気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

陶彫り作品とやきもの文化漂う道の駅での出会い

2008-11-28 10:59:19 | 気ままな旅
 11月11日(火)名城公園の散策を終えた私達は、かつて、私の名古屋時代に住んでい、た岐阜県多治見市に向かった。
 通称、愛岐道路と呼ばれている道路から、定光寺公園前を経由して多治見市に入った。
 懐かしい光景が次から次へと入ってくる。一つ一つの場所に思い出があった。
 多治見市内で所用を済ませると、時間は午後7時をまわっていた。
 今日の宿泊先をどこにするか! 明日の夕方までビジネスの予定ははいっていない。
 そうだ、明日は久しぶりに岐阜県明智町にある「大正村」に行ってみよう! と思い立ち、道の駅を探してみると、明智町までの道中に「美濃焼街道 どんぶり会館」の道の駅があった。
 愛車を停車している場所から13kmほどの距離である。
 スーパーで夕食の買い物を済ました後出発する。道の駅までは30分ほどで到着する。
 遅い夕食が始まった。
 透き通った夜空には無数の星が輝いている。
 少し冷えてきているが、明日も天気はよさそうである。 
 
 11月12日(水)朝6時過ぎに目覚める。
 明るい太陽が愛車のカーテン越しに入っている。
 車の外に出ると快晴の天気で、目の前には、紅葉した樹木や、円形でどんぶり形状の建物に、お椀をのせたような屋根のある、道の駅の建物が目に入ってくる。
 道の駅の北側には、幾重にも続く紅葉した山稜の上に、うっすらと雪化粧した御嶽山が見えている。
 南東側には小さな池がある。その向こう側には半円形状の構造を持つ橋が架けられ、周辺の景観とうまく調和をさしている。
 この一帯は公園として整備され、ウオーキングなどで市民が憩いやすいように配慮されているようだ。
 道路の反対側には「セラテクノ土岐」という、落ちついたたたずまいの新しい建物がある。
 妻が朝食の準備をしている間に、道の駅周辺を散策することにした。
        
          
            道の駅 土岐美濃焼街道「どんぶり会館」 
 
 この道の駅は、岐阜県多治見市の隣町で土岐市の南側にある駄知(だち)という町にある。
 駄知は昔から美濃焼(陶器)が盛んで、どんぶりなどの陶器の生産地として知られている。
 道の駅では、駄知町の窯家を営む企業が共同で出店して、地場産業である陶器を、通常の市価より値打ちの価格で販売している。
 店の規模も大きく、品揃いが豊富であった。私も日常品として使う陶器を購入した。

 ※美濃焼とは、岐阜県の東、JR中央線沿いある多治見市、土岐市、瑞浪市、笠原町、可児市の一部で焼かれた陶器のことをいう。
  
          
      道の駅からの景観 ここからは御嶽山や南アルプスなどが眺望できる

          
            道の駅からの 長野県にある御嶽山(標高=3067m)

          
         道の駅にある陶彫の作品と向かいにあるセラテクノ土岐の建物

 道路の反対側に、「セラテクノ土岐」という、落ちついたたたずまいの建物である。
 この建物は美濃焼などの、やきもの文化の継承と、美濃焼産業の振興の拠点として生まれ変わった、土岐市立陶磁器試験場である。
 最新の試験研究施設のみだけでなく、やきものを通して広く人々の交流や情報交換の場として、作陶アトリエや体験コーナーなどが設置されている。
 みずみずしい美しさに満ちた自然の中で、土のぬくもりと歴史ある美濃焼の伝統の奥深さが、体験できる複合施設である。

                  
        日本現代陶彫展’96の金賞 「重厚円大蛙」の作品(天野裕夫作)

          
        日本現代陶彫展’96の金賞 「重厚円大蛙」の作品(天野裕夫作)

この作品は上記写真の表の部分で。日本現代陶彫展’96の金賞の作品である。道の駅入り口に展示している。
          
 土岐市の姉妹都市「ファエンツア市=イタリア」の職員と地元の共同作用で作庭したイタリア庭園(2004年)
 この庭の周辺には、日本現代と陶彫展の入賞作品がたくさん展示してある。
 まるで野外博物館で、美濃焼陶器の街としての雰囲気が、隅々まで漂っているように感じる。
 ここに、私の印象に残った作品の一部を紹介する。

          
          第6回日本現代陶彫展’96優秀賞 「誕生=安藤寿恭」の作品

           
 陶彫展’96優秀賞 作品名「雲層=斎木俊秀」 陶彫展2000金賞 作品名「ぐっ ぐぐうー=川合正樹」

          
            陶彫展’96 優秀賞 作品名「黙 示=藤井一範」

          
        第7回日本現代陶彫展’98 銀賞作品名 「土属の祖=松浦弘道」 

           
第3回 世界陶彫シンポジウム作品名「土に根ざして=スタン・アンダソン=USA」  
                     第2回世界陶彫シンポジウム作品名「物質主義と金権主義=チャーリー コー=フィリピン」

          
        日本現代陶彫展’96 優秀賞 作品名「地の記憶=高田吉朗」             
 朝早く、何気なしに散策した道の駅周辺で、このような陶彫りの作品に出会えるのは、大きな喜びと驚きであった。
 ほんとは陶彫り作品の一つ一つにテーマがあり、コンセプトを踏まえて作陶されていると思われる。
 私の気ままな旅は、事前に予備知識や調査などせずに、天気やその時の状況に遭わせて行動している。
 その為に、理解力がどうしてもどぼしくなる。
 見学中に説明文や看板などをデジカメで撮影、帰宅後にパソコンを通して見たり、インターネットなどで調査することが多い。
 今回の野外に展示されている、どの作品にも見ごたえがあり、興味をさらに惹かれそうである。
 特に「誕生」の作品には好印象をもった。
 金賞の「重厚円大蛙」の作品は、これはなんだろう!何を現しているだろう! といくら考えてもよく分からなかった。
 もう一つの金賞作品 「ぐっ ぐぐうー」 あっさりとしていて、色合いもすばらしいが、作品名との兼ね合いをもっと知りたいと思った。
          
                道の駅で会った地元の人たち 
 
 散策を終え愛車まで帰ってくると、朝食の準備が整っていた。
 今朝は風もなく、温かい太陽がサンサンと一帯を照らす、穏やかな天気である。
 私たちは目の前にある休憩施設で、朝食を摂ることにした。
 目の前では、地元の人たちが、数人話し合ったりしてくつろいでいる。
 妻が近くにいる人たちに、朝たてたコーヒーを勧めたところ、快く飲んでくれた。 
 一口飲んで 「おいしい」 と言ってくれた。
 その人たちの親しい人達が、道の駅に入って来て、挨拶を交わした後、
 「そのコーヒーどうしたの!」 の言葉から短い会話が始まった。
 「この人たちにいただいた」 「このコーヒーとってもおいしいよ」
 「ブラジルの本場のコーヒーだよ」
 「へーそうなの」
 私たちは 「どうぞ どうぞ」 と言ってコーヒーを勧める。
 そうすると、たちまち、たくさんの人たちが見えてコーヒーを振舞うようになった。
 みんな 朝一番のコーヒーを 「おいしい」 と言って飲んでくれる。
 コーヒーを飲みながら暫く談笑した後、ご覧のような記念写真を摂ることになった。 
 
 暫くして、単車に乗った3人のライダーの人たちがやって来て、私の愛車横のスペースに駐車する。
 挨拶を交わした後、会話が始まった。
 名古屋から3人でやってきて、これから大正村や、紅葉の名所である香嵐渓(愛知県豊田市東の奥にある紅葉の名所)にあるまでツーリングするとのことであった。
 別れ際に妻も一緒にと言って、ご覧のような記念写真を撮らせてもらった。 

          
               道の駅で3人のライダーの人たちと記念の写真

 朝食から地元の皆さんとの談笑も一段落した後、私達も出発の準備をして、同じ岐阜県の明智町にある大正村に向かった。1時間ほどの距離である。


           



威厳を感じさせる石垣と濠・洋風庭園のある名城公園

2008-11-26 10:36:03 | 気ままな旅
 11月10日(月)前日に浜松市内でビジネスを終えた私たちは、浜名湖周辺の観光をした後、名古屋駅前にやってきた。
 かつて私は、名古屋市内の支社で、大阪に本社を置く、メーカーの建設関連の営業を担当していた。
 その時の仲間や、親しくしていただいた方々との集まりが、夕方から名古屋駅前であった。
 何年ぶりかに会う、思い出深い方々ばかりで、心の安らぐひと時であった。


 11月11日(火)名古屋市内のホテルで宿泊し、午前中は市内でビジネスをする。
 午後からは、これといった予定もなく、名古屋城の北側にある、名古屋市民の憩いの名城公園へ行ってみることにした。
 この公園の周辺は、車で近くを移動していたために、よく知っているが、公園の中までは行ったことがなかった。
 名城公園は名古屋城の二の丸・三の丸・旧陸軍錬練兵場跡までの区域を含んだ公園であるらしい。
 公園の中には、噴水のある池や、高い樹木が生い茂る森が広がり、野鳥の生息や、四季を通じて花や2700本の桜など、日本の風景を楽しむことが出来る。
           
              名城公園からの池をはさみ四季が楽しめる名古屋城

 この公園の中で、ここが名古屋城を望む第一の撮影ポイントであると思った。
 四季それぞれに名古屋城が美しく見えそうだ。
 手前に池があり、噴水孔から真っ白な水がラッパ状に噴出している。
 季節によっては、桜や花菖蒲が咲き、名古屋城とのコントラストを見事に表現する場所に違いない。

           
          名城公園フラファープラザ前から花の山のある広場への通路

 名城公園には何箇所かの出入り口がある。
 北側の名城公園フラワープラザには洋風の庭園がある。
 色鮮やかな花が植えられ、洋風庭園ならでわの美しさをかもし出している。
 庭園の中央には、横を向き、バレリーナのようにつま先を立てた、若い女性の裸像オブジェが立っている。
 
           
         名城公園フラワープラザにある洋風の特色を活かした見事な庭園

           
花に囲まれ庭園の中央に立つバレリーナのような女性の像 色鮮やかな庭園の花、この奥に左のオブジェがある   

          
          おふけ池の噴水など周辺の景観とうまく調和する名古屋城

          
           紅葉の樹木に覆われ、ラッパ状の水を噴出するおふけ池

          
      おふけ池にある紅葉の中ノ島、左右には形の違った橋が架けられている

          
          野外劇場の舞台壁の裏側に舞をテーマに作られたオブジェ           
          
       芝生で出来た野外劇場の舞台の場所で昼食を摂る人たちと名古屋城  

           
                青年像              青春の像

          
  コスモスの花の山とオランダ風車、手前にはせせらぎの川が流れ大きな広場になっている 

          
          公園の広場で大きな歓声を上げながら昼食を楽しむ子供達      

           
             四季の園にある 晴天と     碑のトルソー             

          
            水鳥が浮かぶ濠と美しく紅葉した石垣の名古屋城  

          
          優雅に泳ぐ白鳥や水鳥が浮かぶ濠と紅葉の味わい深い石垣
          
       濠と石垣に建つ西北隅櫓 日本的な魅力ある美しさをかもし出している

 近くに勤めていながら、知らないことが多い名城公園であった。
 特に名城公園フラファープラザの洋風庭園は始めてで、こんなに美しい庭園と、女性の像のオブジェの調和のとれた美しさは驚きであった。
 また、名古屋城の石垣と白鳥など水鳥が浮かぶ濠や紅葉、それに、お城らしい静かなたたずまいに、威厳と歴史を感じさせる、美しさであった。
 どこのお城でもそうであるが、お城は人々をひきつける、大きな魅力を持っているように感じてならない。
 それに、なんといってもお城には天守閣があり、それを支える石垣や濠など、周りの景観とうまく調和できるように、築造されているように思える。
 今回の私どもの気ままな旅では、名古屋城内の見学は出来なかったが、いつかの機会には訪れたいと思う。
 満足感を味わいながら、名城公園の散策を終えた、私たちは次の目的地である岐阜県に向かった。

 

魅力ある浜名湖と海道が支える文化

2008-11-24 13:08:49 | 気ままな旅
 11月10日 新居関所の見学を終えた私たちは、近くにある浜名湖弁天島を訪れた。
 現在の浜名湖は、湖の面積としては日本で10番目の大きさである。
 形は複雑で、4つの枝湾(水域)を持ち、湖の周囲長は日本では3番目の長さとなる。
 浜名湖周辺は漁業資源も豊富で、ウナギ、ノリ、牡蠣、すっぽんなどの養殖も盛んに行われ、湖口の今切口周辺は、釣り公園として整備され、今切口の突堤の先端まで、多くの釣り客や、家族連れなどで賑わいをみせている。
 また、浜名湖は浜名湖周辺はリゾート地として開発されている地域も多く、ボートやヨットなどのマリンスポーツも盛んに行われ、季節によっては海水浴場や、潮干狩りなども、弁天島を中心に賑わっている。
 温泉地としても、奥には館山寺温泉、南には弁天島温泉が有名である。
 交通面おいて浜名湖一帯は、日本の東西の大動脈として整備されている。
 北には東名高速道路、南には新幹線やJR東海道線、それに1号線と、海岸沿いには、片側2車線で、高速道路並みの走行が可能な1号線バイパスが整備されている。
 私達は浜名湖畔から1号線の西浜名橋を渡り弁天島に入った。
 目の前には、高層のマンションやホテルが建ち、浜辺には、ひっそりとした海水浴場が広がり、その横では釣り人が、数本の釣竿をたれている。 
 潮のひいた湖の中に、赤い鳥居が堂々と立ち、浜名湖今切口の上を、一号線バイパス浜名大橋が横切り、数台のトラックが通行している。
 何か異質の組み合わせのように思えてくる。
 観光を終えた私達は、先ほど通ってきた一号線西浜名橋の北側に架かり、公園として整備されている旧架橋へと足を進めた。
 旧架橋の前には、東海道線と新幹線の鉄橋が架けられ、新幹線や在来線の普通電車が、轟音と共に通り過ぎて行く。
 橋脚と橋脚の間には、浜名湖の青々とした湖水が流れ、そこを、波をたてながら行き交う船や、鉄橋の上を真っ白で、流線型の美しい形をした新幹線が、流れるように通り過ぎていくさまは、暫くの間、私達をひきつけてやまなった。
 旧架橋の上での散策を楽しんだ私達は、浜名湖畔の西側の道を、湖口の方に向かって行った。
 少し行った所に、数人の人間を縦に並べ、木彫りで色彩豊かに表現した塔が建ち、その横には今切湊の碑が建てられている。
 ここは新居弁天島海浜公園に属し、前には海水浴場があり、浜名湖をはさんで弁天島温泉の林立した建物が見えている。
 どうもここは、江戸時代に栄えた今切湊の跡であるらしい。

               
               浜名湖の弁天島・今切口(湖口)の地図
 湖の中ほどの島に赤い鳥居がある。
 今切湖口の上にあり左右の赤い二重線が一号線バイパス浜名大橋である。 
 浜名大橋の下で浜名湖と遠州灘を結ぶ水路が今切口で、中央にある赤い点線の東側が舞阪港、西側が新居港である。

          
 釣り人の前に立つ弁天島の赤い鳥居(正式名は浜名湖観光タワー)奥の道路は一号線バイパス浜名大橋

          
            繋留する2艘の船と浜名湖鉄橋を通過する新幹線 
 
 明治に入り浜名湖の東西を結ぶ、道路や鉄道が開通し、人々は安全に往来できるようになった。
 それに伴い今切れの渡しは衰退していった。

          
          浜名湖鉄橋で上り下りの白の真新しい新幹線が行き違う

          
              新居弁天海浜公園から弁天島を望む

          
           新居弁天海浜公園にある海の東海道 今切湊の碑
 
 今切湊は浜名湖の今切口(いまきりぐち=遠州灘との湖口)に面した場所に位置し、新居湊とも呼ばれていた。
 今切湊は室町時代に浜名湖と太平洋がつながったことで、港として利用されるようになり、江戸時代には近隣の港や江戸・名古屋などへ輸送される物資の積出港として繁栄する。
 しかし、宝永4年(1707年)の大地震で湊口が浅くなると、船の出入れが不自由になり、今切湊はしだいに衰退していった。
 そこで新居宿で旅篭を営む中山屋孫次郎親子が、15年にわたり、今切湊の改修に尽力され、遠州灘に位置する海の東海道の要所の港として発展する。
 明治7年(1874年)に浜名港に改称され現在に至っている。

          
               新居弁天海浜公園からの弁天島方面 

          
           新居弁天海浜公園の海水浴場から望む浜名湖と弁天島

 元々の浜名湖は、天竜川が造ったといわれている。
 氷河期が終わり、海面が上昇してきた。ほぼ今の状態に近い海面であった。
 暴れ天竜で知られる天竜川は、現在は上流に佐久間ダムが造られ、すっかり牙を抜かれているが、それまでは日本三大急流の一つであった。
 当時の天竜川は、現在の流れ筋ではなく、浜名湖方面にも流れ、急流から大量の土砂を海に吐き出していた。
 その結果、大きな湾は永い悠久の歳月をかけて、しだいに口を閉じて浜名湖が誕生したといわれている。   
 当時の浜名湖は、湖面のほうが遠州灘の海面より高く、浜名湖から流れ出る浜名川通じて、遠州灘とつながっていた。
 従って、遠州灘の海水が浜名湖へ逆流することはなかった。
 ところが、明応7年(1498年=室町時代)に起きた大地震に伴う地盤沈下により、湖面が下がり、海水が流入しやすくなった。
 その後も永い年月の間に起きていた、暴風雨による土砂災害によって浜名川が埋まり、流水の出口を失った浜名湖は、しだいに水が溜るようになった。
 それに伴い、浜名湖と遠州灘を隔てた、地盤の弱い部分が決壊し、現在のような汽水湖になったと言われている。
 弁天島を残し決壊した場所が、今切(いまぎれ)れと呼ばれ、渡し舟で往来するようになった。 今切れは、文字通り自然災害などの影響で「今切れた」と言う意味らしい。
 この浜名湖には弁天島をはさみ新居と舞阪の二つの渡しがあり、東海道を陸路で往来する人は、新居の関所とこの二つの渡しを渡らなければならなかった。
 また、外海とつながる今切口は、浜名湖と遠州灘における潮の干満により、2mを越える波と、激しい潮流が渦を巻き、東西交通の要所でありながら、難所として広く知られていた。
  
          
           海釣り公園 週末には釣り客や家族連れで賑わっている
 
          
       海釣り公園のあずまやから行き交う船と赤い鳥居のある弁天島温泉 

          
       海釣り公園内の家族連れの人たちと、竿をたれ釣りを楽しむ人たち

          
           公園前の新居港水路を猛スピードで通過する幾艘の舟

          
       弁天島をはさみ左側の新居港と右側の舞阪港の分岐点に立つ白い灯台

 遠州灘から浜名湖にボートなどの小さな船ではいる祭には、200mの幅をもつ今切口を通らなければならない。
 遠州灘に面する今切口は波が高く潮流が激しい。
 深さも西側が浅く白波が立っている為に、入港の祭は東の赤い灯台を回り込み、今切口の中央に白い灯台の立つ導流提に向かって進み、そこで西側の新居港と東側の舞阪港へと向かう。 

          
      新居港と舞阪港の分岐点である白い灯台と赤い鳥居・弁天島温泉を望む

          
            国道一号線浜名大橋下の今切口を行き交う舟と杭

 現在の今切れ口の導水提は昭和31年(1956年)に建設されたものであるが、それまでは、遠州灘から直接波が打ち寄せる為、航路に沿って手前にあるような杭がびっしりと打ち込まれていた。
 この杭は江戸時代から続いていたと思われ、当時の名画家である広重の版画 「舞阪」の手前にその杭が描かれている。

          
              速い潮の流れの今切口からの浜名大橋
          
        今切口と対岸の先端にある赤い灯台 かなり速い潮が流れている

 浜名湖の今切れ口から遠州灘にかけて、引き潮の時の潮の流れが速く、遠州灘から打ち寄せてきた波とぶつかり、大波を発生させ、船舶にとっての注意ポイントだと言われている。

          
          今切り口から対岸の東方向の遠州灘(東は御前崎まで続く)
 
 遠州灘は狭義では東が静岡県御前崎、西は愛知県伊良湖岬の総延長120kmにある海域をいう。広義では東が伊豆半島石廊崎、西が三重県大王崎の180kmの海域をいう。
 江戸時代には、河村瑞賢により西回り航路が開発された。
 その発端となったのが、山形県の米をどうして江戸に運ぶかという大問題が発生、その結果、酒田市から瀬戸内海を経由して上方(大坂)に入り、江戸に運ぶ航路が開かれた。
 その折に大阪湾から熊野灘、遠州灘、相模灘を経由して江戸に入港することになる。 
 熊野灘はリアス式海岸が多く、岩礁が多い一方、天然の良好も多く、風待ち港の少ない遠州灘よりも、航海は楽であったといわれている。
 この今切湊は東西拠点の中心に位置していたために、重要な拠点として賑わいを見せていたものと思われる。

          
           今切口から西方向の遠州灘(西は伊良湖岬まで続く)

          
  今切り口から対岸の赤い灯台、この先で浜名湖の潮流と遠州灘の波がぶつかり波が高くなる

          
       浜名湖今切口の遠州灘に面した最先端 季節を問わず釣り客で賑うポイント

          
           今切口からの浜名大橋 この近辺は絶好の釣りポイント

 浜名湖の今切口は、黒鯛、スズキ、マゴチなどの絶好の釣りポイントとして知られ、県内外から日夜を問わず多くの釣り客が訪れている。

 前回、新居関所の項について色々と調査していて、江戸時代の陸の街道に興味が湧いてきた。
 今回、浜名湖の今切湊から、江戸時代の海の街道はどうだったか! 少し調査してみた。
 詳しい資料は見つからなかったが、徳川家康によって江戸に幕府が置かれ、上方(関西)から江戸まで多くの貨物の搬入が必要であった。
 勿論、航路の開発も重要で、秋田・山形から瀬戸内海と大坂を経由して江戸に至る西回り航路と、津軽海峡を東に廻り、太平洋を南下して江戸に至る、東回り航路が開発された。
 この航路開発により、大量の荷物の搬送を受持つ問屋が出現、大坂で二十四組問屋、江戸で十組問屋が結成され、菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)などの大型の廻船(貨物船)が投入されている。
 これらの大型廻船によって、上方から江戸まで、地方米などの荷物と、池田や灘で生産された「下り酒」という酒樽が、大量に輸送されるようになった。
 その後も、航路は北海道まで延長され、北前航路と呼ばれ、大坂に荷物が集中する航路となった。
 大坂と江戸間の流通が巨大化、東廻りを大きく上回る輸送量をもつ、海の大動脈が実現した。
 北海道から九州まで、日本の全長は2000kmをゆうに超える。
 この中に大小さまざま島、山があり、海道がこれを結んでいる。
 当時の日本の人口は、近世初期に約1500万人、幕末には3500万人余の国であった。
 大きな荷物は陸路で運ぶことが出来ず、ほとんど海路で運ばれ、海道にまつわる造船や航海技術などの文化が、日本を支え続けている。
 海の御番所を伊豆半島下田港に置き、江戸に入る船に「あやしい者や武器などを積んでいないか!」 厳しい検問を行っていた。
 検問に関しては、定期貨物船の船荷に対する取調べは、そんなに厳しくなく、武家の江戸を出て行く女や子供、江戸に入ってくる武器の検問は厳しかったようである。
  当時の下田港は、海の関所の役目を果たしていた。 
 東北地方から江戸に向かう船も、一旦下田港に入って御番所の調べが必要であった。
 当時は全て帆船で、風向きが悪いと途中の港に入って風待ちをしなくてはならなかった。
 大坂から波の荒い熊野灘や遠州灘を、無事に乗り切って下田港に入ると、ほっと一息されたといわれている。
 ところが、江戸に向かう場合、相模灘は遠州灘と風向きが違うことが多く、下田港で幾日も風待ちの日が続くことが多かった。
 下田港に入る船も一年間に3000艘を越え、大変な賑わいであったが、その後御番所は神奈川県の浦賀に置かれ、海の安全を守るようになったと伝えられています。
 私は予てより江戸時代の陸や海の道について興味をもっていた、今回もたまたま、気ままな旅をしていて興味が湧き、今回の投稿となった。
 
 
 

 

 

     

 

休館日に訪れた新居関所と当時の宿場や街道

2008-11-20 18:31:00 | 気ままな旅
 11月11日(月)昨日と同じく、浜名湖畔にある道の駅「潮見坂」で車中泊をしていた。
 昨日は午後から浜松市内でビジネスがあり、8時半頃までかかってしまった。
 ビジネスが終わった後、今日はどうするか決めあぐねていたが、時間も経過していることから、昨夜と同じ道の駅「潮見坂」で宿泊することに決めた。
 浜松市内から道の駅へ向かう道中、ラジオからプロ野球日本シリーズ 「巨人対西武」 の実況放送が流れている。
 試合の回もつまり、熱戦になっているようだ。
 こんな試合展開は、野球フアンの人たちをテレビに釘付けにする、おもしろさがある。
 手に汗かく攻防が1球1球と続き、どちらが勝ってもおかしくない試合展開になっている。 
 そして、程なくして、愛車は道の駅に到着した。
 駐車場も昨日ほど多くはないが、それでも、たくさんの車が止まっている。
 私達も早速、車中泊の準備を進めていった。
 幸いにして天気も回復し、明日は良い天気になりそうであった。

 11日は朝早く目覚める。
 今日の天気は良く絶好の観光日和である。
 夕方の5時から、私がかつて勤めていた会社のOBによる、懇親会が名古屋駅前で予定されている。
 それまでには予定はなく、昨日に引き続き、浜名湖畔を観光することにした。
 妻が朝食の準備をしていた折、隣に駐車している、ワゴン車の夫婦に会った。
 70代の豊橋市内に住む夫婦で、これから1週間の予定で伊豆半島を一周してくるとのこと、一年の内、300日は奥さんと二人で旅に出ているとのことで、ほとんどが、私どもと同じように車中泊をしているとのことであった。
 穏やかで、いかにも旅好きの雰囲気のある夫婦であった。
 車の中にはすでに、ベットが作られている。
 暫く会話をした後、この夫婦はにこやか表情で出発して行った。

 私どもも、朝食を車中で済まし、早速、江戸時代に厳しい検問で有名な、新居の関所を観光することにして出発して行った。
 新居関所は道の駅「潮見坂」から、浜名湖方向に15分ほど行った所にあった。
 道路の側に駐車場があり、その前には、関所の建物に配慮して、うまく調和させた新居町消防団第一分団の、和風の綺麗な建物があった。
 駐車場の西側には新居関所が、格子の塀や黒で出来た門に囲まれ、広い敷地内の中央には、平屋の建物が建てられている。
 この関所の光景が、周囲一帯に異様な雰囲気をかもし出している。
 関所の建物の雨戸は、全て閉められたままであった。
 拝観券を購入に行った妻が、今日の月曜日は休館であると伝えてきた。
 残念であるが、いたしかたなく、外からの見学となった。
 新居関所の撮影した写真を見ていて、私は江戸時代の関所や、この時代のビジネスや旅行などについて、もっと知りたいと興味が湧いてきた。
  
  
           
        隣接する新居町消防団第一分団の周りの景観を意識して造られた建物

           
       道路沿いに建つ「新居関所」の看板 街道や港の道しるべの常夜灯

          
               黒で異様な雰囲気のある新居関所正面入口

          
                新居関所の西方向からの景観

          
          新居関所の東方向駐車場からの景観・手前には堀がある
 
 元々関所は畿内の都を防御する為に、重要視され、交通の要所に設置された、微税や検問の為の施設である。
 日本では古代から制度化されており、東海道の鈴鹿関、東山道(ひがしやまみち=中山道の前身)の不破関(ふわせき=現在の岐阜県関が原町)、北陸道の愛発関(あらちのせき=近江国と越前国の間)が置かれていた。これを三関という。
 戦国時代には、天下統一事業を遂行した織田信長や豊臣秀吉によって廃止されたが、江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事、防犯上の必要性から再び設置された。
 主な関所は、東海道では箱根関や浜名湖畔の新居関、三重県の鈴鹿関である。
      中山道では群馬県と長野県軽井沢との間にある碓氷関や、長野県の福島関である。
 これらの関所を通行するためには、通行手形が必要であった。
 特に、江戸から西方へつながる東海道の関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。
 これは 「入鉄砲出女=いりてっぽうでおんな」 と言われ、江戸在住の大名の妻が、密かに領国へ帰国することと、幕府は外様の諸藩が、江戸で軍事活動をすることを恐れ、鉄砲などの流入を厳しく規制した為である。
 
 また、五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)にあたる宿場の整備は、徳川家康によって順次整備されていった。
 東海道においては、品川から大津までは五十三次、中山道は六十九次の宿場と定められ、順次整備されていった。
 宿場では公用人馬継立ての為、定められた人馬を常備していた。
 公家や武士の宿泊、休憩の為の問屋場、本陣、脇本陣などが置かれていた。
 
 宿場の諸施設は
  ●問屋場 ー 人馬の継立、助郷賦課などの業務を行った。
  ●本陣  - 武士や公家用の宿泊休憩所。
  ●脇本陣 - 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いている時は一般旅行者も泊めた。
  ●旅籠  - 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。
  ●木賃宿 - 一般旅行者用の自炊宿泊施設
  ●茶屋  - 旅人向の休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っている所。
 以上のような施設が宿場には整っていた。
 大名の畿内方面から江戸を目指す場合は、主に東海道を通行したようであるが、
 一般の商人や旅行者は、ほとんどが中山道を利用したとの記述がある。
 なぜ起伏が激しく、冬場の季節が悪い中山道を利用したのであろうか!
 一説に、東海道を選べば、難所の大井川を越えねばならず、大井川を渡れば、船賃か、人足への祝儀(水祝い金)が必要であった。
 また、大井川はしばし増水に見舞われ、その都度、旅行者は「川止め」の優き目に遭わねばならなかった。
 
 当時の川止めの状況を、旅行者達は 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と嘆いて詠んでいた。
 
 特に、任務をおった者や旅を急ぐ者にとって「川止め」ほど不安定要因はなかった。
 このように一般の旅行者は、東海道を通行する場合の高いリスク避け、中山道に足を運んだようである。

 川の難所であった大井川にも、明治12年に待望の「蓬莱橋」という木橋が架けられた。
 長さ891mでギネスブックにも載る、木造製で世界一の長さを誇る橋である。
 
          
          東海道五十三次 渡舟場から関所を通って西へ向かう大名たち

          
               東海道五十三次 荒井 渡舟の図
 
 新居宿 地震及び津波などの災害によって、宿の位置は二度変わっている。
 宿には新居の関所と渡船場があり数百艘の船を有していた。
             
 この時代は、現在のような旅行は、ほとんど行われておらず、旅行と言えば、神社仏閣への御参りであった。
 お伊勢参りや熊野詣・善光寺や日光東照宮といった有名寺社への参拝であった。 また、富士山や御嶽山などの、山岳信仰も盛んであった。
 このような御参りは、広く普及しており、関所も比較的簡単な手続きで、通行を許可していたようである。
 商人などの武家以外の通行は、そんなに厳しくはなかったようであるガ、武家の女子に対しての通行は特に厳しかったようで、あの将軍家茂に嫁いだ和宮の一行さえ、側近の女性達への厳しい検問を、煩わしく思ったのか、東海道を通らず、中山道を通行して江戸に入っている。
         
 新居関所の見学から思わぬ方向へ話が飛んでいったが、やはり関所といえば、街道や当時の旅人達が通行する状況に、興味が湧きだし今回の投稿となった。
 
 新居関所の観光を終えた私達は、浜名湖のリゾート地として有名な弁天島に向かった。
 

    

歴史ロマンを感じさす茅葺屋根の本興寺と庭園 (静岡県湖西市)

2008-11-19 10:52:38 | 気ままな旅
 11月9日(日)豊田佐吉記念館を見学した私たちは、次の訪問先として、同じ湖西市内にある東海地方の古刹として知られている本興寺を訪れた。
 豊田佐吉記念館から10分程行った、湖西市内の中心部に本興寺はあった。 
 本興寺の歴史は古く、永徳3年(1383年=南北朝時代)に日乗聖人によって開山された法華宗の寺である。 
 戦国時代には駿河の今川氏をはじめ、周辺の地区に居住していた多くの豪族から、外護を受けていた。 
 なかでも文明年間 (1469~1487年=室町時代・応仁の乱が終わり、戦国時代が始まる) には、本興寺五世である日暹聖人(にちせんしょうにん) が傑出していた。
 三河国西ノ郡(現愛知県蒲郡市)の城主をはじめ、三河・遠江の有力な武将などが、本興寺 日暹聖人に帰依し、以来、東海地方における、布教の拠点としての地位を占めるにいたっていた。
 江戸時代には、徳川家康から御朱印地を受け、十万石の格式をもって遇され、葵の紋の使用も許された。
 寺域は26000坪余で三方を山で囲まれ、春は桜やみやまつつじ、秋にはもみじと四季折々の趣がある。
 本堂が国の重要文化財に指定されるなど、多くの国・県・市指定の文化財を保有している。
          
          
         本興寺惣門の全景(延宝2年(1674年=江戸時代)に作られた 
          
          
 本興寺の正式名は「常霊山本興寺=じょうれいざん ほんこうじ」で、その惣門(湖西市定文化財)である。

          
   惣門をぬけると砂利が敷かれた参道があり 本堂に向かって真っ直ぐに延びている。

          
       砂利道の参道から巨木が両脇に立つ石段があり、本堂の境内に入る           

 惣門をくぐると砂利道の参道が、本堂に向かって真っ直ぐに延びている。
 参道の両脇には、幾つかの伽藍が建ち、側には四季折々に咲く、桜やツツジ、バラなどが植えられている。
「玉葉院」の伽藍を通り過ぎると、公園があり、遊具も設置されている。
 小さな子供達が訪れ、遊具などで遊んでいる光景が目に浮かんでくる。 
 私たちは参道をさらに進んで行く。
 本堂を取り囲むように杉の巨木が林立しているのが見えてくる。
 茅葺の屋根には苔が生え、国の重要文化財に指定されている本堂が、はっきりと姿を現している。
 参道と境内の間には、五~六段の石段があり、両脇には杉の巨木が並んでいる。 石段を昇ると、そこは広々とした本堂の境内である。
 数多くの巨木がたち、茅葺で苔のある屋根を持つ本堂を、広々とした境内、ひっそりとした伽藍が取囲んでいる。
 そこは、古刹としての本堂の威厳に満ちた風格と、永い歴史ロマンを感じさす、独特の雰囲気を境内全体にかもし出している。
 私が今まで見てきた寺のなかで、茅葺の屋根をもつ建築物は少ない。
 茅葺の屋根は、黒瓦屋根と違って、何かしら人間的な温かさと、身近さを感じさしてくれる。
 広い境内の右側には、鐘楼堂や茅葺屋根の客殿があり、巨木の中の奥には、落ちついた、たたずまいの伽藍が、清閑な雰囲気を漂わしながら建っている。
 また、境内左側には、巨木が鬱蒼と茂って薄暗く、その奥には伽藍が点在し、霊気のような雰囲気が漂っている。
 
          
            国の重要文化財に指定されている茅葺屋根の本堂

          
  茅葺屋根に根付いた苔が本堂や巨木の中の境内に威厳な雰囲気を漂わしている。

          
      木造建築のすばらしさを実感させる細工が施されている本堂軒の部分

          
                  本堂の右方向にある本堂客殿

 客殿は寛永14年(1637年=江戸時代で島原の乱が発生、宮本武蔵が生きていた頃)本興寺13世 日渕聖人(にちえんしょうにん)によって建立される。 安永2年(1773年)に再建される。
 比較的古式な客殿であるが、18世紀後半以後のものと推定され、江戸時代の特徴をよく示しているといわれている。 屋根はは函付萱葺き(はこつきかやぶき)である。

           
巨木の根の部分から湧き出て苔に覆われた水場 延宝2年(1674年)豪族夫人の発願で建立された鐘楼堂

          
                大書院の窓からの庭園を望む

 本堂の参拝と見学を終えた私たちは、遠州流の名園で名高い庭園のある大書院を訪れた。
 入り口で拝観料300円を支払って、院内に入って行った。
 入り口で 「院内の絵画等は全て写真撮影禁止です」 といわれ、写真が投稿できないのが残念である。
  江戸末期を花鳥山水で飾った谷文晁(たにぶんちょう)と言う、文人画家によって襖絵などが描かれている。
 文晁が精魂をかたむけて描き、雄渾な筆致が「四季山水図」の壁画と襖絵十五面に見られ、文晁晩年の最高傑作と言われている。
 これらの絵は世間から高く評価され、本興寺は一名「文晁寺」とも呼ばれている。

           
          大書院からの庭園を望む  奥書院からの庭園 奥は客殿の屋根

 この遠州流庭園は慶長14年(1609年=安土桃山時代)小堀遠江守政一の作。
 庭園は大書院と逆L型の位置にる奥書院に面し、楕円形の池泉をかかえ、背後の自然の山林を借景にして深山幽谷の趣を表している。
 木石の配置も巧妙で、いずれの方角から見ても美しく、蓬莱式池泉鑑賞式庭園とのことである。
 その閑静なたたずまいは、歌人 北原白秋にも詠まれている。
 「水の音 ただ一つぞ 聞えける その外は何も 申すことなし」
               
          
           大書院からの庭園、池には水草が一面に生い茂っている

          
             奥書院の手前にある枯山水の手法を取り入れた庭園

          
                大書院の前にある築山の蘇鉄と庭園

          
          奥書院の前にある灯篭と枯山水の河を横切る松の樹と枝ぶり

          
         奥書院の前にある池の中島に架かる石橋と大きな曲線のある池

          
        中島と曲線を描きながら作庭された池、幽谷深山を現す池の奥域

          
   池の中島には石橋と築山が作庭され無数の石と枝ぶりの良い松が配置されている

          
          奥書院の部屋より蘇鉄のある庭園を望む、奥の屋根は客殿

          
            奥書院の畳の部屋と引き違いの障子から庭園を観る
              
 
 本興寺の庭園は、次のビジネスの予定が入っているために、ゆっくりと鑑賞する時間がとれなく慌しい見学となった。
 その為に、日本庭園のもつ美しさや良さ、心の落ち着きなどを感じることが出来なかった。
 また、季節の違う時期に訪れ、じっくりと鑑賞したいと思った。

 
 
 

物づくりの原点! 「豊田佐吉記念館」

2008-11-17 10:52:10 | 気ままな旅
 11月8日(土)今日は一日中雨が降ったり、やんだりの、あいにくの天気になっている。 これから仕事をはさみながらの気ままな旅に、浜松方面へ出かける予定である。
 ほどなくして出発の準備も整い、午後7時00分、大阪の自宅を妻と二人、愛車エステイマで出発する。
 いつものように阪和自動車道 → 西名阪道 → 名阪国道(R25) → 東名阪道 → 伊勢湾岸道→ 豊明IC → R23 → 蒲郡(がまごおり)→ 豊橋→ R1→ を通行し、浜名湖近くの道の駅「潮見坂」に午後10時30分頃に到着する。
 今日は明日の予定も考え、この道の駅で車中泊をすることにしていた。
 この道の駅は場所がいいのか、いつも駐車場は満杯である。
 車中泊している車も多く見かける。
 キャンピングカーやワゴン車も多く、一般車はガラス面にカーテンなどの細工を施している。
 私達も早速、愛車専用に作ってある、白のプラスチックボードを車の全ガラス面に貼り付け、それにカーテンをかけるようにしている。
 こうしていると外から車内は全く見えず、それに、かなりの保温効果も高くなってくる。
 真冬時のエンジン停止状態でも、寒さを感じずに睡眠することが出来る。 (車中泊)

 11月9日(日)朝7時頃目覚める。
 夜中に降っていた雨はあがっているが、空一面に厚い雲におおわれ、今にでも雨が降りそうな天気である。
 この道の駅の南側は国道1号線が走り、さらにその南は広々とした遠州灘(太平洋)が広がっている。
 朝食後、どこに行こうか迷っていたところ、道の駅の案内書から豊田佐吉記念館が目につき、行くことにする 豊田佐吉記念館は、道の駅から20分ほど行った所の里山にあった。
 小高い丘のような山に囲まれ、山と山の間には田んぼなどの農地が点在し、里山そのものの景観をかもし出している。
 その一角に、豊田佐吉記念館はあった
 地形的には、北の山を背に、南に農地が広がる日当たりの良い場所に、記念館は建てられている。
 私達は専用の駐車場に車を止め、記念館に向かって行った。
 記念館といっても、里山によくある日本の建築家屋そのもので、庄屋のような建物である。
 門をくぐると左側に母屋があり、その前に豊田佐吉の像が建てられている。
 像の奥は、よく整備された日本庭園で、一帯に落ちついた雰囲気が漂っている。
 母屋には、豊田章一郎の表札がかけられていた。
 右側の建物が、豊田佐吉の業績を称える展示室がある
 
          
                豊田佐吉記念館の建物全景

          
                 豊田佐吉記念館の入り口

          
              庭園の前に立てられている豊田佐吉像と母屋

 私達は、豊田佐吉像の前で記念の撮影をした後、展示室に入って行った。
 
 その前に、豊田佐吉の時代背景について触れたいと思う。
 佐吉は慶応3年(1867年)2月14日に誕生している。
 明治17年(1884年)は、税の徴収が年貢米から、金銭による納税に代わった年でもある。
 現金収入のない、当時の日本の多くの農村は、極貧にあえいでいた。
 50銭、一円の税金が払えないために、田畑を売り払ったり、破産する者が続出している。
 こうした背景のもと、自由民権運動が火のごとく、地方まで広がっていった。
 それに、明治15年から20年頃には、赤痢やコレラ・天然痘などの伝染病が猛威をふるい、全国で13万人ほどの死者を出している。
 東海道線も、まだ開通されておらず、各地でレール敷設工事が行われていた。
 こんな状況下の浜名湖畔の寒村で、豊田佐吉は生まれる。
 父の伊吉は、名人の評判の高い大工であったが、村々も不景気で、とんと仕事はこなかった。
 青年になった佐吉は、毎夜、近くの観音堂で仲間達と共に、漢詩の朗読や歴史・時局についての勉強会を開催していた。
 そんな折の、明治18年4月、政府は専売特許条例を制定して、欧米諸国と同じように、発明の理念を、日本に普及させようとしていた。
 このことが常に頭にあった佐吉は、明治9年に信州の臥雲辰致(がうんたつむね)という人の、ガラ紡績機の発明を知って、胸が躍るような感動を覚えていた。
 「そうだ 織機(はたご)がある。織機を発明して、みんなを楽にしてあげよう」と考えるようになっていた。 
 発明が身近な織機(はたご)であることに考えついた佐吉は、それ以来、昼間の大工仕事の傍ら、毎夜、新しい織機の発明に全力を傾注していった。
 しかし、佐吉には、学歴も財力もなく、あるのは、「発明」という 二文字で、対象となったのは身近にあって、母親が毎日のように使っている織機であった。
 来る日も来る日も、大工仕事を終えて帰ってきた佐吉は、納屋に閉じこもり、試行錯誤を繰り返していた。
 近所の人たちにも、大工仕事をおろそかに、納屋に閉じこもり、織機の開発を続ける佐吉の姿を見て、変人扱いする、冷たい目で見るようになっていた。
 父の伊吉も、大工仕事をそこそこにする佐吉を快く思っていなかった。
 良き理解者は、いつも優しく佐吉を見守る母親であった。
 明治23年(1890年)佐吉が試行錯誤の苦労を重ね、考案した「木製人力織機」が出来上がった。
 早速、佐吉は製作したばかりの織機で、母親に布を織ってもらった。
 母親は、佐吉の発明した織機が、今まで使っていた織機とは全く違って、能率よく、しかも綺麗に布を織りあげ、その使いやすさに驚いた。
 そして、母親は、今まで佐吉の歩んできた苦心と労力が実を結び、織機と織った布の出来ばえに、大きな感動を味わざずにはいられなかった。
 佐吉は「これは発明の第一歩だ、発明に終わりはない、もっとすばらしい物を発明しよう」と新たに決心していた。

          
          展示室には佐吉の発明した織機などがずらりと展示されている 

           
          佐吉が試行錯誤を重ね最初に発明した豊田式木製人力織機

           
         生産性を大幅に向上させ、好評を得た糸繰返機を発明する(明治27年)

                     
                木鉄混製動力織機        豊田綱領
 
 明治29年(1896年)29歳になった佐吉は、ついに、日本で最初の動力織機を発明する。
 発明した織機の評判はよく、発明家として豊田佐吉の名は、世間に広く知られるようになった。
 その為にか、日本の各地から、多くの名士が佐吉の会社(工場)を訪れるようになってきていた。
 また、国家で権威ある大隈重信候は 「日本人の知恵と力を広く海外に示した」ことに対して、感銘を受け佐吉に敬意を表した。

          
              当時の世界で最高性能の完全なる G型自動織機 

 佐吉は大正3年(1914年)海外からの、綿布需要増大にともない、従来の開発してきた広幅織機に、たて糸切断自動停止装置など多くの発明を加え「N式動力織機」の開発に成功する。
 このN式織機が、佐吉が究極の目標に定めていた、G型自動織機の発明の基になっていく製品であった。
 大正13年(1924年)に佐吉は、今まで育んできた、全ての技術の創意を結集して作り上げた、G型自動織機の開発に成功する。
 G型自動織機は、当時、世界で最高性能の、完全なる自動織機として完成さした織機であった。
 この自動織機の発明は、日本における産業近代化の一端をなし、また、世界で認められ、当時のトップメーカーであったイギリスの、プラット社へ100万円で特許権を譲渡する。
 この資金が佐吉の長男・喜一郎に渡され、国産自動車の研究・開発が進められるようになっていった。
 これが現代の 世界をリードするトヨタ自動車のルーツである。 

          
                   佐吉が父親に隠れて発明に没頭した納屋

 佐吉は大工修行の出された先や、この納屋で、父親に気付かれないように夜なべをして、手織機の(はたご)の研究・考案を重ねて構想図をまとめるのに奮闘する。
 出来上がった構想図に基づき、組み立て作業をするが、当初は壊すことの繰り返しであった。

           
       佐吉が発明に没頭した納屋の内部  母屋から納屋までの通路

          
             現在の佐吉生家の上にある元屋敷跡

          
            元屋敷跡の敷地内にある 豊田佐吉生誕の地 記念碑

          
              広い敷地内に立てられている佐吉の生家

 佐吉の父・伊吉が佐原家から独立して、豊田家を継いで住んいた所である。
 後に、トヨタ自動車を創設した佐吉の長男・喜一郎もここで生まれた。


          
         生家屋敷内では 外国から来た子供達に、凧作り体験が行われていた

 生家の内部には外国から来た多くの子供達が、凧作りを楽しんでいる。

 入り口の土間の壁には、当時使っていた、数多くの農具が展示され、その奥には釜戸がそのままの形で残されている。
 居間奥の板の間には、織機が置かれ、母親が布を織るシーンと、布を織っている母親の肩に手を置き、温かく見守る、佐吉の姿を再現している。
           
          
             生家屋敷内で外国の子供達に凧作りの指導する人            

          
                休憩室では機織(はたおり)体験もできる  

           
           百折不撓(豊田佐吉伝より)  報恩創造(豊田章一郎)

 佐吉の生家からの帰り道の道脇に「百折不撓」と「報恩創造」を書いた碑があった。
 「百折不撓」は、どんな苦難であっても、最後までやり通す不屈の精神を現している。
 これは佐吉の人生そのものを、表しているように思える。
 また、「報恩創造」に関しては、常に顧客に感謝しながら、顧客に求める物を創造し、造って行く製造メーカの基本姿勢を表しているように感じる。
 豊田佐吉記念館の見学を終えた、私は、この記念館は、世界をリードするトヨタグル-プの方達だけでなく、全ての物造りに携わる人たちに、教訓を与える記念館であることが理解できてくる。
 やはり、我々はいつの時代においても、このような施設から、学ぶことを忘れてはならないと思った。
 物作りの基本は、移り変わる時代の流れや、日進月歩で改革され、革新されていく技術を学び、しっかりと掴みながら、創造性を膨らませ、実践することに他ならないと思った。
 昔からの格言にある「温故知新」の言葉の大切さを、あらためて感じさずにはいられなかった。


豊田佐吉とトヨタ源流の男たち
小栗 照夫
新葉館出版

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ユニークな仲間たちとのひと時

2008-11-06 18:12:07 | 今日の出来事
 11月2日(日)今日は南大阪にある仲間の家で、ガーデンパーテイが開かれる予定になっている。
 今回の仲間達は、南大阪の街に来て知り合った人達で、それまでは全く面識がなかった人たちである。
 私の場合は、数年前に妻が出かけて不在の為、往き付きの店で夕食をしようと出かけたところ、たまたま、その店が休みで、仕方なく他の店に行こうと思って、探している間に立ち寄った店である。そこから付合いが始まった。
 この店は小さな居酒屋であるが、愛嬌のいいママさんが、客達と上手に付き合い、雰囲気の良い店であった。
 当然、客筋の良い常連客が多くて、客同士のコミニケーションも円滑に行われているように感じる。
 店と客や客同士の仲間意識も感じられ、気どらない、ざっくばらんの人間味のする店でもある。
 通常の居酒屋では、その店で飲食して終わりになるが、この店は違っていた。
 店の閉店休業日に、色々な特色のある行事が、客達から提案され、ママさんがまとめられて、実行に移されていく。
 行事の内容も豊富で、しかも幅広く、中身に味があり、多くの人たちが楽しめるように企画されている。
 従って、行事に参加する人たちも多く、家族連れの人たちや、単身の人たちなど様々な人たちが参加、雰囲気的にも自然と盛り上がっている。
 たとえば、今回のバーベキューであるが、店で買った食材は少なく、海の幸や野の幸などは、自分達で用達したり、栽培した物を持ち寄ってくる。
 ある意味で考えると、プロフェッショナルやエクスパートに近いような人たちが集まり、食材などの役割を分担、各々が得意な分野で力を出し切ってくれているように感じる。
 竹の子狩りでは、竹の子の山を持っている方と親しい方がいると、交渉して竹の子狩りと、楽しいパーテイも、現地で一緒に出来るようにするなど、全ての面での段取りが、手際がよく実行され、ムードを盛り上げてくれている。
 料理の面でも女性達の奮闘と、プロ顔負けの味の良さにも驚かされる。
 コンロや冷蔵庫などの備品関連でも、どこから持ってくるのだろうか! 
 まるで屋台のごとく現地に整い、パーテイがいつでも始められるように手際よくやってのける。
 男性の包丁さばきの見事な人も数人がいるように感じる。
 一般の人には難しい、魚貝類や肉なども、簡単に調理してやってのける。
 今回は、今までやってきた行事の中から、主だったものを紹介いたします。

           
            みんなで持ち寄った産物 海の幸 野の幸

          
 仲間が収穫してきた海の幸 近海での魚は小さく沖合いに出ると大きいのが獲れるとのこと

          
           収穫した海の幸 あわびとサザエを手に持って喜ぶ仲間

          
         両手にあわび、広げた手の中に可愛い女性がいて満面の笑顔

          
               見事な包丁さばきで ? うにを調理する仲間

          
              持ち寄った幸の香ばしい香りが漂い始める

          
      鍬を持って竹の子堀り そうりゃー そうりゃー 急斜面の竹やぶでの竹の子堀り

          
               竹やぶの中で食事の準備をする仲間達  

          
                竹やぶの中で一段落する得意のポーズ 

          
      マイナスイオンが多いのか、竹薮の中の心地よい環境に満足する仲間達 

          
               収穫した竹の子を持って喜ぶ子供達
          
  大喜びの初めての芋堀り 抜くと時に力が入りすぎ とたんに 大きな尻餅の少女   
              
          
              みんなで収穫した芋の箱詰め作業を手伝う少女

            
  芋掘り後 アメリカからやってきた孫娘たち大きな声を出しながら エーイとスイカ割りに挑戦

            
                  花見でほろ酔い気分のママさんとメンバー 

              
               花見に訪れたメンバーのお孫さん 得意なポーズ

 上記のように主だったものを紹介さしていただきました。
 最近時々思うのですが、人間の一生って、人生ってなんだろうか!
 人間の幸せって、どういう時に感じるだろうか!
 中年から壮年の年代に入ってきた時にどう感じるだろうか! など色々と考えることがあります。
 勿論、様々な考え方や生き方があり、それぞれに自論をもっている方や、立派に生きていられる方も多いと思います。
 ここでは、自分の余暇やレクレーションの過ごし方について少し触れます。
 特に男性で、時間がありすぎて、何もしなくて一日中家でゴロゴロしていると、本人はもとより、家族までストレスが溜り、体を悪くしてしまいます。
 こういった時に一番大切なのは、人と人とのつながり、コミニケーションです。
 新聞で時々報道されますが、孤独な生活やその果ての死ほど、侘しいものはありません。
 余暇を自分ひとりで楽しむのではなく、夫婦で楽しむ、みんなと一緒に楽しんでいく姿勢が大切になります。
 別に難しく考えることはなく、自然態、自然な気持ちでいいと思います・
 仲間のことを第一に考えながら、自分ができることをしていく。
 常に前向きな気持ちで取り組み、一緒になって楽しんでいく。
 気どらずに素直な気持ちで楽しむ、私はこれで十分だと思います。
 私達のユニークな仲間たちも、自分の個性を活かしながら、こういった気持ちで楽しんでいると思っています。
 皆さんは如何でしょうか !


 
 
 
 
 



関西空港からの夕日と姪との再会

2008-11-04 23:22:20 | 今日の出来事
 10月30日(木)午前11時頃、アメリカに住む姪より自宅に電話がかかってくる。
 日本に急遽帰国し、今日の夕方、関西空港発で再びアメリカに帰るとのこと、飛行機が出発するまでの少しの時間だが会いたいとの連絡が入ってきた。
 特に予定の入っていなかった私は、早速、支度して妻と二人で関西空港へ、愛車で出かけて行った。
 姪夫婦とは、2年ぶりの再会であったが、二人ともすこぶる元気そうであった。
 姪の夫は、アメリカの大学で医学研究を続け、論文を書いたりしているらしく、帰宅が時々深夜になるなど多忙な毎日のようである。
 今回は夫の仕事関連にともなった帰国のようだった。
 来年2月にも夫の仕事の関連で、帰国するとのこと。
 姪夫婦も仲睦まじく、亡き兄が生きていれば見せてやりたいと思える程だった。
 2時間位であったが、思いも寄らない姪との再会は、私どもにとっても、大変心の和むひと時であった。
 姪夫婦と別れ、関西空港から車で帰る途中、西の空が赤く染まっている。
 淡路島の山峰に夕日が沈みかけていた。
 思わず車を止め、ご覧のような夕日を撮影することが出来た。
 姪夫婦の明日も、この夕日のように明るいものであってほしい。
 幸せへの門出を歓迎してくれているように、感じる夕日であった。

          
              姪夫婦と関西空港にて2年ぶりに再会
        
           
              関西空港の国際線前の自動車乗降場よりの夕日

           
            関西空港 国際線前の場乗降場から空港関連施設の夕日

           
             関西空港一期島から二期島淡路島の山峰への夕日

           
               関西空港一期島から二期島淡路島方面の夕日
 

初めて聴く音色 「ミュージックベル演奏会」 に参加して

2008-11-02 12:48:27 | 今日の出来事
 10月31日(金)午前10:00~12:00 まで、南大阪の団地憩いの家で、福祉会主催のミュージックベルの演奏会が開かれた。
 日頃から音楽活動に縁の薄い私どもは、どんな演奏会だろうか! 
 興味ガ湧き、夫婦二人で出席することにした。
 憩いの家には、50人程、団地の長生会の方を中心に集まっている。
 舞台となる正面、両サイドには、「証城寺の狸ばやし」の歌詞や、動物の絵などが、上手に書かれて掲載されている。
 受付では一人一人に歌詞集も配布された。
 歌集集には「春よ来い」など、懐かしい歌詞が記載され、丁寧に作成されている。

 10:00には、いよいよ演奏会が開始された、今回演奏されるメンバーは、近くにある団地住人を中心に構成している。
 グル-プ名は 「ベルサウンズ」で、今回の演奏者は15名である。
 リーダーの話によると、今回、演奏に使われているミュージックベルという楽器は、1990年代に日本で開発された楽器であるらしい。
 ミュージックベルは、35音で構成されおり、数人の方がそれぞれのベルを担当して、メロデイーやハーモニー、リズムを作っていく楽器である。
 音楽の専門的な知識や、楽譜が読めなくても、気軽に参加して楽しむ事も出来る。
 最近では、幼稚園や小中学校なども、社会性、協調性などが身につくとして、教育楽器にも指定されているようで、高齢者施設や養護ホームなどでも、取り入れられている。

 私はこの楽器演奏は初めてで、リーダーの説明を聞いていて、どんな音色か! 
 どんな演奏か! 
 興味が湧き、早く聴きたいと思った。
 演奏者は、全員、両手に違った色のミュージックベルを持っている。
 リーダーの指揮のもと演奏が始まった。
 
          
             ベルサウンズを指導するリーダー

 バッハの曲が演奏されている。
 15人のメンバーが両手でベルを持って、各々が分担しながら演奏している。
 静かで、あっさりした楽器演奏で、誰にでも受け入れられそうな音色である。
 特にクリスマスソングには、ぴったりの楽器のように思へる。
   
          
          演奏に使うベル、それぞれに音色が違い、文字や色で識別する

          
              ミュージックベルを両手に持って演奏する人たち

          
  ベルを持った手を真っ直ぐに伸ばしたり、上に高げたりして音色の強弱をつけて演奏する

          
   私も前に出てみんなと一緒に体験演奏、リーダーの指導のもと、意外と簡単に演奏できた

 ミュージックベルの体験演奏の後、女性リーダーから、音楽に合わせて、両手を動かすゲームなどを楽しく指導して頂く。
 リズミカルに決められた通り、両手を動作することは、簡単なようであるが、なかなかうまくいかない。
 会場内には、うまく出来る人、出来ない人などで、爆笑や歓声があがっている。
 特に曲に合わせながら、声を出して、このゲームをやっていると、脳をすごく刺激して、額が汗ばんでくるようだ。
 何種類か、このようなゲームを楽しんだ後、全員で12曲の歌を合唱して楽しむ。
  
          
                  歌を笑顔で上手に指導するリーダー  
 
 私の若かりし頃に、当時流行していた、歌声喫茶に何回か行ったことがあり、その時の状況が思い出されてくる。
 「春よ来い」「春が来た」「我は海の子」「証城寺の狸ばやし」「月の砂漠」「たき火」「カチューシャ」「トロイカ」
「この広い野原いっぱい」「かあさんの歌」「野に咲く花のように」「今日の日はさようなら」
 の12曲である。{/m_0057/
 やはり歌は、みんなと一緒に声を張上げて、合掌するのはいい。
 大きな声で歌っていると、何もかも忘れさして、夢中にさしてくれる。
 特に今回のように、自分の青春時代に歌った曲を合掌していると、体の中までエネルギーを与えてくれそうに感じてくる。
  
          
               ベル演奏を聴衆する人たち 

 会場も熱気に包まれ、大変盛り上がった演奏会であった。
 ホントに今回は思いも寄らない企画で、参加できてホントに良かったと思う。
 ミュージックベルを演奏する女性達も、音楽に関係のない素人の方だったように思われ、ずいぶんと練習され、努力の後を感じさしてくれる。
 また、リーダーの方の、指導力と素敵な笑顔が印象的で、大変盛り上げていただき、多いに楽しむことが出来た。
 今回、この企画をした方や、資料の準備・運営担当の方も、細部に気を使われ、運営されているようで大変良かったと思う。
 
 関係する皆さんに感謝すると共に、ホントに ありがとうございました。