気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

砂鉄から鉄や日本刀を・・・中世からの日本を支えた 『たたら製鉄』

2015-05-16 23:23:20 | 気ままな旅

  2014年(平成26年)5月2日(金) 晴 午前中は近くにあるコーヒーショップで妻と二人コーヒーを楽しんだ後、郵便局などで所用を済ませて、車中泊旅行の出発準備をする。 

 今回の旅行は、山陰方面のたたら製鉄関連施設や石見銀山・津和野、山口県の秋芳洞などや萩方面を予定している。

 私は、まだ、島根県出雲市から先にある西方には行ったことがなく、長年の課題でもあったが、今日までそのチャンスは訪れてこなかった。

 

旅行目的のひとつである和鋼博物館(島根県安来市) 砂鉄を原料とした鉄の生産や日本刀などの資料を展示している。

(上記はたたら製鉄の絵図)

 

今までの車中泊旅行は、トヨタエステイマを利用していたが、一昨年11月にハイブリッド車のプリウスα(7人乗り)に乗り換えて利用している。

2013年11月に購入したトヨタプリウスα(アルファ) 7人乗りハイブリット車。

 

2013年10月、長年(10年間)乗用した思い出深いエステイマを手放し、ハイブリット車で燃費の良いプリウスαに乗り換える決断をした時期であった。 

 私にとって慣れ親しんだエステイマは、ドライブを楽しみながら自由に旅行ができる最適の車であった。

 私たちは 本ブログの 「気ままな旅」 で紹介しているように その日の天気や状況次第で、自由気ままに旅を続けている。 

 しかも、カメラ好きの私は、山でも、野でも、景勝地などの観光地でも、その日の天気次第で、自由気ままに移動して旅を続けている。 

エステイマはミニバンであるが乗用車感覚の車で、しかも車中泊のできる車として、私たちにとっては最適な車であった。 

たとえば ホテルを予約して、車旅を続けるスタイルの旅行は、夕方の5時頃にはホテルに到着したいとの意識が常にある為、午後からの旅行予定が短縮され、時間に束縛されてしまう。  

特に夕日など、美しい景勝地での観光は難しくなる。

そんな理由から、車中泊の旅を続けられる車探しをしていたところ、プリウスαの7人乗り(3列シート)があることを知った。

当初は、この車の大きさで車中泊ができるのか! と思っていたが、

販売員の説明で、車の寸法や、座席を倒して寝てみるなどの体験を通して、車中泊ができることを確認して購入することにした。

プリウスαを購入して初めての車中泊を体験すると、当初予定していた2列目のシートを倒し、3列面の座席と平行にする。

その上に分厚いベニヤ板を寸法を測定し、加工してベットを造る。

加工した板ベットをいざ利用しょうとすると、3列シートは倒れるが前後に移動できなく、荷物が収納できない問題点がでてくる。 

車中泊の必需品であるクーラーボックスが3列シートの後ろ側のスペースが小さく入らない。

3列シート後ろに荷物の収納ができないと、車中泊旅行には適さない。 

この点、エステイマは十分なスペースがあり、荷物を収納するのに、あまり苦労はなかった。

 仕方なく、運転席と助手席を倒し2列シートの座席と平行になるようにシートを調整すると、身長170CMの私でも、何とか体を真っ直ぐにして寝れそうであった。

 3列シートは起こさずに折りたたんで収納すると、ライトバンのようにスペースが確保でき、車中泊に必要な荷物を収納することができた。

 勿論、窓ガラス面には、気泡性のあるプラスチックボードを、それぞれの大きさに加工し、その両側には、断熱性能の高いプチプチ(気泡緩衝材)を貼り付けている。

 この特性のシートを、睡眠時には全ガラス面に、はめ込む。 そうすると、外からは車内は全く見えなくなり、プライバシーが確保できる。 

それに、冬場でも睡眠時には、エンジンを停止するが、この緩衝パネルがあると、車内は温暖で外気温ほどの寒さを感じなくなる。

 

5月2日(金) 午後4時00分頃、出発準備も整い、南大阪の自宅を出発し、阪神高速道路湾岸線から大阪市内に入り、池田線から中国自動車道池田ICに入って行く。

 高速道は渋滞もなくスムーズに車は流れている。 

中国自動車道も、車はスムーズに流れ、黄昏時の車窓を楽しみながら走行して行く。 

落合JCTから米子移動車道に入って行く。

この自動車道は標高の高い蒜山(ひるぜん)高原を走行している。 

その為、落合ジャンクションからは曲がりくねった高速道路をどんどん高度を上げながら走行して行く。

そして、暫く走行すると、蒜山高原SAに到着する。 

ゴールデンウイークのせいか、SAの広い駐車場は満車で、空きスペースがなく、隅の方まで行ってやっと駐車することができた。

今日はこのSA(サービスエリア)で車中泊する予定で、時間も丁度午後8時を迎えようとしている。

米子自動車道蒜山(ひるぜん)高原SA

5月3日(土) 晴 車中泊をしていた蒜山SAで午前7時頃目覚め、外に出ると、高原特有のひんやりとした心地よい空気が漂い、清々しい気分にしてくれる。 

SAの駐車場には、車中泊をしたり、朝早くからの移動中に立ち寄った車で満杯になっている。

蒜山高原SAからの光景を、記念のために撮影しょうとカメラを持ち出して数枚撮影する。 

特にここのSAは景色が美しいことからも人気がある。  

中国地方の主峰で、地元の人達からは伯耆(ほうき)富士と呼ばれ親しまれている大山(だいせん、標高=1729m)が見えるはずであるが、残念ながら厚い雲に覆われて見ることができない。 

それでも、移動しながら撮影場所を探す。 

SAの南側には、小さな公園のような休憩場所があり、その中心にアーチ状にできた、2段鉦のモチーフがある。

 鉦のモチーフの中央からは大山(だいせん)が見えるはずであるが、ご覧のように厚い雲に覆われてその姿を現していない。

蒜山高原SAから大山方面を見るが 雲にすっぽりと覆われて見ることができない。

本当はこのような大山(だいせん)が見えるはずであったが・・(2010年10月撮影)

西側から見た富士山のような山容をしていることから、地元では伯耆富士と呼ばれ、親しまれている大山・・(2010年10月撮影)

 

蒜山SAで写真撮影をした後、妻と二人で軽い朝食を済まして、午前8時過ぎに出発する。 

高原にあるSAからは、暫くの間、下りカーブが続いて行く。 

このあたりの右車窓からは美しい大山が見えるはずであるが、残念ながら雲の覆われ全く見ることができない。 

 ほどなくすると米子ICに到着し、山陰道に入り、15分程走行すると安来ICに到着する。 

さらに、一般道を10分程走行すると、古代から鉄を生産していて、たたたら製鉄に関する資料などを展示している和鋼博物館に到着する。

和鋼博物館(島根県安来市安来町)

平成5年(1993年)に、古代からこの地方に伝わる砂鉄を原料にして、木炭燃料で鉄を 「たたら」 という製鉄方法で生産する、技法や技術、製鉄方法などに関して、映像や模型、資料などで紹介している博物館である。

和鋼博物館前に保存されているD51蒸気機関車

D51蒸気機関車は、1935年(昭和10年)からの本格的な製造から、1115両が製造されている。 

貨物が主であったが、牽引力が強いため、急こう配の旅客用機関車として使用されるなど、日本の代表的な蒸気機関車である。

博物前に展示されている(けら=たたら操業によって炉内に生成される鉄・鋼を含む鉄塊のことをいう)

ペーパーナイフの体験コーナー

私も時間的に余裕があることから、急に興味が湧いてきて体験することにした。

最初に担当の方から五寸釘を渡され、鉄ハンマーでたたき ナイフのように平らにする。

ごらんのような大きな鉄の土台があり、その上に釘を乗せては鉄ハンマーでたたくと、鉄土台とハンマーの反動で、力をあまり入れずにハンマーを連続的にたたくくことができるのには驚かされる。

鉄ハンマーたたいて出来たナイフをグラインダーで少し削り、最終段階の砥石で研いで仕上げていく。

初めての体験で出来上がったペーパーナイフ。 最終仕上げは砥石で研ぎ、持ち手の部分に糸を巻いていく。 思わずうれしさがこみあげてくる。

ペーパーナイフを体験した後、博物館内に入って行くと、下記のような天秤ふいごが展示してあった。

博物館の中に展示されいる天秤ふいご(人力で火を起すときに用いる。風を炉内に送る道具)

 

ただ、残念なのは、管内のほとんどが写真撮影禁止で、ブログで映像をお伝えできないことである。

 かつて、私は鉄に関して、鉄の生い立ちや、鉄用具、鋳物の建築物などに興味を持っていた。

特にたたら製鉄に関して、どうしてこの出雲地方で、鉄の生産が日本全国の80%に達していたのか!

古代から中世や近代まで、出雲地方を含む中国山地周辺で日本の鉄生産量の80%が 

「たたら」 と呼ばれる伝統技法で、良質な鉄を生産する製造法が盛んに行われていた。

このことは、この地方に、鉄の原料である砂鉄が豊富にあったことや、砂鉄から鉄を取り出すためになくてはならない、

燃料になる木材の山林資源に恵まれていたことが大きな要因であった。

このことから、この地域は、日本における先端技術地域であったはずである。

日本において、鉄との出会いや、生産が何時頃から行われていたのか!

 誰しも高い興味が湧いてくるはずである。

日本列島内の遺跡から、縄文時代末期(紀元前3~4世紀)~弥生時代初期(紀元前3世紀~3世紀) 頃には、大陸から輸入した鉄素材を様々な道具に加工する鍛冶の痕跡が確認されている。

次の段階である鉄の生産時期に関しても、弥生時代に鉄素材の大陸からの輸入に頼りながらも、小規模な製鉄が開始されている。

そして、古墳時代(4世紀~6世紀)の後期には、日本列島内でも、鉄生産が本格的に行われれるようになっていた。

さらに、鉄生産の初期の頃は、原料が鉄鉱石の場合が多かったが、徐々に砂鉄が加わり、主流になっていく。

このことから、土製の炉に木炭と砂鉄を装入して、鉄を取り出す製鉄方法である 「たたら製鉄」 が中国山地を中心に盛んになっていく。

その結果、江戸時代後期には、出雲地方は鉄の生産日本一を記録し、明治時代の近代的な製鉄方法が導入されるまで続いている。

古代製鉄の遺構図(6世紀後半の製鉄遺構をモデルに制作した模型)

出雲国風土記(西暦732年)には、この地域(島根県)における川砂から、砂鉄をとり、鉄生産が行われていた記述があり、8世紀前半には、この地域一帯が鉄生産の拠点であったことがうかがわせる。

たたら製鉄の原料である砂鉄と木炭、そこから造りだされた玉鋼(たまがね)、鍛冶屋などは、この玉鋼を購入、熱処理して色々な鉄道具を造る。

たたら製鉄の炉を壊して(けら)を取り出す作業((けら)だし)、灼熱の(けら)に鎖がかけられ引き出される。 丸太のコロやテコも高熱で一気に燃え上がる。

 

たたら製鉄は、当初、原料を鉄鉱石あるいは砂鉄、燃料を木炭として始まった。

熔融温度を上げる送風装置が鞴(ふいご)で、中でも 炉の左右に設置された天秤ふいごは、炉内の燃焼を良くして熔融温度が上がり、生産性を大きく高めた。

たたら製鉄の主に、高殿と呼ばれる大きな建物内で行われた。

高殿での操業は、秋から積雪の多かった乾燥期の冬場に行われていた。

たたらの工房建物「高殿=たたら(大きな建物の意味)」たたら操業模型

 

近世のたたらの炉の地下には、深さ3mを超える、巨大かつ精密な地下構造が築かれていた。

 炉の温度を高温に保つには、下記図のような大掛かりな設備が必要であった。 

近世のたたら製鉄、天秤鞴と地下構造の図 炉が出来上がると、天秤鞴を設置し、炉と鞴を送風管で連結すると完成する。 

たたら製鉄炉の上部の土をたたいて締める。(地下構造模型)

 

炉を造る地下構造模型図 この段階では、本床左右の小舟は燃えつくされ、空洞となっている。この部分が創業時の保温効果をもたらす。

 

鋼の良否が決まる築炉が完成すると、塩で清められ、約70時間に及ぶ過酷な作業が始まる。

炉には一杯の木炭がくべられ、鞴から風が送られると、炉内の木炭は燃え盛っていく。

そして、砂鉄と木炭の装入が開始される。 

砂鉄と木炭は、ほぼ30分おきに装入、時間の経過とともに量は増やされていく。

約5時間を経過すると、炉内から真っ赤に熔けた不純物であるノロ(鉄や炉の熔滓(ようさい)が排出されてくる。

さらに、この作業を続けていくと、炉底には、砂鉄が熔け、熔融した(けら)が溜まり続け、不純物である真っ赤に熔けたノロを、どんどんと炉外に排出していく。

炉内一杯に(けら)と呼ばれる鋼(はがね)の塊ができると、リーダーである村下(むらげ)の判断で、送風は停止し、操業は終了する。

そして、炉は壊され真っ赤な(けら)は、炉外に引き出されていく。

(けら)の温度が下がり、常温になると加工しやすいように小さく割られ、各地区の鍛冶屋さんなどに販売される。

販売された(けら)は、それぞれの用途に応じて加工され、農具や生活用品の工具などとして使われていく。

 

私たちが一般に 「鉄」 と呼んでいるものは、大きく分けて二つに分類される。

現在では、製鉄所などで作る鋼(スチール)と、鋳型さえあれば自由に形が造られる鋳物である。

基本的には、鉄の素材に含まれる炭素(C)の量によって、鉄の性質が大きく変わり用途も変わってくる。

炭素量は、スチールの方が低く、素材は柔軟である。

 鋳物の方は炭素量が高く性質はもろく壊れやすい。 

一般的に鉄は、炭素量が増えるほど硬くなり、もろくなる性質を持っている。

 

このたたらの鉄は、主に和鉄・和鋼・和銑に分類される。

砂鉄から造られる日本古来の製鉄法である 「たたら」 には、主に二つの製法がある。

(けら)押し法 と銑(ずく)押し法である。

①(けら)押し法= 砂鉄から直接鋼の製造を目的とするが、鋼以外に鉄や歩(ぶけら)などができ、和鋼や和鉄になる。

②銑押し法=この方法の産物である、銑は、鋳物などの原料になる場合もある。 これが和銑である。

ただ、どちらの方法でも、(けら)塊のうち鋼(はがね)を取り除いた他のもの(銑、歩(ぶけら)は、大鍛冶場(おおかじば)で、

鍛練(高温で熱してハンマーで叩いたりしながら形を整え、炭素量の調整や不純物を除去)され、包丁鉄として刃物の心鉄や諸道具の素材になっていく。 

各地域の鍛冶屋さんなどは、この素材を購入して、包丁や鍬などの農具などに加工して商品化される。

鋳物は、鍋や釜などの鋳型を作り、炉で熔湯した鉄を流し込んで造られ、商品化される。

 

たたら製鉄は、江戸後期から明治初期頃にかけて最盛期を迎えていくが、その後は鉄の需要増大に対し、生産効率から洋式製法(当時は八幡製鉄)には太刀打ちできず、1925年(大正14年)に、その役割はいったん終焉する。

現在は、日本刀素材として欠くことのできない和鉄や和鋼(玉鋼=たまがね)の、安定供給の国庫補助事業としてたたら製鉄は復元され、年に数回操業されている。

 

 

この会館では、たたら製鉄に関しての映像や展示資料から、製造法などは理解できるが、私の場合、鉄に関して、当時の人々の生活と鉄がどのように関わっていたのか!

また、日本一の鉄生産量を誇る、この地域が、日本国内の中でどのような位置づけであったのか! などの興味が湧いていた。

イギリスの産業革命以後に、「鉄は国家なり」 という言葉がでてくる。

これは、鉄鋼の生産量が、国力の指標にもなっていることからで、現在でもこのことは変わりがないと思われる。

私は。金属の中で、人間の生活に多いの関わっているものは、鉄を置いて、他にはないと思っている。

それは、鉄が強度的に強い金属であり、比較的加工がしやすく、製品化しやすいからである。 

それに、資源も地球上に無尽蔵といわれるほど豊富であることが起因している。

私は、見学した後、こういった製鉄法や鉄への思いを深めながら和鋼会館を後にしして、石見銀山方面へ向かって行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
深淵なる出雲 (奥野利夫)
2016-09-04 20:47:05
 まあ日本の真の起点は十神山にあるということを学べばよいと思う。
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十神山・・・・調べてみたいと思います。 (希間々兼行)
2016-09-05 23:24:35
 私は勉強不足で、申し訳なく思いますが 「日本の真の起点は十神山にある」 が良く分かりません。
 出雲に関係する本や資料などから勉強してみたいと思います。
返信する
プロの魂サムライジャパン (ダイス鋼)
2023-08-23 12:42:12
ルパン三世のマモーの正体。それはプロテリアル安来工場で開発されたSLD-MAGICという高性能特殊鋼と関係している。ゴエモンが最近愚グリーン新斬鉄剣と称してハイテン製のボディーの自動車をフルスピードで切り刻んで、またつまらぬものを斬ってしまったと定番のセリフ言いまくっているようだ。話をもとにもどそう、ものづくりの人工知能の解析などを通じて得た摩耗の正体は、レジリエンス性も考慮された炭素結晶の競合モデル/CCSCモデルとして各学協会で講演されているようだ。
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