気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

感動するシベリアポーランド孤児の救済・・・・・・人道の港 敦賀ムゼウム

2011-05-18 12:06:23 | 気ままな旅

 2011年5月4日(水) 緑の日 福井県敦賀を妻と二人でマイカーで訪れ、すぐに 日本三大木造鳥居(重要文化財)のある気比神宮の参拝と見学をすました。  見学を終えた後、近くにある敦賀港に隣接する金崎緑地を訪れる。 緑地の中には芝生広場があり、子供連れの若い家族がボール遊びなどを楽しんでいる微笑ましい光景が見えている。  緑地の入り口には、昔の灯台をイメージしたような時計台があり、港には巡視船が停泊し、ここが古くから栄えている港町の情緒を感じさしてくれる。 

 

                   敦賀港に面した所にある金崎緑地、中央の昔の灯台のような建物が時計台である。

 緑地の東側には、赤レンガの倉庫群が見え、この街の近代国家に一躍を担っていたイメージが伝わってくる。  赤レンガから道路を挟んで 急こう配の屋根をもつ洋風つくりの建物が見えている。 この建物が 「人道の港 敦賀ムゼウム」 で6000人の命のピザを発給した杉原千畝氏に因んだ資料などの展示施設がある。

 私は2年程前に、杉原千畝氏の生まれ故郷である岐阜県八百津町を訪れ、そこに建つ 「人道の丘」 資料館を見学、大きな感動が湧いてきたことを鮮明に覚えている。 その時から、福井県敦賀にも同じような資料館があることを記憶していて、機会があれば是非、行ってみたいと思っていた。  

赤レンガ倉庫、1905年に外国人の設計によって造られた倉庫は、現在港町敦賀の象徴的な建築物として存在感を表している。 

「人道の港 敦賀ムゼウム」 ポーランド孤児・ユダヤ人難民の敦賀上陸を紹介、命のピザなどの写真や資料などを展示している。

 私たちは、家族連れの人達が楽しむ緑地を横切るようにして「人道の港 敦賀ムゼウム」 に向かって行く。 資料館は2階にあり、階段の壁には、ユダヤ難民たちが通行したヨーロッパからのシベリア鉄道と日本への航路がわかりやすく表示されている。  2階に上がると ポーランド孤児と杉原千畝氏の功績を称えた資料室に分かれ、その横には映像室があり、数人の人達が熱心に映像を見ている。  最初、私はポーランド孤児も杉原千畝氏の功績であると思っていたが、これは全く違う話であった。 私はポーランド孤児の話は恥ずかしながら知らなかった。 ポーランドの人達が親日的であることは知っていても理由は知らなかった。

ポーランド孤児たちの展示室

孤児の救済に努めた救済会のアンナ・ビルケウイッチ女史

 1919年(大正8年) このころは ロシア国内において革命、反革命の勢力が争う内戦状態が続き激しさをましていた。 この時シベリアには、ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や、愛国者の家族、内戦の混乱を逃れてきた人達が15万人~20万人いたといわれている。  彼らは過酷な重労働、飢餓や疾病の中で極めて悲惨な生活を送っていた。 特に親と死別した子供たちは、お腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、 まさにこの世の地獄な様な極限状態であった。

 こんな孤児たちの状況の中で、大正8年10月 アンナ・ビルケウイッチ女史を中心に ウラジオストクで 「波瀾児童救済会」 が組織される。 アンナ女史達は、孤児たちの受け入れを頼みとしていたヨーロッパ諸国や米国などの赤十字も、軍隊の撤退とともに本国へ引き揚げ、 受け入れや援助が断ち切れてしまった。 

 万策尽きた救済会は、最後の望みを託して日本政府に孤児たちの窮状を訴え、受け入れや援助を要請する。 要請を受けた日本政府は、孤児たちの窮状に、深い理解と同情を示して、16日間という信じられないようなスピードで受け入れを決定し、日本赤十字に指示する。 日赤の行動も早く、受け入れ体制を整えると、シベリア派遣の日本軍の協力を取付け、本格的な救助活動に入っていく。

            

                               孤児たちを乗せた船が出航したウラジオストク港

             

            孤児たちを輸送した筑前丸

                  

                  孤児たちを乗せた筑前丸が入港した敦賀港

 1920年 (大正9年)7月 ロシアのウラジオストクからポーランド孤児たちを乗せた日本陸軍の輸送船 「筑前丸」が敦賀港に入港。  下船した孤児たちは、粗末な服を着て、哀れなほど痩せ細って青白い顔をしていた。 

子供たちは敦賀町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食を摂った後、列車で東京へ向かって行く。 

敦賀に入国して、孤児たちの姿を見た多くの日本人は、同情を寄せ、子供たちに愛情のこもった暖かい救済をはじめていく。

               

           敦賀でのポーランド孤児たち

 9歳の時に上陸したポーランド・ワルシャワ在住のハリーナ・ノビッカさん(故人)は、孤児だったシベリアから来日して 「到着した敦賀の美しい花園のある民家、バナナやみかんなど見たことのない果物を食べ、日本の子供たちと一緒に遊んだ」 と語っている。

敦賀から東京、大阪へ 大正9年~10年に収容された第1次の孤児たち375名は、東京都渋谷にある「福田会育児所」に収容される。 福田会は日本赤十字本社病院に隣接し、設備も整い、構内には運動場や庭園があり、子供たちを収容するのに適した環境であった。 また、大正11年に、さらに助け出された第2次の388名には、大阪府天王寺村(現大阪市立大学附属病院)の 「大阪市公民病院看護寄宿舎」が用意される。 この寄宿舎は、新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所であった。

  その時、孤児の上陸に当たり敦賀の人達は、鉄道省に優遇処置を申請、お菓子、玩具、絵葉書などを差し入れ、宿泊、休憩所などの施設を提供。 地元の有志をはじめ、婦人会でも菓子や果物などを差し入れて子供たちを慰めている。 敦賀での滞在期間は、数時間、長くても1日というものであったが、当時の敦賀の人達は、出来る限りの温かい手を孤児たちに差しのべている。               

    

     日本に到着してきたポーランド孤児たち

 収容された孤児たちの多くは、栄養不良で痩せ細り、青白い顔色をして下腹がふくれ、歩いてもフラフラする状態であった。 また、子供たちの多くは腸チフス、感冒、百日咳などの病気であったため、すぐに治療が施される。 さらに長い放浪のため、着ている物はボロボロで、靴を履いている子供はほとんどいなかった。 そこで 日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や果物などを支給している。

 収容先では、子供たちを慰めるため慰安会が開かれ、動物園や博物館へも行って楽しく過ごしている。 また、貞明皇后から御下賜金が届けられ、全国から多数の寄付金が寄せられた。子供たちはよく規則を守り、朝食と就寝前には、お祈りを欠かさなかった。 また、病院では、すぐに充分な治療が受けられるように病室も準備していた。 安全を確保するため警察官も配備するなど子供たちの周りには、善意があふれていた。   

  孤児たちを優しく介護する日赤病院の看護婦

「看護婦さんは、病気の私の頭を優しく撫で、キスをしてくれました。 それまで人に優しくされたことがありませんでした」

  子供たちの日本での生活は規則正しく、 朝は6時(冬季は7時)に起床、洗面をすませ、お祈りをして、7時から朝食を摂る。 その後は読書や勉強をしたり、寄贈されたおもちゃで遊んだりして過ごしていた。 午後からは自由に過ごし、6時に夕食を、午後8時にはお祈りして就寝する毎日でした。  時には市内を見学したり、色々な慰安会に出席したりして楽しく過ごしている。 食事は子供たちの好みと栄養を考え、一緒に来日した付添人が調理をしていた。

    

                                      食事をする孤児たち

 日本での生活にも慣れ、落ち着きを取り戻しつつあった日々に、悲しい出来事が発生する。 一生懸命に孤児たちの世話をしていた看護婦の松澤フミさんが、孤児から発生した腸チフスに感染し、23歳の若さで殉職する。 彼女の死は多くの子供たち、そして関係者に衝撃を与える。 事情を知らない幼子は、優しかった松澤看護婦の名前を呼び続け、まわりの人達の涙を誘った。 彼女には大正10年にポーランド国から赤十字賞、また昭和4年には名誉賞が贈られている。  

神戸港から帰国のため乗船する孤児たち

 とうとう孤児たちとの別れの日がやってきた。  出港の当日、船のデッキに孤児たちが並び、「君が代」 「ポーランド国歌」を涙ながら歌いました。

 横浜港でも、神戸港からでも出港する際には、孤児たちの楽しみが少しでも増えるようにバナナやお菓子が配られた。しかし孤児たちはみな、親身になって世話をしてくれた日本の ”お母さん” たちとの別れを悲しみ、乗船するのを嫌がって泣きだす子もいました。

 元孤児のハリーナ・ノヴェッカは、日本を去る時のことを、 「 誰もがこの日本にいることを望んでいました。 太陽が綺麗で、美しい夏があり、海があり、花が咲いている日本に・・・・・」 と回想している。

 両国の旗と赤十字旗を千切れんばかりに打ち振り、「アリガトウ」「サヨナラ」と叫び続け、その声はいつまでも鳴りやむことはなかった。それから孤児たちは、日本で覚えた歌を元気よく歌った。 幼いながら精いっぱい感謝の気持ちを表そうとする姿は、見送る人々の涙を誘った。 そして、見送る人も見送られる子供たちの顔にも、別れを惜しむ涙が溢れ、とどまることがなかった。

 第1次の孤児たちは、横浜から6回にわたり、諏訪丸で150名、香取丸で114名、伏見丸で106名の合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへ送られる。 また、大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2階にわたり、香取丸で191名、熱田丸で199名の合計390名がシンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへ送られる。

無事に祖国ポーランドに帰った孤児たちの多くは、バルト海の港湾都市グダンスク郊外の孤児院に収容されて、それぞれの人生を歩みはじめた。 しかし、新生ポーランドの前途は多難であったが、孤児たちは終生、日本への感謝の気持ちを持ち続け、様々な形でそれを表している。

 私は、今回、ポーランド孤児たちのことに触れ、大きな感動が湧いてくる。 日本が数々の国際貢献の中でも、こんなに大きな感動が伝わってくる話を、久しぶりに味わうことができた。 皇后陛下から一般の庶民に至るまで、全ての国民が孤児たちを応援している当時の姿が目に浮かび、日本って、なんて誇らしい民族だろうと思え、うれしくなってくる。

 紀州沖で沈没したトルコ艦船や、命のピザなど、日本人が果たしてきたことにも、大きな感動を味あわせて頂いた。 日本人の持つ特性を改めて感じると共に、東日本大震災の発生した今日、外国からの多くの援助や声援が数多く届いてることも、こうした世界への日本の貢献が認められている。 その成果であるように感じる。 支援して頂いた国や機関・有志の方々には、ほんとにありがたく感謝の気持ちが必然的に湧き、日本人に生まれてほんとに良かったと思えてくる。 

 

 

 


けいさんの愛称で親しまれる 「気比(けひ)神宮」・・・・北陸道の総鎮守

2011-05-15 13:59:06 | 気ままな旅

 2011年5月4日(緑の日) 晴れ 今日は妻と二人、急に思い立って気ままな旅に出ることにした。 道路情報などを参考にしながら福井県敦賀市などのある若狭地方に行くことにした。 午前10時頃に南大阪にある自宅を出発する。

 最近、ネットビジネスを始めたり、妻もパートに出かけたりして、今までのような気ままな旅が出来ない。 ゴールデンウイークは、外出する人が多いのか、ネットでの注文も少なく、妻のパートも休みの為、2泊3日の予定での気ままな車中泊の旅である。

 自宅を出発して自宅近くのICから阪和自動車道に入り、近畿道門真JCTから昨年開通した、第二京阪道路を走行して、京滋バイパスへ入る。  京滋バイパスから名神高速道路瀬田JCTに入る予定で走行していたところ、京滋バイパスが、入り口から大渋滞、抜けるのに1時間30分程の時間を要した。

 米原JCTからの北陸道は、順調に流れ、敦賀ICに降り立ったのは午後3時近くであった。  敦賀ICからは5分ほどの気比(けひ)神宮に行くことに決め、神宮駐車場に到着する。 

  気比神宮の隣りにある駐車場から、 妻と二人で歩いて行くと、目の前に大きな鳥居が私たちを迎えてくれる。               

   高さ11mの大鳥居(重要文化財)は、春日大社(奈良県)・厳島神社(広島県)と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つである。                 

気比神宮入り口に掲げられている大鳥居の案内板

  気比神宮は、北陸道総鎮守で、地元の敦賀では、市民から 「けいさん」 の愛称で親しまれるている神宮である。 大宝2年(702年=飛鳥時代)の建立と伝えられている。

 御祭神は、伊奢沙別命(いささわけのみこと)、 仲哀(ちゅうあい)天皇、神功(しんこう)皇后、 日本武尊(やまとたけるのみこと)、 應神(おおしん)天皇 、玉妃命(たまひめのみこと)、 武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)である。

 ※ 仲哀天皇=14代天皇(在位178年~200年)で、日本武尊を父に、妻の神功皇后との間に出来た皇子が 應神天皇(在位=270年~310年)である。 應神天皇の皇子が仁徳天皇(在位=313年~399年)である。

 神話によると、敦賀の地は北陸道や日本海への海上交通の要地であることから、、ケヒ神は古くから北陸道総鎮守として仰がれた。また、仲哀天皇即位の時期は朝鮮と緊張状態にあり、天皇は192年に即位してすぐに当社を参拝している。三韓征伐(高句麗、新羅、百済)の前、神功皇后が武内宿禰・玉妃命とともに当社に祈願し、このとき気比大神が玉妃命に神がかりして皇后の勝利を予言したとされている。                 

 鳥居をくぐり参道を進むと、左側に、猿田彦神社の鳥居が見え、石でできた参道が10mほど続き、左側に猿ロ彦神社の祠が見えてくる。

 

 気比神社の境内にある猿田彦神社。猿田彦大神を祀っており、気比大神を案内するミサキ神である。                  

 

猿田彦神社から大鳥居のある表参道を、拝殿に向かって行くと左側に長命水がある。 往古よりこんこんと湧き出て無病息災・延命長寿に欠かせない生命(いのち)の水として親しまれている。 西暦702(大宝2)年のこと。 氣比神宮の造営中に突然、一つの水場が涌きだした。 神宮の大岩から流れ落ちる 『長命水』 は、そのようにして始まったと伝えられている。 由来は定かではないが、御祭神が無病息災や延命長寿の神であることから、その名前がつけられたといわれている。                                    

表参道をさらに進んでいくと左側に手水舎、右側では社務所の新築工事が行われている。 さらに進むと左側に朱色の中鳥居かあり、その奥には気比神社本宮拝殿が優雅な姿を見せている。                                          

  朱色で塗られた中鳥居から、朱色の柱と白い壁、銅板でできた屋根がうまく調和して、美しい姿を見せている気比神宮本宮社殿

境内には砂利が敷かれているが伽藍と伽藍を結ぶ参道には石が敷かれ、調和のとれた朱色の美しい社殿を見せている本宮社殿

気比神宮は昭和20年の米軍の大空襲により、大鳥居を残してほとんどが焼失、昭和25年には本宮が再建されている。

四社の宮も昭和58年に復興された。

きらびやかな拝殿の天井と屋根 

                  きらびやかに細かく細工された本宮拝殿の天井部分

気比神社の摂社である九社の宮と、正面の奥にある豊受大神を祀る神明社

境内にある奥の細道の道中に立ち寄った松尾芭蕉の像

 俳人芭蕉は、1689年(元禄2年=江戸時代)8月に旅の途中に敦賀の地を訪れている。 敦賀では3日間の滞在であったが、芭蕉の旅の目的が月を見ることも愉しみの一つで、とりわけ敦賀では仲秋の名月を楽しみにしていたといわれている。

 芭蕉が敦賀を訪れた日に詠んだ句

   8月14日   気比神宮に夜参して

                               「月清し遊行の もてる砂の上」

  8月15日 、亭主の詞にたがわず、雨降

                               「名月や北国日和 定なき」    

  8月16日  敦賀湾 色の浜

                               「寂しさや須磨に かちたる濱の秋」

                               「浪の間や小唄に まじる萩の塵」

   芭蕉は、上記の他に敦賀では、他に4句ほど詠んだと伝えられている。

  芭蕉の像の前を通り、まっすぐ進むと、右側には池があり、正面には神水苑の建物が見えている。

                  

神水苑の上に建つ会館、豊富に湧き出る水を利用して、江戸時代には名池が誕生。 昭和では大規模な神水苑築造がなされた。

神水苑に注ぐ滝と池、敦賀の地は古くから良質の水が豊富に湧出ている。 中でも気比神宮の神域はその水脈の中心と伝えられている。

亀の池、池と池の間には石橋が架けられ、南参道の入り口になっている。

私たちは気比神宮の見学と参拝を終えた後、元来た正門にある大鳥居をくぐって外に出ると、

道路の向こう側に立っている像が見え、何だろうかと思い、立ち寄ってみる。

お砂持ちと言われれ、参道などを整備するために砂を運ぶ人達の像

 

この像は、「お砂持ち」 といわれる像で、下記のような云われがある。

この銅像は、時宗西方寺(同市松島町2丁目)の開祖・真教上人が約7百年前、当時の気比社と同寺の間の

参道が沼地化し往来が難渋したのを、信者とともに浜から砂を運んで道を整備した故事を再現したものです。

芭蕉が敦賀に泊まり、気気比神宮に参詣したとき宿の主人からこの話を聞いて詠んだ句が、

    月清し 遊行のもてる 砂の上      

                                               の句である。

上空から敦賀湾と市街を望む航空写真

私たちは、気比神宮と像の見学を終えた後、駐車場に戻り、近くにある6000人のユダヤ人の命を救った

外交官杉原千畝の記念館のある港の方に向かって行った。

敦賀の気比神宮は、近くを何度か車で通り過ぎたことは覚えているが、神宮の中に入るのは初めてであった。

木の大鳥居や神宮の歴史の深さには、驚かされる面も多い神宮であるが、

改めて、朝鮮半島の百済や新羅などや大陸とのつながりの深さを感じてくる。

この時代は、古事記、日本書紀や神話などに登場するがミステリーの部分を多く感じる時代でもあった。

敦賀もこの時代から、皇族とのつながりも深く、都との距離も比較的に近いことから、朝鮮半島との日本海交通の要所であったようである。

この時代は、山陰の出雲もそうであったが、日本海地域が太平洋地域よりも時代の先端をになっていたように感じる旅であった。

 


アメリカからやってきた孫たちの思い出

2011-05-03 18:27:55 | 思い出

  平成22年(2010年)6月9日(水) 晴  今日はアメリカ合衆国フロリダ州オーランドに住む孫娘たちが二人でやってくる日である。

 空は晴れ渡り、初夏の眩しい太陽が照る続ける中、妻のイザベルと共に愛車を運転しながら関西空港へ向かって行く。

 孫娘たちの到着予定は15時30分である。  愛車が関西空港への大橋にさしかかろうとしていたところ、携帯電話の着信音がけたたましく鳴ってくる。 妻が出ると孫娘のかん高い声が聞こえ、「もう空港へ到着、送迎ロビーにいる。早く迎えに来て」 との連絡であった。

 時刻は14時45分、どうやら 大分早く到着したらしい。  愛車の通過中の場所から15分ほどで孫娘たちの場所まで行けるはずである。

 空港ロビーに着くと、3年ぶりに会う孫娘たちが、長旅の疲れの表情も見せずに、付き添いの係員とともに談笑している姿が目に入ってくる。 

 孫娘たちも すぐに私たちに気づいて、満面の笑顔を浮かべながらやってきて、抱擁キスを交わしながらの会話が始まった。

 3年ぶりに会った孫娘たちも、見違えるように成長し、大きくなっている。

 姉のマリアナは14歳で中学2年生、妹のサヤナは 11歳で小学校6年生になっている。 

 孫娘たちが最初に言ってきた言葉が 「おなかがすいた、日本のお寿司が食べたい」 であった。 

 早速、空港島近くにある 回転ずし店に案内する。

 姉のマリアナの食欲は旺盛で驚かされるが、妹のサヤナは、ワサビ抜きのキュウリ巻きが大好きで、何回か同じものばかりをオーダーしていた。

 孫娘いわく 「日本の食べるお寿司は、アメリカと違って全てがおいしい」 とのことであった。 

     

   関西空港から回転すし店へ直行、食欲が旺盛なのにはびっくりする。 

  

 マリアナとサヤナは近くの小学校と中学校へ体験入学させることになった。

 二人とも日本語がほとんど話せないために、サヤナは小学校5年生へ、 マリアナは中学校1年生に入学する。                          

近くの小学校の正門前に立つサヤナ

中学校に制服で登校するマリアナ、セーラー服姿は良く似合っている。

学校が休みの日の昼食は、弁当を持参して近くの景観の良い場所にドライブ。 孫娘達も大好きであった(和泉葛城山山頂付近)

  

マリアナがカメラを持ちサヤナがポーズ、サヤナのポーズのとり方はプロのモデルのようで驚かされる。

上記写真のサヤナ、素人離れの得意なポーズ(マリアナが撮影)

逆立ちしたりしてお転婆ぶりを発揮するサヤナ

                              渓谷の滝をバックに得意なポーズをとるサヤナ

                                    

渓谷の滝の前で自然とポーズをつくりシャッターチャンスをつくってくれるマリアナ

南大坂で友達と一緒にジャガイモ掘りに行く。 楽しそうであった。

友達と一緒にジャガイモ掘り、子供でも何人かいると、見る見るうちに収穫された芋が籠一杯になる。

貝塚の関西空港がよく見える海岸沿いにある松林で昼食、サヤナが焼きそばを口に、マリアナが得意なポーズをつくる。

大阪市内の天六商店街にて、ふざけた表情を見せるサヤナと微笑むマリアナ

大阪くらしの今昔館(おおさかくらしのこんじゃくかん)
大阪くらしの今昔館は江戸時代から現代までの大阪の生活を展示している博物館だ。 江戸時代のフロアは、フロア自体が江戸時代の大阪の町並みを再現しており、実際にその町並みを歩くことができる。 近代のフロアでは、明治から昭和までの大阪の様子を模型などで学ぶことができる。 

大阪市内にある 「大阪くらしの今昔館」 にて近所の友達と一緒に

大阪くらしの今昔館内で無料の貸衣装があって、ご覧のような浴衣を着せてもらった。

浴衣を着せてもらってご満悦のマリアナ、自然と日本調のポーズをつくってくれる。

大阪くらしの今昔館では江戸時代の下町の夜を再現、表通りでの記念のショット

大阪くらしの今昔館、江戸時代のトイレなどもあり、ふざけてトイレをまたぎポーズを見せるマリアナ

 

 いつもは夫婦二人で南大阪の高台にある団地で、静かに暮らしているところに、アメリカから二人の孫娘がやってきて、私たちの生活も一変。  4人の賑やかな生活が始まった。

 孫娘たちは日本語は全くと言っていいほど話せない。 ブラジル生まれの妻はポルトガル語と日本語。 孫娘たちは英語とポルトガル語の会話である。

 孫娘同士で話をする時は英語で話し、妻と話をする時はポルトガル語で話しているが、私と話をする時は片言の英語しか私が話せないために、妻がポルトガル語で通訳して、それを日本語に翻訳して私に伝え、会話をする様な状況である。

 それでも孫娘と私は、長い会話は出来ないが、意思の疎通は十分に伝わり、短い行動や買い物などには不十はなかった。

 私は3年ぶりにやってきた孫娘たちには、日本の生活を十分に楽しめるように色々と考えていた。

 孫娘たちを学校に体験留学させたのも、同世代の友達をつくってほしいと考え、学校に依頼して入学さしてもらった。

入学しても日本語はわからないために、小学校では担任の先生が、英語で孫娘と会話して授業を進め、その内容を日本語で生徒たちに伝える。  日本の生徒たちには、英語の授業も兼ね、孫娘の英語力がいやがうでも伝わり、英語やアメリカに対して、日本の生徒たちに興味を持たせているようであった。

 ただ、中学校では、小学校と違って担任の先生が、授業科目ごとに変わるために、英語力の低い先生の授業の場合には、孫娘も全くと言っていいほど日本語が分からずに大変なようであった。

 学校が休みの時は、私は精力的に孫娘たちを、近郊にある、公園や名所などに連れて行き、帰りは、回転すし店や中華料理店などに連れて行った。

 カメラもニコン一眼レフが2台あるために、孫娘たちは、お互いに手慣れたポーズをとりながら、撮影するのが大好きであった。

 私が驚いたのは、ポーズのとり方が、まるでプロのモデルのように表情豊かなポーズをとり、自分たちの独特の目線で撮影することであった。

日本の子供たちは、いくらカメラに慣れているとはいえ、孫娘のような自由奔放なポーズや撮影はできないと思った。

やはり、アメリカは自由の国で、子供であっても、このような個人の表現力にも表れているようであった。 

 孫娘たちも、少し日本の生活に慣れたころ、今度はインドネシアバリ島に住む娘が、末の男の子を連れて、二人でやってくることになった。

 6月26日(土)の朝、8時30分 関西空港 到着予定である。

 

  「大阪くらしの今昔館」

  【場    所】  交   通    大阪市営地下鉄 「天神橋筋六丁目駅」 3番出口直結

             住   所    大阪府大阪市北区天神橋6-4-20

             料   金    大 人    600円

             営業時間   10:00  ~  17:00 

             休 業 日  火曜(休日の場合は翌日) 

             電   話  06-6242-1170