7月10日(木)快晴の天気である。
一人旅の女性と朝食を共にして分かれた後、私が現役を勤めていた頃の、仕事仲間が勤める営業所を訪問し、旧交を温めた後、私たちは、文化財指定庭園で特別名勝の「兼六園=けんろくえん」を訪れた。
私は何回か兼六園を訪れているが、妻は始めてであった。
加賀百万石の城下町 ”金沢” ロマンスあふれる街に成長し、多くの人々を惹きつけ、賑やかなで魅力ある街を出現している ”金沢”
現在でも、江戸時代の面影を残しながらも成長し、
近代的なビルが林立する街 ”金沢”
その魅力がどこにあるのか!
なぜか、金沢を訪れる人々の心を、ルンルン気分にさしてくれる。
ロマンス溢れ、若者達で賑やう 金沢市中心部の街 香林坊 や 片町。
若い人や金沢を訪れるビジネス客・観光客などを魅了し、繁栄を続ける街でもある。
こうした金沢の中心部にあって、金沢の人々の誇りと伝統的な心のオアシスが、
特別名勝庭園に指定されている「兼六園」である。
兼六園は、江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま残している。
元々は金沢城の外郭として、城に属した庭園であったらしい。
兼六園は、加賀藩5代藩主、前田綱紀(つなのり)が1676(延宝4)年、この地にあった作事務所を場内に移し、蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周辺を作庭した。
これが兼六園の始まりで、当時、蓮池庭(れんちてい)などと呼ばれていた。
1759(宝暦9)年に金沢大火で、建物の大半が焼失するが、その後復興に取り組み、夕顔亭や翠滝(みとりたき)を築造している。
1822(文政5)年には、12代藩主、前田斉広(なりなが)の豪壮な隠居所ー竹沢御殿が完成し、その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けている。
藩主・斉広は奥州白河藩主・白河楽翁(らくおう)に庭園の命名を依頼した。
楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた「洛陽名園記」の文中から採って、広大・幽邃(ゆうすい=奥深くて物静かなこと)・人力・蒼古(そうこ=古色を帯びてさびていること)・水泉・眺望の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。
その後、13代藩主・斉泰(なりやす)は霞が池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するように作庭して、今にみる雄大な回遊式大庭園の基本的な構図が出来上がっていった。
徽軫灯篭(ことじとうろう)と霞が池
形が琴の絃を支える駒(琴柱)に似ているところから名づけられたと言われている。
この霞が池と虹橋との調和や、池の向こう側に見える日本建築(内橋亭)との景観のすばらしさは、
世界に誇れる「日本の美の庭園」の代表的なものだと思う。
また、ここからの景観は四季それぞれ変化し、楽しむことも出来る。
虹橋からの霞が池
虹橋は徽軫灯篭(ことじとうろう)の前に架かっている。
琴の胴に見立てて別名「琴橋」とも言われている。
この清水の川と虹橋や徽軫灯篭が、霞が池との調和やバランスが、うまくとれた庭園の見事さは、
いつまで見ていてもあきない程である。
やはり、日本庭園には、人の心を落ち着け、魅了する力を持っている。
深く掘られ、バランスの良い形状や、清らかに流れる曲水に、配置した無数の石や燈篭などの石造、
樹木の枝ぶりが相まって、この庭園を形成している。
また、この場所は兼六園を訪れる人たちの、絶好の撮影ポイントにもなっている。
霞が池の畔の唐崎松(からさきのまつ)
13代藩主が、近江の琵琶湖畔唐崎から種子を取り寄せて実生から育てたもので、園内で最も枝ぶりが見事な黒松です。
冬には雪吊りがほどこされ、北陸の冬の風物詩となっている。
唐崎松の枝が霞ケ池まで伸びている見事な枝ぶり
唐沢松のすぐ横には霞が池があり、池の中には蓬莱島がある。
見事な松の枝ぶりに、一瞬、時のたつのも忘れる程である。
この松と池の景観をバックに多くの観光客が記念の撮影をしている光景が見られた。
雁行橋(がんこうばし)
11枚の赤戸室石を使って雁が列をなして飛んでいる姿に作られているので雁行橋と呼んでいる。
また、一枚一枚の石が亀甲の形をしているので別名を亀甲橋(きっこうばし)ともいう。
七福神山(しちふくじんやま)
12代藩主・斉広(なりなが)が造営した竹沢御殿に附帯していた庭園の一部。
「福寿山」とも呼ばれるこの山は、曲水、築山、雪見灯篭など、当時の雰囲気をそのまま伝えている。
また、七福神になぞえた七つの自然そのままの石を配置しているのも大きな特徴である。
明治紀念之標
中央に日本武尊像を、左に石川県戦士尽忠碑を据える明治紀念之標は、西南戦争で戦死した郷土軍人の霊を慰めるものです。
銅像の身長は5.5m、明治13年(1880)に建てられた、日本で最初に建てられたと言われている。
両脇に植えられた赤松は「手向松」(たむけまつ)と呼ばれ、当時、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものである。
木の根が地上2mもせり上がった根上松(ねあがりまつ)
大小40数本もの根が地上2mまでせり上がった奇観は大変な迫力で、兼六園名物のひとつになっている。
この松は13代藩主・斉泰(なりやす)が土地を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土を除いて根を表したものだと伝えられている。
青々として一面に広がっている庭園の苔
この景観は庭園を一層、静寂なものに感じさせてくれている。
苔は日本の庭園や日本建築の建物との相性を一層深め、訪れる人たちの落ち着きと心を魅了してやまない。
花見橋より四季それぞれに変化する花が楽しめる曲水
擬宝珠(ぎぼし)の欄干のある花見橋、四季それぞれの眺めがすばらしい所からこの名前がついたとのこと。
花の季節になると、緩やかに流れる曲水に沿って、桜、カキツバタ、さつき、めつつじなどが咲き誇り、訪れた多くの人を魅了する。
鶺鴒(せきれい)島
昔、いざなみ、いざなぎの尊が、男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事より、その名がつけられた。
この島は、正面に「三社」と書かれた石額がかかった鳥居を据え、その奥に陰陽石(誕生)、相性の松(結婚)、五重の石塔(死)を配置して、
人生の三儀式を表している
落ち着いた雰囲気が漂う時雨亭(しぐれてい)
5代藩主、綱紀(つなのり)が初めて本園を作庭した頃からあった建物で、蓮池御亭(れんちおちん)と呼ばれていた。
それは6代藩主、吉徳(よしのり)によって、建て替えられたが、藩政後期には時雨亭と呼ばれ、今の噴水の前にあった。
明治の初めに取り壊されたが2000(平成12)年3月に、この地に再建されたものである。
自然の水圧によってあがる噴水
この噴水は上にある霞が池を水源としており、自然の水圧で上がっている。
通常、水の高さは3.5mで霞が池の水位の変化によって変わる。
1861年(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっていたが、兼六園の噴水はその試作とも言われている。
日本最古の噴水である。
午後3時頃、兼六園の観光を終えた私たちは大阪への家路についた。
北陸自動車道で敦賀ICを経由して、琵琶湖の景観の良い国道161号線から湖西道路を京都東ICまで通行し、名神高速道路を経由して自宅に帰って来た。
20時頃であった。
一人旅の女性と朝食を共にして分かれた後、私が現役を勤めていた頃の、仕事仲間が勤める営業所を訪問し、旧交を温めた後、私たちは、文化財指定庭園で特別名勝の「兼六園=けんろくえん」を訪れた。
私は何回か兼六園を訪れているが、妻は始めてであった。
加賀百万石の城下町 ”金沢” ロマンスあふれる街に成長し、多くの人々を惹きつけ、賑やかなで魅力ある街を出現している ”金沢”
現在でも、江戸時代の面影を残しながらも成長し、
近代的なビルが林立する街 ”金沢”
その魅力がどこにあるのか!
なぜか、金沢を訪れる人々の心を、ルンルン気分にさしてくれる。
ロマンス溢れ、若者達で賑やう 金沢市中心部の街 香林坊 や 片町。
若い人や金沢を訪れるビジネス客・観光客などを魅了し、繁栄を続ける街でもある。
こうした金沢の中心部にあって、金沢の人々の誇りと伝統的な心のオアシスが、
特別名勝庭園に指定されている「兼六園」である。
兼六園は、江戸時代の代表的な林泉回遊式大庭園の特徴をそのまま残している。
元々は金沢城の外郭として、城に属した庭園であったらしい。
兼六園は、加賀藩5代藩主、前田綱紀(つなのり)が1676(延宝4)年、この地にあった作事務所を場内に移し、蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周辺を作庭した。
これが兼六園の始まりで、当時、蓮池庭(れんちてい)などと呼ばれていた。
1759(宝暦9)年に金沢大火で、建物の大半が焼失するが、その後復興に取り組み、夕顔亭や翠滝(みとりたき)を築造している。
1822(文政5)年には、12代藩主、前田斉広(なりなが)の豪壮な隠居所ー竹沢御殿が完成し、その庭には辰巳用水を取り入れて曲水をつくり、各種の石橋を架けている。
藩主・斉広は奥州白河藩主・白河楽翁(らくおう)に庭園の命名を依頼した。
楽翁は中国宋の時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた「洛陽名園記」の文中から採って、広大・幽邃(ゆうすい=奥深くて物静かなこと)・人力・蒼古(そうこ=古色を帯びてさびていること)・水泉・眺望の六勝を兼備するという意味で「兼六園」と命名した。
その後、13代藩主・斉泰(なりやす)は霞が池を掘り広げ、曲水の新たな取り入れも行い、以前からあった蓮池庭と調和するように作庭して、今にみる雄大な回遊式大庭園の基本的な構図が出来上がっていった。
徽軫灯篭(ことじとうろう)と霞が池
形が琴の絃を支える駒(琴柱)に似ているところから名づけられたと言われている。
この霞が池と虹橋との調和や、池の向こう側に見える日本建築(内橋亭)との景観のすばらしさは、
世界に誇れる「日本の美の庭園」の代表的なものだと思う。
また、ここからの景観は四季それぞれ変化し、楽しむことも出来る。
虹橋からの霞が池
虹橋は徽軫灯篭(ことじとうろう)の前に架かっている。
琴の胴に見立てて別名「琴橋」とも言われている。
この清水の川と虹橋や徽軫灯篭が、霞が池との調和やバランスが、うまくとれた庭園の見事さは、
いつまで見ていてもあきない程である。
やはり、日本庭園には、人の心を落ち着け、魅了する力を持っている。
深く掘られ、バランスの良い形状や、清らかに流れる曲水に、配置した無数の石や燈篭などの石造、
樹木の枝ぶりが相まって、この庭園を形成している。
また、この場所は兼六園を訪れる人たちの、絶好の撮影ポイントにもなっている。
霞が池の畔の唐崎松(からさきのまつ)
13代藩主が、近江の琵琶湖畔唐崎から種子を取り寄せて実生から育てたもので、園内で最も枝ぶりが見事な黒松です。
冬には雪吊りがほどこされ、北陸の冬の風物詩となっている。
唐崎松の枝が霞ケ池まで伸びている見事な枝ぶり
唐沢松のすぐ横には霞が池があり、池の中には蓬莱島がある。
見事な松の枝ぶりに、一瞬、時のたつのも忘れる程である。
この松と池の景観をバックに多くの観光客が記念の撮影をしている光景が見られた。
雁行橋(がんこうばし)
11枚の赤戸室石を使って雁が列をなして飛んでいる姿に作られているので雁行橋と呼んでいる。
また、一枚一枚の石が亀甲の形をしているので別名を亀甲橋(きっこうばし)ともいう。
七福神山(しちふくじんやま)
12代藩主・斉広(なりなが)が造営した竹沢御殿に附帯していた庭園の一部。
「福寿山」とも呼ばれるこの山は、曲水、築山、雪見灯篭など、当時の雰囲気をそのまま伝えている。
また、七福神になぞえた七つの自然そのままの石を配置しているのも大きな特徴である。
明治紀念之標
中央に日本武尊像を、左に石川県戦士尽忠碑を据える明治紀念之標は、西南戦争で戦死した郷土軍人の霊を慰めるものです。
銅像の身長は5.5m、明治13年(1880)に建てられた、日本で最初に建てられたと言われている。
両脇に植えられた赤松は「手向松」(たむけまつ)と呼ばれ、当時、京都の東西両本願寺の門跡から移されたものである。
木の根が地上2mもせり上がった根上松(ねあがりまつ)
大小40数本もの根が地上2mまでせり上がった奇観は大変な迫力で、兼六園名物のひとつになっている。
この松は13代藩主・斉泰(なりやす)が土地を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土を除いて根を表したものだと伝えられている。
青々として一面に広がっている庭園の苔
この景観は庭園を一層、静寂なものに感じさせてくれている。
苔は日本の庭園や日本建築の建物との相性を一層深め、訪れる人たちの落ち着きと心を魅了してやまない。
花見橋より四季それぞれに変化する花が楽しめる曲水
擬宝珠(ぎぼし)の欄干のある花見橋、四季それぞれの眺めがすばらしい所からこの名前がついたとのこと。
花の季節になると、緩やかに流れる曲水に沿って、桜、カキツバタ、さつき、めつつじなどが咲き誇り、訪れた多くの人を魅了する。
鶺鴒(せきれい)島
昔、いざなみ、いざなぎの尊が、男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事より、その名がつけられた。
この島は、正面に「三社」と書かれた石額がかかった鳥居を据え、その奥に陰陽石(誕生)、相性の松(結婚)、五重の石塔(死)を配置して、
人生の三儀式を表している
落ち着いた雰囲気が漂う時雨亭(しぐれてい)
5代藩主、綱紀(つなのり)が初めて本園を作庭した頃からあった建物で、蓮池御亭(れんちおちん)と呼ばれていた。
それは6代藩主、吉徳(よしのり)によって、建て替えられたが、藩政後期には時雨亭と呼ばれ、今の噴水の前にあった。
明治の初めに取り壊されたが2000(平成12)年3月に、この地に再建されたものである。
自然の水圧によってあがる噴水
この噴水は上にある霞が池を水源としており、自然の水圧で上がっている。
通常、水の高さは3.5mで霞が池の水位の変化によって変わる。
1861年(文久元)年、金沢城二の丸の居間先に噴水があがっていたが、兼六園の噴水はその試作とも言われている。
日本最古の噴水である。
午後3時頃、兼六園の観光を終えた私たちは大阪への家路についた。
北陸自動車道で敦賀ICを経由して、琵琶湖の景観の良い国道161号線から湖西道路を京都東ICまで通行し、名神高速道路を経由して自宅に帰って来た。
20時頃であった。