1920年(大正9年)7月に始まった、シベリアポーランド孤児救済活動も、第一次から第5回にわたり375名の孤児たちがロシアから東京に送られ救済された。 さらに救済の必要な孤児たちがシベリア沿海州などに残されていることがわかり、1922年(大正11年)8月に、388名の孤児と付添39名の合計427名が、3回に分けて敦賀港に入港、大阪に送られ救済されている。
シベリアで飢餓や傷病など過酷の生活をおくっていたポーランド孤児を受け入れ、敦賀港に到着した孤児達の様子を初めて見た日本の人達は、多大な関心と深い同情を寄せ、国民を挙げての救済に乗り出していく。
孤児たちの救済活動は、皇后陛下をはじめ、多くの人達から支援を受け、懸命な介護が続けるられる。 やがて、日本の人達の努力も実り、孤児たちは日本滞在中にすっかり体調を取り戻し元気になってくる。 そして、約2年間の滞在を終え、帰国の途に就いた孤児たちは、その後、母国でどうしているだろうか! 私も気になり さらに調査してみることにした。
看護婦を囲み、見違えるような明るさの表情で過ごす孤児たち
大阪の宿舎前で記念写真におさまる孤児たち一行
東京に収容されていた第1次孤児たちは、横浜から6回にわたり、合計370名がアメリカを経由して、ポーランドへおくられる。
大阪に収容されていた第2次の孤児たちは、神戸から2回にわたり、合計390名が香港、シンガポール、マルセイユ、ロンドンなどを寄港してポーランドへおくられる。
神戸港から母国ポーランドへの帰国のために乗船する孤児たちの一行
第一次の孤児たち150名を横浜港からアメリカへ輸送した諏訪丸(11,758トン)、他に香取丸で114名、伏見丸で106名、合計370名が輸送された。
第2次の孤児たち191名を神戸港からポーランドへ輸送した香取丸(9,847トン)、熱田丸でも199名、合計390名が輸送された。
ロンドン経由で帰国した女の子は、帰国船の船長が毎晩子供たちを見て回り、毛布を肩まで掛けてくれたことをよく覚えていた。 船長は子供たちが長い航海に疲れて熱を出していないかどうか、一人ひとりの額に手を当てて巡回しながら確かめていた。
日本船に乗せられ 祖国ポーランドに帰還を果たした孤児たちのほとんどは身寄りがなく、バルト海沿岸にある都市近郊のヴェイヘローヴォ孤児院に引き取られて保護される。 元気を取り戻し、無事に帰国を果たした孤児たち出迎え、歓迎するために首相や大統領までが駆けつけている。
ポーランドの施設では毎朝、校庭に生徒たちが集まり、日本の国家「君が代」を合唱する決まりがあった。 この施設で育てられた孤児たちもやがて成長し、そこから各々の人生を歩んでいるが医者、教師、福祉事業家、法律家、技術職人など、公の為に尽くす職業を志した者が多かったと伝えられている。
こうした日本によるシベリア孤児救済の話は、ポーランド国内では広く紹介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が日本に届けられている。
その一人で当初、日本に孤児救済を依頼しようと提唱した、当時の救済会副会長ヤクブケヴィッチ氏は 「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」 と礼状の中で次のように述べている。
「・・・日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。 日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。 しかも わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人はそれを肝の銘じて、その恩を忘れることはない」
「 ・・・我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ている最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までとって、ポーランドの子供たちに与えようとした。 こんなことは一度や二度ではなく、しばしばあった」
「・・・ここにポーランド国民も、また、高尚な国民であるが故に、我々は何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。 日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより、米国でも広く知られている」
「・・・ここに、ポーランド国民は、日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい」 このように書かれた礼状が届いている。
また、孤児の中の一人、イエジ・ストシャウコフスキさんは、孤児院で働きながらワルシャワ大学を卒業、孤児教育に情熱を注いでいる。 彼は17歳の時に、シベリア孤児の組織をつくることを提唱、ポーランドと日本との親睦を図る 「極東青年会」 を組織して会長に選ばれている。 組織の活動を通じて、彼は日本文化の素晴らしさをポーランドに紹介する。 また、極東青年会は孤児たちの成長と共に拡大し、最盛期には640数名を数えたといわれている。
成長した孤児たちと当時の日本公使館との連絡も密で、極東青年会の催し物には、努めて全館員が出席して彼らを応援していた。 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動に参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。
そして、この組織は本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがっていった。
戦時情勢の悪化にともないワルシャワでの地下レジスタンス運動も激しさを増し、孤児たちのイエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めてくる。 イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たち、このドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と依頼する。
そうするとイエジたちは立ちあがり、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱する。 さすがのドイツ兵たちも、あっけにとられて立ち去って行ったという。
当時、日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には、一目も二目も置かざるを得ない状況であった。 日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、このようにイエジキ部隊を幾度となく庇護していたのである。
しかし、兵力で圧倒的に勝るドイツ軍への抵抗は長く続づかなかった。部隊の関係者は徹底的に弾圧され、イエジも 再びシベリアにおくられていく。
ポーランドは、戦時下でドイツとソ連に分割され消滅するが、1945年のヤルタ会談で復活する。 しかし、戦争の犠牲者は人口の22%(600万人)にものぼった。 そして1948年に共産党支配体制が成立、国名もポーランド人民共和国と改めソ連の衛星国となった。
ところが、1980年(昭和55年)労働者のストに端を発した”連帯”を核とする民主化が大きなうねりを起こし、その中心的な活動の役割を担ったのがワレサ連帯議長であった。
ワレサ議長は日本にも来日 「日本は大きくて平和で偉大な可能性のある国だ」と評し。「ポーランドを第2の日本に」というスローガンを掲げた。
民主化の混迷の中でワレサは1983年にノーベル平和賞を受賞、また、この年、イエジも過酷なシベリア生活を生き抜き、76歳で念願の訪日を果たした。
訪日したイエジは、かつて過ごした宿舎の跡など、ゆかりの地を訪れて、救出当時の関係者のほか、ワルシャワ日本大使館の駐在武官であった上田昌雄(当時中佐)にも再開し、積もる話に時を忘れていた。 そのうち、イエジは感極まって思い出したように 「もしもしかめよ かめさんよ 世界のうちで おまえほど・・・ 」を歌い始めた。
日本語で最後まで歌いきったイエジは、感情の高ぶるままに 「私はかつてのシベリア孤児として、61年ぶりに皆様にお会いできたことを大変うれしく思います。私の仲間の誰もが、ここでこうして感謝の言葉を述べたかったに違いありません。 私は今ここで、かつての仲間達の分も一緒にお礼の言葉を述べさしていただきます。本当にありがとうございました」
日本を訪れた元孤児のイエジ・ストシャウコフスキ氏と握手する林敬三日赤社長(当時)
15歳の時に大阪に収容され、帰国後に 「極東青年会」を組織して、第2次大戦で祖国のために戦ったイエジ・ストシャスコフスキ氏は、日赤大阪を訪れ、 「64年前、私たち孤児が日本の皆様や日本赤十字社に受けた恩義に全孤児を代表してお礼を言いたく訪れました。 ありがとうございます」
と大粒の涙を払おうともせずに、感謝の気持ちを伝えている。
日本で救助された孤児の中には、ドイツ占領下でユダヤ系ポーランド人の男の子をかくまって育て、イスラエル政府から 「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシエム賞)を授与された孤児もいたと言われている。
その後も、日本とポーランド関係は友好的に続き、阪神大震災の被災児30名がポーランドに招かれ、3週間近くポーランドの各地で温かい歓迎を受ける。 特にシベリア孤児達との対面は感動的であったと伝えられている。
2002年には、天皇皇后両陛下が両国の友好親善を深める為にポーランドをご訪問している。
日本の柔道、剣道などの武道への関心も高く、スポーツ交流も活発に行われている。
市民レベルにおいても、日本や日本文化に対するポーランド国民の関心も高く、各地でジャパン・デーと称した催しがあり、日本文化に関する行事が開催されている。
ポーランドと日本の心温まるような史実に接して、私は心の中に大きな感動が湧かずにいられなかった。この件について色々な書物や、インターネット等での調査をすればするほど大きな感銘と感動が湧いてくる。
このシベリア孤児救済の話は、当初「これは大変だ。早くしなければ命が危ない、ポーランドの子供を救おう」といった小さな善意の心から始まり、日本の国中から温かい声援や支援の輪が広がり、それを受けた孤児たちが 「恩と感謝の心」を生涯忘れることなく過ごしている。 それがきっかけとなって現在までポーランドの人達の日本への温かい善意が続けられている。
ポーランドは、過去いく度かの大きな苦難の歴史が続き、それを見事に克服して独自の文化を形成してこられた人達。 人々から受けた恩も決して忘れることがなく、ポーランド魂といわれる強い気質で苦難にチャレンジする国民性に、私は心を惹かれていった。 なんとすばらしい国民性でしょう。
それにひかえ戦後の日本は、国家意識が希薄し、個人においても自己中心的で、他人を思いやる心も希薄しているように感じる。 また、マスコミ全体が偏ったイデオロギーに重きを置いた報道内容で、ほんとに真実を我々に伝えているのか! 時々疑問にさえ感じることがある。 近隣諸国も自国に有利になるように歴史を捻じ曲げて作り上げ、それをあたかも真実であるかの主調や報道をしているように思えてならない。
そして、いつの間にかそういった間違った主張や報道、悪い教育内容に影響されているのか、現在日本の人達も、日本人としての誇りを失い、自己的で他人を敬う心が欠如するなど、大切な精神が荒廃して心が貧困になっている様にさえ感じてくる。
人間の社会や国家において何よりも大切なことは、自分たちの先人達が歩んできた正しい歴史認識から生れる民族としての誇りや、私たちの住む国家や社会の大切さ、国を愛し、健全な精神を持った若者や子供たちに、正しい歴史や出来事を伝え、日本人として誇りある未来を切り拓いていくことにあると確信している。
今回のようなポーランド孤児救出など、数々の心温まる美談を多く残してくれた先人たちに感謝しながら、現在の日本人が失いかけている、人々を敬い感謝する心、日本人としての誇り、武士道の精神などが、国全体に芽生え、明かるく希望に満ちあふれた、誇りある日本に発展していくことを願わずにはいられない気持で一杯である。