気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

ロマン漂う奥浜名湖への道草「方広寺・半僧坊」

2008-09-29 00:10:27 | 気ままな旅

 昨日は静岡県磐田市や浜松市内で20時頃まで、ビジネスをした後、次の目的地の道中にある東名高速道路浜名湖SA(サービスエリア)で車中泊をしていた。
 9月22日(月) 朝早く目覚める。
 昨日の天気と違って、今日は快晴の天気である。
 この浜名湖SAは、浜名湖やその周辺の景観の良い場所に造られている。
 このSAは丁度、東京と大阪の中間に位置し、レストランやコーヒーショップ、それにショッピングコーナーなどの施設が充実、休憩をとる人達で賑わいを見せている。
 SA内には公園もあり、訪れる人達が思い思いにくつろいだり、散策している姿があった。
 また、浜名湖は、半島や岬・浦などがの起状にとんだ湖で、面積は約65k㎡、湖岸延長は120kmで、全国10位の広さを持つ湖である。
 南側の太平洋に面した一帯は、R1号線やバイパス、東海道線や新幹線が走る交通の要所でもある。
 浜名湖と太平洋を結ぶ狭い湖域は、水の流れも速く、絶好の釣り場で、多くの人達で賑わっている。
 また、近辺の景観の美しさも抜群で、海中に立つ紅い鳥居が厳粛の雰囲気を感じさしてくれる。
 その外に浜名湖はリゾート地として、マリンスポーツやテニス、ゴルフなど、シーズンには多くの観光客で賑っている。

           
  1号線バイパス浜名大橋を通過中の車窓より妻が撮影した浜名湖弁天島、赤い鳥居も見える
 
 今日は幸いにして、次のビジネスの予定が変更になり、夕方まで空いていた。
 どこに行こうか! 地図やパンフなどを見ながら考えていると、SA内のパンフで綺麗な庭園の写真に目が止まった。
 浜名湖周辺にある龍潭寺(りょうたんじ)である。
 早速、行くことにしてカーナビをセットする。
 勿論、訪れるのは初めてで予備知識も全くない。
 この浜名湖周辺には、私の知らない観光施設が色々と有りそうである。
 愛車は東名高速道路の下りSA(名古屋方面)にとめている為に、次の三ケ日ICからは、一般道を走行して行かなければならない。
 ICから一般道に入り、しばらく走行して行くと、狭い山道に入り、車はどんどん高度を上げながら進んで行く。
 途中で奥山高原の看板が目にとまった。
 この高原からの浜名湖の景観を、期待に胸を膨らませながら進路変更して行ったが、残念ながら期待したような景観を味合うことは出来なかった・
 この高原は、遊園地のように観覧車などの設備も整っている。
 季節によっては、桜や紫陽花などの花や、子供達の喜びそうな動物との触れ合い、自然の生き物の観察などが出来そうである。
 しかし、私達は奥山高原の散策はせずに、すぐに元来た道を引き返して行った。
 山道から平坦な所まで降りてくると、道路は広くなり、良く整備されていた。
 走っている道路の側には田んぼがあり、稲が成長している。間もなく稲刈りが始まりそうであった。
 田んぼのあぜ道や、道路脇の裾には、赤い彼岸花が咲き誇り、季節を感じさしてくれ、秋の里山風景をかもし出している。
 程なくして、大きなお寺の建物が見え出した。
 ハイキング姿の数十人の初老の男女が、リュックを背負いながら下りてきている。
 街並みの奥には、門があり、さらにその奥には赤い門が見えている。
 これだけの人たちが、参拝して下りてくることは、ここは有名な寺に違いない。
 早速、寺の駐車場に車を止め、入口で拝観料を支払い境内に進んで行った。

         
              早朝の浜名湖SAより館山寺方面を望む

          
               浜名湖SAよリ西方向を望む

                      
                      浜名湖畔で仲むつましいカップル

          
          自然観察や遊園地など色々な楽しみ方ができる奥山高原  


           
         通称黒門と呼ばれる方広寺総門  半僧坊と言われている

 このお寺は方広寺というお寺である。
 この方広寺は、案内の看板などから臨済宗方広寺派の大本山であるらしい。
 静岡県引佐郡引佐町奥山に所在している。
 お寺の歴史を見ると次のような記載があった。
 至徳元年(西暦1384年=南朝元中元年)後醍醐天皇の皇子である無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)によって開かれた寺である。
 無文元選禅師は、18歳で出家され、21歳のときに中国に渡る。
 7年間の厳しい修行の後、元の兵乱を避けて帰国され、その後、当地の豪族、奥山六郎次郎朝藤(おくやまろくろうじろうともふじ)が、自分の所領の一部を寄進して、堂宇(どうう=堂ののき、堂の建物、堂の意)を建立し、無文元選禅師を招き、禅師によって寺が開山される。
 そして、この寺一帯が、禅師が修業された中国の天台山に似ていることから、深奥山方広寺(じんおうざんほうこうじ)と名づけられた。
 現在では、末寺170ケ寺を擁し、その大部分は静岡県西部地方に所在する。

          
            周囲の地形の大きさに合わせて造られた朱色の山門 

 両側に山が迫り、朱色の山門を抜けて参道を進むと、大きな松や杉などの樹木が生茂り、左側には小さな小川が流れている。
 大きな樹木が太陽光線をさえぎり、寺院独特の冷気が漂い、厳かな雰囲気をかもし出している。
 大きな樹木の間には黒っぽい岩肌がむき出しになっており、その岩肌の上に無数の石仏が並んでいる。
 最初はこの近辺だけかと思っていたが、参道左の川向こうの岩肌の上にも、無数の石仏が並べられている。
 参道を進むに従って、さらに多くの石仏が並べられ、この境内独特の雰囲気を一層厳かにしている。
 そして、一つ一つの石仏を良く見ていると、表情が全く違っているのに気がつく。
 石仏の表情を静かに見詰めていると、すべての石仏の表情が心豊かで、見ている私達の心を、一層和ましてくれているように感じてくる。
 この石仏を羅漢と呼び、この方広寺は五百羅漢で有名な寺であった。
 現在でも、羅漢は造られ続き、750を越える羅漢があるそうだ。
 両サイドに並ぶ、無数の羅漢に見守られながら参道をさらに進んで行く。
 まるで、お釈迦さまや観音さまのお慈悲に浸っているようである。
 参道脇の樹木は一層生茂り、山沿いの谷も深く、厳かな雰囲気をかもし出している。
 無数の羅漢の中に「哲学の道」と書かれた石碑が立てられている。
 京都東山にある銀閣寺から南禅寺疎水沿いある「哲学の道」を西田幾太郎先生が散策されたことにちなんで造られた「禅哲学の道」である。
 この道を過ぎると赤い鳥居が見えてくる。
 鳥居の中央には「奥山大権現」の看板が掲げられている。

          
                 奥山大権現の看板を掲げた紅い鳥居   

           
             穏やかな表情の羅漢       石橋の上の羅漢
 
 五百羅漢は宝暦年中、三河の石匠親子二代によって造られ、表情が豊かで見る人々を和ませてくれる。
 石橋の羅漢は、時には四体、時には五体になり、方広寺の不思議なひとつでもある。

          
                それぞれに豊かな表情をしている羅漢

          
                椎河大竜王(しいがだいりゅうおう)

 この椎河大竜王にも逸話がある。
 開山さまが中国から帰国され、行脚の途中の天竜市鹿島辺りで、暴風雨で増水した河の渡河に難儀されていた折に、竜神が現れ、その身を橋として渡したという。
 その竜神は、また姿を現して開山さまに「いまわしい蛇身の苦しみからの解脱をさしてほしい」と懇願した。
 開山さまは経典で、その蛇身をなでられたところ、たちまち五百年来の苦しみから解脱して昇天したという。
 その竜神は、美女と化かし、天皇の命を受けた将軍の妻として、田村俊光公を産んだ大蛇で、その後、磐田の里の椎河の渕に身をひそめ、里人から椎河大竜王と畏敬されていた。
 開山さまのお徳で五百年来の蛇身を脱することができた竜王は「永久にこのお山の水を守護します」と開山さまにお誓いをした。
 竜神の霊験はあらたかで、方広寺や周辺の地域は、一度も水不足に悩まされることはなく、干天の際には全国から椎河竜王に請雨法(しょううほう)と修したお祈りすれば、必ず雨に恵まれるので全国から御参りする人が後を絶たない。
 方広寺では、この椎河竜王と半僧坊大権現、それに七尊菩薩堂を”奥山三社”といっている。

 椎河大竜王を遥拝した後、参道を登って行くと、谷に架かった紅い通路があった、今は使われてないようだ。
 さらに進むと広い参道に出る、目の前に7尊菩薩堂(重要文化財)があった。
 多くの人たちが参拝に訪れている。三重の塔方面の参道の端には、隙間のないぐらいに「半僧坊大権現」と書かれた小さな幟がたてて並べられ、それぞれに信者祈願の文字が書かれている。
 逆方向が半僧坊真殿で、こちらも大勢の方が参拝に訪れている。
 石の参道を真っ直ぐに行くと石段があり、石段を登ると真殿の拝殿である。
 拝殿所の天上の左右には、一刀彫された竜があった。
 参拝をすました後、方広寺本堂に向かった。
 途中の境内には鐘楼があり、本堂と半僧坊の間には開山堂と観音堂の伽藍がある。
 本堂に入って参拝した後、各伽藍を見学、本堂の裏手にある「らかんの庭」に行った。

          
               方広寺七尊菩薩堂(重要文化財)
   
 富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神の七神を合祀する鎮守堂で応永8年(1401年)の建立された。

           
                三重の塔           半僧坊真殿

 三重の塔は大正12年、故間宮英宗館長の発願で京都山口玄洞氏の寄進により建立された。
 奥山半僧坊大権現は、開山無文元選禅師が中国から帰る途上、台風に遭遇して、船が難波する危険が生じた時、一異人が船に姿を現して「開山禅師が正法を日本に広める為に、必ず日本にお送りします」と言って、船頭を導き、水夫を励まして日本に帰国さしたと言われた。
 開山禅師が方広寺に到着した時に、再び現れて、禅師の弟子を願い出て許され、禅師の身辺に仕えて修行したと言われている。
 その姿が僧のようであって、完全な僧の姿をしておらなかったことから、禅師から「半ば僧にあって僧にあらず」といわれ、「半僧坊」と名づけられた。
 禅師が遷化された後は、「方広寺を護持し、民に利益を与えよう」といって姿を隠したと伝えられている。
 以来、御利益を求める善男善女の信仰をいただいて今日に至っている。

          
                  半僧坊の拝殿

          
                 半僧坊拝殿上の一刀彫の龍
 
           
                鐘 楼           高く聳える半僧杉

           
                  本堂からは通路で結ばれている観音堂

          
           開山堂には開山円明大師の尊像を安置、開山堂前の庭園

          
          臨済宗方広寺派の本山 深奥山(しんのうざん)方広寺本堂

          
                   方広寺 本堂の裏にある庭園

          
                  与謝野晶子の歌碑がある「らかんの庭」

 全くの予備知識のないままに、このお寺に来らて本当に良かったと思う。
 方広寺は色々な面ですばらしいお寺で、また、お寺とはいえない半僧坊の存在と
が、一体となっていることに珍しさを感じた。
 一つ一つの表情豊かな五百羅漢の存在も驚きの連続であった。
 こういった寺院などの見学は、自然体となって落ち着きと安らぎを感じさしてくれる。
 そして、色々な知識と知恵を与えてくれ、それが明日へのエネルギーとなって、自分を前向きな気持ちにさしてくれる。
 このような旅の余韻を感じながら方向寺を後にして、次の目的地へ向かって行った。

 

  


石津浜公園(焼津市)からの富士山と心洗われる御前崎

2008-09-17 15:25:29 | 気ままな旅
 8月14日(木)昨日は富士五湖から身延山久遠寺の観光を終え、静岡市の西方で国道1号線沿いにある道の駅「宇津ノ谷峠}で車中泊をしていた。
 昨夜は比較的早く睡眠についたせいか、朝早くから目覚める。
 今日も天気は良さそうで青空が、山上に広がっている。
 早速、朝食の準備をしていたところ、隣の駐車場で車中泊していた夫婦にあった。
 妻がたてたコーヒーを勧めると気軽に飲んでいただいて、会話が始まった。
 この方達は、広島県宮島のある街に住む夫婦で、2週間の東北旅行からの帰り道とのことで、奥さんがほとんど運転され、御主人は地方の空いた道を運転されるとのことであった。
 私どもとは正反対である。
 また、奥さんは大手企業研究所の助手を、永年勤めて定年退されたようで、話しも活発であったが、ご主人はにこやかな表情ではあるが、会話は少なかった。

 この夫婦と別れた私達は、1号線を名古屋方面に向かって行った。
走り始めてすぐに、このまま真っ直ぐに家に帰るのはもったいない、この天気なら焼津の海岸から富士山が見えるはず 「行ってみよう」 と言う事になり、早速、カーナビを焼津の石津浜公園にセットして進んで行った。
 1号線バイパスから一般道路に入り、15分ほどで石津浜公園に到着する。
 果たして、この海岸から富士山が見えるかどうか少し心配していたが、ご覧のような富士山が見えていた
 この海岸から駿河湾を挟んでの富士山は美しいと思った。
 11月頃になると頂上付近に雪をかぶった富士山であれば、もっとはっきりと美しく見える   ・・・と思いながらシャッターボタンを押していた。
 

          
               焼津石津浜から駿河湾を挟んで見える富士山

          
     駿河湾の向こうに見える丘のような山が観光の名所「日本平」でここからの富士山も美しい。 
 
            
          石津浜でブルーシートの日除けを作り漁をしている人達と富士山


            
              ひさしのある休憩施設・自転車と富士山


           
          施設にある見所の看板と富士山、ここからは伊豆半島も見える       

           
                  石津浜からの富士山

 焼津市石津浜から、駿河湾を挟んでの富士山の撮影を終えた私たちは、国道1号線よりも海側を走る国道150号線を御前崎方面へ進んで行った。
 途中の吉田町を通行中に突然お城が現れた。
 どこの城だろう! 興味が湧いてきて立ち寄って見ることにした。
 この城は小山城跡に建てられた、戦国末期の平山城である。
 当時、遠州進出を企てていた甲斐の武田信玄は、この地域の重要拠点である小山砦を攻略、1571年に修築して小山城と命名した。
 城主に越前守長秀を起用した。
 徳川軍はこれを攻め取ろうとして、10余年にわたる激しい戦闘の末、1582年に落城した。
 城跡には三日月堀、三重掘、井戸掘がある。
 落城の悲しい物語もあるらしいが、どんな悲しい物語かは分からなかった。

           
                     落城の悲しい物語のある小山城

 程なくして見学を終えた私たちは、国道150号線に戻り、御前崎方面に向かって行った。
 この海岸線を走る道路の車窓からの、太平洋の景観もすばらしく、ドライブの楽しさが湧いてくる。
 御前崎では、最初に灯台に行くことにした。
 車は御前崎の街並みを通り台地にある灯台に向かって通行していく。
 台地では風が強いのか、すべての樹木が陸方向に曲がった形状をしている。
 車は程なくして、御前崎灯台の駐車場に到着した。
 
 御前崎は地形の関係上、気象海象が激しく、暗礁などの海難事故も多い事から、航海の難所として古くから恐れられていた。
 今から350年前に徳川幕府が、この地に船の道しるべとして燈明堂を建てたのが、御前崎灯台の始まりで、燈明堂の灯は240年間、灯し続けられた。

 灯台周辺は「海と台地」をテーマとした公園になっていて「御前崎ケ-プパーク」と名づけられている。
 この公園は灯台を中心に整備され、老若男女を問わずロマンチックな遊歩道や展望台、広場などがある。
 ここからの広角度で見る青々とした太平洋の景観もすばらしい。
 どこまでも続く太平洋の水平線や、沖合いを行き来する大きな船、それに、眼下の断崖の下に曲線を描きながら作られている道路、その横の浜辺には白い波が、幾重にも白線を引きながら打ち寄せている。
 ホントに綺麗で美しいと思った。
 こう言ったあまりにも大きい自然の景観に触れていると、何もかも忘れてしまいそうであった。
 特に灯台の上にある展望台から、広く青々とした太平洋を眺めていると、
 なんだか自分のハートが小さく思えてくる。
 いつも小さなことに、こだわり過ぎているような感じさえしてくる。
 この太平洋のように、もっと広い心で、大きな夢や希望を持って、活きていかなくてはと思えてくる。
 やはり、自然はいい、このように大自然に触れていると、心が洗われ、明日へのエネルギーを与えてくれているように感じてくる。

           
                御前崎灯台      敷地内からの御前崎灯台

          
           江戸時代に作られた長尾火燈明堂(ながおびとうみょうどう)

           
            燈明堂の内部 中央の陶器で240年間 灯がともされた    

          
                    御前崎灯台から富士山を望む 

          
       御前崎灯台から西方の景観、当日は風が強く浜辺に打ち寄せてくる波が美しい 

          
            御前崎灯台からの眼下の道路や太平洋の景観

          
               御前崎灯台から東方にあるホテルのプール

           
            道路脇の海岸線から台地の上に立つ御前崎灯台と岬

           
             御前崎の海岸に下りて、貝拾いなどをして楽しむ人たち

           
                  海岸に咲いた珍しいサボテンの花
 
 昼過ぎに御前崎の観光を終えた私たちは、国道150号線から、浜名湖の最も海側で、太平洋や弁天島の景観の良い1号線バイパスを通り、豊橋からは国道23号線に入った。
 この道路も、蒲郡を過ぎた幸田町から名古屋市内までは、ほとんど高架で信号機が少なくスムーズに走れた。
 名古屋市内から伊勢湾岸自動車道を経由して東名阪道を通行、三重県の関ICから名阪国道を通行、奈良県天理ICから西名阪道を通り、阪和自動車道を経由して、大阪にあるマイホームに帰宅した。20時30分頃であった。今回は5泊6日の旅であった。
 


                  

自然に囲まれ人々を魅了する身延山久遠寺

2008-09-13 23:29:39 | 気ままな旅
  8月13日(水) 道の駅「なるさわ」を出発した私たちは、本栖湖畔の道路を通り、下部温泉方面へ向かった。
 本栖湖畔の道路を過ぎると、突然曲がりくねった道路にさしかかった。
 眼下には、深い谷が見えている。
 道路は急傾斜地の山沿いを這うように作られ、愛車は連続する急カーブをすべるように高度を下げながら進んで行く。
 富士五湖からの道路が、こんなに下の方まで降りて来ていることに驚かされる。
 降りてきた麓の道から、山並みを見ていると、富士五湖事態が、ずいぶんと高い位置にあることが、実感として湧いてくる。
 愛車は程なくして、道の駅「下部温泉」に着く、駅の中を少し覗き、すぐに身延山(みのぶさん)方面へ出発して行った。
 出発して間もなく、JR身延線の曲くねった線路が見え出した、2両編成の普通電車が通っている。
 地方独特ののどかな田園風景のひとコマで、落ち着きを感じてくる。
 愛車はさらに進む、程なくして、大きな川が見え出した。
 甲府方面から富士山の裾野を流れ、駿河湾、太平洋に注いでいる富士川である。
こんな山の中で、このような大きな川が流れているのは、少し驚きであった。
 愛車はR300号線からR52号線に入って、富士市方面に南下して行く。
 しばらく走ると、身延山方面の看板が見えだし、右方向に入って行く。
 この道路は、道幅も狭く、あまりスピードを出すことはできないが、愛車は高度を上げ、どんどん進んで行く。
 眼下には、先ほど通った富士川と、周辺の猫の額ほどの田園が見えてくる。
 田園の先には、幾重にも重なる大小の山並みが見えている。
 美しい光景である。
 助手席の妻が、この景観が気に入ったのか、車窓からカメラのシャッターボタンを押している。
 そして、しばらく走り続けて行くと、樹齢何百年かの大きな杉の木が見え出し、そこから、少し行った所に身延山久遠寺駐車場があった。
 時間も午後5時になっている。
 身延山久遠寺の境内は、西方からの、太陽光線の山影に、すっぽり覆われている。
 ここは、一般参拝者の駐車場ではなく、かなり上側の寒露門の下にあった。
 駐車場から寒露門の石段を登り、門をくぐると、広い境内があり、その回りに伽藍のお堂や付随する建て物が数多く立てられている。
 久遠寺伽藍のスケールの大きさには驚かされる。
 妻が、毎年のようにここを訪れている、知人の話しを思い出していた。
 話しの内容と、実際の景観が、合致しているようで、盛んにうなずいている。 
 境内には、拝観時間を過ぎているせいか、私達以外に参拝者は見当たらなかった。
 
          
        駐車場の入り口には、この寒露門があった。すぐ下には女坂がある。

            
       寒露門をくぐると左側にこの時鐘がある。そして境内左にこの開基堂があった。

           
              寒露門をくぐると右側にある法喜堂と正面の仏殿

            
                   仏殿の右部と客殿(右側)
               
           
                  寒露門をくぐると正面にある仏殿

           
                    西側からの見た仏殿左部

           
       御真骨堂の拝殿、奥には白亜の八角堂内に日蓮聖人御真骨を奉安している。
          
           
                   御真骨堂拝殿入り口上の飾り 

           
                 御真骨堂拝殿への石段左側の池

 身延山久遠寺は、鎌倉時代に日蓮聖人によって開かれたお寺である。
 日蓮宗の総本山として、門徒の帰依処として知られています。
 身延山は甲斐の国(山梨県)の東に富士川、西に早川を見下ろす所にある。
 豊かな緑に包まれ、通称、千本杉の名で知られる天然記念物の美杉が、身延山久遠寺を一層厳かなたたずまいにしている。
 日蓮聖人は「身を隠せ」との故事により、この地方の領主であり、信者でもある南部実長公の支援のもとに1274年(文永11年)に入山して、久遠寺を建立する。
 以来、日蓮聖人は、この地でひたすら法華経の読誦と門弟達の育成に終始し、身延山を生涯の住処としています。
 しかし、日蓮聖人は両親の墓参の為、山をおり、常陸の国(茨城県)に向かう途中の武蔵野国池上(東京都太田区)にて、61歳の生涯を閉じられました。

            
      三門から菩提梯、本堂を結ぶ287段の石段を登ると境内があり、その左にこの水屋がある。

            
                    赤い伽藍の祖師堂と奥の本堂

            
                   本堂と大鐘に囲まれた祖師堂

                      
                      見事な赤い伽藍の祖師堂

           
                   祖師堂屋根の軒下の飾り

               
祖師堂入り口の見事な飾り、中には祖師日蓮聖人の像があり、左右には両親の霊碑や直弟子六老僧の像が祀られている

           
                    大鐘と工事中の五重塔

            
        本堂 拝観時間が過ぎているせいか、すべての扉は閉じられていた
 
                      
              海抜1153m身延山 奥の院を結ぶロープウエー7分で到着

           
三門をくぐると287段の急な石段が境内まで続く、高さ104mの菩提梯、悟りに至る梯(きざはし)の意味が込められている。         

   
           
門前町のはずれにある大きな三門、京都の知恩院、南禅寺の門とともに日本三大門に数えられ、左右には仁王像、楼上には16体の羅漢像が祀られている。        

 今回、急に思いつき訪れた身延山久遠寺、前々から一度行ってみたいと思っていたので、 丁度良かったが、拝観時間を過ぎてからの到着で慌しい見学となった。
 久遠寺にある全ての伽藍や宝物館の内部、それに奥の院などの見学は出来なかった。
 それに、一番大切な本堂に参拝することすら出来ずに残念であった。
 また、違う季節に来たいと思った。
 この身延山久遠寺の伽藍や境内を散策している間に、奥の深さを感じて、もっと知りたいと思った。
 今年6月に訪れた高野山とは、また、違った魅力を感じてくる。
 高野山も身延山も、同じような山の中にあるが、高野山は山上の盆地に作られた宗教都市である。
 この身延山は標高1153mの高さにある。
 山頂からは富士山が見渡せ、周辺に奥の院があり、山の中腹までロープウェーで結ばれている。
 この中腹には、大きな杉の銘木に囲まれた久遠寺の境内があり、回りには多くの伽藍が建てられ、厳かな雰囲気をかもし出している。
 そして、中腹の境内から104mの下まで、287段の石段があり、石段を降りた所に大きな三門が建てられていて、麓の門前町の市街に通じている。
 高野山は伽藍や門前町が横の並びにあるのに対して、身延山は縦の並びにある。
それだけに、大自然の奥深さや、自然との一体感を感じさしてくれる。
 やはり、人々の心は、こういった大自然と触れ合ったり、厳かな雰囲気を味わうことで、自然と落ち着き、安らぎを感じてくる。
 このことが、体の中でエネルギーとなって、夢と希望と明日への活力を与えてくれているように感じてくる。

  
                     
                          門前町の街並み  

 身延山久遠寺の見学を終えた私たちは、門前町を通り、富士川に沿って走っている国道52号線に出て、富士市方面へ向かって行った。
 52号線は信号機も少なく快適な道路であったが、富士市内の国道1号線にはいるまで、若干の渋滞があった程度でスムーズに走れた。
 途中のスーパーで夕食の買い物を済ませ、今日の車中泊先を、幾つかの候補をあげながら検討していた。 
 この時間帯ならば静岡市近辺まで行けそうであった。
 愛車は国道52号線に別れをつげ、国道1号線に入った。
 幸いにして、この道路はほとんど高架になっていてスムーズに走れた。
 静岡市街を少し通り抜け、1号線バイパスに併設している道の駅「宇津ノ谷峠」があった。
 その道の駅に、今日の宿泊先を決めて30分ほどで到着する。
 到着した時の時間は午後7時30分頃であった。
 この道の駅の駐車場は、多くの単車やトラックで満杯であったが、幸いにして、すぐに出発して行った。
 早速、車を止め、夕食の準備をして、程なく準備も整い、楽しい夕食が始まった。
 車内で北京オリンピック放送のテレビを見ながら、妻と二人で杯をかたむけるのも格別の味である。
 
 今日一日の行動を思い出しながら、車中での深い眠りにはいっていった。
 

かつての富士山登山の起点 「北口本宮 富士浅間神社」

2008-09-08 19:08:27 | 気ままな旅
  8月13日(水)富士山レーダードーム館の見学や、道の駅「富士吉田」で昼食などして過ごした後、私たちは、国道139号線を河口湖方面へ引き返した。
 車で15分ほどで、道路沿いにある、大きな神社に興味がひかれ見学することにした。
 この神社に関しては、名前も、予備知識も全くもっていなく、通りすがりに寄った という感じである。
 駐車場に車を止め、参道に入った瞬間に驚く。
 参道には、樹齢何百年もありそうな、杉や檜の巨木が、真っ直ぐに上に伸び、太陽光線をさえぎっている。
 また、これらの巨木は、整列よく立ち並び、大きな石燈篭を両側に並べながら、奥の鳥居に向かって、まっすぎに伸びて、神社独特の雰囲気をかもしだしている。
 参道を少し行った所に、巨木の3本が、下部でつながり、一つの木になっているのにも驚かされる。

 参道をさらに進むと、小さな川が参道を横切り、川には石橋が架けられている。
 石橋を渡ると、朱色の四脚木造の大鳥居が巨木と調和するように立っている。、 あまりの大きさにびっくりするが、富士山の高さや巨木の大きさから考えると、この大きさで、調度いいように思えてくるから不思議である。
 
 この鳥居は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の故事に従い建立され、高さは17.7mで、木造の大きさでは日本一で昭和27年に再建されている。 

 この神社について少し調べてみると。
 正式には 「北口本宮 富士浅間神社」である。
 富士宮市にも「富士山本宮浅間大社」があり、間違いやすい。
 
 西暦110年、日本武尊が東方へ遠征の際に、この地に立ち寄り、「富士には北側より登拝するがよい」として、祠と鳥居を立てたのが始まりだと されている。
 その後、奈良時代の788年、甲斐守紀豊庭(かいのかみきのとよひろ)の占いによって、現在の場所に神殿を立てて、浅間の大神を祭る。
 江戸時代には、富士山の信仰が盛んになり、富士山を崇拝、参拝する「富士講」というものが生まれ、多くの人が登るようになった。
 そこで、村上光清が、現在あるほとんどの建物を寄進している。
 祀られている神様は 
  木花開耶姫命(このはな さくやひめ のみこと)
  天孫彦火瓊々杵尊(てんそんひこ ほのに にぎのみこと)
  大山祗神 (おおやまずみのかみ)

 大山祗神は山をつかさどる神様。
 富士山があまりにうつくしいので、これを娘の木花開耶姫命にあげたそうです。
 天孫彦火瓊々杵尊は木花開耶姫命の夫。
 
 また、垂仁天皇の代に、富士山の噴火を恐れる人々の心を静めるために、勅令をもって火山鎮護の神「木花開耶姫命」を祀ったという説もある。

 富士山登山は、富士スバルラインの開通により、五合目からが起点になっているが、開通するまでは、この神殿右後ろにある鳥居からが、富士山頂に向かう起点となっていた。
    

           
        巨木や石灯篭が並ぶ神社の参道  英語で書かれた神社の案内図

                     
                     参道にある根元でつながった木
             
          
                 三本の木が根元でつながっている

          
                 多くの参拝客で賑あう大鳥から本殿方面

           
                四脚木造の大鳥居で国内随一の大きさ

           
            隋神門 1679年建立 門内には右大臣、左大臣の木造が

           
    例大際や開山際で神楽が奉納される神楽殿 「富士太郎杉」「富士夫婦檜」の名をもつ御神木

          
           比類まれな建築の手水舎 富士の恵みの清水が湧いている

 2km程富士山へ登った泉水(泉瑞)から引かれている。
 この水は、その昔、将軍源頼朝は天下に威を示さんと、富士山麓に雄大な巻狩リを行なった。(巻狩り=四方から遠巻きにして獣を狩り立てて捕まえること)
 その際、渇きに苦しむ勢子(せこ=狩の時、鳥、獣を誘い出したり、追い込んだりする人夫)のため、頼朝は神に祈りつつ、大地に杖を突き立てると、澄みきった冷たい水が、こんこんと湧き出したと云う謂れがある。
 水盤は一個の石をくり貫いて造ったもので、山麓の「石屋の寝床」と呼ばれている場所から切り出した物である。
 柱は石柱を使った比類まれな建築と言われている。

           
               手水舎軒下の竜などの細工が施されている

           
                  国の重要文化財に指定されている本殿
 
 御祭神は 木花開耶姫命(このはな さくやひめ のみこと)
      天孫彦火瓊々杵尊(てんそんひこ ほのに にぎのみこと)
      大山祗神 (おおやまずみのかみ)  である。
 
          
                本殿入り口に上に施された細工
         
          
                   本殿入り口 天上の飾り

          
         富士太郎杉と神楽殿(12の舞から構成された神楽が奉納される)

             
                   西宮本殿前の拝殿   

          
                 東宮本殿(三殿の中で最も古い構造物)      
    武田信玄が川中島合戦の勝利を祈念して再建する(国の指定重要文化財)

           
                     東宮殿前にある七色のもみじ 

                       
                        東宮隣の庭に作られている噴水       

 たまたま横を通りかけて立ち寄った、神社であったが、スケールの大きさには驚かされる。
 また、地元を中心に、日本各地に広がった富士山信仰と浅間神社は深く結びつくものであることが良く分かってくる。
 浅間神社は静岡県、山梨県、関東一円を中心に広がっているようで、関東では、富士塚と称する
 富士山を模した築山の山頂に祭られていることも多いようだ。

 浅間の語源については、「浅間」は荒ぶる神であり、火の神である。
 江戸時代に火山である富士山と浅間山は一体であるとして祀ったとする説。
 「浅間」は阿蘇山を意味しており、九州起源の故事が原始信仰に集合した結果と言われている。
 「アサマ」は、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」を現すそうだ。
 マレー語で「アサ」は煙を意味し、「マ」は母を意味する。
 その言葉を火山である富士山にあてたという説もあるらしい。

 一通り神社の見学を終えた私たちは、国道139号線沿いにある道の駅「なるさわ」に立ち寄った。
 国道139号線は、かなり渋滞が予想された。
 特に富士宮から富士市の国道1号線に入るまでが心配であった。
 出来るだけこの渋滞が予想される道路は通りたくなかった。時間は4時前である。
 そうだ、これから本栖湖を通り、武田信玄の隠し湯で有名な下部温泉を経由して
身延山「久遠寺」を見学して、一号線に出ようと思った。
 身延山は、前々から一度行ってみたいと思っていたが、今回はすっかり頭から離れていた。
 早速、私たちは道の駅を出発し、下部温泉方面に向かって行った。


 


 やっと姿を現した富士山・・・・富士五湖

2008-09-02 21:48:32 | 気ままな旅
 8月13日(水) 道の駅「富士吉田」で朝早くから目覚めた。
 昨夜も涼しく、ぐっすり眠ることができた。
 車の外を見ると、多くの車が止まり車中泊をしている。
 今は朝 6時、周りはひっそりとしているが、朝早く目覚めている人も多く、思い思いに散歩をしたり、朝食の準備などをしている様子が目に映ってくる。
 今日も天気は良さそうだが、さて、富士山はどうだろうか!
 少し高台にある富士山レーダードーム館前の、公園に上がってみた。
 そして、それとなく富士山の方向に目をやると、うっすらとした富士山が見えていた。
 夏日には、めったに顔を出さない富士山が、今回の旅行で初めて顔を出している。
 私は感激し、すぐにカメラを取りに車に帰っていった。
 寝ていた妻を起こし、カメラを持って、再び、富士山レーダー前の広場と公園に行った。
 ご覧のような撮影をすることが出来た。 m_0068/}
 ただ、この雲の様子から言って、これ以上の天気の回復は望めず、富士山が見えるのは、午前8時ごろの2時間位までだ と思った。
 急がなければならない。
 山中湖からの富士山も、是非、撮影したい。
 それに、この道の駅の近くにあり、雑誌等でよく紹介される、忍野からの富士山も見たいと思った。
 朝食は撮影後にしようと妻と相談して決め、すぐに出かけて行った。

          
         車中泊の人たちで賑あう道の駅「富士吉田」(左側の茶色の建物) 

          
               道の駅の側にある「富士山レーダードーム館」  

          
          富士山レーダードーム館から うっすらと顔を出した富士山

           
               今回の旅行で初めて目にした早朝の富士山

 先に山中湖の手前にある、忍野八海に行くことにした。
 道の駅「富士吉田」から10分ほどの所に、忍野八海はあった。
 この近辺は、何回か訪れているが、ここを訪れるのは初めてであった。
 忍野八海は、早朝にもかかわらず、揃いのスポーツウエアーを着た、多くの若者の男女が訪れていた。
 近くでキャンプでもしているのだろうか!
 忍野八海の池は、その昔、自然豊かな忍野盆地の中に、湖としてよこたわっていたが、富士山の噴火活動によって、富士裾野の挟間が、水蝕により、掘削排水されて、湖は枯れ、現在のような形になったといわれている。
 湖の枯れた後、富士山の伏流水を水源とした、湧水池が幾つか残った。
 そのうちの代表的な湧水池が、忍野八海である。
 国の天然記念物や、環境庁の名水百選にも、選定されている。
 八海の池は次の通りである。
  ①最大の大きさを持つ「出口池」
  ②釜の中で熱湯が湧出するように湧出する「お釜池」
  ③泥が厚く堆積し、深さ不明の「底抜池」
  ④長柄の銚子に似ていて、縁結びの伝説がある「銚子池」
  ⑤逆円錐状をして富士山の景観がよい「湧池」
  ⑥川と隣接して景観のよい「濁池」
  ⑦富士山が水面に良く写る「鏡池」
  ⑧細長い形をして菖蒲が茂っている「菖蒲池」
 
 しかし、期待した富士山は、うっすらと見えていたが、残念ながら景観の対象物としての撮影は困難であった。
 一通りの見学を終えた私たちは、忍野八海を後にし、山中湖へ急いだ。
 ここから、山中湖は近く、すぐに到着した。
 富士山の景観が良さそうな、北側の湖岸道路を東に進んで行った。
          
                  忍野八海の中心部でこの周辺に池がある

           
                    忍野八海の池の中にある中池  
                  
             忍野八海の水車小屋、ここに富士山があれば・・・       
           
                 忍野八海の初めて見る珍しい色の鯉

           
                  日本名水百選にも選ばれた忍野八海

 山中湖畔で富士山の眺望のよい場所は、すぐに見つかった。
 湖岸には、公園や遊歩道がきれいに整備されている。
 その一角にあずまやがあり、山中湖と富士山の眺望のよい場所であった。
 富士山は、山高くうっすらと見えている。
 湖面では、何艘かのボートが浮かび、白鳥などの水鳥が、えさをあさっているのか、時々水面に長いくちばしを、突っ込んだりしている光景が、目に入ってくる。
 私は適当な場所から、富士山と山中湖を撮影することが出来たが、朝、始めてみた富士山より霞んで見えている。
 間もなく富士山も姿を消しそうであった。
 
 私が、湖畔からの富士山を撮影している間に、妻は朝食の準備をしてくれていた。
 早速、湖岸の見晴らしのよい場所に、テーブルと椅子を持ち出して、二人で朝食を摂る事にした。
 朝のさわやかな風が通り抜ける山中湖畔で、富士山を眺めながらの朝食も楽しさで一杯だ。
 妻が今朝たてた、我が家自慢のコーヒーの味も格別で、気ままな旅の幸せを感じるひと時であった。
 朝食を終えた私達は、山中湖畔を周遊するために出発して行った。
 このころには、富士山は雲に隠れ、見ることは出来なくなっていた。

           
                    山中湖からの富士山 

           
                    白鳥が浮かぶ山中湖 
 
           
              水際で鯉の処置で右往左往している家族

 湖畔で見かけた光景で、家族で大きな金色の鯉を捕獲している。
 釣り上げたようではなく、横たわる鯉の体を洗ったりしているが、どのように対応していいのか、迷っているようで、誰かに携帯電話で連絡をとっている。
 その後、この鯉がどのようになったのか、最後まで見届けることは出来なかった。

           
                 満開の花を咲かしている山中湖畔 
           
               山中湖の遊覧船とマリンスポーツを楽しむ人たち

           
                   多くの人たちで賑やう山中湖畔 

 山中湖は、富士五湖の中で最大の面積を持つ湖で、標高も最も高い位置にある。
日本全体でも第3位で、逆に水深は、富士五湖の中で最も浅い湖である。
 湖畔では、避暑地としての多くの別荘や、大学・企業の保養所なども多く、ギャラリーなども点在するようである。
 山中湖は、観光スポットとしても人気があり、年間400万人の観光客が訪れるとのこと。
 
 今は夏休みの期間中である為か、湖畔には多くの方が訪れ、夏のひと時を楽しんでいる。
 標高が1000m近くも有り、平地と違って10度近い気温差は、まさに天国のようである。
 水上スキーなどのマリンスポーツや合宿・林間学校・キャンプなども行なわれている。
 都会から離れ、こういった自然の中で生活し、自然と触れ合うことは、人々を活き活きさせるに違いない。
 多くの人々にとって、自然は、海であったり、山であったり、里山や川であったりするが、こういった自然な場所で過ごし、触れあうことで、自然から多くのエネルギーや、明日への英気をいただいているように感じる。
 我々は、もっともっと自然の大切さを認識し、自然環境を豊かにする努力を、怠ってはならないと思った。

           
                       さかな公園

 山中湖の散策を終えた私たちは、もと来た道を戻り、忍野の「さかな公園」に立ち寄った。
 さかな公園には、「森の学習館」と「富士湧水の水族館」があり、楽しむことが出来る。
 ただ、今回は時間的にゆとりがなく、回りの散策だけになったが、富士山からの湧水池を、ゆったりとして泳ぐ、淡水魚が印象的であった。

           
                     さかな公園の淡水魚

 さかな公園の散策を終えた私たちは、道の駅「富士吉田」に戻り、かねてから関心が強かった、富士山レーダードーム館に立ち寄った。

 富士山レーダーは、富士山頂で35年間の気象観測に携わり、南方上に発生した台風を早期に発見し、日本列島への接近の様子を知らせるなど、日本の気象観測で大きな役割を果たしてきたレーダである。
 山岳小説で有名な、新田次郎の「富士山頂」や、NHKテレビで放映された、富士山頂のレーダードーム建設にまつわる映像などに興味を引かれていた。
 このような記念館があることは、全く知らなかった。
 レーダードーム館に入場して、最初にシアターで、NHKテレビで放映されていた、プロジエクトXが上映されており、先に見ることにした。
 富士山頂の3776mに、巨大なレーダー建設という、史上例のな巨大工事の様子が紹介されていた。
 頂上への、大量の資材の運搬や、乱気流が渦巻く、危険空域である山頂への巨大ドームの空輸などが紹介されていた。
 よくこのような場所に、工事が出来たものと感心する。
 このドーム館には、当時、気象庁の担当職員として、レーダー建設に携わった作家の新田次郎コーナーも開設されていた。
 私も若かりし時に、新田次郎の山岳小説が好きで、夢中になって読み漁ったことを思い出してくる。
 その他、富士山頂の気象条件に合わして造られた、ー5℃と風速13mの体験コーナーや、10問の気象クイズに挑戦して、気象観測員認定書をゲットするコーナーなどがあって、レーダーの軌跡や気象観測の大切さが、理解できるようになったいる。

 その後、道の駅「富士吉田」にもどり、側にある富士の名水で人気の高い、水の取水場所があって、そこから1リットル容器に3本、汲んで持ち帰った。
 ここの名水には、遠くの方も訪れ、大きな容器に何本も取水している。
 取水している人の話によると、
  「この水はおいしくて体にいい、毎日飲んでいると健康になった。定期的にここに来て水を持ち帰っている」とのことだった。
 この名水は富士山に降った雨や雪が、数十年の年月と、大自然のしくみによって浄化され、伏流水となったものを地下100mから汲み上げたものらしい。
 大量のミネラルを含み、「バナジウム」の含有量も高くなっているとのことで、
まさに、「富士山の恵み」といえる水である。
 水を汲み、この道の駅で昼食を済ました後、次の目的地へ出発して行った。   

           
               富士山レーダードーム館の中にある模型