気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

英虞湾の景観がすばらしい横山展望台

2009-02-27 19:10:29 | 気ままな旅
 1月4日(日)昨夜から道の駅「伊勢志摩」で、妻と二人で車中泊をしていた。
 天気は快晴であったが気温は少し下がっているように感じていた。愛車エステイマに防寒用のボードを、全ガラス面に施しているためか、エンジン停止状態でも寒さを感じずぐっすり眠ることができた。
 朝7時過ぎに起床して、道の駅を見渡すと30台前後の車が車中泊をしている。
 隣には浜松新居町から来た車も車中泊をしていた。60代前後の夫婦で挨拶を交わした後、会話がはずんだ。
 私の車に施してある防寒用のボードやベッドに興味を示し、私の説明に盛んにうなずいていたのが印象的であった。
 この夫婦の車には、カーテンすら施してなく、車の内側から衣類などで目隠しをしていた。
 この様な状態でエンジンを止めてとる睡眠は、私の経験からいって相当着込まないと、寒くて眠れないのでは! と感じる。
 私達も朝の朝食を済ました後、伊勢志摩国立公園の一角にあり、リアス式海岸や真珠の養殖で、その名が全国に知られている英虞湾(あごわん)を一望できる横山展望台に向かって行った。
 横山展望台には15分ほどで到着する。 
 駐車所から車道の隣にできた道を登って行くと、10分ほどで展望台の下にある木道の通路が見えてくる。
 さらに進み木道の通路から突然、眼下にリアス式海岸を誇り、英虞湾に浮かぶ、60余の小島と、幾重にも重なるように出来た半島の絶景が目に入ってくる。
 英虞湾の南側には太平洋が広がっているが、太陽光線の逆光を受け、海面は光り輝き、島や陸地の部分は黒ずんで見えている。
 また、光り輝く湾には、真珠養殖用の幾数ものいかだが組まれ、組まれたいかだを縫うように、小船が航跡を残しながら行き交っている。
 東側には的矢湾の眺望や、大型のレジャー施設・白い高層建築物が、周りの景観とうまく調和して美しく見えている。
 南側にもゴルフ場などのレジャー施設や洋風のモダンな建物が建てられ、リゾート地、伊勢志摩地方ならでわの独特の景観をかもし出している。
 逆光が強く写真がうまく撮れなかったが、横山展望台から見渡す英虞湾のすばらしさは、東北の松島と並び、群を抜いているように思える。

          
            横山ってこんなところ

 上記写真には次のように書かれている。
 「標高203mの横山は、英虞湾(あごわん)周辺では一番高い場所です。
 どの方角から見ても尾根が横に長く見えることから横山と呼ばれるようになりました。
 横山は昔から英虞湾を眺める場所として大切にされてきました。
 文人歌人は横山からの英虞湾の美しさを胸に刻みました。
 俳人で小説家でもあった高浜虚子(たかはまきよし=1874~1959年)は「横山」と題した小説の中で「・・・英虞湾はもとよりのこと、島の南端の卍巴の如く鸞入している水は其等の湾を差し挟んで突出している沢山の提のような陸地の間に光って見えた。
 私は言下に、これは松嶋よりも景色がいいではないか と言った。・・・」と横山から見た景色の美しさをたたえています。
          
          リアス式海岸の湾といかだのかもし出す景観が美しい英虞湾

          
             展望台より東方向の的矢湾やスペイン村などの景観

          
              展望台より阿児町鵜方(うがた)市街の景観

          
     湾内の間に出来たゴルフ場やリゾートホテルなどの施設と英虞湾の景観

          
     入り組んだ湾 どこが出口で、どこが入り口か!迷路のような英虞湾の景観

          
    真珠養殖用のいかだとリアス式海岸が独特の景観をかもし出している英虞湾 

           
           亜熱帯植物の樹海トンネル   樹海トンネルが続く遊歩道

 英虞湾が一望できる横山は、名前の由来通り、横に長い山で、横山展望台、パノラマ展望台、見晴展望台、英虞湾展望台などの施設が整えられ、各展望台とを結ぶ道も近畿自然遊歩道として整備されている。
 私達も横山展望台から、西に30分ほどの所にある英虞湾展望台に向かって行った。
 遊歩道には、亜熱帯の樹林がトンネルのように道を覆い、この地域独特の景観をかもし出している。
 浜島温泉や大峰山系が見渡す西の展望台からくり広がる景観を楽しんでいると、三重県伊賀市から来た5人連れの家族と出合った。
 なかなか明るい健康的な家族で、私達の記念写真にも気軽に応じてくれ、ご覧のような写真を撮ることが出来た。

          
                 第三展望台からの英虞湾の景観

          
          英虞湾の西に位置する御座岬と金毘羅山99mと手前は浜島

 熊野灘から英虞湾に出入りする全ての船舶は、御座岬と手前の浜島町にある岬か、東側にある深谷水道を航行しなければならない。
 深谷水道は志摩町と大王町の境界に位置し、昭和7年10月に完成した、総延長660m、幅15mの小さな人口の運河で、英虞湾と外海とを結んでいる。
 運河にはコンクリート製の橋も架けられ、小さな漁船が行き交う海の回廊として重要視されている。
 この運河は、英虞湾と外海をつなぐことで、湾内に海水を循環させ、冬から春にかけての水温低下によるアコヤガイの大量死と赤潮の発生を防ぐ目的で造られた。

          
              英虞湾を挟んで御座岬と手前の浜島町全景

          
             西にある展望台から眼下に見る浜島温泉街の景観

          
           西の展望台で伊賀市から来た5人連れの家族と記念の一枚

          
      展望台から西方向に見る幾重にも重なる山峰と雪をかぶった大峰山脈

          
             伊勢志摩国立公園 横山ビジターセンターの内部

 横山展望台や山頂に広がる自然遊歩道の散策を終えた私たちは、帰り際にビジターセンターに立ち寄った。
 広い館内には、英虞湾の四季を通じた写真や、生物の生態、いかだの種類などが分かりやすく展示されている。
 中でもビジターセンターの係りの人の応対ぶりには感心させられる。
 大変親切こまめに説明してくれ、それに下記写真の工作物を記念にと言ってプレゼントしてくれた。
 
          
               ビジターセンター係員の人たちが作った工作物

 横山展望台からの景観やビジターセンターで、英虞湾に関する情報を入手した後、私たちは次の目的地伊勢神宮に向かって行った。

    
伊勢志摩国立公園
 横山ビジターセンター http://www.yokoyama-vc.jp/yokoyama_vc/index1.html
            
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熊野街道と大津波が襲った錦湾・神武天皇の上陸地

2009-02-20 14:19:43 | 気ままな旅
 1月3日(土)午前中の熊野速玉大社の参拝を終えた私達は、通称熊野街道と呼ばれる国道42号線を三重県志摩半島方面に向かって行った。
 熊野街道を走る愛車エステイマの車窓からは、快晴の青空が反射したような青い太平洋が広がっている。
 すばらしい光景で、見渡す限り果てしなく続く弓形に反った七里御浜の海岸線には、白い波が打ち寄せ、青い海と黒っぽい砂浜、それに幾重にも重なる山峰が海岸まで迫り、うまく調和して絵葉書のような、独特の美しい景観をかもし出している。
 まさに絶景の海岸線で22kmに渡って続いている。
 愛車を、この美しい海岸線が見渡せる、街道沿いのパーキングに止めて暫く見とれてた。
 そうしていると全てを忘れ、自然の雄大さに圧倒されながら感動してくる。
 その反面、このようなとてつもなく大きい自然と接していると、日頃何かと細かい事にくよくよしている自分が恥ずかしく、反省させられるが、落ち込むことはなかった。
 逆に、雄大な自然が、明日への希望と勇気を与えてくれているようにさえ思えてくる。
 再び熊野街道の景観を車窓から楽しみ、東に暫く走っていると、道の駅「パーク七里御浜」に到着する。
 この道の駅は、22kmに渡って続く七里御浜海岸の中間に位置し、道の駅のほかに観光センター、レストラン、それに、地元の人たちもよく利用するショッピングセンターが併設されている。
 館内に入っていくと、地元の観光地や物産が紹介され、その手前でハッピを着た人たちが、威勢よく賀正を祝ったぜんざいを振舞っている。
 早速、私達もぜんざいを頂くことにした。
 餅の入ったぜんざいは甘くおいしく、周辺は賀正のお祝いムードが漂い、この一年の皆様のご多幸を祈りたくなってくる。

 再び私たちは、絶景の海岸線が続く、七里御浜沿いの熊野街道を東方向に進んで行く。
 暫くして、街道沿いで海岸線に面した獅子岩に到着する。 

         
          道の駅「パーク七里御浜」から熊野街道と熊野灘の景観

          
                 店内に展示されている賀正の凧

          
        道の駅「パーク七里御浜」にある店舗で賀正のぜんざいが振舞われた

          
                賀正のお祝いに振舞われたぜんざい

          
          奥の会場でも賀正のぜんざいが振舞われている、記念の一枚
                   
          
          熊野街道沿いに22kmに渡って海岸線が続く七里御浜の景観

          
       七里御浜の海岸に獅子がほえる形に似ていることから名づけられた獅子岩
 
 獅子巌は高さ25m、周囲約210mの岩塊で海岸の断崖の遺物と認められる。
 獅子が大洋に向かってほえる形をしている。
 その口にあたる部分は鬼ケ城の洞窟と同じ成因によるものである。
 地盤の隆起と海蝕の現象の生み出した奇観として稀に見るものである。

 獅子巌を後にした私たちは国道42号線をさらに東に進む、七里御浜の海岸線沿いに続いていた道路も、熊野市を過ぎたあたりから、険しい山岳道路に変わってくる。
 さらに、愛車は進み、この地域の中心都市、尾鷲市までやってくる。
 尾鷲市は30年ほど前に社用でよく来た思い出のある都市である。
 ただ、街並みを走り抜けるだけであったが、道路が立派に整備され、近代的な街並みに変貌しているようで驚かされる。
 尾鷲を過ぎ、道の駅「海山=みやま」に立ち寄った後、海山の海を見たくて海岸線に方向を変え、走っていると海山の港(引本港)に出る。
 漁港では、磯釣りをしている人たちや、繋留されている数隻の船舶に、正月用の祝いの旗が掲げられ、風になびき、港の雰囲気をかもし出している。
 私達も、漁港の岩壁に車を止め、海山の漁港から尾鷲湾に続く景観を楽しみながら遅い昼食をとった。
 
          
            熊野灘に面した尾鷲湾の一角にある海山の港(引本港)

          
          海山の港(引本港)の奥にある養殖場 上空には鳥が数十羽舞っている

 昼食を終え、ほどなくして尾鷲湾の入江沿いにある道路を東の方向に走って行った。
 入江の南側には高い山稜が続き、入江の中ほどには、何か養殖でもしているのか
 、中ほどには幾つかのブイを繋ぎとめている。
 その上空には、餌になる魚でもいるのか数十羽の鳥が舞っている。

          
                 尾鷲湾に属する入江の景観

          
                   湾内にある海苔の養殖場

           
                     海苔の養殖
 
 さらに愛車は、湾に沿った道を景観を楽しみながら東へ進んで行く。
 進んでいると、目の前の湾内に、緑色の今までとひと際変わった景観に出合う。 海苔の養殖場のようである。
 貝や魚の養殖は時々見かけていたが、このような海苔の養殖はほとんど見かけたことがなかった。
 愛車は湾内沿いの道から分かれ、近くを走っている国道42号線に出て紀伊長島方面に向かって行った。
 
           
           熊野街道を通行中に立ち寄って撮影した三野瀬周辺の景観

 国道42号線を走っていると突然目の前に、小島が浮かんでいる美しい湾が現れてくる。
 国道のすぐ側をJRが走り、その線路を陸橋でまたぐように道路が架けられている。
 早速、海に向かっている景観の良さそうな道路にはいり、ご覧のような撮影をすることができた。
 偶然に出会った、ここから見渡す小島をはさんだ湾内の景観も実に美しく、何時まで見ていても飽きない三野瀬の景観であった。

           
                  三野瀬からの熊野灘の景観

 三野瀬からの景観を楽しんだ後、再び国道42号線に入り紀伊長島方面に向かって行った。
 紀伊長島からは、国道260号線に入り伊勢志摩方面に向かって行く。
 途中の旧紀勢町(現大紀町)に差し掛かった折に神武台公園の看板が目に入ってきた。
 横には立派な駐車場があり、目の前にある山が神武台公園になっており、歩道が頂上に向かって伸びている。
 景色も良さそうで、名前からいって神武天皇とゆかりがありそうで興味を引かれる。 早速登ってみることにした。
 登り始めて10分ほどで神武台公園の頂上に到着する。
 頂上にある神武台からは、眼下に広がる錦湾や熊野灘が見渡せる絶景の景勝地で、展望台も造られている。
 神武台からの絶景の展望を暫く楽しんだ後、公園の周りを見渡すと幾つかの石碑が建てられている。
 その一つに「神武天皇東征の上陸地 西暦239年」書かれた石碑があった。

           
        道260号線を通行中に見つけ偶然に立ち寄って登って行った神武台

 神武天皇東征の上陸地 (西暦239年)の石碑 には次の通り書かれている。

 伊波礼彦尊(いわれひこのみこと、後の神武天皇)が西暦239年、九州の美々津浜を船出し大和制圧のため、日向の国(宮崎県)を出発された。
 途中、長髄彦(なかすねひこ)の強力な抵抗に遭い、陸路からの進軍をあきらめ船より進軍した。
 紀伊半島に迂回し熊野灘を北上、遂に大和入りに成功して橿原で即位された。
 この大和入りの上陸地点とされる学説には、錦浦とするもの、二木島とするもの、那智勝浦とする説などがある。
 古代の遺跡や遺物を実査した二人の著名な考古学者と歴史学者が「錦浦は太古より開けて高度な文化を誇った豪族大家の住ませし所」と論証している。
 この錦浦は大和の宇陀地方とは最短距離にあり、遺跡や遺物が示すように、恐らく古代の熊野灘沿岸には、錦浦の他にこれといった集落もなく、錦浦だけが海に開けた唯一の水陸交通の拠点であったと推定されている。
 この時代は物々交換経済が盛んで、人間が居住する集落のある所には、必ず、内陸部に通じる生活道が開けていたのである。
 錦浦には遠い古代から近現代の半ば頃まで、錦浦の海産物を大和の宇陀地方へ出荷していた魚の道があった。
 この道は古代文化を錦浦へ導入した道でもあった。
 錦浦から出土している三角縁三神三獣鏡や平城京出土の木筒に「二色郷」と書かれた荷札など、数多くの遺物がこれを実証している。
 この事から、神武天皇が上陸したとされる地点は唯一錦であろうと推定される。
 昔から地元では、神武天皇がお座りになったという石があると言い伝えられている。
                     平成16年(2004年) 紀勢町 と書かれている。


 また、錦湾の見渡せる所には東南海地震の碑も建てられていた。

 「今から60年前の昭和19年12月7日午後1時36分東南海地震が起こり、約一分八秒に亘って激震する。
 十数分後に怒涛のごとく大津波が眼下の錦湾に十数分間隔で押し寄せたのである。
 津波の高さは、潮位6m半に及び、64名の尊い生命をはじめ、流失家屋447戸、半壊家屋235戸、破損船舶101隻以上という未曾有の災害を被りました。
 当時は戦時末期で生活物資に窮乏を極めていたが、心を一つにして乏しい衣食を分かち合って、飢えを凌ぎ復興に立ち上がった先人たちの苦労を偲び、そして私達はこの悲しい体験を子々孫々に語り伝えると共に、不測の事態に万全の備えを未来永劫忘れてはならない。
 尊霊の永遠に安らかならんことを念じ、再びこのような災害のないことを祈念してこの碑を建つ。
                 平成16年秋   紀勢町長 谷口友見 」
    
           
 神武天皇も上陸したと伝えられている眼下の錦漁港と入港した船 今から64年前に東南海地震が発生 

           
怒涛のごとく大津波が襲った錦湾、昭和19年12月午後1時36分地震発生から十数分後に潮位6m半の大津波が錦湾に押し寄せる。

           
 大津波は十数分間隔で押し寄せ、死者64名、流失家屋447戸、半倒壊家屋235戸、破損船舶101隻以上の未曾有に被害を被る。

           
大津波は熊野灘に面したこの湾から押し寄せ、左の錦湾へ潮位を上げながら怒涛のごとく襲っていった。

 東南海地震(とうなんかいじしん)
  1944年(昭和19年)12月7日に三重県志摩半島沖20kmを震源として発生した地震で、Mは7.9とされている。
 遠州灘沿岸(東海道)から紀伊半島(南海道)に渡る一帯で被害が集中した為に「東南海地震」と呼ばれている。
 地震による家屋の倒壊、地震後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に1223名の死者・行方不明者を出した。
 太平洋戦争の最中であり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報は統制され、記録事態が消滅・散逸していることから、被害の全体像がなかなかつかめない地震である。
 また、被害にあった地域は、航空産業の中心的な存在であったため(名古屋市にある三菱の工場など)軍用機の生産に多大な被害を受けることになる。
 数少ない記録から三重県津市、静岡県御前崎、長野県諏訪市で震度6、近畿から中部までの広範囲で震度5を観測していたことが確認されている。
 地震後の津波で三重県尾鷲市が壊滅していた。
 最大波高は尾鷲市賀田地区で記録された9m、第一波が襲った後、家へ荷物などを取りに戻り、第二波に巻き込まれ亡くなった例もあった。
 ニューヨークタイムズは「地球が6時間に渡って揺れ、世界中の観測所が、「破壊的」と表現したと、大々的に報じた。

 この地震から2年後の1946年(昭和21年)12月21日に昭和南海地震が発生した。

 昭和南海地震は和歌山県潮岬南西沖を震源として発生したM8.0の地震である。
 地震発生直後に津波が発生し、主に紀伊半島・四国・九州の太平洋側などに襲来した。
 地震や津波被害が激しかった地域は、高知県中村市(現四万十市)須崎市、高知市のほか、和歌山県串本町、海南市であった。
 死者や行方不明者は1443名(高知県679名、和歌山県269名、徳島県211名)、家屋全壊11591戸、半壊23487戸、流失1451戸、焼失2598戸に及んでいる。
 尚、この南海地震は過去1000年余りの地震活動の記録が残されている世界的にも例をみない地震である。

 21世紀中に発生が予想される大地震
 この付近ではフイリピン海プレートが南海トラフで日本列島の下に潜り込むため、度々M8級の海洋型大地震が100~150年周期で起きている。
 21世紀中の発生が予想される東海地震・東南海地震と並び、南海地震も大規模地震として、地質学者、地震学者から注目されている。

 通行中に偶然に立ち寄った神武台公園、想像すらしなかった二つの大きな歴史的な出来事を、この公園は伝えている。
 神武天皇も碑を読んでいると納得できる内容であるが、地震による大津波もまた、湾の地形や津波の特性から言って、高波が押し寄せて来そうな地形であることも、眼下に広がる湾内を眺めていると分かってくる。
 ただ、地震が発生した当時と比較して、防波堤や堤防などが築かれ、安全性はかなり高まっているようで、この写真だけで当時の状況を判断するのは難しい。

 お思いもよらなかった私たちの気ままな旅の収穫に、胸を躍らせながら神武台公園を後にして志摩半島方面に向かって行った。
 気まま旅の楽しさは、このような歴史や大きな出来事との、偶然の出会いにある。
 時間も3時をまわっている、今日はどうしても、どこかの温泉で入浴したいと考えていた。
 今日の車中泊先は、道の駅「伊勢志摩」が一番近そうであった。
 愛車は海岸線沿い走っている国道260号線を暫く走行していると、浜島温泉の看板が見え出した。
 浜島温泉は志摩半島では有名な温泉で、多くの観光客で賑わっているようであった。
 浜島温泉に到着して日帰り温泉を訪ねると、浜島温泉に日帰り温泉はなく、ここから暫く行った所にある合歓の里(ねむのさと)の温泉を紹介してくれた。
 イルミネーションの鮮やかなレジャー施設の中にある天然温泉「潮騒の湯」に浸かっていると、疲れも全て忘れさせ、心身ともリフレッシユして、心を癒してくれる。
 温泉で英気を養った後、車中泊先である道の駅「伊勢志摩」に向かって行った。

 

 

鮮やかな熊野速玉大社と参拝に訪れ修行する子供達

2009-02-16 19:43:53 | 気ままな旅
 1月3日(土)昨夜から三重県紀宝町にある道の駅「紀宝町ウミガメ公園」で車中泊をしていた。
 今朝は好天に恵まれ、熊野灘の水平線の彼方から浮かび上がってくる、日の出を撮影をしていた。(前回の投稿記事に写真掲載)
 撮影終了後に、道の駅から20分ほどの場所にある、和歌山県新宮市にある熊野速玉大社にやって来た。
 天候もよく、気温も10度以上あるように思われ、温かかった。
 速玉大社の河川敷の駐車場に車を止め、熊野速玉大社に向かって行った。
 時間的は9時を少し過ぎた時間帯の為にか、参拝に訪れている人は少なかった。

 ここ熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、熊野三山の一つとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本山である。    
 約2000年ほど前の熊野三所権現が最初に降臨された、元宮である神倉山(新宮市内)から現在の鎮座地に御遷りになった。
 これにより神倉神社の「旧宮」に対して「新宮」と号した古書に書かれている。
 現在の「新宮」と言う地名も、この事から呼ばれている。
 御祭神は、熊野速玉大神(いざなみのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている。
 特に孝謙天皇(奈良時代)の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でもいち早く「熊野権現」の称号を賜った。
 「権現」とは仮に現れるの意味で、神様は御殿の中の最も清浄な奥処に鎮まり、私たちの目には、神様のお姿を直接見ることは出来ません。
 そこで、神様のお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現れるという考え方が浸透してきました。
 奈良朝末期に至って、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、また、お妃の熊野夫須美大神は、現世の利益を授かる千手観音菩薩として、家津美御子大神は、来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼(=仏門に入った女性)によって、熊野権現信仰は飛躍的な拡がりをを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるに至っている。
 さらに、中世熊野信仰の隆盛にともない、皇室や公卿、武士を中心として広がっていた熊野信仰も、次第に一般庶民信仰として発展し、過去世の救済、現世の利益、来世加護を説く、熊野三山へ詣でこそ、減罪、甦りへの道として脚光を浴び、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど熊野街道は賑わっていた。

          
        朱塗りの欄干が架かった下馬橋と朱塗りの鳥居が続く表参道入口

 河川敷の駐車場からは東門が近いが、JR新宮駅からは徒歩で15分ほどで表参道入り口にたどり着く。
 表参道入り口では、鮮やかな朱塗りの鳥居が見え、赤い欄干の下馬橋と熊野権現の石柱が両側に立っている。
 下馬橋を渡り、朱塗りの鳥居をくぐって石の参道を進むと、右側には朱塗りの八咫鳥(やたがらす)神社など摂末社がある。
 さらに進むと、右手に朱塗りの神宝館があり、左手には樹齢1000年のなぎの老樹がある。
 神宝館には速玉大社所蔵の国宝・重文を含む、古神宝類を多数展示しているようである。
 なぎの老樹は、なぎとしては日本最大の大樹で国の天然記念物に指定されている。

           
              表参道の鳥居       天然記念物「なぎの老樹」

 天然記念物 ご神木「なぎの老樹」は、当熊野権現のご神木で、平安末期に平重盛公お手植えとして知られ、幹廻り6m、高さ20m。わが国最大の巨木である。
 なぎは凧に通じ昔から家内安全和楽の信仰があり、熊野詣でのしるしに、なぎの小枝を手折った事は古書にも見えて居ります。
 なぎの実で奉製した「なぎ人形」は家内安全のお守りとして有名です。
 
  千早振る熊野の宮のなぎの葉を
            変わらぬ千代のためしに折る    定家

          
         招福の御神徳が高いと言われる八咫鳥神社(やたがらすじんじゃ)

 八咫鳥神社  御祭神 建角見命(たけつぬみのみこと)
 当速玉大社末社として、古くから丹鶴山麓に奉祀されていた。
 神武帝の道案内をせられたと古典に記され、熊野神の使者とも言われて交通安全・招福の御神徳が高いと伝えられている。

           
              武蔵坊弁慶の像       2009年干支 「丑」の絵馬

 弁慶の生涯について、歴史的には謎に包まれているが、熊野別当の関係者として、弁慶の出身は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族とされ、源平の戦いに出陣したとなっている。 
 又、その最期においては、源義経の叔父である新宮十郎行家とともに源頼朝から追討を受け、この地で討ち死にしたとも伝えられている。 
 尚、弁慶に関係する史跡として、弁慶産家楠跡石碑と旧産屋敷の地(奥野々)に残されている鉄甲塚がある。

 2009年の干支 「丑」の絵馬 は熊野権現の象徴として信仰の厚い霊木「なぎ」の御幣をくわえた白牛と、熊野ゆかりの霊石「牛王(ごう)」をイメージした「宝珠」が力強く描かれ、上部には「神威霊動」の文字が書かれている。
 
 「神威霊動」は熊野権現の映え輝く神徳によって、どんな困難も乗り越えていけるような強い「運気」を添えることができる願いがこめられている。
 速玉大社の宮司は「真実を見極めながら自分の行くべき道を誤らず、しっかりと進んでほしい」と話している。 

          
          両側に門松、賀正の看板が立てられ新年の祝賀ムード漂う神門

なぎの老樹から参道を進むと朱塗りの大きな神門が見えてくる、神門には大きなしめ縄が掛けられ、手前両側には門松が置かれている、その横には、賀正の看板が立てられ祝賀ムードが漂っている。
 近くの水場で、体を清め、しめ縄の掛かった門をくぐると、そこは神域で不浄を祓い、魔をよける境内へとつながっている。
  
          
              神域と俗界の境界を示す神門に掛かる大しめ縄

           
          神門から見る神域の境内を見る  儀式を終えた神官と巫女

          
           大社の一番奥が三集殿、その手前右が拝殿である速玉宮
 
 神門をくぐり中に入ると、朱塗りの社殿が横に5棟並んでいる。
一番奥が三集殿、その手前の鮮やかな色の社殿が拝殿である速玉宮である。
その手前から第三殿から第十二殿までの社殿が、横一列にならんでいる。

          
         一番奥が拝殿で速玉宮を祀り、上三殿、中四社、下四社へと続く

          
        多くの人が訪れる拝殿で奥に第二殿の社殿があり速玉宮を祀っている
 
          
      拝殿のある速玉宮と手前には鈴門があり、上三殿の屋根は大社造り様式の千木

          
                   大社造り様式の特徴である千木

          
              第一殿前から拝殿を見る 参拝を終えた人たち

          
                  三集殿の前で儀式を行う神官

          
               拝殿 速玉宮で新年の詣でをする人たち

          
               拝殿内で厳かに行われている朝の儀式

          
              厳かな雰囲気の中で執り行われている儀式

          
        今年の稽古初めか!参拝に訪れ裸足で元気よく拝殿に向かう子供達

          
             拝殿前で横一列に整列して参拝を待つ子供達

          
                     熊野御幸の碑 

 熊野御幸は宇多上皇(平安時代=907年)から玄輝門院(鎌倉時代=1303年)までの396年間に、上皇、女院、親王を合わせて御二十三方。140回に及ぶ、皇室のご参詣があり、これを熊野御幸と言って熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。
 熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身のご精進を数日間行われた後にご出発になる。
 白川天皇の天永元年(1110年 平安時代)の御幸には総人数814人、一日の食料16石2斗8升、伝馬185匹、と記している。
 御幸の道順は、京都→住吉→和泉→紀伊半島海岸沿いに南下して田辺→中辺路→本宮→熊野川を下って当大社へ参拝→那智山→雲取→本宮→往路コースを逆行して帰京されるまで、二十数日に及ぶ難行苦行の旅であった。
 熊野御幸によって熊野信仰は公卿、武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠じられなど各方面に大きな影響を残している。 
 
 古歌にみる熊野詣での心
    
 熊野へ参るには 紀伊路と伊勢路と どれ近し どれ遠し
      広大慈悲の道なれば 紀伊路も 伊勢路も 遠からず     梁塵秘抄

 なぎの葉に みがける露のはや玉を
          結ぶの宮や ひかりそふらむ         夫木集 検校法親王   

          
                薙刀を持って大社に向かう子供達

          
        子供達(空手着)は大社で参拝を終えた後、この熊野川でみそぎをしていた  

 上天気にみまわれ、熊野速玉大社を訪れて参拝を終えることができた。
 終えた後、感じることは、何といっても、色鮮やかな朱色の社殿の美しさである。
 朱色の社殿と裏山に広がるこんもりとした樹木や森の美しさに、社殿との調和が実にうまく取れているように感じる。
 ここ熊野ほど、自然と一体となった、古の文化や歴史の深さを感じる所はないように思える。
 平安や鎌倉時代の人たちにとって、参拝の為に乗り越えなければならない厳し過ぎる自然環境、熊野へ参拝することは、厳しい山あり、谷ありの難行苦行の連続で、一人歩き、二人歩きで熊野三山を目指している。
 これは命がけの修行で、修行することが身の清浄とご利益を信じていたように思える。
 熊野へ向かう老いも若きも、心弾む熊野権現への厚い信仰心が、命がけの修行を可能にして、この修行を乗り越えて行った者に与えられた特権が、熊野三山への参拝であった様に思えてならない。
 
 また、もう一つ感じることは子供達の参拝する姿である。
 今日は3日で稽古始めの日だろうか!
 子供達がそれぞれのスポーツ着で、しかも裸足で大社を訪れ参拝を行っている。
 こうした子供達の元気な姿を見ていると、自然と顔が微笑み、胸が熱くなってくる。
 全てのスポーツは礼で始まり、礼で終わると言われている。
 一年の稽古の始まりに当たって、神社に詣で、その後に身を切る様な冷たい熊野川につかりながら、大きな声を上げ、みそぎを行っている。
 こうした子供の頃からの取り組みは、見ている大人達にも深い感銘を与えると同時に、修行に励む子供達に、強い気持ちを芽生えさせ、それを育んで、将来の日本をになっていく人間へ、育成していくように感じる。
 何かと心を痛めるような事件が発生する昨今で、このような光景を見かけ晴れ晴れしい気持ちになってくる。
 また、このように子供達を指導される方々の、「未来の人材を育てる」強い気持ちを感じながら私達は、太平洋と並行して走る熊野街道を東に出発して行った。
 
 

ウミガメが産卵する熊野灘の日の出

2009-02-07 17:27:55 | 気ままな旅
 1月3日(土) 昨日は南大阪の自宅を出発して、雪の国道168号線を走行し、十津川を通り、熊野本宮大社から新宮までやってくる。
 新宮からは国道42号線を三重県側に15km位行った所にある道の駅「紀宝町ウミガメ公園」に到着、ここで、妻と二人で車中泊をしていた。
 やはり熊野灘に面するこの場所は、奈良県の山沿いの場所と比較して、ずいぶんと温かく、亜熱帯の気候のような感じさえする。
 今朝は6時半頃に起床する。
 道の駅の、目の前にある熊野灘で、日の出写真を撮りたいと思っていた。
 幸いにして上空は晴れている。
 ここの熊野灘に面した海岸は、5月~8月にかけてウミガメが産卵する海岸としても有名である。
 今朝の気温も私の住んでいる南大阪と比較しても温かく、あまり寒さを感じない。
 私達は、道の駅の前にある熊の街道(R42)を渡ると、すぐに松林があり、その前には太平洋に面した海岸が広がっている。
 6時50分頃には撮影場所に到着する。
 広々とした太平洋の水平の彼方がうっすらと赤くなっているが、残念ながら、日の出の部分には厚い雲が覆っている。
 海岸には若いカップルが、寄り添うようにして日の出を待っている。
 私達も夕日には何度か遭遇してカメラに納めるているが、日の出は10年ほど前の高知桂浜以来である。 
 7時10分頃から太陽が顔を出し始めたが、雲が邪魔をしてご覧のような写真となった。

           
6時50分頃 日の出前の状態 若いカップルも寄り添うように日の出を待っている。

          
     7時10分頃から顔を出し始めた日の出だがご覧のような雲が覆っている

          
                 厚い雲の間から顔を出す太陽

          
                  雲の間が少し広がり顔を出した太陽 

           
             日の出から太陽が昇っている様子を見つめるカップル

           
日の出の撮影を終え、車中泊をしていた道の駅「紀宝町ウミガメ公園」に帰ってくる他府県の車も多く車中泊をしている。

           
              暫く経過した後で撮影した熊野灘の景観

 日の出の撮影を終え、道の駅「紀宝町ウミガメ公園」に帰ってくる。
 昨夜から北海道や、静岡、広島などのナンバーの車が、20~30台ほど車中泊をしている。
 昨夜は全く寒さを感じずにぐっすり眠ることができた。そのせいか、私も妻も疲れもなく快調そのものだった。
 車外で朝食の準備をしていると、猫を抱いた広島県呉市の年配の男性が挨拶の後、話しかけてきた、 昨年の暮に江田島や大和ミュージアムに行った事を話すと、微笑ましい表情を見せ、「自分も戦艦大和を建造した造船所で働いていた」と誇らしげに語っていたのが印象的であった。
 私達は朝食を済ました後、熊野川をはさんで対岸にある、和歌山県新宮市の熊野速玉大社に向かって、昨日走行してきた国道42号線を和歌山方面へ走行して行った。
 20分ほどで熊野川河川敷に出来た熊野速玉大社の臨時駐車場に到着する。