向かって列を作って並んでいる。
 左手に相殿があり、次の第一殿には夫須美神、第二殿には速玉大神、第三殿の本殿証誠殿には家都美大神が祀られている。
 私達は、最初どの社殿から参拝すればよいか分からなかったが、神門から列に加わっていると自然と、第三殿の本証誠殿に参拝することが出来た。
 続いて第二殿の速玉大神、第一殿の夫須美大神、第四殿の天照大神の順で参拝する。
 私はいつも参拝する時は、過去の御礼と良き世の中や社会への貢献・健康を祈念して参拝している。
 弟四殿の奥にも社があり、行ってみると若いカップルがお参りをしている。
 此処は満山社で縁結びや人と人を結ぶ神様であった。
 私達も早速お参りをさしてもらった。

          
              第二殿の速玉大神の入母屋造、檜皮葺きの社殿

          
                大社造り様式の特徴の千木

          
            大社造り様式で造られている入母屋造、檜皮葺きの社殿

          
 四つの社殿が並ぶ境内入口にある神門、参拝者が続々と訪れ、それぞれの社殿に向かって列をなしている。

          
          境内にある第一殿・第二殿・第三殿に列を作って並ぶ参拝者

          
           第三殿 証誠殿 家都美御子神に参拝に並ぶ人々

          
               第四殿には天照大神が祀られている

          
               満山社(縁結びの神・八百満の神)

 此処のお祀り申し上げている玉石は、親と子の結び、夫婦の結び等人と人の縁を結ぶ再生の玉石である。
 この御社殿は平成19年9月に、115年振りに復興されいる。

          
              平安朝の宮廷女人歌人「和泉式部」の祈願塔

 熊野へ詣でたりけるに女身のさわりありて
            奉幣かなはざりければ
 ”晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて
             月の障りとなるぞ かなしき”
  その夜 熊野権現の霊夢ありて
 ”もろともに塵にまじわる神なれば
             月の障りの何かくるしき” 
  かくて身を祓い清めて 多年あこがれの「熊野詣で」を
             無事すませしと云う。 

 このように和泉式部は詠っている。 
 ※紫式部=平安中期の女流歌人、はじめ和泉守橘道真に嫁して小式部を生み、のち離別し中宮彰子に仕え、さらに藤原保昌に嫁した。
 情熱的な恋愛歌人として有名であった。
 歌は拾遺集(しゅういしゅう)その他に多くのせられている。
 また、代表作に「和泉式部日記」があり、和歌、散文をまとめた自伝体の物語で、冷泉院の皇子敦道親王との恋愛生活を描いている。
 平安時代のローマン主義の先駆者である。  
         
           
           旧社地の大斎原(おおゆのはら)に立つ日本一大きい鳥居

 本宮大社の初詣を済ました後、私たちは帰り際に旧社地の大斎原に立ち寄ってみた。
 農地の中に日本一大きい鳥居が建っている。
 近くに行くとその大きさに驚かされる。
 「熊野本宮旧社地の大斎原(おおゆのはら)」は、霊場「熊野三山」を構成する「熊野本宮大社」に含まれる遺跡で、樫の枝に神々が三枚の月型となって降臨した地として伝えられ、明治22年の熊野川大洪水まで、熊野本宮大社が鎮座していた。
 遺跡の中央には、神々の社殿が軒を並べていた、切石積みの基壇が遺されている。
 本宮から霊場「吉野・大峰」までは山伏の修業の道「大峰奥駆道」、霊場「高野山」までは「熊野参詣道小辺地」、さらに遠く伊勢神宮までは、那智山と結ぶ「雲取越」を経由して「熊野参詣道伊勢路」が続いており、「祈りの道」の面影が信仰の基盤となった文化的景観と共によく遺されている。

           
                大鳥居にある八咫鳥のマーク

          
     明治22年の大洪水まで本宮大社が鎮座していた大斎原(おおゆのはら)旧熊野本宮
                         
           
               大斎原鳥居から熊野本宮大社方面を見る

           
              熊野川にかかる堤防から熊野本宮大社方面を見る

 熊野本宮大社の初詣と見学を終えた頃には、太陽は西に傾き、黄昏時を向かえている。

 熊野本宮大社の初詣と見学を全て終えて感じることは、やはり熊野は歴史的に考えても「すごい」の一言に尽きる。
 1000年の古の昔、公卿や貴族、その後の武士や一般庶民が先を争うように熊野詣でにあこがれ、蟻の熊野詣でと言われるほど盛んであった。
 江戸時代によく行われていた伊勢神宮への参拝と、熊野詣は同じような信仰心をもっていても明らかに違いを感じる。
 伊勢神宮まではどのルートであっても、険しい山はなく、比較的平坦であるのに対して、熊野は険しい谷あり、山ありが連続する熊野古道を行き交っている。
 まるで山伏が険しい山の聖地に入り、修行しているような感さえする。
 伊勢神宮は参拝することで御利益を考えたのに対して、熊野詣では、道中そのものが厳しい修行であり、霊感新たなる自分との戦いであったように感じてならない。
 険しい道中を乗り越え、熊野に到着して、身を祓い清めてお参りする時の、心の充実感は何にましても替えがたい喜びであったに違いない。
 最近人気のある四国遍路(歩き)も、全てを歩き終えた時の充足感も同じように思える。
 
 私達は河川敷の臨時駐車場に帰ってくると、熊野川沿いに走っている国道168号線を新宮方面に南下して行った。
 今日はどこで宿泊するか決めていなかったが、新宮近くの道の駅で宿泊したいと考えていた。
 明日は熊野三山の一つ速玉神社への初詣と伊勢志摩方面を予定している。 


           

雪の日本最長路線バス街道を行く・・・・紀伊山地

2009-01-19 13:41:11 | 気ままな旅
 2009年1月2日(金)今年の正月は例年になく、妻と二人でひっそりとした正月を迎えている。
 当初の計画によると、元旦に静岡県浜松市に住む、妻の弟家族が総勢6名で訪れてくる予定であったが、急遽キャンセルになってしまった。
 6人を迎え入れる準備も整い、その矢先の出来事であった。
 その為に、元旦は、妻と二人で近くの神社と観音さまへ初詣に出かける。
 昨年の御礼と、本年の世相の安泰・健康を祈念する。
 2日は、予定が大幅に変更になったことから、妻と相談して、気ままな旅に出ることにした。
 行き先は、世界遺産にも登録され、雪のない紀伊半島の熊野本宮大社・熊野速玉神社・伊勢神宮などである。
 5日には、仕事の予定が入っており、今回は2泊3日の予定である。
 午前10時に自宅を出発、国道170号線から河内長野へ入り、そこから国道310号線に入る。
 山道の細い道路が多く峠にある金剛トンネルを抜けると、そこは奈良県五條市で、道なりに真っ直ぐに下って行くと自然と国道168号線へ入って行く。
 この国道168号線が路線バスとして、日本一長い路線で、通称十津川街道と呼ばれている道路である。(後で詳しく述べる)
          

          
         国道310号線金剛トンネルを過ぎた所から五條市内方面を見る 

 五條市内の国道168号線入口の電光掲示板には、「22時00分~6時00分まで、凍結の為通行止め」 と表字されている。
 雪がないと考えていたが、違っていたようだ。
 大丈夫かな! と一瞬思ったが、現在の時刻は丁度12:00頃で、問題はないと判断、そのまま通行して行った。

 この国道168号線は和歌山県新宮市を基点とし、奈良県十津川村を通り、大阪府枚方市を終点とする一般国道である。
 紀伊半島や奈良県南部の険しい山間部を縦断する為、所々で車が対面通行もできない狭路があり、渋滞する時もあるようだ。
 また、この道路は京阪神地区から新宮市へ抜ける最短ルートである為に、重要な道路として整備も急がれている。
 
 私も、五條市から十津川村まで、この道路を利用するのは初めてで、この道路に関する予備知識は全くもっていなかった。
 今日中には、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録され、熊野三山の一つである「熊野本宮大社」への初詣は済ましておきたいと思っていた。

 愛車エステイマは、曲がりくねった山間部の道路を、走行しながら高度を上げて行く。
 高度を上げていくに従って、山の頂上付近に見えていた雪が、しだいに目の前の山稜に見えてくるようになってくる。
 助手席のブラジル生まれの妻が、雪が珍しいのか、雪化粧した山稜をカメラにおさめようと、夢中になってシャッターボタンを押している。
 さらに愛車は高度を上げて行く。
 道路の両サイドは真っ白で、ヘヤピンカーブのある急坂の道路に差しかかってきた。
 冬用タイヤの着用規制も出されている。
 私の愛車は、毎年冬季になると冬用タイヤ(スタットレスタイヤ)に切り替える為、
 この程度の気象条件では、通行に支障が出る様なことはなかった。
 
           
  国道168号新天汁トンネル手前の店舗付近 雪化粧した国道168号線下永谷バス停付近 

 この下永谷バス停を過ぎて暫く行くと1174mの新天汁トンネルに差しかかる。
 国道168号線の中で、最も標高の高い地区で、1000m近い標高があるようだ。
 トンネルを抜けるとすぐに道の駅「吉野路大塔」があった、立ち寄ることにした。

          
              雪化粧した国道168号線 道の駅「吉野路大塔」

          
              「大塔コスミックパーク星のくに」 案内図 

 道の駅周辺には、郷土館、ロッジ「星のくに」・大塔温泉「星の湯」・星がいっぱいプラネタリウム館・主天文台・第2天文台、バーベキューハウス・ログキャビンなどの施設がある。

          
             道の駅周辺にある大塔コスミックパークの施設

          
            雪化粧した「維新胎動の地」像や石碑が立てられている

 大塔村には維新胎動の地として、南北朝時代に関わった大きな歴史があった。
 ◎南北朝時代
  鎌倉幕府追討を企てる「大塔宮護良親王」は、元弘元年(1331年=南北朝時代)元弘の乱が起こると、笠置山に参向して、父「後醍醐天皇」を助けたが、笠置山が陥落すると幕府軍の追捕を逃れて、十津川・吉野・熊野等々を転々と浪費して必死に反幕府勢力の糾合に努めた。
 この間、大塔村、辻堂・殿野に入り、土地の豪族「戸野兵衛」「竹原八郎」をはじめとする手厚い加護を受け、諸国に幕府追討の「令旨」を発し、ついに鎌倉幕府倒幕の偉業(建武の中興)を成し遂げた。

 ◎天誅組
  攘夷運動が激しさを増した江戸末期の文久三年(1863年)「中山忠光」「吉村寅太郎」ら反幕府勢力は「天誅組」を旗揚げし、激しい討幕運動を展開した。
 五條で決起し代官所を襲撃した後、交通の要地・物資集散地であった「天辻峠」に本陣を構えた。
 この地方きっての富豪であり、有力者であった「鶴屋冶兵衛」をはじめ、村人は居宅や人力を提供し、協力を惜しまなかった。
 しかし、幕府軍の追捕激しく志半ばにして夢破れたものの、「維新運動のさきがけ」として讃えられている。

          
            雪化粧している国道168号線の道路状況(大師温泉付近)

          
          国道168号線、大師温泉付近から真っ白に雪化粧した山稜

 雪の中で道の駅「吉野路大塔」周辺を散策した私たちは、今度は逆に峠を下る、国道168号線を南方面に走行して行った。
 この道路は通称十津川街道と呼ばれている。
 所々で道路が対面交通も出来ないほど、急に狭くなる個所を何箇所か過ぎて行く。
 雪化粧した山稜も南に下って行くに従って、雪が少なくなり、山の頂き近辺に見える程度に変わっている。
 愛車も谷瀬の吊橋近辺に近づき、案内の看板が掛けら、川沿いの道を通行して行くと、目の前に「谷瀬の吊橋」の全景が現れ、思わず愛車を停車させご覧のような写真を撮影する。
 
          
               十津川に架けられた「谷瀬の吊橋」の全景

          
          時々みぞれ交じりの強い寒風の吹く中、吊橋を歩く人たち 

           
           吊橋の幅板1mの細い通路   寒風の中、吊橋を歩く女性

 谷瀬の吊橋は 長さ=297m、高さ=54m、足元幅=1mの日本一長い吊橋として、全国に知られている。
 今日のような風の強い気象条件では、橋が揺れて歩きにくそうであるが、何人もの方が渡っている。
 私も天気がよければ渡りたいと思っていたが、熊野本宮大社に日没までには参拝したいと考えていて、今回は吊橋を渡ることは断念せざるを得なかった。
 吊橋の橋上からは、54mの下を流れる十津川の渓谷美や、揺れる吊橋を渡る事はスリル満点で、あるに違いない。 

          
    谷瀬の吊橋の細い通路、「一度に20人以上は渡れません」 の幕が掛けられている

 谷瀬の吊橋の観光を終え出発しょうとしたところ、前方から「八木駅行」の路線バスに出合った。
 このバスは、奈良県の近鉄八木駅から、五條バスセターを経由して、国道168号線を通り十津川村、熊野本宮大社、JR新宮駅までの168kmを6時間半で走行する路線バスである。
 通称「十津川くまの特急バス」と呼ばれ、バスマニアには人気の高い路線で、全国に知られている。
 高速道路を利用しない一般路線バスでは、この十津川くまの特急バスが、走行距離と走行時間で日本一を誇っている。

 このバスが通過した後、私達は十津川村中心部にある、道の駅「十津川郷」に向かった。
 
           
              R168号線沿いにある道の駅「十津川郷」

 ほどなくして十津川村中心部にある、道の駅「十津川郷」に到着する。
 道の駅には、足湯があり、数人の方が利用している。
 道の駅の隣には、十津川村役場庁舎がある、道路を挟んだ向いには、十津川歴史民族資料館があり、山村の生活についての資料などが展示されているようである。
 温泉地も近くにあり、秘境の地、十津川を観光面で行政と一体となって、打ち込んでいるように感じる。
 暫くした後、私たちは再び国道168号線を南下して行った。

           
            国道168号線の整備が進む、十津川村七色地区の道路橋

 十津川沿いに造られている国道168号線をさらに南下、新しく整備され供用されている区間などもあって、快適に通行して行く。
 道の駅「奥熊野古道ほんぐう」を過ぎて、暫く行くと世界遺産、熊野本宮大社に到着する。
 ガードマンの指示で、熊野川河川に造られた臨時駐車場に案内された。
 時間も午後3時で、上空は明るく、日没までには初詣や、本宮大社の見学も出来そうであった。
 左の方向には、大きな鳥居が立っているが、熊野本宮大社は、駐車場から300mほど真っ直ぐに行った所に正門があり、そこからが本宮大社で、多くの人たちが初詣に訪れ賑わっている。 

           
              多くの人たちが訪れ賑わう熊野本宮大社入口 

 私達は、カメラを提げながら、初詣の人たちで賑やう、熊野本宮大社正門を通り、石段を一歩一歩本殿に向かって行った。

クリスマスと人々の絆を深める餅つき

2009-01-16 10:39:55 | 今日の出来事
  2008年12月21日(日)今日は南大阪にある自宅駐車場で、三重県の友が栽培したそば粉を持ち込んで、手打ち蕎麦を作ることと、クリスマスを兼ねたパーテイーが予定されている。
 しかし、今日は、風が強い上に、午後から雨模様との気象情報がだされた、あいにくの天気が予想される。
 午後からは、仲間達が会場設営の準備に集まり、駐車場の前部分を覆う作業に入ったが、風が強く、意外と戸惑ってしまった。
 会場設営をしている間には、三重県の友が、蕎麦打ちの準備を整え、近所の奥さんと共に打ち始めている。
 程なくして、会場設営も完了、外にはクリスマスらしいイルミネーションも点灯し、クリスマスの音楽が流れる中、総合司会者の開会の挨拶と乾杯の音頭から、楽しいパーテイが始まった。
 総勢30人程度のパーテイである。
 乾杯の後、三重県の友達が蕎麦80%、メリケン粉20%で打った、温かい蕎麦が出来上がり、早速、試食することにした。
 蕎麦も鈴鹿山脈の山裾で栽培されたばかりで、新鮮さと温かさが伝わってくる。
 バーベキューの肉は、ブラジルの店より牛股肉とウインナーを購入、タレなしの塩味で、そのまま食べられるように焼上げられている。
 これは欧米では、日常的な料理方法で、皆には大変好評をいただいている。
 その他、ダッチオーブンで煮込んだ肉と野菜や、参加者が各々の手料理を持ち込んでいる。
 日系ブラジル人女性もクルスマス向きのお菓子や、肉をコロッケ状にしたもの、特性のタレなどを料理してくれている。
 その他、お寿司やトマトを摺りつぶしたもの、すじ肉を煮込んだもの、ミックスサラダなどや、果物などが持ち込まれ賑やかにテーブルに並べられている。
 
          
  会場には色とりどりのイルミネーションが点灯し、クリスマスソングが流れムードを盛上げている。

           
          自分達で栽培して打ったそばをおいしそうに食べる二人

          
              ワインを飲み手打ちの蕎麦を食べてご満悦の二人

          
           プレゼント交換も予定され、参加者全員が持参している。 

          
 いよいよ楽しいプレゼント交換、先に子供達で行った。プレゼントをもらって大喜びの子供達。  

          
  大人達のプレゼント交換も始まり、くじ引きで手にしたプレゼントにご機嫌の人達。

          
           くじ引きで引当てたプレゼントを手にする女性、 満足 ?             

          
   プレゼント交換も終わりそれぞれのプレゼントを持って笑顔で応える人たち          

          
  プレゼントを手に微笑むママ(ユニークな仲間達の項で紹介のママ)と微笑む仲間

          
       プレゼント交換の楽しさが伝わってくる記念一枚、楽しいひと時であった。

 自分で栽培し、手打ちで作った蕎麦、皆で持ち寄った料理、ブラジルの肉料理やプレゼントを手にして喜ぶ子供達や大人達など、楽しく過ごしたパーテイも終わり、帰り際には三重県の友や、近くの人が栽培した野菜などを分配さしてもらった。


 12月30日(火)今日は、南大阪にあるユニークな仲間達と合同で餅つきをする日である。
 それぞれの人たちが、もち米を研ぎ、一晩水に浸して持ち込むことになっている。
 私どもが会場に到着すると、用意も万端と整い、蒸かしにかかっていた。
 前回、「ユニークな仲間」の項で紹介した人達が手際よく準備をしてくれている。
 特に男性の人たちの、餅つきに関する知識や、一つ一つの細かい作業にも手慣れ、手際よくやっている姿には驚かされる。
 女性達も色々と奮闘してくれているが、この男性達の動きにはたじたじで、思わず見とれてしまう程であった。
 まさにプロフェッショナルの集団で、今日一日で30臼程度を搗く予定である。

 昔から餅つきは幸せを運ぶ行事として、広く社会に浸透している。
 農耕を行っていた時代には、春には豊穣を願い、秋には収穫に感謝する祭りなどが行われ、神様に感謝の印として餅がお供えされている。
 お正月やお祭り、家屋の新築などの折に、年に数回、餅つきが行われ、神仏に感謝の意を表すお供えものとして、あるいは国家、地域の安泰、事業の発展、家族の幸せを祈って餅が搗かれ、縁起餅として振舞われている。
 また、餅は食品としても価値が高く、焼くだけで食べられ、保存も可能である上、おいしいご馳走として、腹持ちの良い食事やおやつとして、子供達にも大変喜ばれ、日本中に広く普及している。 
         
            
      洗い餅米は研いだ後一晩浸しておく 蒸かした後、臼に移されてこねる Vサインのポーズ

※洗い餅米は、一晩程度は水に浸すことが必要で、朝方に慌てて浸したものは搗いても粘り気がなく餅にならない。  

          
     蒸かす前にざるに入れ水気を切る(水気が多いと腰のないヘニャ餅になる) 

           
  蒸かすセイロにタオルを敷きもち米をセット、中央は蒸かしやすいように少しくぼめる

           
            セイロ3段で蒸かす     30~40分で蒸かしあがり石臼に移す

           
              蒸かしあがると、熱湯で温めておいた石臼へ移す 

            
搗く前にこねる、これは大変重要な作業でちゃんとやっておかないと、もち米が飛び散ったり、うまく搗けなかったりする。

            
         二人でこねるとさらに効率的 合い取りとタイミングよく搗くことが大切

 餅つきのポイントは、蒸かし上がってから搗くまでの時間で、できるだけ餅の温度を下げないようにスムーズに搗くことである。
 搗く人と合い取りの人とのタイミングがうまくあって、いい餅が搗き上がるといわれている。
 今回の合い取りの人の餅つきのポイントや、知識の深さには驚かされる。

           
      二人でかけ声と共にバランスよく搗く 男性のパワーが地響きで伝わってくる

           
         女性が二人で愛らしく搗いていると、歓声も一段と大きくなる

            
       子供も体験が大切 ママと一緒に搗く お兄ちゃんもてれながらも搗く さすが男の子

           
    現代女性は参画意識が旺盛、男性に負けじと懸命になって搗く微笑ましい姿も

          
          蒸かしあがった餅は餅切器にいれ、一定の間隔でしぼり出す

           
        しぼり出された餅は、のし板(餅箱)の上に白い澱粉を敷き皆で丸める  

           
            和気あいあいとした会話を交わしながら手際よく丸める

           
  みんな表情豊かに思い想いに丸めるていく 寒さも感じさせない真剣な表情で丸める人たち

            
             多少バラツキがあるがみんなで丸めて出来上がった餅

            
    大根おろしとしょうゆに搗きあがった餅  黄粉に搗きあがったばかりの餅 最高のおいしさだ
  
 餅つきの最中に誰ともなく造り振舞われた。味は最高のおいしさで、会場のムードも一層盛り上がってくる。

          
            仲間が自分で造り、お店に持って来たお正月用の松竹梅
        
 年の瀬には、日本中どこにでも見かける、餅つきの光景であったが、最近少なくなったように感じる。
 やはり餅つきは、少人数や一戸の家庭だけでなく、共同体で搗けるようにして、作業を分担し、搗きあがった餅はみんなで分けあう、この搗き方の方が良いと思う。
 このような光景が微笑ましく感じると同時に、地域で共に暮らす人たちにとって、何よりも大切な、人と人との絆の大切さを、学ばしてくれているように感じる。
  

ロマン漂う紀三井寺  ・・・・・ 和歌山市

2009-01-13 10:35:25 | 気ままな旅
  2008年(平成20年)12月23日(火)天皇誕生日、三重県から我が家で宿泊している友と、二人で和歌市内にある紀三井寺に出かけて行った。
 天気はよく、観光するのには申し分のない天気である。
 南大阪にある自宅を、友達の車で午前10時頃に出発する。
 紀三井寺には、一般道を通り1時間ほどで到着した。 
 駐車場の前にある道路から、紀三井寺の赤い楼門や上層が赤、下層が白の大きな建物が見えている。
 紀三井寺は山の斜面に出来た寺院で、境内からは風光明媚な和歌の浦や淡路島などの景観が、楽しる場所に造られている。
 伝承によると、宝亀元年(770年=奈良時代)唐から来た僧の為光上人が、名草山の山頂から一筋の光が発せられていたのを見つけ、名草山に登ると金色の千手観音様がおられた為、御影を彫刻して、本尊の胎内仏とし、その観音像を奉納し、御堂を造って安置したことに始まると言われている。
 名草山に三つの霊泉(清浄水、揚柳水、吉祥水=名水百選)があることから 「紀三井山」という山号になったといわれる。
 紀三井寺の正式名は「紀三井寺金剛宝寺護国院」と称し、宗派は真言宗山皆派に属していたが、現在は独立して救世観音宗総本山を名乗っている。
 本尊は十一面観音菩薩で、厄除・開運・良縁成就・安産・子授けにご霊験があるとされ、毎月18日の観音様ご縁日を中心に多くの信者で賑わっている。
 西国三十三箇所二番札所である。
 日本さくら名所100選や、日本名水百選にも指定されている。

         
        商店街からの紀三井寺全景、正面に楼門、右上の建物が新仏殿

 この道路を真っ直ぐに進むと、石段があり、その上に堂々たる威容を感じさせる赤い山門にたどり着く。
 山門の下にある石段の横には、「紀三井山護国院」と彫りこまれた石柱が立っている。
 この石段上の参道正面にある山門は、正式には文化財に指定されている「楼門」で、紀三井寺の境内の入口になっている。
 寺伝では永正6年(1509年=室町時代)に建立されたもので、建築規模といい、風格といい、色合いといい、その立派さに驚かされる。

           
         「紀三井山護国寺」の石柱と楼門 石段上の楼門、ここからが紀三井寺入口

          
     楼門を抜けるとすぐに石段(結縁坂)の参道がある、この石段結縁坂のいわれ

 紀三井寺の楼門から上に231段の急な石段で、参拝者泣かせになっているが、
この坂は結縁坂(けちえんさか)と呼ばれ、次のような ”いわれ” がある。
 「江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門は、紀州に住む、貧しい孝心篤い青年であった。
 ある日、母を背負って紀三井寺の急坂を登り、観音さまに御参りしていたところ、草履の鼻緒が切れ、困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、近くの神社宮司の娘「おかよ」であった。
 これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれた。
 後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送り、商いは大繁盛したのである。
 このことから、紀三井寺の表坂は、「結縁坂」と呼ばれるようになった。
 商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、観音様への信心が大切のようである。
 結婚願望の方は、この坂を上るといい縁に恵まれるかもしれません。
 観音様があなたを温かく迎えてくれ、心からお願いを掛けてみては如何でしょうか!

           
         楼門からの参道にあたる結縁坂 結縁坂には女厄坂33段、男厄坂42段、還暦坂60段がある。

          
              結縁坂の途中にある瀧本人「波切不動明王」

 「波切」の由来は弘法大師が唐からの帰国の折、台風に遭遇して難破しかかった時、師の恵果和尚から授かった霊木に大師自ら一刀三礼されて刻まれた「不動明王」に祈念すると、その不動明王は右手に持った「利剣」で押し寄せる波を切り裂き、無事に帰国されたと伝えられている。
 その霊力から「波切不動明王」のご利益は航海の安全であったが、昨今では私達の人生に振りかかる大難を小難に、小難を無事になるようにご利益を与えてくれています。
 心に諸願成就を念じてください。 

           
         紀三井寺の名に由来する 清浄水   芭蕉の句碑

 楼門から最初の石段を登ると、右手の木立の中に静かな音を立てて流れ落ちる小滝がある。
 これが紀三井寺の名に由来する三井水の一つ「清浄水」の湧水である。
 その昔、開山為光上人が開創された頃、上人の前に忽然と出現した美女が、身を投じて龍に化身したと伝えられているのが、この清浄水の小滝です。
 この周辺には、松尾芭蕉の句碑と、それを取囲むように後代紀州の俳人達の句碑が建てられている。
  ここからの望める風光明媚な和歌の浦や、春のさくら、秋の紅葉など季節を味わいながら、静かな滝の側で名句を思案しているように感じさせる場所である。
 芭蕉の句碑には
   「 見上げれば 桜しもうて紀三井寺 」               

 この句は芭蕉が桜を見たくて紀三井寺を訪れたのに、時期遅く桜が散った後であった為に、この句が生まれたようである。
 また、ここは多くの文学者に愛されて続けているようで、多くのの痕跡が残されている。

          
            急階段の続く参道の景観、この下に清浄水の滝がある

          
              急な石段を上りきった正面にある六角堂

 寛延年間(1750年頃=江戸時代)に建立された伽藍で、初代・二代目雑賀弥左エ門が建立。西国三十三箇所ご本尊をを祀っている。

           
          周辺の景観が一望できる新仏殿   新仏殿から本堂境内

 新仏殿は鉄筋コンクリート造3階建て、高さ25m、建物全体が五輪塔に擬して造られ、2002年に竣工。
 内部には高さ12mの木造千手観音立像を安置している。
 像は2007年に完成し、2008年に入仏落慶供養が行われた。
 
          
            新仏殿より本堂方面の伽藍と樹齢400年の大くすのき

          
                新仏殿より風光明媚な「和歌の浦」方面

          
               新仏殿より和歌山市中心部方面

          
           本堂への参道 両側には幾つかの伽藍が建てられている

           
             鐘楼(国指定重要文化財)   ごくらく橋と像

 鐘楼は天正16年(1599年=安土桃山時代)に建立(重要文化財)
 入母屋造り、本瓦葺き、袴腰(腰板張りの下層)の建物である。
 建物全体が軽快な感じがするが、色彩的には赤と黒で現され、鐘楼の建造物の中で独特のものとされている。

          
               本堂までの参道にある 大師堂

          
         中国大陸で犠牲になった全ての人々の諸霊を祀る幸福観音さま
 
 中国大陸で終戦を向かえ、帰国する折に犠牲になった全ての人々や、大陸で殉職した諸霊を三千観音像を刻み、紀三井寺の聖域でお祀りしている。 南無大悲観世音菩薩

          
                  ごくらく橋から本堂

 本堂は宝暦9年(1759年=江戸時代)に建立されている。
 この建物は順拝寺院本堂としての特徴をいかんなく発揮し、時代を代表す堂々とした風格を示す大建築である。
 入母屋造、正面唐破風と千鳥破風・本瓦葺き、九間四面、総欅造りの建物であるが、建築技法にも優れ、この時代の紀ノ川流域の寺院建築として最も優秀な建造物の一つである。 (県指定重要文化財) 

          
              本尊の十一面観音像を祀る本堂の拝殿

 この本堂前には、和歌山地方気象台指定の桜の標本木(ソメイヨシノ)がある。
 紀三井寺の境内には1200本の桜が植えられ、近畿地方では早咲き桜の名所として有名である。
 ここの桜にも為光上人にまつわるいわれがある。
 上人は、ある時、龍神の招きを請け、竜宮城に説法に行かれた帰り、七つの宝物をもらった。
 鈴、五鈷、錫杖、梵鐘、法螺貝、応同樹と七本桜の七つである。
 この最後の七本桜の苗木が、後の桜の名所の起こりになったと伝えられている。

          
   本堂拝殿にある祈願杓子、願い事を書き横の大杓子に三度打ちつけ祈念する

           
          身代わり賓頭虜盧尊者   護国院多宝塔(重要文化財)
 
 御参りの皆様の心身の病を救い給うありがたい、撫で仏の「びんるびさん」です。
    
          
             美しい姿を見せる 護国院多宝塔(重要文化財)

 この仏塔は本瓦葺の多宝塔で、室町時代中期の様式を示している。
 寺殿によれば、嘉吉(かきち)元年(1441年=室町時代)に仏塔が風害で倒壊し、10年後ぐらいに再建された、本瓦葺三間多宝塔である。
 下層は四本柱の方形、上層は十二本の柱を立て高欄をめぐらせた円形の建物で、 五智如来を祀っている。 

          
              訪れる人も少なくひっそりとしている開山堂

          
多宝塔の隣にあっても訪れる人は少なくひっそりとしているが3人の男性が参拝に訪れた三社権現

 初めて訪れた紀三井寺は、やはり歴史が深く味わい深い寺院である。
 急激な山稜の斜面にあたる縦に石段の参道を通し、その左右と最上部に伽藍を配している。
 斜面の所々にある休憩できる場所からは、和歌の浦の絶景や淡路島などの景観が楽しめる。
 それに滝があり、桜や紅葉など四季それぞれの花木や草花が、情緒とロマンを漂わしている寺院であった。
 桜の開花時期などには、再度訪れたいと思いながら、友と二人で下山して行った。

 

女人高野の室生寺  ・・・・・ 奈良県

2009-01-07 10:33:44 | 気ままな旅
 12月14日(日) 近鉄室生口大野駅の近くにあって、室生寺(むろうじ)までの道中にある大野寺の弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)の石彫像を見学した後、愛車で室生寺へ向かった。
 この室生寺は大和平野の東方、奥深い山と室生川の渓谷が続く場所に位置して建てられている。 車で15分ほどの距離である。
 奥深い深山にある室生寺の周辺の山稜には、所々に雲がかかっているが、天気は快方に向かい雨の心配はなさそうである。
 駐車場から室生寺までは、室生川に沿って5分ほど歩くと、門前町があり、中ほどには室生川をまたぐ赤い欄干の太鼓橋が架かっている。
 その頂きには、古代の太陽神の祀りにまつわる室生山が見えている。
  太鼓橋を渡ると、もうそこは境内で、真正面に木肌屋根の表門が姿を現し、奥にはいくつかの伽藍が見えている。 

          
             室生寺の伽藍配置図・山の頂上付近が奥の院 

 室生寺は寺伝によると、白鳳年間(7世紀末~8世紀初頭=飛鳥時代)天武天皇の勅願により、役行者が山林修行道場として開創する。
 一時荒廃していたが、唐より帰国した空海が恵果阿闍梨より授かった、如意宝珠を室生の山に納め、復興を図ったと伝わっている。
 また、別の伝えとして、宝亀8年(777年=奈良時代)山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒祈願のため、興福寺僧・賢ら5人が室生山中で「延寿法」を修した。
 この功により室生寺名を賜り、勅命により、賢の高弟修円が建立したと伝わっている。
 以来、室生寺は山林修行の道場として、また、法相、真言、天台の各宗兼学の寺院として、独特の仏教文化を形成している。
 江戸元禄年間に真言宗として、独立、女人の参拝が許され、高野山の女人禁制に対し、女性も参拝を許される「女人高野」として多くの人に親しまれ、今日まで続いている。

          
            室生川にかかった太鼓橋を渡ると室生寺境内である。

          
 木肌屋根で作られた表門(一般の見学者はここからは入れない)横には女人高野室生寺の石柱が立てられている。
 女人禁制の「高野山」に対して女性の参拝を認めた為、「女人高野」と呼ばれている。

           
晩秋の室生寺を訪れ仁王門へ向かう若いカップル 仁王像(仁王門右側の像)

          
                パンジ池に映る逆さ仁王門(鎧坂より撮影)

          
          鎧坂(よろいざか)と両側に植えられている石楠花(シャクナゲ)
 
 周りに石楠花が植えられた鎧坂の石段を上っていくと、次第に穏やかな杮葺(こけらぶき)の金堂の屋根が姿を現してくる。
 石段を上りきるとそこは金堂の境内で平地になっている。
 2段で出来た石垣の上に高床の正面一間通りは、江戸時代に付加された礼堂で、これがなかった時代には、この石段上から堂内の仏像の姿が拝めたようである。
 金堂の内陣で堂内の須弥壇には、中尊の釈迦如来像(国宝)を中心に、薬師如来と地蔵菩薩像(重文)、文殊菩薩(重文)と十一面観音像(国宝)の五尊が一列に配されている。
 五尊像は、大きさや作風に違いがあって、同時期のものではないようであるが、いずれも一木彩色像である。
 本尊の背後には帝釈天曼茶羅を描いた板壁がはめられている。
 また、五尊の前には、小さな薬師如来の眷属として、十二の方角を守る「十二神将立像=重文・鎌倉時代」が配されている。
 この内陣は「撮影禁止」でお見せできないのが残念である。

           
               鎧坂を上りきると真正面に見える金堂(国宝)

 金堂(国宝)は平安初期に建立され建物で、単層寄棟造りである。

 室生寺は、石楠花の宝庫で、堂塔を結ぶ石段の両側に約3000株が植えられ、花見の季節(4月中旬~5月上旬)には多くの人たちが訪れて楽しんでいる。

          
   金堂には本尊の釈迦如来像などの国宝をはじめ、重文の多くの像が安置されている。       

          
             弥勒堂方面から撮影した金堂と家族連れの見学者

          
                天神社拝殿 奥に天神社がある

          
     金堂前庭の右手に、天神社拝殿脇の岩に彫られた石仏(軍茶利明王石仏)               
   
          
                   弥勒堂(重要文化財)
 
 鎌倉時代前期に建てられた。金堂前庭の左側にある三間四方の堂は、修円が興福寺の伝法院を移築したと伝えられている。
 元は南向きの建物であったが、室町時代には東向きとし、江戸時代初期にも改造されている。
 内部の四本柱の中に須弥壇を置き、厨子入りの弥勒像を安置している。

          
         工事中の本堂(灌頂堂)国宝 最も重要な儀式がここで行われる

 金堂からさらに石段を上ると本堂(灌頂堂)がある。
 残念ながら工事中で建物を見ることは出来ないが、真言密教の最も重要な儀式を行う堂で、真言寺院中心であることから本堂、あるいは灌頂堂と言われ、延慶元年(1308年=鎌倉時代)の建立である。
 五間四方入母屋造りの大きな建築で、和様と大仏様の折哀洋式を示している。
 ※灌頂(かんじょう)とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌ぎ、正当な継承者とする為の儀式。

 本堂(灌頂堂)の前を進むと右方向に石段があり、見上げると女性的で美しい五重塔が聳え建っている。
 この五重塔は空海が一夜で建立したとの伝えがある。平安初期の建立で国宝に指定されている。
 この五重塔は、屋外に建つ五重塔では最も小さく16mの高さである。

 1998年(平成10年)9月22日台風7号により、杉の大木が倒れ、五重塔は大きな被害を受けたが、2000年(平成12年)9月修復工事が完了している。

           
            石段下からの五重塔      美しい姿を見せる五重塔

           
           平坦地に建つ五重塔  台風で大被害を受け修復工事完了元の美しさを見せる五重塔

          
              奥の院への参道の上から、均整のとれた五重塔

          
              脇に配され五重の塔を見守る石仏

           
     杉の大木が林立する奥の院への参道 周りとの調和がとれ美しさを見せる五重塔

 五重塔の横の道を行くと、大きな杉の木にか囲まれた参道が続き、さらに進むと急斜面に出来た石段が450段(下からでは720段)が奥の院まで続いている。
 石段を登り詰めると目の前には、奥の院常燈堂の木組みの舞台が見えてくる。
 
           
           奥の院への参道の赤い欄干の橋、その周辺はしだの群生地

           
     奥の院まで延びている急傾斜の石段 奥の院の木組みの舞台まで続く石段、まるで心臓ヤブリ

             
        急傾斜の建物を支える木組みの柱 急傾斜地に建つ奥の院(常燈堂)

          
              奥の院に建ち木組みの舞台を持つ常燈堂(位牌堂)

          
                奥の院にある御影堂(重文)
 
 五重塔の脇を通って長くきつい450石段を上り切ると、そこは奥の院である。
 弘法大師を祀る御影堂は大師堂とも言われ、板葺きニ段屋根の宝形造りで、屋上の宝珠と路盤は優品である、各地にある大師堂の中でも最古級に属し、鎌倉時代後期に造られている。

           
                駐車場からの室生寺周辺の景観

 女人高野として全国に知られる室生寺、私は昨年6月高野山を訪れ、女人堂などを見学していた折に、急に室生寺のことを思い出し、行きたいと思っていた。
 11月にも室生寺の近くにある、赤目四十八滝の紅葉見学に訪れた時も、午後から室生寺へと計画していたが、赤目四十八滝の魅力に取り付かれ、3時間の予定が6時間もかかってしまった
 そのために、室生寺への見学は断念せざるを得なく、やっと今回の訪れとなった。
 季節的には晩秋で、もみじなどの紅葉も終わりつげ、比較的静かな雰囲気の中での見学であったが、さすが全国に知られた「女人高野」としての名刹だけあって、全国から見学者が訪れている。
 金堂(国宝)の釈迦如来像(国宝)やそれを取り巻く多くの像(国宝・重文)など量感たっぷりで仏様や衣装なども少女のような愛らしさを感じ、女人高野として訪れてくる女性達を温かく見守ってくれているように感じる。
 また、全国で一番小さく愛らしい五重塔の姿を、石段の下から初めて見上げた時には、思わず感動が湧き、暫く見とれる程であった。
 台風による重大な損傷の痕も見当たらず、見事に復元され、女人高野室生寺の魅力とシンボル的な存在感を、以前以上に発揮しているように感じてならなかった。
 静寂な雰囲気漂う奥の院も、720段の石段を上っていかねばならないが、私達にとっては、上りきった時のさわやかな気持ちの方が大きく、暫く開放感に浸っていた。
 今回、念願であった室生寺にこられて本当に良かった。
 出来れば春の石楠花のシーズンに、再度訪れたいと思いながら下山して行った。
  

 

 

                      
              


2009年 謹 賀 新 年 ・・・・大阪府(気ままな旅=希間々兼行)

2009-01-01 00:11:41 | 今日の出来事
 
          

          
 祈 念 = 平和を愛する国 日本、 世界に貢献する国 日本、 自然環境で貢献する国 日本      
      

 平成21年(2009年) 明けましておめでとうございます。

           
           今年は丑年 家族、夫婦、男女、友達、みんな仲むつましく  
 

 旧年中は 「気ままな旅」へお越しいただきありがとうございます。
 昨年は、思い出に残る北海道気ままな旅や御岳登山・宮島厳島神社など、多くの旅行写真に思い出や感想などを添えて投稿さしていただきました。
 本年も昨年同様に、妻と二人で気ままな旅を続けて行きたいと考えています。
 私たちの旅の写真や随筆が、何かのお役にたてば幸いに存じます。
 世の中暗い事件や記事が多く報道されていますが、本年は明るい話題の多い年でありますことを祈念するとともに、皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。
 また、時間的にゆとりのある時などには、「気ままな旅」にお立ち寄りいただければと・・・・・お待ちいたしております。

           
   厳しい時代ほど 夢と希望を持って 笑顔の絶えない生活で 心豊かな社会の実現を 



 平成21年(2009年) 元旦

                                  大阪府 気ままな旅 希間々兼行