気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

もてなしの心が育んだ梼原と維新の志士達

2010-09-12 15:05:10 | 気ままな旅
 2010年8月3日(月)今日は東京に住む友達と、数年来の約束で高知で休暇を過ごすことにしている。東京の友は、東京からフェリーで徳島まで行って、徳島から高速道などを走行し、佐川町にある私の家で落ち合う約束である。
 私達の今回の帰郷には、燃費の良いトヨタラクテイス(1500cc)を使用、南大阪の自宅を朝7時20分に出発する。
 走行コースは平日で高速道路の休日割引適用を受けないために、経済的である阪神高速湾岸線→神戸線→第2神明道路→R2(加古川・姫路バイパス)を走行し、相生(あいおい)を少し過ぎた所から岡山ブルーライン(無料)に入り、かつての国鉄四国連絡船で賑わった宇野港まで走行して11時40分に到着する。

           
                     宇野港に入港するフェリー

 宇野港からは12時05分発のフェリ-で、高松港(60分=2700円(4m未満))まで乗船する。
 このルートの方が瀬戸大橋中央道を通るよりはるかに経済的で、フェりーでの1時間をのんびりと過ごし、休息できるメリットがある。

           
                    高松港に入港したフェリー

 高松港からは一般道(R32号)を走行しようと考えていたところ、携帯に東京の友人から徳島港に今着いたとの連絡が入ってくる。
 午後2時に到着予定が1時間程早く到着したようである。
 徳島と高松からは高知の佐川まで、ほぼ同距離にある。
 私が一般道を走っていると、友人の方が早く到着する可能性があり、一般道の走行をあきらめ、直ぐに高松自動車道に入って行く。
 高松からは高知道伊野ICまで2時間程で到着、佐川にある私の家には4時30分頃に到着する。
   
           
                到着した佐川町尾川の景観 
 
 一カ月ぶりに帰ってきた佐川町尾川の我が家、雨戸など全ての窓は閉め切っている為に、開口して空気を入れ替える必要性があった。
 家に帰って、この作業を行った後、4kmほど先にあるスーパーマーケットで、夕食の食材を求めて、妻と二人で出掛ける。
 高知に帰ってきた、一番先に食べたいのは、なんといってもカツオの刺身である。
 大阪の家近辺のスーパーでもカツオは販売されているが、鮮度の差なのか味が全く違っている。
 カツオもタタキと普通の刺身の両方あるが、私は普通の刺身の方が好きである。
 夕食の買い物も終わって、家に帰ってしばらくすると、東京からの友人も到着、久しぶりに合ったせいか、夕食の杯にも話が弾み、夜遅くまで話題が途切れることはなかった。

 東京に住む友達は、福井県大野市出身で東京で建築業を営んでいる。
 釣りが大好きで前月にも、新潟を訪れ清流で鮎釣りを楽しんでいたが、今年はどこの河川でも鮎がいなく、さっぱり釣れないとのことであった。
 高知でも、彼の楽しみはやはり鮎釣りで、私の家の近くを流れる仁淀川での釣りを楽しみにしていた。
 近所の人達から鮎に関する情報を集めるために、色々と聞いてみるが、高知も例年になく鮎は釣れないとのことであった。
 
             
            東京から来た友達が楽しんだ仁淀川(高知県高岡郡越知町)

 8月4日(水)曇り、東京からの友人は朝早くから、愛車で25分ほど距離にある越知町仁淀川に一人で出かけて行った。
 私たちは、家の近くにある先祖の墓掃除や買い物などで一日を過ごし、夕方彼の帰りを待っていると、6時頃に帰ってくる。
 鮎の収穫は2匹で、やはり全体的に仁淀川には鮎がいないようで、近くで釣りをしている人たちを覗いても釣れていないとのことだった。

 8月5日(木)今日はあいにくの雨模様の天気で、東京からの友人は、仁淀川以外の河川も見たいとのことで、私を須崎湾に流れ込んでいる新庄川を案内する。
 仁淀川と比較して、川幅も狭く小さい河川であるが、清流にある所々の釣りポイントを見ながら北上して行く。
 彼にとっては、川幅の広い仁淀川の方が魅力的な様である。
 私たちは、小雨の降りしきる中、新庄川と並行して走っている国道197号線を梼原(ゆすはら)方面に走行して行く。
 梼原町は高知県西北部に位置、愛媛県と県境を有している山間の町である。
 現在、高知県内の四か所で開催中の「竜馬であい博」の梼原会場の地でもある。
 私どもは、綺麗に整備された街並みを見学しながら、梼原町内を走行して行く。

             
        四国山脈の山沿いに都市計画に基づいて美しく整備された梼原町の街並み

              
                 電柱もなく日本建築美を活かした梼原町の街並み

 このような山間の街で、こんなにも美しく整備された街並みは驚きで、日本国内でも珍しいのではと感じる。
 街を通り過ぎると川があり、対岸に向かって屋根付きの立派な木橋が架けられ、その奥には神社が見えている、三嶋神社である。

              

 街のはずれにある三嶋神社、河に架かる参道の屋根付き木橋が本殿に向かって真っ直ぐに延びている。
 この橋は神幸橋(みゆきばし)と呼ばれ、木は町内産の木材を使用、夜になるとライトアップされ、暗闇に浮かぶ橋がとても幻想的とのことであった。

              
                全国的にも珍しい川に架かる屋根付き木橋の参道

              
                橋の参道を渡ると正面に見える三嶋神社本殿

 私たちは屋根付き木橋の参道を真っ直ぐに進んで行く。木橋を渡ると目の前には石段があり、その上には鳥居がたっている。
 鳥居をくぐると,そこは大木に囲まれた本殿の境内で静寂な雰囲気が漂っている。

              
                 竜の立派な彫り物のある三嶋神社本殿

 三嶋神社の参拝を済ました後、神社左側の大きな木立の中に「坂本竜馬脱藩の道」と書かれた案内板があり、山道が林の中に通っている。
 脱藩する竜馬たちは、高知市内から西に進み、私の家のある佐川で落ち合って、須崎市から新庄川を北上し、葉山を通り梼原までやってくる。

              
                   三嶋神社の横にある坂本竜馬脱藩の道 

 三嶋神社の参拝と見学を終えた後、車で5分ぐらいの所にある志士達の像「維新の門」に向かって行った。

               
                  梼原町にある脱藩した志士達の像 

 維新の門(碑文より)
 幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。
 この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。
 また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
 それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。
 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。
 その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。

               
        梼原出身の志士 掛橋和泉  右写真 吉村虎太郎(後方)、前田繁馬(左)、那須信吾(中央)、中平龍之助(右)

              
             脱藩する坂本竜馬達 (左=沢村惣之丞、坂本竜馬(中央)、那須俊平(右)

 雨の中の維新の門を見学した後、NHK大河ドラマ「竜馬伝」に合わせて高知県では、「土佐竜馬出会い博」が県内の四ケ所の会場で開催されている。
 勿論、梼原町も竜馬ゆかりの地として会場に選ばれ現在も開催中である。
 高知駅前、安芸市、土佐清水市でも同時に開催されている。
 
              
           高知県内の土佐竜馬出会い博会場のマップ(左上の紅い表示が梼原会場)

 私たちは維新の門を見学した後、町内の近くにある出会い博会場に入って行った。
 
              
                  竜馬出会い博ゆすはら会場
               
                
           土佐竜馬出会い博ゆすはら会場   NHK大河ドラマ「竜馬伝」のポスター

               
           入口で親切に説明してくれるスタッフと東京から来た友人

 受付は梼原の木材を使っているせいか木の香りが残っている。
 受付の人も竜馬や梼原町内などの地域活動をされているようで、東京から来た友が盛んに質問し、丁寧に受け応えしてくれている。
 会場内は写真撮影が禁止されている為に、みなさんに紹介できないのが残念であるが、NHK大河ドラマの物語や登場人物が詳しく紹介されている。

                
             坂本竜馬の掛け軸    土佐勤皇党首武市半平太の掛け軸  
               
               
   梼原出身の六志士(左から掛橋和泉、中平龍之介、那須俊平、前田重馬、那須信吾、吉村虎太郎)

 二階会場の中に下記の写真が展示されていた。
 驚くことに明治天皇から、維新に活躍した蒼々たる人達が写っている。
 「坂本竜馬生誕150周年記念」と書かれ、坂本竜馬と明治天皇や西洋人と子供も一緒に写っているが、どうもこの写真は実際の人物ではなさそうである?

               
                  竜馬生誕150年記念と書かれた維新の志士写真? 

               
                    上記写真の名前  

写真に写っている人たち 
40明治天皇 え?、43坂本竜馬、1勝海舟、9伊藤博文、13西郷隆盛、27大熊重信、32高杉晋作、35桂小五郎、12大久保利通、2中野健明、3中島信行、4後藤象二郎、5江藤新平、6大木喬任、7井上肇、8品川弥二郎、10村田新八、11小松帯刀、14西郷従道、15別府晋介、16中村宗見、17川路利良、18黒田清隆、19鮫島誠蔵、20五代友厚、21寺島宗則、22吉井友実、23森有禮、
24正岡隼人、25陸奥宗光、26中岡慎太郎、28岩倉具綱、29ウィリアム、30フルベッキ博士、31岩倉具定、33横井小楠、34大村益次郎、36江副廉蔵、37岩倉具慶、39広沢真臣、
41岡本健三郎、42副島種臣、44日下部太郎、45横井左太平46、横井太平

               
                  梼原を訪れた人達を交代でもてなした茶堂

 茶道は、梼原町内に点在する木造萱葺屋根の建物で、地域の人たちは交代で、行き交う人々にお茶などをだし、もてなしの場所として使われている。
 ここの人達はもてなしの心で、訪れた人達に接して、旅人から様々な情報を得ていたようで、現在、日本が失いかけている大切な心が、この街には脈々と息づき、再開発された街の景観からも、人々のもてなしの心が感じられる。