気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

日本の名峰「乗鞍岳(3026m)」登山その2

2011-08-23 15:17:25 | 

 乗鞍岳(のりくらだけ)は、山岳道路 [乗鞍スカイライン(岐阜県側)及び乗鞍エコーライン(長野県側)] の開通により、3000m峰で最も手軽に登れる山として、多くの人達に愛され続けている山である。 

北アルプスなど日本を代表する山岳群の大展望、夏スキーの出来る大雪渓、咲き乱れる高山植物など、楽しみの尽きない山でもある。

乗鞍岳は、中部山岳国立公園内に位置し、岐阜県と長野県にまたがり、長野県側の麓には乗鞍高原が広がっている。 

山名は、馬の背に鞍を置いたような山の姿に由来している。

乗鞍岳は、北アルプス南部の剣ヶ峰3026mを主峰とする山々の総称で、大日岳、朝日岳、摩利支天岳、富士見岳、屏風岳など23の山、7つの湖、8つの平原があり、広大な裾野が広がっている。 日本百名山、新日本百名山にも選定されている。

2011年(平成23年)8月14日(日)奥飛騨温泉郷内のオートキャンプ場で昨夜から4人で過ごし、朝早くから起床、平湯温泉街からタクシーで乗鞍スカイライン終点の畳平までやって来る。

バス終点となる畳平(たたみだいら)の標高は、2702mで、森林限界を超えた高山帯に位置している。

私は乗鞍畳平までは、過去、マイカーで何度も訪れている。(マイカー規制以前) 

最初は乗鞍スカイラインの岐阜県側が多かったが、長野県側のエコーラインも、何度も走行して畳平まで訪れている。

 何度訪れても、また、来たくなる不思議な魅力を持った山である。  

季節によって変わる乗鞍からの眺望や自然の光景は、魅力一杯で、私たちの心を引き付け、虜にするような力を持っている。

平湯温泉から乗鞍までの山岳道路から、北アルプスの山々や御嶽山などの大眺望

頂上に近い畳平の平原、それをとり囲む森林限界を超えた美しい山々や池、夏でも消えない雪

それらが うまく調和し 乗鞍独特の景観をかもしだし 訪れた人たちを魅了している。

訪れば 訪れる程 味わい深いものを感じさしてくれる。

ただ 何度も来ているのに 何か、物足りなさを感じていた。

それは、過去一度も 乗鞍岳の最高峰に 登頂してないという物足りなさである。

頂上への登頂は何故か計画する度に消えて実現していない。

今回、やっと 永年の思いが 永年の夢が実行できる時が 現実としてやってきた。

畳平バスターミナルからの風景。左が富士見岳、正面にはコロナ観測所が見えている。

 

乗鞍岳畳平バスターミナルに到着した後、出発準備を整え、同じターミナルにある乗鞍本宮 中の社で乗鞍登山と道中の安全を祈願して参拝し、午前8時50分 登山を開始する。

クマ出没注意の表示が出されている(畳平バスターミナル)

歩き始めて、お花畑寄りの歩道に近づくと、「クマ注意」 と書かれた表示があった。 近くのガードマンに尋ねてみると、

「昨日、畳平にあるお花畑にクマが出没、まだ、クマがどこにいるか確認が取れていない。確認がとれるまで立ち入れ禁止」 とのことだった。

乗鞍スカイライン(岐阜県側)及び乗鞍エコーライン(長野県側)終点の畳平バスターミナル(標高2702m)にて 後方は富士見岳(2817m)と西側の麓に帯のように見えるのが登山ルート。

 

 サー乗鞍登山開始だ、 畳平から乗鞍岳の最高点である剣ヶ峰(3026m)へは、鶴ケ池の脇から富士見岳(2817m)の山頂または西面を経由するコースと、畳平バスターミナル下のお花畑を経由するコースがある。 

お花畑のコースはクマ出没により立ち入り禁止になっている。

 私たちは、鶴ケ池の脇から富士見岳の西面を経由するコースを選び、4人で歩いて行く。 

 畳平から鶴ケ池の脇に差し掛かった頃、二人の若い女性が、池をバックに写真撮影をしている。 

私がひとことの挨拶をした後、「一緒に撮ってあげましょうか!」 というと、気軽に応じてくれて、女性のカメラで撮影をする。 

今度は私たち4人を一緒に撮ってもらった。 

その後もこの若い女性達とは、度々一緒になって、会話したり、写真を撮ったりすることになる。 

東京から来られたようで、愛らしい品の良いお嬢さんである。

畳平の直ぐ近くの東にある池、水量の多い時期は、首の長い鶴のような形をしていることから名づけられた、と言われる鶴ケ池(2694m)

 

鶴ケ池の脇の道を進んで行くと、幾種類もの花が咲いている。

名前は分からないが2700mの高山で花を咲かせ、訪れた私たちの目を楽しませてくれる。

 

鶴ケ池に咲いていた花

鶴ケ池の横に造られた幅広い登山道から正面の富士見岳(2817m)に向かって歩いて行くと、幅広い県境広場に着く、右に曲がって行くと最高点の剣ヶ峰に通じる。 

 

鶴ケ池近辺の登山道脇に咲いていた花

富士見岳西側の道から畳平バスターミナルと鶴ケ池方面を望む。左の山が恵比須岳2831m、右側が魔王岳2760m

畳平を出発して10分ほどで富士見岳下の分岐点に到着する。 右のコンクリートのよう壁に沿って行くと乗鞍岳頂上の剣ヶ峰に通じる。

 

富士見岳下の道路脇に咲いていた、可憐な花びらをつけたコマクサ

富士見岳下の西側にある道をしばらく行くと、山間の雲海に浮かぶ見事な御嶽山3067mが顔を出している景観が見られた。

雲海に浮かぶ御嶽山の眺望を楽しみながら、さらに進んで行くと残雪の残る池が綺麗な水を湛えて見えてくる。

不消ケ池(きえずがいけ)で、白い残雪が水面に映り、コバルトブルーの美しい色彩を現している。 自然が作り上げた神秘的な造形である。 後方の山頂にはコロナ観測所(摩利支天岳)が見えている。

緑の絨毯を敷いたような光景の中で、池面と残雪の美しい姿を見せる不消ケ池と不動岳2875m、後方は恵比須岳2831mの見事な景観。

不消ケ池(きえずがいけ)を右手に見下ろしながら進んで行くと、、コロナ観測所のある摩利支天岳方向の道(一般者は通行禁止)と剣ヶ峰へ通じる肩の小屋方面へと道が分かれている。 

 

乗鞍岳の東側は、長野県側になり、眼下に見下ろすような絶壁の斜面が続き、その下には位ケ原(くらいがはら)の平原が広がっている。 

平原の中には曲がりくねった乗鞍エコーラインの山岳道路があり、数代のシャトルバスが行き交っている。

乗鞍エコーラインの山岳道路(乗鞍高原と畳平を結んでいる=長野県側)

 

私たちはコロナ観測所のある摩利支天岳との分岐点を肩の小屋方面に向かって行く。 

正面には乗鞍岳の山峰が見え、その麓には大雪渓が広がり、雪渓の上で夏スキーを楽しんでいる人達が見えている。

大雪渓を抱いた乗鞍岳(最高点の剣ヶ峰3026m、蚕玉岳(こだまだけ)2979m、朝日岳2975m)の山峰と大雪渓。

多くの登山客で賑あう肩の小屋、 冷たい飲み物や軽食なども摂れる。 奥に見える赤い屋根は東大宇宙線研究所。

肩の小屋からは朝日岳の東斜面を経由して、朝日岳(正面)と蚕玉岳(左側)の窪みの部分を目指して行く。 

 

この登山道は、砂礫やごろごろした石や岩が多く歩きにくいコースであるが、一歩一歩、杖を突きながらゆっくりと登って行く。 

乗鞍岳登山(剣ヶ峰)最大の急斜面の登山道である。

上空を見上げると、朝日岳の東斜面に出来たジグザグの登山道には、子供から老人までの多くの登山客が、列をつくるようにして登っている姿が見えている。

肩の小屋から少し登った所で、ブラジル人夫婦がダウン、彼女は登山が初めてとのことで、無理からぬことか!

その後も、皆で励ましながら登って行く。

ごつごつした石と砂礫の登山道を30分ほど登った所、眼下には肩の小屋とコロナ観測所のある摩利支天岳が見えている。

肩の小屋から40分ほど登ると朝日岳と蚕玉岳の窪みの部分に到着する。

肩の小屋の反対方向には、美しい水面と残雪を見せる権現池(一の池)が姿を現し、後方には白い夏雲が覆い、その下の雲間には山々の山稜が見えている。

 視界がはっきりしていれば、この方向に名峰 白山(2702m)が眺望できるとのことだった。

肩の小屋から朝日岳2975mの東斜面を登ってくると写真中央の窪みの部分に到着する。

蚕玉岳2975mの頂上での記念の撮影、後方は乗鞍岳最高峰の剣ヶ峰3026m、右が大日岳(奥ノ院)3014m

残雪と美しい水面を湛える頂上直下の権現池(一の池)と、それを取り囲む高山帯らしい外輪山の景観

 

権現池は、乗鞍の湖沼群では最大で最高所に位置し、国内では御嶽山の二の池に次いで2番目の高さにある山上湖である。

権現池の周囲には、剣ヶ峰など八つの外輪山が取り巻いている。

 

蚕玉岳からふくらみを越え、緩やかな稜線を進むと剣ヶ峰(3026m)頂上への登り口と、下りの分岐点に達する。 左側が登り専用。

分岐点から少し登ると冷たい飲み物や記念品などを販売している頂上小屋がある。 上空には剣ヶ峰山頂が聳えている。

頂上小屋を少し登ると、剣ヶ峰頂上にある朝日権現社に、午前10時40分到着する。 畳平から1時間50分の所要時間であった。

剣ヶ峰頂上には朝日権現社と乗鞍本宮(鞍ケ嶺神社=くらがみねじんじゃ)奥宮が背中合わせで祀られている。

剣ヶ峰頂上の乗鞍本宮神社。(朝日権現社と同じ頂上で背中合わせに祀られている)

 

頂上の神社前の敷地は狭く、登頂を果たした多くの方々が参拝をしたり、記念撮影をしたりして楽しんでいる。

私たちも乗鞍本宮神社と朝日権現社に登頂御礼の参拝をすませて、しばらく頂上からの眺望を楽しんでいた。

剣ヶ峰頂上にある鳥居の奥では、「剣ヶ峰3026m」と書かれた木碑を中心にして多くの人達が記念撮影をしている。

私たちもご覧のように剣ヶ峰(乗鞍岳)頂上3026mで記念撮影する。

剣ヶ峰頂上からの蚕玉岳2979mと後方の朝日岳2975mを望む。 後方はコロナ観測所のある摩利支天岳2872m。

剣ヶ峰3026mの頂上から大日岳(奥ノ院)3014m、屏風岳2968m、その後方の薬師岳2950mを望む

剣ヶ峰頂上から 夏の発達した雲間に顔を出し、雲上に浮かんでいる御嶽山(3067m)の景観

剣ヶ峰頂上から南側の景観、南方の雲間の上空には中央アルプスの峰々がうっすらと見えている。

剣ヶ峰頂上より東側の景観、 乗鞍エコーラインと大雪渓が見えている。

剣ヶ峰頂上にいた私が、下山途中の彼女たちを偶然に発見、声をかけて撮影をさしてもらった。

東京から来た若い女性達と美しい水面を湛える権現池(二の池)のショット。何故か権現池の風景と若い女性はうまく調和しているようだ。

剣ヶ峰頂上から下山する人達、後方の蚕玉岳やコロナ観測所のある摩利支天岳が見えている。

蚕玉岳で、剣ヶ峰頂上への登頂をあきらめて待っていたブラジル人夫婦。

ブラジル人夫婦いわく 「肩の小屋からやっとの思いで蚕玉岳(2979m)まで登ってくると、その上に、高々と聳える剣ヶ峰が見えてきた。

もう、ここが限界で、上に登る気力がなかった。 ここで待っていることにした」 とのことだった。

頂上から蚕玉岳まで下山してくると、また東京の仲の良さそうな二人の女性に会った。

私たち夫婦と一緒になって記念の撮影と、眼下のエコーラインをバックにした写真を撮らさしてもらった。

二人とも礼儀正しく、性格のよさそうな可愛らしい女性である。 

この女性たちは、昨夜は麓のホテルで一泊した後、剣ヶ峰の登頂を果たし、下山後の午後12時30分発のバスで帰京されるとのことだった。

蚕玉岳から下山中に、ブラジル人夫妻の妻が、足を滑らせて尻もち、それを夫が抱きかかえるように起こす微笑ましい光景があった。

初めての登山、急傾斜地でしかも、下りの登山道、下はごろごろした石ころや砂礫で滑りやすくなっている。

その後も、三回ほど同じようなことを繰り返していたが、幸いにも全く怪我はなかった。

頂上から肩の小屋まで30分ほどかかって下山した後、少し休憩をとって、出発地の畳平方面に帰って行く。

肩の小屋からブラジル人夫婦と畳平に帰る途中に、妻と二人で富士見ケ岳2817mへ登ることにする。

(ブラジル人夫婦は先に畳平バスターミナルに帰るとのことだった)

富士見岳2817mから乗鞍岳主峰の剣ヶ峰、摩利支天岳と、眼下に残雪と美しい水面を放つ不消ケ池を望む。

帰路の道路から富士見岳には15分ほどで頂上に到着するが、登るに従って山名の由来の通り360度の景観が楽しめる山である。

石を積み上げた富士見岳頂上と、眼下の素晴らしい眺望を楽しむ人達

乗鞍岳主峰の剣ヶ峰と 「富士見岳2817m」 と書かれた木碑を中央にして記念の撮影

富士見岳頂上から 眼下の乗鞍エコーラインをバックに撮影(東側=長野県側)

畳平バスターミナルと鶴ケ池 (畳平が一番美しく見える場所と言われる富士見岳からの撮影)

畳平バスターミナルの下に広がるお花畑、お花畑にはご覧のような木道の遊歩道が整備されている。

多くの人達が訪れて木道の遊歩道を歩きながら高山植物を楽しんでいる。

乗鞍岳の剣ヶ峰と富士見岳の登山を終え、午後1時20分、畳平バスターミナルに帰ってくる。

朝の出発の折は、まばらだった登山客やバスは、ご覧のように多くの人達が訪れて賑わっている。

平湯温泉までの帰りも、ブラジル人夫妻の希望によりタクシーを利用することになった。

 

乗鞍岳からタクシーで平湯温泉まで帰ってくると、愛車に乗り換え、近くにある日帰り温泉「ひらゆの森=500円」に立ち寄った。

昨日から滞在しているオートキャンプ場は、体の洗い場がなく、女性とタクシー運転手のお勧めにより決定した。

ひらゆの森温泉は、露天風呂もあり、泉質の種類も多く、十分な広さのある温泉であった。

夏の登山で汗まみれになった体を洗い流したり、登山の疲れを癒してくれる最高の温泉であった。

 

永年の思いや夢であった、乗鞍岳最高峰剣ヶ峰3026mへの登山。

剣ヶ峰以外にも富士見岳へも登れ、過去に一度も頂上に登れずに帰って行った時の物足りさはなく、

永年の夢であった乗鞍岳の登頂を果たし、晴れ晴れとした心の満足感が私たちを覆っている。

剣ヶ峰から広がる大展望、外輪山や山上湖、夏でも解けない雪などが

しっかりと心の中にしみ込んでいる。 

富士山周辺の魅力も大きいが、乗鞍の魅力もまた大きい。

いつの日か 心の中まで魅了された私たちを、乗鞍は、再び、呼びもどすかも知れない。

そんな予感に浸りながら、宿泊地である奥飛騨温泉郷のキャンプ地へ帰って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の名峰「乗鞍岳(3026m)」登山その1

2011-08-20 22:13:00 | 

 2011年(平成23年)8月13日(土) 今朝は、かつてから岐阜県と長野県にまたがる日本の名峰、乗鞍岳(標高3026m)へ登りたいとの思いが、やっと実現する日がやってきた。  

 当初は妻と二人で登る予定であったが、妻の知人でブラジル人夫婦が2日前に急遽同行したいとの連絡が入ってくる。 その為に、いつものような車中泊での気ままな旅の予定を、オートキャンプへ変更せざるを得なかった。

 出発2日前、はたして、乗鞍岳周辺のオートキャンプ場が予約できるかどうか分からなかったが、取り合えず現地の名簿を調べれて連絡すると3件目の電話でようやく予約することができた。 奥飛騨温泉郷 「合掌の森」 オートキャンプ場である。

 昨日から、愛車エステイマにキャンプの必要機材を積み込み、今朝は日用品などの準備をして、午前7時00分頃、南大阪の自宅を出発、大阪市西区にあるブラジル人夫婦宅へ迎って行く。  

 午前8時前には到着、ブラジル人夫婦が同乗してくる。 このブラジル人夫婦は、日本にきて10年以上たっているが、今回のような旅行は初めてで、車内では、にこやかな雰囲気のもとで話がはずんでいる。

 愛車は、阪神高速道路→近畿自動車道→第二京阪道路に入って行く。 

 この地点まだは、渋滞もなくスムーズに走行していたが、京滋バイパス入口に差し掛かった所から大渋滞が発生してくる。 

 渋滞を抜けるには、バイパス終点の瀬田東JCTまでかかりそうで、結局、一時間を要した。  

 やっと渋滞をぬけ、名神高速道に入ってからも、さらに渋滞が栗東ICまで続いていく。

 栗東ICを過ぎると名神高速道路は、交通渋滞もなくスムーズに流れていく。

 30分ほど走行した所にある多賀SAで少し休憩をとることにした。 

 SA内の道路案内所で岐阜県高山市までの渋滞情報を確認する。 

 それによると 中央高速道路は、瑞浪ICを中心に20kmの渋滞が発生している。 東海北陸自動車道は、白鳥IC付近で6kmの渋滞と、高山清見IC近辺で2~3kmの渋滞が発生しているとのことだった。 

 私は高山の目的地までの幾つかの走行ルートの中で、東海北陸自動車道を選定して、多賀SAを出発して行く。

走行中の名神高速道路 前方に見える山は伊吹山(1377m=滋賀県)

 

多賀SAからの名神高速道路はスムーズに流れ、愛知県の一宮JCTからは東海北陸自動車道に入って行く。 

東海北陸自動車道の車窓からは、広々とした濃尾平野の中を木曽川が太陽光線の光を浴びながらゆっくりと流れている。 

やがて、愛車は山間部のトンネル区間に入って行く。 所々のトンネルの狭間から、長良川の清流で鮎釣りをしている方たちが見えている。

 高速道路の開通していない私の名古屋在住時代のことが思い出されてくる。 

長良川と並行して走る、風光明媚な国道156号を走行して、冬は奥美濃でのスキー、夏はひるがの高原での避暑などに、よく出かけたものであった。

 やがて愛車は、清流と夏の徹夜踊りで有名な郡上八幡を過ぎて行く。 

白鳥からは車線が対面通行で狭くなってくる。 その為にか、この辺りから、また、渋滞が発生、抜けるのに20分ほど要する。 

やがて、高速道路は海抜1000m前後のひるがの高原に向かって高度を上げて行く。 

山岳急斜面に沿うように造られた高速道路の高架橋が、独特の美しい景観を見せている。

 車窓からは、高い山稜に囲まれた山裾に、幾つかのスキー場が左右に見え、別荘の屋根が緑の森林の中に点在し、自然と一帯となったリゾート地の風景をかもしだしている。  

 さらに走行し、ひるがの高原地帯に入って行くと、赤い屋根やサイロなどの牧場が見えはじめ、数頭の乳牛がおいしそうに牧草を食べている風景に変わってくる。  

やがて愛車は、ひるがの高原SAに到着する。 しばらく休憩することにした。

ひるがの高原SA内で 後方の大日岳1709mと麓のスキー場。 ひるがの高原は四季を通じて季節の趣があり、人気も高く訪れる人も多い。

東海北陸自動車道下り線での渋滞に突入(荘川付近)

 ひるがの高原SAを出発したのは午後2時を回っている。 予約してある奥飛騨温泉郷のオートキャンプ場には、テント設営や夕食の準備などから、出来れば4時頃までには着きたいと思っていたが、少し超過しそうである。 

高速道路での、お盆時期に断続的に発生する渋滞の状況では、予定時間通りに到着するのは無理なようである。

 所々で渋滞している東海北陸自動車道を走行して行くと、愛車は間もなく高山清見ICに入って行く。 

ここから一般道で高山市内へと思っていたところ、中部縦貫自動車道(高山ー平湯ー松本)が部分開通していて、10分足らずで高山市街まで入って行く。 

この地点から、国道41号を富山方面に少し走行して、平湯温泉方面の国道158号に入って行く。

  

  車窓からの奥飛騨温泉郷近辺の山並み

 

 国道158号をしばらく走行して行くと平湯トンネルに差し掛かり、抜けると平湯温泉街が見えてくる。 

そこから国道471号を下って15分程行くと奥飛騨温泉郷の街並みがあり、スーパーで少し買い物をした後、「合掌の森」オートキャンプ場に向かって行く。 

10分ほどで森の中に出来たオートキャンプ場に、午後5時頃に到着する。

 案内所で2日分の料金2万円を支払って、指定されたオートキャンプ場内のサイトに入って行く。

支払い明細 (5000円=車サイト)+(1000円×大人4人)+1000円(電気代)=合計 10000円×2日=20000円

森に囲まれたキャンプ場内にある露天風呂(混浴)、奥には女性専用の露天風呂がある。

車3台は止められる余裕のあるオートキャンプ場サイト

 

キャンプ場のサイトに到着して、食堂として利用するタープや、テントの設営にとりかかる。 

4人で力を合わせると直ぐに出来上がり、バーべキュー用のコンロや食卓テーブル、4人分の椅子などを用意すると1時間30分ほどで全ての準備が完了する。

食事前に入口近くにある露天風呂に全員で行くことになった。 

お風呂は手前にある混浴露天風呂と、奥にある女子専用の露天風呂に分かれている。 

森の中で小鳥や蝉のさえずる声を聞きながら、静かに入浴していると、ほんとに幸せを感じる。 

ブラジル人夫婦にとっては初めての露天風呂であり、キャンプであった。 

やはり、露天風呂は最高のようで、また、来たくなる心境のようであった。

全員で入浴を済まし、キャンプサイトに帰ってくると、直ぐに夕食の準備に取り掛かる。 

30分ほどで全ての準備が出来上がる。 日も落ち、暗闇の中でのタープの淡い灯りがともり、賑やかな夕食が始まった。 

 気温は随分と下がってきている。 暑い大阪の気温のことを考えると嘘のような涼しさである。 半袖シャツでは寒いぐらいである。 

 皆で杯をかたむけながら味わうビールやワインの味は最高である。

 しかし、1時間ほど経過した8時頃には、大粒の雨が降り出し、明日の天気が気になってくる。

 夕食も終わりに近づいた10時頃、雨は、まだ、降り続けている。 

夕食の片づけをして、それぞれのベットに入って、私も横になると直ぐに眠ってしまった。 

 夜中の3時半頃にトイレで目をさまして、外に出ると、明るいお月さんが空を照らしている。 

私は直ぐに今日の乗鞍登山は上天気であると確信する。

また、ベットに戻り、横になってしばらく眠った後、午前6時には起床する。 

起床すると洗面を済ますと、早速、コーヒーなどを沸かし、朝食や登山準備を整えて、午前7時過ぎには全員で平湯温泉バスターミナルを目指して出発する。

「平湯バスターミナル &レスト&スパアルプス街道 平湯」 の景観

 

 バスターミナルに到着して駐車場を探していると、タクシーの運転手が来て、乗鞍まで6800円で行くけどどうだ! との話があった。 

バスでは2000円/一人かかり、まだ、バスの出発まで30分以上の時間があることと、山の天気は変わりやすく、午前10時を過ぎると雲に覆われて山からの景観が悪くなる恐れがあることから、皆で相談した結果、タクシーで乗鞍岳畳平バスターミナル(標高2702m)まで行くことにした。

※乗鞍岳へのマイカーによるルートは、乗鞍スカイライン(岐阜県側=全長14.4km)と乗鞍エコーライン(長野県側)の2ルートで、どちらも日本を代表する山岳道路である。

 2003年より乗鞍の自然保護のためにマイカー規制が実施されている。 

両ルートとも麓のバスターミナルにて、シャトルバスやタクシーなどの交通機関を利用することになり、一般車の乗り入れは禁止されている。

私たち4人を乗せたタクシーは、平湯温泉を7時40分に出発し、温泉街を走る国道471号から、曲がりくねった山岳道路を走行して平湯峠(標高1684m)まで登って行く。 

 平湯峠から乗鞍スカイラインに入り、終点の畳平(標高2702m)まで、わずか40分足らずの間に約1000mの高度を上げて行く日本一の山岳道路で、私たちを乗せたタクシーはスカイラインをゆっくりと走行して行く。 

高度を上げて行くに従って、北アルプスの主峰、奥穂高岳、槍ケ岳、笠が岳、焼岳など、まさに雲上の世界が眺められる。

乗鞍スカイラインは景観の美しい絶好の山岳コースである。 

 

乗鞍スカイラインからの焼岳(2393m=手前中央)、奥穂高岳(3190m=中央奥)、槍ヶ岳(3180m=左)など北アルプスの主峰を望む

乗鞍スカイラインの車窓からは、富士山のような美しい山容を見せる笠ケ岳(2898m)が見えている。

 

平湯峠のスカイラインを出発して、しばらくの間は、道路脇に背の高い樹木が生い茂り、美しい樹林帯を見せていたが、高度を上げるに従って、車窓からの景色は一変していく。  

やがて、スカイラインは森林限界を超え、さらに高度を上げていくと、背の高い樹木はなくなり、全てが低層な緑の植物に覆われ、高度な山岳地帯独特の美しい景観に変わってくる。

森林限界を超えると、このようなヘヤーピンカーブを何回か繰り返しながら登って行くシャトルバスと、高山地帯独特の美しい景観が見渡されてくる。

曲がりきった幾つかのカーブを登りきると、ご覧のような桔梗ガ原の美しい平原が姿を現し、その奥に乗鞍岳頂上の剣ヶ峰(3026m=右奥)の見事な眺望が見えてくる。

 桔梗が原の平原をさらに進むと、正面にコロナ観測所が見え、終点の畳平バスタ―ミナル(2702m)に近づいていく。 正面のコロナ観測所と手前にある不動岳(2875m)。

畳平バスターミナル直前の車窓からは、富士見岳2817mと鶴ケ池の高山地域独特の景観が現れてくる。

 

午前8時20分、乗鞍スカイライン終点の畳平バスターミナル(2702m)に到着する。 

時間が早いのか訪れている人達もまばらである。

畳平に到着して洗面や軽い朝食を済ました後、近くにある乗鞍本宮神社へ参拝する。

絶好の登山日よりに恵まれ、さわやかに流れる乗鞍の空気が、青い空の下、四方を山に囲まれた美しい景観と共に、私たちを心地よくさしてくれている。

 サーこれからが登山開始だ。 4人はリュックを背負い、杖を持って、ゆっくりと乗鞍岳頂上の剣ヶ峰3026mに向かって歩き始める。

 


かつては東京ー欧州行き国際列車連絡船が・・・敦賀港駅(福井県)

2011-08-11 10:17:19 | 気ままな旅

2011年5月4日(水) 晴れの緑の日の休日、私たちは南大阪の自宅を午前10時00分 愛車エステイマで出発、阪和・近畿自動車道から第二京阪道路・京滋バイパスを走行、米原JCTから北陸道敦賀ICまでやってくる。 

 敦賀市内で 「気比さん」 の名で、地元の人達に親しまれている気比神宮を訪れ、参拝と見学を済ませる。 

 その後は敦賀港に面した金ケ崎緑地公園内の駐車場に愛車を止め、人道の丘 敦賀ムゼウムを訪れる。 

 ここで私は初めて ロシア革命などの内戦に巻き込まれたポーランドの政治犯や愛国者の家族がシベリアに抑留され、親を失ったポーランドの孤児が、食べるものもなく、生死の極限状態をさまよっていた。 この様子と孤児の救済を依頼された日本は、ただちに孤児受け入れ準備を進め、日本赤十字や国民あげて実施した孤児救済活動が紹介されていた。 

  リトアニアの日本領事官 杉原千畝氏が発給した ユダヤ難民に対する 「命のピザ」 にまつわる話は、以前から知っていたが、ポーランド孤児救出の話は全く知らなかった。  

見学を終え、先人達の行った人道的な行為に対して、大きな感動が湧いてくる。 日本人ってたくさんいいことしていると思いながら、人道の丘 敦賀ムゼウムを後にして公園内に戻って行った。

 そして、同じ金ケ崎緑地公園の片隅に、旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)と書かれた2階建ての建物があった。 興味をひかれ館内に入って行く。 

 

旧敦賀港駅の敦賀鉄道資料館

旧敦賀港の駅舎は、かつて「欧亜国際連絡列車(新橋=東京~敦賀港駅~ウラジオストク~シベリア鉄道~ヨーロッパ)の発着駅として、多くの人々や文化を運ぶ重要な位置を占めていた金ケ崎駅(後の敦賀港駅)舎を再現したものである。 館内では敦賀港の歴史、敦賀の鉄道歴史を紹介したパネルや、貴重な鉄道資料が展示されている。

入口の上には 「敦賀港駅」 と書かれた敦賀鉄道資料館玄関口(入館料=無料)

鉄道資料館内に入って行くと、1階はごらんのような鉄道に関する信号機、服装、線路、鉄道模型などが展示されている。

鉄道資料館内の展示状況

敦賀機関区の転車台と蒸気機関車の鉄道模型

 

明治に開港指定された敦賀港の様子

1899年(明治32年)敦賀港は開港場に指定される。 「開港場」とは、外国船の入港が公式に認められた外国貿易港のことである。 明治政府によって日本全国から地理的に重要で、かつ、整備が整った港が選ばれた。

 当時、敦賀港は、港を中心とした街全体が多方面にわたって整備されていた。 国際定期便が安定して停泊できる岸壁の建設、大量の荷物を陸上輸送されるための道路や鉄道などのインフラ整備、入出国手続きを円滑にする税関設備も設置されていた。 また、人材の育成にも重点が置かれていた。

 鎖国中のわが国で鉄道のことは、通商を許されたオランダの長崎商館長の 「風説書」 を通じて知られていた。 また、漂流してアメリカに渡った者の見聞、開港を求めて来航したロシヤのプチャーチンや、アメリカのペリーが持参した蒸気車模型、遣欧米使節や留学生がもたらした知識などによって、鉄道について具体的に認識されるようになっていた。 

 福井藩では橋本左内や村田氏寿、横井小楠が鉄道のことを記している。 そして、幕末に薩摩藩や在日英国人、米国人達によって国内の鉄道建設計画が進められた。

 こうした機運の中で明治政府は、成立まもない明治2年(1869年)11月10日の御前会議で、駐日イギリス公使パークスの進言を受けて鉄道建設の方針を立てる。 

この時の計画は、東京ー京都間の幹線と、東京ー横浜間・京都―大阪ー神戸間・琵琶湖畔ー敦賀間の各支線である。

そして、明治5年9月に新橋ー横浜間に、わが国最初の鉄道が開通した。

 以後、文明開化による富国強兵、殖産産業をスローガンに、近代的中央集権国家建設のため、政治主導でわが国の鉄道建設が進められていく。

鉄道創設の立役者の大隈重信と伊藤博文

大隈重信は大蔵、民部大輔として奔走する。 伊藤博文は大蔵・民部大輔として、のち工部大輔として鉄道建設の衝に当った。柳ケ瀬隧道に 「萬世永頼」 の石額を書く。

鉄道の父といわれ日本鉄道の発展のために生涯尽力を尽くした井上勝(1843年~1910年)

文久3年(1863年)長州を脱藩し英国に渡り、鉄道、鉱山・土木について学び、明治元年(868年)に帰国し、生涯を鉄道発展に尽力した。 敦賀線の建設にも指導力を発揮した。  

井上勝は、帰国後阪神や京阪間の鉄道敷設工事に携わり、その後も鉄道局長などの重要ポストで活躍した。 中でも明治16年中山道経由と決定していた東京ー京都間の鉄道ルートを東海道に変更させ、 さらに東京ー神戸間の全線開通も先頭にたって工事を督励している。

 最近発生した中国高速鉄道の事故のすさまじさには驚かされるが、もっと驚かされるのが事故原因究明の姿勢、人命と安全を重視する姿勢が微塵も感じられず、高架からぶら下がっている事故車両を、こともなげに下に突き落とす乱暴な手法や、破壊された車両を重機で穴の中に埋め込む作業をTVなどで見ていた世界中の人達も、あっと、溜息をつかされるように驚された。

 世界最速を自慢する中国らしく事故処理も超特急であるが、事故究明、現場検証はあまりにもお粗末であり、安全を無視し、早期開通を急ぐあまり、手抜き工事やずさんな工事監理などから、高速鉄道の安全性が指摘され続けている。

 井上勝のように鉄道に生涯をかけてきた人達から見れば、中国の事故処理は言語道断で、人命を軽視した鉄道事業など微塵もなかったろうと思われる。 

 また、鉄道技術、特に高速鉄道などの技術は、一朝一夕に出来るはずもなく、井上勝のように鉄道に熱意を燃やし、鉄道に携わる多くの人達、永年にわたる切磋琢磨してきた歴史や誇りの延長線上に、人命と安全を重視した日本の鉄道技術があることを、 私たちは忘れてはならないと思う。

 敦賀に至る鉄道線が、京浜間や阪神間と共にいち早く取り上げられた理由は、古来、敦賀は琵琶湖の舟運を介して畿内と北陸地方を結ぶ交通の要路で、近世以降、蝦夷(北海道)や日本海側諸国と上方との商品流通が盛んになると、その重要性が益々増大していった。 なお、鉄道に先駆けて、敦賀半島の立石岬に灯台が建設されており、敦賀港の重要性が窺える。

鉄道錦絵「東京名所の内、新橋汐留蒸気車鉄道局停車館の真図」 歌川広重画

鉄道錦絵 「西京神戸の間、鉄道開業式 諸民拝見の図  明治10年 歌川広重画

初代敦賀港駅開業、金ケ崎・洞道間の部分開業にともない、気比神宮前に開業した初代敦賀駅/1882年(明治15年)3月10日

明治2年に計画された敦賀への鉄道は、明治13年4月に長浜と敦賀の両方から、日本人だけで工事が開始された。 明治15年3月10日、柳ケ瀬トンネルをのぞく長浜ー金ケ崎間が部分的に開通した。 新橋ー横浜間、京阪神間、北海道幌内鉄道、釜石鉱山鉄道に次ぐものである。 敦賀側には金ケ崎、敦賀、疋田(ひきた)など6駅が設置された。 金ケ崎駅は、旧陸軍砲台跡に埋立地と築堤とを造成して、駅本屋、機関庫、転車台等も造られた。 初代敦賀駅は、気比神宮南西脇に開設された。

明治15年5月、長浜ー大津間の琵琶湖上に、わが国最初の鉄道連絡船が運航され、敦賀から京阪神まで、鉄道と水運によって結ばれた。 疋田ー柳ケ瀬間のトンネル(1352m)は、難工事の末に完成し、明治17年(1884年)4月、長浜ー金ケ崎間42.5kmが全通した。

敦賀港は鉄道の開通により活況を呈したが、北陸線が次第に北進、明治32年(1899年)富山まで開通すると、国内交易は奮わなくなった。

敦賀港で行われる新造船敦賀丸の進水式で集まった群衆、1938年(昭和13年)

ウラジオストクでのシベリア鉄道起工の動きに合わせ、大和田庄七らの運動により、敦賀港は明治32年7月に開港場に指定され、同35年に敦賀ーウラジオストク間に定期航路が開設された。

 同40年には、横浜、神戸、関門と共に第1種重要港湾に指定されて、日本海屈指の国際貿易港としての位置を占めることになった。

同42年から第一期港湾修築工事が行われ、金ケ崎岸壁に3000トン級の汽船が停泊できるようになり、荷揚げ場や倉庫なども整備された。 金ケ崎岸壁には、税関の旅具検査所、金ケ崎駅(敦賀港駅)、大和田商店回漕部、露国義勇艦隊支店などハイカラな建物が並んでいた。

欧州への最短路ー欧亜国際列車が発着していた敦賀港

日露戦争後、ロシアはウラジオストクを「東亜への門戸」と位置づけ、敦賀との間にロシア義勇艦隊による定期航路を運航した。 日本側は大阪商船が国際航路に参画した。 また、ロシアが中国北東部に保有していた東清鉄道の南満州の支線等については、日本が満鉄として経営を引き継いだ。

こうした中、敦賀は明治43年4月から関門や長崎と共に、当時の満州や日本海沿海州との連絡ルートとなり、同44年3月からはシベリア鉄道経由でヨーロッパに至る 「欧亜国際連絡運輸」 が開始され、 その後、大西洋・太平洋航路を利用した世界一周コースの窓口となった。

当時、日本からヨーロッパへは、インド洋周りでは1ケ月間も要したが、シベリア経由では、東京ーパリ間を約半分の17日間で多くの人々や文化を運んだ。

ヨーロッパと日本を結ぶ欧亜国際列車の概略図

新橋(東京)-金ケ崎間の欧亜国際連絡列車は、当初週3回運転された。 毎週、日、火、木の21:00発神戸行急行第9列車に、寝台緩急車マイロネフを連結し、翌朝、米原駅で切り離し、8:35分発不定期の第15列車となり、金ケ崎に11;00分に到着した。そして、毎週月・水・金の敦賀港発ウラジオストク行の定期航路に連絡した。

金ケ崎からは日・火・木の朝8:52分に発ち、米原で下関からの特急列車に乗り換えると、新橋(東京)には20;25分に着いた。

英語表記のマイロネフ37形国際寝台列車(1・2等寝台緩急車)で記念撮影をする敦賀港職員等の人達

敦賀港ーウラジオストク連絡船「満州丸」と北日本汽船株式会社(右手前の建物)

 

日本とヨーロッパを結ぶ 「欧亜国際連絡列車時刻表(昭和5年10月)」  ※ 莫斯科(モスクワ)・羅馬(ローマ)

日本からヨーロッパまでの日数及び運賃概算(昭和4年10月)(当時汽船でインド洋経由だと約1ケ月間を要した)

敦賀港からジュネーブへ向かう松岡洋右外相の一行(昭和7年10月)

鉄道資料館を訪れて、最初に驚くのは、日本海に面した敦賀の重要性と発展である。 特に発展した敦賀港からヨーロッパを結ぶ欧亜国際連絡列車があったことである。 当時は外国航路は汽船が主流であり、列車で行くと汽船の半数の日数でヨーロッパに行くことができた。

日本が鎖国を続けていた時代から明治に入り、わずか45年で鉄道や港が整備され、東京から敦賀ーウラジオストクーヨーロッパに連絡する列車が運行されていたのは、ほんとに驚きで、大きく変化して急速に成長していく日本が姿を感じてくる。

その他鉄道資料館では、トンネルと電化、戦後の復興などがパネル写真などで紹介されている。

 

 見学を終えた後、一階の受付女性に敦賀市内の日替わり温泉と車中泊の出来る場所を尋ねてみた。 

「日帰り温泉は敦賀市内にあり、車で10分ほどの行った所に「越の湯=600円」という近代的な温泉施設がある。」 

「車中泊も、すぐ近くに 「気比の松原」 という美しい浜辺をもつ公園があり、そこに無料で広い駐車場が整備されている。」

 と親切に教えて頂いた。 早速行って見ることにした。

 敦賀市内にある日替わり温泉 「越の湯」 は、すぐに分かった。

 早速、入浴準備をして入館して行くと、大勢の入浴客が訪れ、温泉を楽しんでいる。

 私も露天風呂に入湯、たそがれ時の夕日に、少し赤く染まった空を眺めていると、心身の疲れを癒してくれ、新たなエネルギーを頂いた気持ちになってくる。 旅先での温泉も、私たちにとっては大きな楽しみのひとつである。

温泉でリフレッシュした後、近くのスーパーで夕食の買い物をすまして、すぐに気比の松原駐車場に向かって行く。 

 5分ほどで到着すると200台位は車が駐車できそうな広い駐車になっていて、全面は、敦賀湾に面した砂浜が広がり、左右には美しい緑の松林が囲んでいる。 心配したトイレなどの設備も整っている。

日本三大松原に数えられる 「気比の松原」 敦賀湾に面し、白い砂浜と緑の松林が広がり、四季を通して、多くの人達に親しまれている。

名勝 「気比の松原」 は三保の松原(静岡県)、虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている。 その昔 聖武天皇の御代に異属の大群が来襲した。 その時、敦賀の地は突如震動し一夜にして、数千の松原が出現した。 そして、松の樹上には 気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群舞し、あたかも風にひるがえる 旗さしもののように見えた。 敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし、たちまちのうちに逃げ去ったという。 この伝説に因んで 「一夜の松原」 とも称される。 現在、気比の松原は およそ東西1000m、南北400m、広さ37.9ヘクタールで、樹数約12000本を数え、海岸林としては全国的にも珍しく、赤松が群生している。

広い駐車場のある名勝 気比の松原 若い人達にも人気があり、松林や浜辺を潮風に吹かれながら散策ができる。 車中泊の車も多い。

 

 気比の松原駐車場に到着すると、私たちは直ぐに夕食の準備に取り掛かった。 愛車の片隅の松の枝場の下に、折りたたみ式のテーブルと椅子を持ち出し、先ほどスーパー買った夕食の料理を並べる。 青い夕空の下、妻と二人で夕食を摂りながら杯をかたむけるのは最高の気分で、旅の楽しさが湧いてくる。 

 松林に囲まれた駐車場前面にある浜辺からは、静かなさざ波の音が聞こえ、片隅ではグループの若者たちが威勢の良い声を出しながらバーベキューを楽しんでいる。

そして、日は完全に落ち、夜空に星が輝き始めた折に、夕食で準備した用具を片づけて、外灯の柔らかい灯りの浜辺を散歩する。

浜辺には、数人の男女のカップルが訪れ、海を見ながら楽しそうな会話をしている。 5月の少し肌寒い心地よい風が通り過ぎていく。 

  隣の子犬を抱いた若いカップルに話かけると、「大阪から急に思いついてここまでやって来た。 車の運転は全て奥さんがしてきた。今夜はここで車中泊をする」 とのことであった。

このような会話を交わした後、若い夫婦に 「明朝のブラジルの美味しいコーヒーがあるけど」 と話をすると、是非、頂きたいとのことであった。

その後、私たちは愛車に戻り、横になって車外からのさざ波の音をきいていると、いつの間にかぐっすりと眠っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


四国の名峰 石鎚山(標高1982m)への登山

2011-08-03 14:32:01 | 

平成23年7月15日(金) 今日は西日本最高峰、四国の名峰である石鎚山(標高1982m)への登山を計画していた出発の日である。

石鎚山登山は予てより登りたいと思っていたが、なかなかチャンスが訪れなかった。 今回も一週間ほど前から天気予報が気になり、注意を払っていたが、登山日の16日(土)は、申し分のない天気予報であった。

 今年になって妻がはじめたパートのため、南大阪の自宅を出発出来るのが、午後7時頃にならざるをえなかった。  

 15日(金)出発日の当日は、私が自宅で愛車に必要な荷物を積み込むなどの準備をした後、妻を勤め先まで迎いに行く。 妻を迎えた後、近くのスーパーで夕食の買い物を済まして、阪神高速道湾岸線を走行して行く。 途中から神戸線に入り、第二神明道路、国道2号線の加古川バイパス、姫路バイパスを終点まで走行、そこから3kmほど先にある山陽自動車道龍野ICに入って行く。

今夜は高速道路での車中泊を予定しているが、明日の登山予定を考えると、どうしても四国に入り、出来れば松山道の石鎚山SAまでは行きたいと思っていた。 しかし、山陽道龍野ICに入った時点では時間も午後10時近くになっていた。

 今回利用している愛車は、燃費の良いトヨタラクテイス(1500cc)を使用している。  山陽自動車道でもほとんど休憩をとらずに、倉敷JCTから四国方面の瀬戸中央自動車道に入って行く。 いつもは瀬戸内海の真ん中にあり、風光明媚な与島PAで休憩するが、そのまま走行し、高松道、松山道に入って行く。 時間も午後11時を過ぎている。 そのまま走行していくと12時前後には、石鎚山SAに到着出来そうであった。 

 休憩も撮らずにかなり高速走行した結果、予定通り12時10分に石鎚山SAに到着する。  到着すると直ぐに車中泊の準備に取り掛かった。 ラクテイスは後部座席を倒すと、座席がフラットになり、身長170cm位の人までは、真っ直ぐに足を伸ばして眠ることができる。 車の全ガラス面には手製で造った、プラスチックのパネルを嵌めこむと、外から車内は全く見えなくなる。 冬季には断熱材としての効果もある。   夏場にはいつもポータブルバッテリーを持参しているため、エンジン停止状態でも、車内に備えている小型の扇風機で、一晩中回して涼をとることも可能である。 (エンジンをかけた状態では、騒音や振動が激しく眠ることができない為にいつもOFFにする)

 長ドライブのせいか、車内で横になると直ぐに眠りにつく。 心地よい扇風機の風が、体にあたり、暑さを忘れさしてくれ、ぐっすりと眠ることができた。

7月16日(土)朝6時頃に目覚めると、すぐに車外に出て天気を確認する。 今日は予報通り登山にはもってこいの上天気になりそうであった。 早速、出発の準備と朝食を摂り、7時頃には石鎚山SAを出発する。

 石鎚山には幾つかの登山ルートがあり、私たちは、石鎚スカイラインの終点である土小屋からのルートを選らんだ。 当初は松山自動車道の西条ICから山麓下谷まで行ってロープウエーを利用、山頂に至るコースを考えていたが、私たちの登山後の予定である高知の実家に帰省することと、ブログなどを参照した結果、土小屋からのルートがベストであると判断した。

 石鎚山SAを出発して松山道を20分程進むと川内ICに到着する。 一般道の国道11号に出て、しばらく走ると石鎚山方面国道494号と書かれた案内標識がある。 標識に従って右折し走行して行く。 この道路は道幅も狭く、曲がりくねった山岳道路である。 40分ほど走行して行くと石鎚スカイラインにでてくる。 

石鎚スカイラインは 紅葉の名所で知られる面河渓(おもごけい)の入口から石鎚山の登山口である土小屋までの18kmのドライブルートである。 途中の展望台からは、石鎚山や日本滝百選の一つである御来光の滝などが遠望できる。

 曲がりくなった石鎚スカイラインを走行して行くと、車窓からは四国山脈の奥深い山稜が幾筋にも分かれ、豊かな緑の自然と共に遠近感ある美しい山々の景観を楽しませてくれる。 アルプスのような山稜で何時まで経っても飽きのこない景観である。 そんな中でも特にひときわ高く聳えたつ石鎚山の美しさは抜群である。

石鎚スカイライイから見る石鎚山(標高=1982m)、西日本の最高峰の山である。

古くから信仰の山として親しまれてきた石鎚山、日本100名山にも数えられ、わが国で最も古くから讃えられた名山のひとつである。 「日本霊異記(にほんりょういき=平安時代初期に作られた日本最初の仏教説話集」 にもその名が現れている。 石鎚神のいます山としてあがめられ、まだ山岳が仏教の影響を受けない昔からの名山であった。

石鎚山の山名は、山岳宗教「石土毘古神 (いわづちびこのかみ)=石鎚神社の祭神として知られる神で、木造建築の基礎の土台や壁などから家を守る神として知られている) を古くから祀っていたことから石鎚山と呼ばれるようになった。

一般に石鎚山とは、石鎚祠や神社の建物がある弥山(みせん=標高1974m)、と弥山からやせ尾根を15分ほど行った所にある最高峰の天狗岳(標高1982m)、さらに尖がった岩壁の南尖峰(なんせんぽう)の三山を総称して石鎚山と呼ばれている。

石鎚スカイラインの終点で石鎚山の登山口でもある土小屋(つちごや)駐車場(標高1492m)と、そこからの西側の景観

ひときわ美しい山容を現している土小屋駐車場からの石鎚山の景観

石鎚スカイラインの終点にあり、石鎚山登山口の土小屋にある売店や宿泊施設

石鎚山頂上の奥社には行けない人達の為の土小屋にある石鎚神社遙拝所。

石鎚スカイライン土小屋(現在地)→石鎚山登山ルートの図

石鎚スカイランの土小屋駐車場に到着してから、直ぐに登山準備を整えて、リュックとカメラを背負って登山を開始する。 私たちが歩き始めた頃、父兄を交えた小学生100人位の一行と一緒になった。 年に一度の愛媛県からの学校の行事で先生と保護者が引率している。

土小屋登山口から石鎚山の山頂まで4.6kmの標識がでてくる。 午前10時00分、私たちは木立に囲まれ、よく整備された緩やかな登山道をゆっくりと登って行く。

登山開始直後のよく整備された緩やかなアーチ型の登山道をゆっくりと進んで行く。

緩やかな登山道を登り、しばらく行くと右手に瓶ケ森(標高1896m)の女性的な山稜が見えてくる。

登山道から見る瓶ケ森(標高1896m)の景観

さらに緩やかな登山道を登って行くと一面笹に覆われた中に立つブナの原生林が現れ、下流域から心地よい涼しい風が吹き抜けていく。

石鎚山系のブナ林は標高1200mあたりから多く見られ、栄養分を多く含むブナの果実は、人間が食べられる程のようで、野生動物にとっては、貴重な餌になっているとのことであった。

 

ブナの林を抜けると今度は左側に雲のかかった石鎚山頂が見え、道脇には休憩しやすいように原木で造られた長椅子が置かれている。 

 

石鎚山を前方に見ながら少し登って行くと、下山途中の人達が休憩をとっている。 この人達と一言の挨拶を交わした後、さらに登って行く。

登山開始から一時間近くたった頃の登山道左側の景観、石鎚スカイラインの通行ルートが見渡せる。

さらに石鎚山の山頂部分を見ながら、緩やかな登山道を登って行く。

南尖峰に聳え立つ矢筈岩、この下に登山道があり、約400mに渡っての区間が、落石の危険地帯である。

鋭い岩壁のある南尖峰下の落石危険地帯の登山道、落石などで崩れやすいのか! ご覧ように木橋で出来ている。

この危険地帯を抜けてしばらく行くと、西条側のロープエーからの表参道と合流する鳥居のある地点に到着する。

この地点から最後の急こう配が頂上まで続く、石鎚登山の最大の難所で険しさが伝えられている。

頂上までの急斜面には、二の鎖(49m)、三の鎖(62m)のある岩壁が登山者を待ち構えている。 

しかし、私たちは、登山人数の多さや体力から考えて、鎖ルートは危険と考え、う回路で登頂を目指すことにする。

ロープウエー方面からの登山道との合流地点で、石鎚山岳信仰の信者の白装束を着た多くの方々が休憩をとっている。 ここから山頂まで急斜面で二の鎖(49m)、三の鎖(62m)があるが鉄桟橋の迂回路も整備されている。

合流地点で石鎚山信仰の衣装をまとった方々も、ここで休憩をとっている人が多い(鳥居上部から撮影する)

左側が急坂の二の鎖(49m)ルート、右側ルートがう回路方面、経験者や若い人を除き一般の方々は迂回路ルートを登って行く。

迂回ルートも急坂で鉄でできた階段や鉄板で、急斜面を横切るように作られている。 時々、手や橋を滑らせた脱落事故も発生している。頂上まで急坂が続く迂回路の鉄桟橋は、道幅約2mぐらいで、中央に手摺が付いているが、谷側には何もなく、谷底深い絶壁の斜面に作られている。 その為に通行する折には、どうしても緊張感が漂ってくる。 高所恐怖症の方は大変である。

最後の鉄桟橋を通過すると、間もなく南面が開け、面河本谷が眼下に広がり、南北を尾根で挟んだ山稜には、北側が雲で覆い尽くされ、幻想的な風景を見せている。

う回路の急斜面の続く最後の鉄桟橋を登り切った頂上付近の景観、尾根北側は雲に覆われている。

尾根を境に北側は、すっぽりと雲に覆われ、幻想的な風景を見せている。

頂上(弥山)への最後の石段で左側には売店や宿泊施設があり、真っ直ぐ行った奥が石鎚神社のある弥山頂上である。

弥山頂上にある鎖で覆われた、石鎚神社を支える神聖な岩場

午後12時10分 弥山頂上にある石鎚神社前に到着する。 登り始めてから2時間10分である。

 弥山頂上に立った時、登りきった感動が湧いてくる。 決して難しい登山ではなかったが、とうとう西日本最高峰、四国の名峰である石鎚山の頂上に立つことができた。 

 頂上からの視界は北側が雲で得覆われているが、南側は良好な視界が広がり、美しい四国の屋根と言われる山容を見せている。 いつまでたっても飽きることのない景観である。 

ご覧のように弥山頂上にある石鎚神社の境内には、多くの登山客で賑わい、昼食を摂ったり、休憩をしたりして、思い思いに楽しんでいる。

弥山頂上(標高1974m)の石鎚神社前で、思い思いに過ごし、くつろぐ人達。 中央の木板でできた看板には 「石鎚山標高1982m」 と書かれ、標識の前では、記念撮影を撮る人達も多く見られた。

弥山頂上の岩場に腰掛けて弁当を広げている若い女性と、後方にある石鎚山最高峰の天狗岳(1982m)

石鎚山最高峰の天狗岳(標高1982m)であるが、ご覧のように北側はすっぽりと雲で覆われている。

弥山から石鎚山最高峰の天狗岳(標高1982m)へ行くためには、難所であるこの鎖場を降りなくてはならない。 私たちも降りて天狗岳に行こうとしたが、疲れと妻と二人は危険と判断して天狗岳への登山は断念した。 天狗岳にはこの鎖場を降りると15分ほどで行ける。 帰りも同じルートである。

多くの信者や登山客の参拝で賑やう石鎚神社の頂上社

弥山頂上の石鎚神社のさらに上にある小さな鳥居と右奥にある石の祠

石鎚山弥山頂上からの展望や石鎚神社への参拝、昼食などをして過ごした後、13時30分、元来た道を下山して行く。

急こう配の下り坂は、脚膝への負担も大きく、階段は半歩半歩、ゆっくりと下山する。 (土小屋と西条ロープウエー方面の合流地点)

急こう配の続く合流地点を過ぎると緩やかな下り坂が続き、土小屋との中ほどの木の長椅子などのある地点では、多くの人達が休憩している。

この地点を過ぎてからも最初の登山口である土小屋に向かって、列をつくりながら下山する人達

私たちも下山を続け15時15分には土小屋登山口に到着する。 到着した後、土小屋にある石鎚神社遙拝所の神殿にて道中無事に登山できたことへの御礼の参拝を済まし、マイカーをとめてある駐車場に帰っていく。

永年の願いであった石鎚山にやっと登ることができた。 石鎚山は古くから日本七霊山に数えられた四国の名峰である。 3年ほど前には同じ四国の名峰である剣山(標高1955m)にも登っているが、石鎚山は一味違った趣のある山である。 石鎚スカイラインの土小屋周から見る石鎚山は、奥深い山々、切り立った谷の上に聳え立つ雄姿を見せてくれる。 周りの瓶が森(標高1896m)や笹ヶ峰(標高1860m)などの美しい山々も見渡される景観の良さも抜群の山である。

石鎚山の豊かな自然は、登山道の脇まで続き、特にブナなどの巨木の自然林、その下を覆い隠す樹木、そこにはマイナスイオンの涼しい冷気を感じ、心地よい気分に浸ることができた。 まさに自然豊かな山岳や森林環境があった。

そして、頂上付近の断崖絶壁で出来た岩場、その先に尖がった細長い貝のような頭の部分の片方は、切り立った絶壁、もう片方は深い谷底まで続く険しい斜面で構成されている。 猫の額ほどの頂上部には神社が造られていて、山岳信仰の強い信仰と、信念を感じさせられる山である。

現在では鎖やう回路が造られているが、開山当時は一般の人達は近づけない、仙人や修行者たちのみに、登ることを許された、神の山であったろうと思われてくる。

現在は、子供から大人までの老若男女が多く登山し、頂上付近では登頂を果たした人達でごったがやしている。 地元や一般の人達から大変親しまれた山であるように思える。

私も、今回石鎚山に初登頂したが、秋の紅葉シーズンには、また、来てみたくなる山である。

ただ、体力的に5年前の御嶽山登山の時よりかなり劣ってきているようで、今後、自宅近くの山やウオーキングなど、日頃の鍛錬の大切さを感じさしてくれた今回の登山であった。