気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

かつては東京ー欧州行き国際列車連絡船が・・・敦賀港駅(福井県)

2011-08-11 10:17:19 | 気ままな旅

2011年5月4日(水) 晴れの緑の日の休日、私たちは南大阪の自宅を午前10時00分 愛車エステイマで出発、阪和・近畿自動車道から第二京阪道路・京滋バイパスを走行、米原JCTから北陸道敦賀ICまでやってくる。 

 敦賀市内で 「気比さん」 の名で、地元の人達に親しまれている気比神宮を訪れ、参拝と見学を済ませる。 

 その後は敦賀港に面した金ケ崎緑地公園内の駐車場に愛車を止め、人道の丘 敦賀ムゼウムを訪れる。 

 ここで私は初めて ロシア革命などの内戦に巻き込まれたポーランドの政治犯や愛国者の家族がシベリアに抑留され、親を失ったポーランドの孤児が、食べるものもなく、生死の極限状態をさまよっていた。 この様子と孤児の救済を依頼された日本は、ただちに孤児受け入れ準備を進め、日本赤十字や国民あげて実施した孤児救済活動が紹介されていた。 

  リトアニアの日本領事官 杉原千畝氏が発給した ユダヤ難民に対する 「命のピザ」 にまつわる話は、以前から知っていたが、ポーランド孤児救出の話は全く知らなかった。  

見学を終え、先人達の行った人道的な行為に対して、大きな感動が湧いてくる。 日本人ってたくさんいいことしていると思いながら、人道の丘 敦賀ムゼウムを後にして公園内に戻って行った。

 そして、同じ金ケ崎緑地公園の片隅に、旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)と書かれた2階建ての建物があった。 興味をひかれ館内に入って行く。 

 

旧敦賀港駅の敦賀鉄道資料館

旧敦賀港の駅舎は、かつて「欧亜国際連絡列車(新橋=東京~敦賀港駅~ウラジオストク~シベリア鉄道~ヨーロッパ)の発着駅として、多くの人々や文化を運ぶ重要な位置を占めていた金ケ崎駅(後の敦賀港駅)舎を再現したものである。 館内では敦賀港の歴史、敦賀の鉄道歴史を紹介したパネルや、貴重な鉄道資料が展示されている。

入口の上には 「敦賀港駅」 と書かれた敦賀鉄道資料館玄関口(入館料=無料)

鉄道資料館内に入って行くと、1階はごらんのような鉄道に関する信号機、服装、線路、鉄道模型などが展示されている。

鉄道資料館内の展示状況

敦賀機関区の転車台と蒸気機関車の鉄道模型

 

明治に開港指定された敦賀港の様子

1899年(明治32年)敦賀港は開港場に指定される。 「開港場」とは、外国船の入港が公式に認められた外国貿易港のことである。 明治政府によって日本全国から地理的に重要で、かつ、整備が整った港が選ばれた。

 当時、敦賀港は、港を中心とした街全体が多方面にわたって整備されていた。 国際定期便が安定して停泊できる岸壁の建設、大量の荷物を陸上輸送されるための道路や鉄道などのインフラ整備、入出国手続きを円滑にする税関設備も設置されていた。 また、人材の育成にも重点が置かれていた。

 鎖国中のわが国で鉄道のことは、通商を許されたオランダの長崎商館長の 「風説書」 を通じて知られていた。 また、漂流してアメリカに渡った者の見聞、開港を求めて来航したロシヤのプチャーチンや、アメリカのペリーが持参した蒸気車模型、遣欧米使節や留学生がもたらした知識などによって、鉄道について具体的に認識されるようになっていた。 

 福井藩では橋本左内や村田氏寿、横井小楠が鉄道のことを記している。 そして、幕末に薩摩藩や在日英国人、米国人達によって国内の鉄道建設計画が進められた。

 こうした機運の中で明治政府は、成立まもない明治2年(1869年)11月10日の御前会議で、駐日イギリス公使パークスの進言を受けて鉄道建設の方針を立てる。 

この時の計画は、東京ー京都間の幹線と、東京ー横浜間・京都―大阪ー神戸間・琵琶湖畔ー敦賀間の各支線である。

そして、明治5年9月に新橋ー横浜間に、わが国最初の鉄道が開通した。

 以後、文明開化による富国強兵、殖産産業をスローガンに、近代的中央集権国家建設のため、政治主導でわが国の鉄道建設が進められていく。

鉄道創設の立役者の大隈重信と伊藤博文

大隈重信は大蔵、民部大輔として奔走する。 伊藤博文は大蔵・民部大輔として、のち工部大輔として鉄道建設の衝に当った。柳ケ瀬隧道に 「萬世永頼」 の石額を書く。

鉄道の父といわれ日本鉄道の発展のために生涯尽力を尽くした井上勝(1843年~1910年)

文久3年(1863年)長州を脱藩し英国に渡り、鉄道、鉱山・土木について学び、明治元年(868年)に帰国し、生涯を鉄道発展に尽力した。 敦賀線の建設にも指導力を発揮した。  

井上勝は、帰国後阪神や京阪間の鉄道敷設工事に携わり、その後も鉄道局長などの重要ポストで活躍した。 中でも明治16年中山道経由と決定していた東京ー京都間の鉄道ルートを東海道に変更させ、 さらに東京ー神戸間の全線開通も先頭にたって工事を督励している。

 最近発生した中国高速鉄道の事故のすさまじさには驚かされるが、もっと驚かされるのが事故原因究明の姿勢、人命と安全を重視する姿勢が微塵も感じられず、高架からぶら下がっている事故車両を、こともなげに下に突き落とす乱暴な手法や、破壊された車両を重機で穴の中に埋め込む作業をTVなどで見ていた世界中の人達も、あっと、溜息をつかされるように驚された。

 世界最速を自慢する中国らしく事故処理も超特急であるが、事故究明、現場検証はあまりにもお粗末であり、安全を無視し、早期開通を急ぐあまり、手抜き工事やずさんな工事監理などから、高速鉄道の安全性が指摘され続けている。

 井上勝のように鉄道に生涯をかけてきた人達から見れば、中国の事故処理は言語道断で、人命を軽視した鉄道事業など微塵もなかったろうと思われる。 

 また、鉄道技術、特に高速鉄道などの技術は、一朝一夕に出来るはずもなく、井上勝のように鉄道に熱意を燃やし、鉄道に携わる多くの人達、永年にわたる切磋琢磨してきた歴史や誇りの延長線上に、人命と安全を重視した日本の鉄道技術があることを、 私たちは忘れてはならないと思う。

 敦賀に至る鉄道線が、京浜間や阪神間と共にいち早く取り上げられた理由は、古来、敦賀は琵琶湖の舟運を介して畿内と北陸地方を結ぶ交通の要路で、近世以降、蝦夷(北海道)や日本海側諸国と上方との商品流通が盛んになると、その重要性が益々増大していった。 なお、鉄道に先駆けて、敦賀半島の立石岬に灯台が建設されており、敦賀港の重要性が窺える。

鉄道錦絵「東京名所の内、新橋汐留蒸気車鉄道局停車館の真図」 歌川広重画

鉄道錦絵 「西京神戸の間、鉄道開業式 諸民拝見の図  明治10年 歌川広重画

初代敦賀港駅開業、金ケ崎・洞道間の部分開業にともない、気比神宮前に開業した初代敦賀駅/1882年(明治15年)3月10日

明治2年に計画された敦賀への鉄道は、明治13年4月に長浜と敦賀の両方から、日本人だけで工事が開始された。 明治15年3月10日、柳ケ瀬トンネルをのぞく長浜ー金ケ崎間が部分的に開通した。 新橋ー横浜間、京阪神間、北海道幌内鉄道、釜石鉱山鉄道に次ぐものである。 敦賀側には金ケ崎、敦賀、疋田(ひきた)など6駅が設置された。 金ケ崎駅は、旧陸軍砲台跡に埋立地と築堤とを造成して、駅本屋、機関庫、転車台等も造られた。 初代敦賀駅は、気比神宮南西脇に開設された。

明治15年5月、長浜ー大津間の琵琶湖上に、わが国最初の鉄道連絡船が運航され、敦賀から京阪神まで、鉄道と水運によって結ばれた。 疋田ー柳ケ瀬間のトンネル(1352m)は、難工事の末に完成し、明治17年(1884年)4月、長浜ー金ケ崎間42.5kmが全通した。

敦賀港は鉄道の開通により活況を呈したが、北陸線が次第に北進、明治32年(1899年)富山まで開通すると、国内交易は奮わなくなった。

敦賀港で行われる新造船敦賀丸の進水式で集まった群衆、1938年(昭和13年)

ウラジオストクでのシベリア鉄道起工の動きに合わせ、大和田庄七らの運動により、敦賀港は明治32年7月に開港場に指定され、同35年に敦賀ーウラジオストク間に定期航路が開設された。

 同40年には、横浜、神戸、関門と共に第1種重要港湾に指定されて、日本海屈指の国際貿易港としての位置を占めることになった。

同42年から第一期港湾修築工事が行われ、金ケ崎岸壁に3000トン級の汽船が停泊できるようになり、荷揚げ場や倉庫なども整備された。 金ケ崎岸壁には、税関の旅具検査所、金ケ崎駅(敦賀港駅)、大和田商店回漕部、露国義勇艦隊支店などハイカラな建物が並んでいた。

欧州への最短路ー欧亜国際列車が発着していた敦賀港

日露戦争後、ロシアはウラジオストクを「東亜への門戸」と位置づけ、敦賀との間にロシア義勇艦隊による定期航路を運航した。 日本側は大阪商船が国際航路に参画した。 また、ロシアが中国北東部に保有していた東清鉄道の南満州の支線等については、日本が満鉄として経営を引き継いだ。

こうした中、敦賀は明治43年4月から関門や長崎と共に、当時の満州や日本海沿海州との連絡ルートとなり、同44年3月からはシベリア鉄道経由でヨーロッパに至る 「欧亜国際連絡運輸」 が開始され、 その後、大西洋・太平洋航路を利用した世界一周コースの窓口となった。

当時、日本からヨーロッパへは、インド洋周りでは1ケ月間も要したが、シベリア経由では、東京ーパリ間を約半分の17日間で多くの人々や文化を運んだ。

ヨーロッパと日本を結ぶ欧亜国際列車の概略図

新橋(東京)-金ケ崎間の欧亜国際連絡列車は、当初週3回運転された。 毎週、日、火、木の21:00発神戸行急行第9列車に、寝台緩急車マイロネフを連結し、翌朝、米原駅で切り離し、8:35分発不定期の第15列車となり、金ケ崎に11;00分に到着した。そして、毎週月・水・金の敦賀港発ウラジオストク行の定期航路に連絡した。

金ケ崎からは日・火・木の朝8:52分に発ち、米原で下関からの特急列車に乗り換えると、新橋(東京)には20;25分に着いた。

英語表記のマイロネフ37形国際寝台列車(1・2等寝台緩急車)で記念撮影をする敦賀港職員等の人達

敦賀港ーウラジオストク連絡船「満州丸」と北日本汽船株式会社(右手前の建物)

 

日本とヨーロッパを結ぶ 「欧亜国際連絡列車時刻表(昭和5年10月)」  ※ 莫斯科(モスクワ)・羅馬(ローマ)

日本からヨーロッパまでの日数及び運賃概算(昭和4年10月)(当時汽船でインド洋経由だと約1ケ月間を要した)

敦賀港からジュネーブへ向かう松岡洋右外相の一行(昭和7年10月)

鉄道資料館を訪れて、最初に驚くのは、日本海に面した敦賀の重要性と発展である。 特に発展した敦賀港からヨーロッパを結ぶ欧亜国際連絡列車があったことである。 当時は外国航路は汽船が主流であり、列車で行くと汽船の半数の日数でヨーロッパに行くことができた。

日本が鎖国を続けていた時代から明治に入り、わずか45年で鉄道や港が整備され、東京から敦賀ーウラジオストクーヨーロッパに連絡する列車が運行されていたのは、ほんとに驚きで、大きく変化して急速に成長していく日本が姿を感じてくる。

その他鉄道資料館では、トンネルと電化、戦後の復興などがパネル写真などで紹介されている。

 

 見学を終えた後、一階の受付女性に敦賀市内の日替わり温泉と車中泊の出来る場所を尋ねてみた。 

「日帰り温泉は敦賀市内にあり、車で10分ほどの行った所に「越の湯=600円」という近代的な温泉施設がある。」 

「車中泊も、すぐ近くに 「気比の松原」 という美しい浜辺をもつ公園があり、そこに無料で広い駐車場が整備されている。」

 と親切に教えて頂いた。 早速行って見ることにした。

 敦賀市内にある日替わり温泉 「越の湯」 は、すぐに分かった。

 早速、入浴準備をして入館して行くと、大勢の入浴客が訪れ、温泉を楽しんでいる。

 私も露天風呂に入湯、たそがれ時の夕日に、少し赤く染まった空を眺めていると、心身の疲れを癒してくれ、新たなエネルギーを頂いた気持ちになってくる。 旅先での温泉も、私たちにとっては大きな楽しみのひとつである。

温泉でリフレッシュした後、近くのスーパーで夕食の買い物をすまして、すぐに気比の松原駐車場に向かって行く。 

 5分ほどで到着すると200台位は車が駐車できそうな広い駐車になっていて、全面は、敦賀湾に面した砂浜が広がり、左右には美しい緑の松林が囲んでいる。 心配したトイレなどの設備も整っている。

日本三大松原に数えられる 「気比の松原」 敦賀湾に面し、白い砂浜と緑の松林が広がり、四季を通して、多くの人達に親しまれている。

名勝 「気比の松原」 は三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異属の大群が来襲した。 その時、敦賀の地は突如震動し一夜にして、数千の松原が出現した。 そして、松の樹上には 気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群舞し、あたかも風にひるがえる 旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし、たちまちのうちに逃げ去ったという。 この伝説に因んで 「一夜の松原」 とも称される。 現在、気比の松原は およそ東西1000m、南北400m、広さ37.9ヘクタールで、樹数約12000本を数え、海岸林としては全国的にも珍しく、赤松が群生している。

広い駐車場のある名勝 気比の松原 若い人達にも人気があり、松林や浜辺を潮風に吹かれながら散策ができる。 車中泊の車も多い。

 

 気比の松原駐車場に到着すると、私たちは直ぐに夕食の準備に取り掛かった。 愛車の片隅の松の枝場の下に、折りたたみ式のテーブルと椅子を持ち出し、先ほどスーパー買った夕食の料理を並べる。 青い夕空の下、妻と二人で夕食を摂りながら杯をかたむけるのは最高の気分で、旅の楽しさが湧いてくる。 

 松林に囲まれた駐車場前面にある浜辺からは、静かなさざ波の音が聞こえ、片隅ではグループの若者たちが威勢の良い声を出しながらバーベキューを楽しんでいる。

そして、日は完全に落ち、夜空に星が輝き始めた折に、夕食で準備した用具を片づけて、外灯の柔らかい灯りの浜辺を散歩する。

浜辺には、数人の男女のカップルが訪れ、海を見ながら楽しそうな会話をしている。 5月の少し肌寒い心地よい風が通り過ぎていく。 

  隣の子犬を抱いた若いカップルに話かけると、「大阪から急に思いついてここまでやって来た。 車の運転は全て奥さんがしてきた。今夜はここで車中泊をする」 とのことであった。

このような会話を交わした後、若い夫婦に 「明朝のブラジルの美味しいコーヒーがあるけど」 と話をすると、是非、頂きたいとのことであった。

その後、私たちは愛車に戻り、横になって車外からのさざ波の音をきいていると、いつの間にかぐっすりと眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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