気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

天下の難所 「親不知 おやしらず」

2009-09-21 17:39:14 | 気ままな旅

 2009年(平成21年) 6月23日(火)今朝は富山県滑川市の道の駅を出発してから、魚津埋没林博物館や黒部川扇状地湧水群の公苑、杉沢の沢スギ自然観などを見学、その後も入善町にある 「しょうべのま遺跡」 に立ち寄り、昼食をすました後、新潟方面に向かって国道8号線を走っている。
 富山県最後の町、朝日町を過ぎると、そこは新潟県青海(おうみ)町(現糸魚川市)で、北陸道最大の難所として全国に知られている親不知(おやしらず)子不知(こしらず)である。

          
富山県よりの国道8号線にある道の駅「越後一振の関」を過ぎ、北陸道最大の難所親不知に向かう。

 天下の険として有名な親不知、子不知海岸は、北陸線親不知駅を中心とする青海、市振間約15kmの総称で、親不知と市振の間が親不知で、親不知と青海の間が子不知と呼ばれている。

           
明治に新道(旧国道8号)が開通した折に書かれた親不知、子不知の絵図、右が親不知、左に子不知が書かれている。

          
親不知海岸の模型、上部には旧国道8号が、下の青い部分が海を表し、古道は青い海沿いに沿って造られていた。

この模型の下の部分には白いマークがつけられ、左から①②とつけられ、右側が⑨⑩⑪である。
①には弁慶の力水があり、旅人はこの湧き水でのどを潤し、親不知の難所へ立ち向かって行った。
②波除観音(海より少し上に)波に愛児をさらわれた母親が観音様に祈ると、打ち返す波に乗り、子どもが帰ってきたといわれ祀られている。
③ひげそり岩 ー 波をよけてしがみついたが、すり落ちて鬚がすり切られたという岩。この近辺一帯は「弁慶の泣き顔」といわれている。
④如砥如矢ー明治に開通した旧道の岩壁に彫られている。
⑤大懐 ⑥小懐 ⑦大穴 ⑧子穴 - 自然の摂理は見事なもので、このような天然の避難所がこの海岸には幾つかあり、多くの旅人を救ってくれている。その昔、ここに逃げ込み、一週間も出られないことがあった。
⑨長走り - 大懐から大穴までの間をいう。 最も通行の困難な所。
⑩走りこみ - 絶壁に 「南無遍照金剛」 と刻み込まれ、ここからはもう大丈夫という所。
⑪浄土 - 親不知を過ぎれば、もう極楽浄土といわれていた。

 以上のことから、この親不知を通行する旅人にとってはまさに命がけで、その旅の様子が思い浮かんでくる。

 古道で市道である 天険親不知線は、昭和61年建設省の 「道の日」 制定記念の一環として進められた 「日本の道百選」 のひとつにも選ばれている。
      
 京の都から発した古代の道、北陸道は、越中から越後の入り口市振村(いちぶりむら)に入るとまもなく北アルプス連峰の東端にあたる飛騨山脈が日本海に突き刺さるようにして落ち込むところが、天下の難所と知られた「親不知子・子不知」の海岸である。
 古道はこの海岸に沿って造られ、悲しい伝説や遭難悲話の舞台となった洞窟・断崖絶壁の海岸が続いている。

          
            北アルプス北端に位置して断崖絶壁の続く親不知海岸 
 
 このような難所である親不知、子不知の地名については幾つかの由来が伝えられている。
 
〇 まず、一つ目の由来として、
「北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから親知らず・子知らずと呼ばれるようになった」

〇 二つ目の由来は
「平清盛の弟、頼盛の夫人が夫の後を慕って親不知を通りかかった折、2才の愛児をふところから取り落とし、波にさらわれてしまった際に悲しみのあまり詠んだ
   
  「親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯の あわと消えゆく」

                  この歌が地名の由来になったといわれる」

 以後、その子供がさらわれた浦を 「親不知」 と呼ぶようになった。
 これらの伝承を元にしたものに、合唱曲 『親しらず子しらず』 (山本和夫作詞、岩河三郎作曲)がある。

            
        コミニテイロード展望台より親不知方面の景観(青海八景のひとつ)

 親不知は、「越の歴史自然ルート」 として次の文面が掲載されている。
 
「越後の 「親不知」 を私は好きである。
 美しい日本の風土の中で、私はいちばん「親不知」 が好きである。
 私は、これまで 「親不知」 を、何度 訪ねたことだろう。
 東京に住むようになってから私は、若狭(福井県)へ帰るたびに、わざわざ、北回りの汽車に乗ったのは、 「親不知」 の風光を見るためであった。
 「親不知」 は激しい断崖と荒波の海しか見えない。
 日本の中心部を横断する中部山岳地帯が、北の海へ落ち込むのはこの親不知付近である。
 山は固く、頑固な壁となって北陸道へ襲いかかるように、樹木の少ない荒ぶれた肌を見せて落ち込んでいる。」             
                 水上 勉    - 新日本紀行より ー

          
            親不知で海に突き出て造られた北陸自動車道

          
         曲くねった絶壁に造られた国道8号線の岩石避けシエルター

          
            旧8号線に造られた親不知コミニテイロードと展望台 

 昔は、断崖絶壁が日本海へ落ち込んでいるこの海岸沿いの場所に、道を造り、通行していた。
 天下の険といわれた親不知にも、明治16年、断崖を削った街道が開かれ、その後、いくつかの改良を経て、昭和48年の国道8号天険トンネルの開通により使用されなくなり、遊歩道として使用されるようになった。
 親不知コミュニティロードは、先人たちがその急峻な地形と複雑な地質に挑み、北陸地方の産業、経済の発展に貢献したことを後世へ伝える貴重な土木遺産であるとして、(社)土木学会から推奨土木遺産に認定されている。
  展望台からは眼下70mの日本海を一望でき、晴れた日には能登半島も眺望できる。

 親不知・子不知の由来となった明治までの北陸道を一世代目。
 続いて当初国道(旧8号線)としてできたコミュニティロードは二世代目。
 三世代目は現在の国道8号。
 そして、四世代目が北陸自動車道である。

          
      日本近代登山の父として名高いイギリスのウォルター・ウエストン像

 日本近代登山の父として名高い、イギリスのウォルター・ウェストンが明治27年に親不知を訪れ、彼の残した様々な功績と栄誉を賛え、明治27年7月19日(1894年)に、初めて当地を訪れた33歳の風貌と登山の勇姿を、そのまま残そうと、彫刻家 茂木弘行氏の手によって、全国でも初めてブロンズ製全身像を彫刻して、ここに記念設置されたものである。
 また、この機縁から、毎年5月下旬に 「海のウェストン祭 白鳥山山開き」 が開催されている。

 WALTER WESTON(1861年~1940年)
 イギリスの宣教師であり、明治21年~大正7年(1888~1915)の間に3度来日し、その多くの日時を日本アルプスを初めとする山岳の開拓的探検登山に費やしました。
 また、日本山岳会の設立をすすめるなど、日本登山の登展に大きく貢献しました。

                       
天下の難所も国道開通運動が盛り上がり、明治16年 断崖絶壁の難工事の末に開通、東西日本を結ぶ大動脈道が完成した。(旧国道8号線)

          
     岩壁には「如砥如矢=とのごとくやのごとし」の文字が彫られている。

 この場所は親不知の最難関「天険」の真上にあたる場所で、足下100mまで断崖絶壁が続いている。
 明治16年に絶壁を削って、今の場所の国道8号線ができるまでは、波寄せる渚が昔の北陸道であり、旅人は命がけで通行しなければならなかった。
 道路の開通を喜び、一枚岩に刻んで表したのが 如砥如矢(とのごとく やのごとし)である。
 ウェストン像を過ぎて少し行くと左側上方の壁面に刻まれている 「如砥如矢」 の文字がみえている。
 砥石のように滑らかで、矢のように速く通れる、という意味で、街道開通の喜びを表したもので、この道の開削に努力した青海の人 「富岳磯平」 の書と いわれている。

          
               昔の北陸道である海岸への降口

 コミニテイロード展望台からの景観や周辺の観光を終えた後、海岸に下りて、天下の難所といわれた古道を見てみたいと思って、駐車場から70m下の海岸まで下りて行った。
 急激な斜面で、225段の階段が続き、大小の滝が静かに流れ落ちている。
 途中には旧国鉄のトンネルがそのままな形で残されている。
 浜辺に下りていくと、日本海の波が荒々しく岩場に打ち寄せ、冬場などの気象の荒い時の状況が思い浮かんでくる。
 かつて難所といわれた古道の跡がないか、浜辺周辺を散策したが見当たらなかった。

           
           途中にある滝   旧国鉄のトンネル先には小さな明かりが見えている。   

           
         浜辺への険しい石段 浜辺の両サイドオは険しい岩場が続き古道は見当たらなかった。

          
    古道の跡を散策するが見当たらず、端は断崖絶壁でこの先まで進んで行くことはできない。         

          
           愛の母子像       親不知方面の北陸自動車道

 親不知コミニテイロードを散策した後、親不知の道の駅方面に向かって行くと、このような像が立っている 「親不知記念広場(愛の母子像)」 に到着する。
 ここは国道の改修を記念して造られた広場で、親不知はここからの眺望が一番だといわれている。
 愛の母子像が国道を往来する人々の安全を見守り続けているようである。

          
   高速道路高架橋の下に造られ全国的にも珍しい 道の駅「親不知ピアパーク」

          
               道の駅から高速道ICのランプウエイ

 天下の難所として、いわれてきた親不知であったが、難工事の末に国道8号と北陸自動車道が開通し、当地における3代に亙る道路の変遷を見ることが出来る。
 北陸自動車道は、親不知IC付近を海上高架橋により通過しており、難所におけるルート選定の苦労を偲ぶことができる。
 一方で、高速道から海岸美を堪能することも出来、景勝地となっているようである。

 親不知と同様の断崖は、太平洋側にも存在し、静岡市清水区の由比地区にある薩埵峠と、静岡市と焼津市の境界に位置する大崩海岸がそれにあたる。
 旧由比町の薩埵峠を通過する国道1号と東名高速道路も難工事の末に開通しており、この付近の東名高速道路も海上を通っている。

          
             国道8号線と海に建設された高速道路の橋脚

          
         海岸沿いの北陸道(国道8号線)を北へ行く(子不知周辺) 

          
          海岸沿い国道8号線を北上する(新潟県糸魚川市周辺)

       
 親不知の観光を終えた後、私たちは国道8号線を北上して行った。
 今回の親不知観光は、私の永年の夢であった。
 天下の険として名高い 親不知 は、 どんな所なのか! どんな地形をしている所か! 前々から興味を抱いていた。
 今回初めて訪れて散策していると、その険しは想像以上であり、命がけで通行している当時の旅人達の様子がまぶたに浮かんでくる。
 ただ残念なのは、海岸線に造られているはずの古道を、見ることが出来なかった点である。
 






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5 コメント

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うわっ! (ぴん)
2013-07-04 18:44:01
すごいですね。
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見て知って勉強になる (ひっそり)
2018-06-09 06:23:56
名所旧跡を訪ねるだけでなく、歴史謂れも含めて
旅に加えれば、旅の味わいは、倍加するようだと
おもった。という事は、景勝の地を訪ねるよりも、
昔の人や生活に関わり多い地が楽しい面白いと
いう事でしょうか?一人で合点してる。
それにしても凄い景勝地 自然の厳しい姿が見応え
二重丸デス!当方南国九州だからでしょうか、その
インパクトは、大きかった。行って見てみたいです。
美味しくて、なめるように読みました ありがとう
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古道消滅の理由 (ひろ)
2018-08-24 14:52:04
今月末に親不知子不知を訪ねるために調べていると、こちらのブログを見つけ、さらに別の方のブログのこんな記事を見つけました。ご参考に。
https://ameblo.jp/fineroad-k/entry-12213061380.html
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奥の細道 (平四朗吉政)
2020-01-04 09:46:18
こんな故事もあります。
日本刀辞典(福永酔剣博士)より抜粋
松尾芭蕉が元禄貳年(奥の細道)の道すがら越後の親不知の峠に差しかかった所、二人の山賊が表れて太刀をかざし『身ぐるみ脱いで置いて行』と脅迫した。
芭蕉は『何も金目の物は無いが、この鉄如意は九州に行った時に信国吉政が心を込めて鍛えてくれたものだ』と鉄如意をさしだした。
山賊どもはその威厳に押されたかこそこそと逃げ去った。
(如意とは読経や説法の際に講師となる僧がたずさえる棒状の具) 鉄製の如意は僧の護身用の武器ともなる。
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どこのドイツ (ガーゴイル)
2021-04-14 12:10:27
子はこの浦の波枕磯の泡と消え行くは水上勉のつついしの話の中での詩であって水上勉はイラクの人物であってイラクでの話である。
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