気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

ジョン(中浜)万次郎の痕跡を訪ねて・・・(1)

2017-02-03 00:35:28 | 気ままな旅

 2017年1月6日(金) 今朝は高知県佐川町にある私の故郷の家で、正月休暇を過ごしている。

 お正月の2日までは、南大阪にある自宅で妻と二人で過ごし、1月3日から高知へ帰省する。

 帰省しても高知の家は、誰も住んでおらず、空き家になっているが、私たちは、年に数回帰省し、家の状況確認や墓掃除などをしたり、

地域の祭りなどに参加して、親しい人たちと、杯をかたむけ、旧交を温めたりして楽しんでいる。

この高知の家は、生活するのに必要なテレビや布団など全てが整っていることから、今はセカンドハウスのように考えて利用している。

 小さな家であるが、住み心地は良く、生活するのに必要な電化設備なども全て整っている。 

 10年程前に、内装や設備などをリニューアルして、生活に必要な機能面でも、大阪の自宅と大差はないほどで使いやすくなっている。

 高知での午前中は、愛車で15分ほどの距離にある喫茶店で、コーヒーモーニングなどで食事をしたり、食材などの買い物などをしたりしている。

 夕方近くになると、のどかな田園風景がつづく自宅近くを、妻と二人でウオーキングなどをして楽しむのが日課である。

 ウオーキングコースは、だいたいは決まっているが、どのコースを選んで行っても、幼い時に過ごした時のことが、懐かしく思い出されてくる。

 大阪の自宅でのお正月も、例年にないような好天に恵まれた快晴の天気であったが、高知の天気も好天であった。

 真っ青の秋のような空と、夜になると無数の星空が天空に広がり、大都会では味わえない宇宙の光景に、感動させられてしまうほど魅せられてしまう。

 そんな折、急に思い立ち、高知県西部の足摺岬方面に行って、江戸末期から明治時代にかけて活躍したジョン万次郎の痕跡を訪ねてみようと思いたった。

高知県西部は、高知県では幡多(はた)地方とも呼ばれ、日本最後の清流として知られている四万十川が中心部を流れ、太平洋にそそいでいる。

 今日も上天気で青い空が広がり、コートなしでも過ごせるような暖かい気温である。

午前8時40分頃に佐川町の自宅を妻と二人、マイカーで出発する。

  出発してすぐに国道494号を走行し、山越えした後、須崎市で国道56号に入り、10分ほど走行すると高知自動車道の須崎西ICがある。

 高知市ら高知県西部方面に行くには、国道56号線が幹線道路として利用されているが、高知自動車道の開通に伴い、交通の流れが大きく変化している。

 高知自動車道は、現在は窪川(四万十町)まで開通している。(この区間は無料)

 窪川から国道56号を30分ほど走行していると、風光明媚で広大な太平洋の海岸線に出てくる。 

海岸沿いには、南国特有のシュローの木などがあり、その先には、180度の角度で広がる太平洋の水平線が見えている。

さらに、手前の海岸線には、無数の小島があり、その小島に白い波が打ち寄せ、美しい景観を見せている。

 そこから、20分程走行すると、幡多地方の中心都市である四万十市(中村市)に到着する。

四万十市から土佐清水市までは、50分ほどで到着し、足摺岬は、さらに20分ほど行った所の半島の先端にある。

今日の目的であるジョン万次郎(中浜万次郎)は、現在の土佐清水市中ノ浜地区の出身である。

万次郎の生家のある中ノ浜地区は、土佐清水市の中心部から、10分ほど走行して行った所にある。

四国最南端の足摺岬

万次郎について簡単に紹介する。

 ジョン万次郎は、土佐清水市の中浜の出身で、14歳の時、船で漁に出ていて嵐に遭遇、無人島(鳥島)での生活を得てアメリカに渡る。

 万次郎を救助した船長の好意で、高度な教育を受け日本に帰国する。

 アメリカからの帰国後に万次郎の持ち帰った知識や技術、情報は、薩摩藩や土佐藩、坂本龍馬などの、新しい日本の方向を決める考え方に大きな影響を及ぼしていく。

 足摺岬には、ジョン万次郎の銅像があり、広大な太平洋を見渡しているように立てられている。

日本人初の国際人と言われる中浜万次郎(1827年-1898年)の像

この像の裏側には次のように万次郎の功績を称えている。

「中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興った明治文化の開花に著しい貢献をした一人であった。

万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれた。

14歳の時出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかったアメリカの捕鯨船 John Houland号に救助された。

船長 William・ H・Whitfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国に連れ帰り、3年間正規の学校教育をさずけた。

万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生第1号となった。

彼は10年に及ぶ国外生活中 John Mung と呼ばれ、英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。

しかし 万次郎は既に24歳の青年になっており、祖国と そこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令化の日本に帰ってきた。

とき1851年2月、かの黒船にさきだつこと2年であった。

このような時機もさいわいして、彼は罪にとらわれなかったばかりか、名字帯刀を許され幕府の直参にとりたてられた。

これより中万次郎は、外国事情の講話や、アメリカ航海術書とか、公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日をおくることになった。

洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。

日本人による初の太平洋横断、咸臨丸の成功のかげには、彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。

帰国に際して書籍、写真機、ミシン等を持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。

明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。

44歳のとき、すこし健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。 1968.7.11 」

このように万次郎を紹介している。

万次郎の生家のある中ノ浜地区にも立ち寄ってみた。

万次郎の生家のある中ノ浜地区

 地元有志らによって復元(2010年)された万次郎の生家

茅葺屋根の木造平屋建ての生家で、生家として残る写真をもとに復元される。

生家のある中の浜地区の海寄りの防波堤には、下記写真の 「ようこそ 中浜万次郎 生誕地ヘ」 と書かれた案内板があり、

その横には、「中浜万次郎物語」 と書かれた絵図が、防波堤に掲示されている。

防波堤に掲示されている中浜万次郎の物語

14歳の時に漁船に乗る万次郎

万次郎たち5人の漁師たちが乗った舟は 足摺岬沖で嵐に遭遇し遭難する。

7日間漂流して南海の孤島・鳥島(とりしま)に漂着する。 九死に一生を得る乗船していた5名たち。

143日間の無人島で海草や海鳥を食べて生きながえる。

漂流していた鳥島の沖合に米国捕鯨船が現れ救助される。 ホイットフィールド船長の温かい保護を受ける。

アメリカの捕鯨船に救助され、万次郎たち5名の新しい生活が始まる。

万次郎たち5人が乗った捕鯨船は、一旦 ハワイ島ホノルルに寄港する。

その後、万次郎は仲間たちとホノルルで別れ、捕鯨船員として一人乗り込み太平洋へ乗り出していく。

万次郎は、何事にも積極的に取り組み、捕鯨船でも勇気をだし大活躍する働きぶりであった。

捕鯨船の仲間たちからも、勇気のある積極的な働きぶりや、まじめで人懐こい性格から、みんなに親しまれ、ジョンマンの愛称で呼ばれるようになった。

船長のホイットフィールドは、万次郎の才能や人柄を認め、教育を受けさせるため、米国(フェアーヘブン)へ万次郎を連れて行く。(他の4人はハワイに残る)

米国で10年間、近代的な教育を受けた万次郎、小中等の教育、英語、数学、航海術、造船等の高度な学問を優秀な成績で習得する。

その後、捕鯨船の一等航海士および副船長として、七つの世界の海を航海し大活躍する。

3年余りの捕鯨航海を終え、万次郎が乗船した捕鯨船は、母港 ニューベッドフォード港へ帰港する。

 

帰港し上陸した万次郎は、第二の故郷で、懐かしいフェアーヘーブンの町に帰り、ホイットフィールド船長や級友たちと5年ぶりのに再会する。

この時代の新聞に、鎖国下の日本に漂着したアメリカの船員たちが、人的に不合理な扱いを日本から受けたとの情報が、現地の新聞で報道されていた。

万次郎自身も、日本を早く開国さして、西洋のような先進的な国家建設を と思い、日本への帰国の思いが強くなっていく。

万次郎は、帰国資金を稼ぐ為に、フェアーヘブンからカリフォルニア州の金山へ砂金堀に出かける。

 砂金を掘り出して70日余りの間に、600ドルを稼ぎ山を下りる。

 

帰国資金を稼いだ万次郎は、金山からサンフランシスコ(カリフォルニア州)に戻り、

ホイットフィール船長のいるフェアーヘブンには戻らず、そのまま、漂流仲間たちのいるハワイ行きの船に乗り込んだ。

 

万次郎は、ハワイ島ホノルルで仲間たちと再会するが、漂流仲間の一人がハワイで病死していた。

 

万次郎は、長年お世話になったホイットフィールド船長への帰国の挨拶ができなったことを気にしながらも、

祖国や母への思いが忘れがたく、望郷の念が日増しに強くなっていた。

万次郎は、漂流仲間たち4人で話し合った結果、一人はハワイで結婚、家族も出来たことから日本への帰国を望まず、3人で帰国することになった。

3人はハワイから船に乗り込み、数十日間経過した後、意を決して鎖国下の日本の琉球(沖縄)に上陸する。

 

上陸した万次郎たちを待っていたのは、罪人扱いするようなひどい取り調べてあった。

その後、沖縄から薩摩に護送されるが、薩摩の殿様・島津斉彬(なりあきら)公は、

万次郎の話すアメリカでの事情や技術・文化などに高い興味を持ち、万次郎を優遇する。

さらに薩摩では、斉彬公の命により、腕の良い船大工が急きょ集められ、万次郎が設計・指導した西洋式帆船を試作することになった。

出来上がった西洋式帆船が、薩摩の錦江湾を見事に帆走する姿を眺めて、斉彬公は拍手喝采をして喜ばれていた。

 

その後、万次郎たちは、薩摩から長崎に送られ、取り調べを受けるが、琉球と同じく罪人のような扱いであった。

やがて、土佐藩主 山之内豊重(とよしげ)(後の容堂)の命により、

身柄引き受けに来た土佐の役人と共に、長崎を発し、郷里の土佐を目指す。

 

土佐藩主豊重公も、島津斉彬公と同じく進歩的な人物で、万次郎の持つ海外事情を藩士たちに習得させるように努めさした。

なかでも、河田小龍は、万次郎の十余年間の体験談や海外事情を筆記したり、画にしたりして

それを、「漂巽紀畧=ひょうそんきりやく」の書にまとめる。

この書が、海外事情紹介書として、維新の多くの人々に読まれ、伝わったいく。

サムライ国家から、新しい日本の姿の方向を具体的に現わし、維新に活躍した、坂本龍馬などの人たちに大きな影響を与えていく。

高知城下で2ケ月半に及ぶ取り締まりも全て終わり、

待ちに待った3人は、心を膨らまし、それぞれの故郷に帰って家族と感激の対面をする時が訪れてくる。

 

11年10ケ月ぶりに目にする故郷の景色に、万次郎は懐かしさに心が奮い立っていた。

中ノ浜に帰り、最初に庄屋さんに挨拶した万次郎は、自宅に帰って行く。

母親は、最初、想像を絶するように逞しく、立派になった万次郎を見て、

自分の倅であることが信じられないような態度であった。

母親たちは、万次郎が14歳の時、漁に出て嵐に遭遇し、消息不明になったことから死んだと思い、お墓までつくっていた。

その万次郎が生きて帰ってくる! と庄屋さんから聞いた時の驚きや、うれしさは想像を絶するものがあった。

「本当に、万次郎ですか! 私の倅の万次郎ですか!」 と幾度も問い返した。

 

11年10ケ月ぶりの感激の対面、遭難して万次郎の墓まで作られていた愛息子の立派な姿に母は、涙、涙で言葉が出なかった。

 

中ノ浜に帰った3日後、高知城から、再び呼び出し命令が届き、教授に任命され、帯刀が許され、侍としてのスタートをきる。

万次郎の講義の聴講生には、大政奉還で活躍した後藤象二郎(14歳)や、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎(19歳)たちがいた。

さらに、聴講生の中には、日本を動かすことになる者たちを輩出していく。

坂本竜馬や維新で活躍した多くの若者たちの目を海外に向けさしたのも、万次郎の海外事情の講義からであった。

万次郎の活きた時代に、海外事情などの講義で大きな影響を与えた人たち。

寛永6年(1853年)6月3日 ペリー提督率いるアメリカ艦隊が、4隻の黒船で浦賀に来航する。

江戸幕府から土佐藩に対して、万次郎の江戸への呼び出しがあった。

万次郎は、早速、江戸に赴き、江戸幕府閣僚と対面してアメリカ事情を説明する。

 

1854年、万次郎(27歳)周りの人たちの勧めもあって、剣術師範の娘 お鉄(17歳)と結婚する。

 

1860年 咸臨丸で日米修好通商条約のため、通訳としてアメリカに行く。

1869年(明治2年)東京大学の前身である開成学校で教授として英語を教える。

1870年(明治3年)新政府から晋仏戦争(プロシャを中心とするドイツ諸邦とフランスの戦い)の視察団の通訳として参加する。 

この欧州出張は、アメリカ経由でニュ-ヨークで5日間滞在してイギリスへ向かう予定である。

万次郎は、ニューヨークに着くと、すぐに休暇をもらって、目と鼻の先にあるフェアーヘブンへ汽車で向かった。

フェアーヘブンは、万次郎がアメリカに来て住んでいた街であり、懐かしさがこみあげてくる。

万次郎は、ホイットフィールド船長宅へそのまま直行する。

懐かしい船長宅に着くと 玄関で 「ジョンマンです。 ジョンマンですよ。 船長」

ドアーが開き、突然、自宅に訪問してきた万次郎の姿を見た船長は、まるで夢でも見ているように目をまるくしていた。

ホイットフィールド船長は、実子のように可愛がっていた万次郎のことが気がかりで、もう一度会いたいと! 切望していた。

船長は遠い日本にいるはずの万次郎が、目の前に立っている姿に、最初、夢でも見ているのか! と思っていた。 

しかし 夢ではない。 立派な大人になって日本で活躍している本物の万次郎が目の前に立っていた。

突然、船長宅を訪れるて、永年お世話になったホイットフィールド夫妻と感激の対面をする万次郎

 

ホイットフィールド船長は、夢にまで見て会いたかった! 万次郎だとわかると、万次郎を抱きしめ、そして、みるみるうちに感激の大粒の涙が溢れてくる。

万次郎も感激のあまり、しばらく言葉にならなかった。

21年ぶりの涙の、感激の再会であった。 夫人の頬にも感激の涙が流れていた。

ホットフィールド船長は、自宅にいる娘と3人の息子たちを万次郎に紹介する。

子供たちも万次郎のことを、船長から聞いており、よく知っていた。 

大喜びで万次郎を迎え、祝福する。

この時、ホットフィールド船長は65歳、万次郎は43歳になっていた。

ジョンマンが帰ってきたことは、直ぐに知れ渡り、翌朝、船長の自宅前は大騒ぎになっていた。

一緒に学んだクラスメイトをはじめ、友人知人たちがどっと押し寄せてきていた。

「ジョンマンだよ。 あのジョンマンが帰ってきたんだ!」

ジョンマンが帰ってきたニュースは、たちまち、フェアーへ―ブンの町中を駆けめぐっていた。

万次郎は、フェアーヘブンにいる短い間、みんなと一緒に思い出に花を咲かしたり、街を散策したりして懐かしく過ごした。

万次郎は、第2の故郷を訪れ、ホイットフィールド船長家族や、フェアーヘブンの人たちの心の温かさに接して、本当によかったと思った。

 

ホイットフィールド船長と別れを告げて、ニューヨークに戻った翌日の地元紙には、万次郎の訪問を好意的に報じていた。

 

やがて、ニューヨーク滞在を終えた日本の視察団は、イギリスへと向かった。

明治4年 廃藩置県によって日本は新しい中央集権国家に生まれ変わっていく。

大学で先生となったが老後は役職につかず静かに暮らす。

そして 明治31年11月 71歳で激動の人生の生涯を終える。

中浜万次郎の出番と活躍

中浜万次郎の出番と活躍

ジョン万次郎が生きた時代

ジョン万次郎が生きた時代

ジョン万次郎が生きた時代

 今回は、万次郎の生家のある中ノ浜地区の堤防に掲示されていた 「万次郎物語」 を中心に紹介さしていただいた。

生家や足摺岬などを見学した後、私たちは、同じ土佐清水市内にある万次郎の資料館を目指して行った。

しかし、資料館がどこにあるか場所が分からず、近くにいた女子高校生に訪ねると、

ここから、すぐ先にあるとのことで、マイカーを走行して行くと、海に面した公園があり、その先に資料館が見えてくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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