気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

伏見稲荷大社 外国人に大人気の朱塗りのトンネルが・・・娘たちとの京都旅行・・・その③

2016-05-25 22:30:25 | 思い出

 2016年(平成28年)3月15日(火)晴れ、インドネシアバリ島に住む娘や孫たちと、昨日から京都旅行に来ている。

昨日はあいにくの天気であったが、今日は一転し青い空が広がり、観光には申し分のない天気である。

午前中は宇治にある平等院を見学、浄土庭園の中島に造られた鳳凰堂(ほうおうどう)の建築様式や色鮮やかさに感動していた。

鳳凰堂の見学を終えた私たち家族4人は、JR宇治駅から伏見稲荷大社のある稲荷駅に向かった。

宇治駅から15分ほどで稲荷駅に到着すると、駅には多くの外国人が家族連れで訪れている。

伏見稲荷大社の第一鳥居の前でにある稲穂をくわえている狐の像、稲荷社では、神様の使いとして狛犬に代わって狐が入口におかれる。

稲荷大社は商売繁盛や五穀豊穣の神として多くの人たちから崇敬されている。 

狐が稲穂をくわえている姿は、五穀豊穣を強く祈願する当時の人々の気持ちが理解できそうである。

 

伏見稲荷大社は、JR奈良線稲荷駅の目の前にあり、道路を挟んで大きな朱色の鳥居が立てられ、

大理石で敷かれた参道が真っすぐに稲荷大社本殿方向に延びている。

参道の奥には、朱色の鳥居や伽藍が立てられ、訪れた多くの人たちで賑わっている。

 

ここ京都にある伏見稲荷大社は、境内に朱色の鳥居が1万本以上あり、

朱色の鳥居はトンネルのようにどこまでも続く、圧巻の光景が外国人を魅了する、大人気の観光スポットになっている。

2013年の「外国人に人気の観光スポット調査では2位を、2014年では「広島平和記念資料館」を抜いて1位を、

2015年も連続で一位となっている。

これは、紅い鳥居が続く風景が非常に日本的なことと、拝観料不要や、閉門時間もないことと、

稲荷山の山巡りが、欧米人が好むウオーキングができることなどが理由としてあげられている。

私たちも駅前の第一鳥居をバックに記念撮影した後、家族4人で楼門の方に向かって行く。

 

伏見稲荷大社は、全国に三万余りある稲荷社の総本社である。

京都市伏見区の稲荷山の山麓に本殿があり、稲荷山全体を神域としている。

稲の神、農耕の神として信仰され、時代とともに商売繁盛、家内安全、芸能まであらゆる神徳を持つとして、多くの人々に厚く信仰されている。

鳥居は、私たちの住む領域と、神様の住む神域を結ぶ入口の部分に建てられ、鳥居ををくぐると、そこは神様の住む神域である。                    

伏見稲荷大社の案内図

伏見稲荷大社の祭神は、宇迦乃御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)である。

創祀は、元明(げんめい)天皇の和銅4年(711年)で、稲荷山の三ケ峰に神が鎮座したのが始まりと伝えられている。

もとは渡来系の秦氏の氏神だったと云われ、明治まで秦氏の子孫が神職として奉仕していた。

豊臣秀吉によって建立された楼門(重要文化財)

 

 戦国乱世に終止符をうち、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、文禄3年(2594年)伏見に大城郭の建築と城下町造りを開始し、伏見の街一帯は大きく変容していった。

稲荷大社の出世開運、商売繁盛など、現世の招福が多いことから、秀吉は稲荷大神に深い崇敬をよせていた。

そんな折、秀吉の生母大政所の大病平癒を稲荷大神に祈願し、大がかりな祈祷を執行した結果、大政所の大病は平癒していく。

これによって、秀吉は稲荷大神への信仰を益々深め、稲荷大社の本格的な修復を行っていった。

この楼門はその折に建立されたものである。

多くの人たちが訪れ、鮮やかな建築美を放つ第二鳥居からの楼門(重要文化財)

手水舎(ちょうずや)で参拝の前に自分の身体である口や手を清める人達。

多くの人達が訪れる楼門、鮮やかな着物姿の女性や外国からの観光客が多く見られた。楼門の前の両側には、狛犬に代わって狐の像がおかれている。

楼門に掲げられている 色鮮やかな 「伏見稲荷大社」

訪れた多くの人たちはこの楼門をくぐり抜け、外拝殿(げはいでん)・参拝する内拝殿へ向って行く。

 

私たちは、楼門をくぐり抜けると、その後には、外拝殿(げはいでん)がある。そのうしろには、内拝殿(ないはいでん)と本殿があり、その方向に進んで行く。

これらの伽藍は、第一鳥居からは本殿まで、直線状に並んで建てられている。

下拝殿は、楼門の後ろ側にあり、内拝殿の前にある。 きらびやかな美しい建築美を見せる外拝殿(げはいでん)(舞殿)

外拝殿(げはいでん)、後ろには内拝殿があり、多く人たちが参拝する姿が見えている。 本殿は内拝殿の後ろに建てられている。

外拝殿は楼門と同時期に建立され、1840年(天保11年)に改築される。

外拝殿の軒先には12基の釣り灯篭が下がり、黄道12宮の星座を表したデザインが施されている。

きらびやかなで美しく飾られた外拝殿(舞殿)の舞台から内拝殿(ないはいでん)方向を見る。

毎日のように舞いや琴、笛などの優雅な音楽が奉納される神楽殿

1882年(明治15年)能楽殿として建造される。 神楽殿では祈祷に訪れた人々のために毎日のように神楽が奉納されている。

神楽女の舞や、神鈴や琴、笛の優雅な音楽が境内に鳴り響き、人々を楽しませてくれる。

この石段を上ると内拝殿(ないはいでん)の拝殿があり、本殿は内拝殿の後ろ側に建てられている。

 

内拝殿は、1694年(元禄7年)の建立の時に、本殿に付け加えられた唐破風朱塗向拝を、1961年(昭和36年)に本殿から切り離して現在の形にしている。

 内部は祈祷拝受座になっている。

本殿は内拝殿の後ろ側にあり、内拝殿は本殿の前に建てられて、本殿と内拝殿を一緒にされる場合もあるようです。

訪れた多くの人達が内拝殿の拝殿から各々の願い事などを秘めて参拝している。

本殿をバックに記念撮影、本殿と内拝殿は部分的にはつながっているが別個の建物である。 左側が本殿、右側が内拝殿である。

左側にあるお守りやお札などの受与所があり、買い求める若い人達で賑わっている。

私たちは、内拝殿で参拝した後、賑わう お守りやお札の授与所の前を通り鳥居千本に向かって行く。

私たちもこの鳥居をくぐり、大勢の人たちと一緒に鳥居千本へ向かって行く。

鳥居千本までの途中にある玉山稲荷社(祭神は玉山稲荷大神)

この神社の前を通ると右側に石段があり、鳥居千本に向かって一段一段と登って行く。

鳥居千本の入り口、ここから参道には一寸の隙間もなく鳥居が立てられ、鳥居のトンネルが続く。

 

朱塗りの信者から奉納された鳥居がトンネル状に隙間なく立ち並ぶ千本鳥居。

願い事に御利益があった信者が、お礼の意味から鳥居を奉納する習慣が江戸時代以降に広がる。

その結果 「鳥居千本」 誕生するが、現在では一万基以上の鳥居があると云われ、

稲荷山の参道全体に林立している。

朱色で塗られた鳥居が立ち並ぶ参道は、ゆりやかな坂道になっているが 私たちも訪れた大勢の人達と一緒に参道を上って行く。

鳥居千本の参道も 二つに分かれるが 途中で また 合流する。

誰もいなくなった鳥居トンネル、ゆりやかな曲線を描きながら、色鮮やかな鳥居と太陽光線が独特のコントラスを描いて美しい光景を見せている。

鳥居千本の鳥居トンネル内の参道は道幅が狭く、通行する多くの人同士のぶつかりあいがあって、時々よろけたりする時もある。

鳥居トンネルが続く参道をしばらく上って行くと、鳥居トンネルがなくなり、小さな祠が無数に建てられている場所に出てくる。

参道沿いには多くの塚と呼ばれる祠が林立しているが、私たちはそのまま参道を進んで行く。 

私たちは塚の横にある石段の参道を登って行くと、山に囲まれた小さな池があり、その周辺には鳥居や小さな伽藍が建てられている。

新池、 谺ケ池(こだまがいけ)の別名があります。 

行方不明になった人の居場所を探す時、「池に向かって 手を打ち こだまが返ってきた方向に手掛かりがつかめる」 という云い伝えがあります。

当初私たちは、鳥居トンネルの続く稲荷山の山頂まで登る計画をしていたが、

新池近くの人に、稲荷山までの登頂時間を尋ねると、まだ、この場所から30分はかかるとのことであった。

京都駅から関西空港行の特急電車「はるか」の予約時間が16時45分である。 稲荷山まで登ると間に合わない恐れが出てくる。

みんなで相談した結果、この場所から下山して、京都駅に向かうことにした。

下山ルートは、途中までは同じであるが、別ルートで下山を始める。

鳥居トンネルの続く別ルートから下山を始める。

下山する参拝道から、鳥居トンネルの様子が一望できる場所にでてくる。 それにしてもすごい鳥居の数で、その多さには驚かされる。

 

私たちは、内拝殿や楼門の横を通り、JR奈良線稲荷駅まで下って行く。

初めて訪れた伏見稲荷大社、さすが外国人の人気ナンバーワンだけの見ごたえのある神社である。

どこまでも続き、きわめて日本的で、紅い鳥居でできたトンネルがどこまでも続く光景はまさに圧巻である。

今回の京都への旅でも、外国人の多さにはお驚かされるが、ここ伏見稲荷大社では、日本人よりも外国人が多いようにさえ感じる。

それに、鳥居トンネル以外でも、伏見稲荷大社の多くの伽藍が、きらびやかな紅い色で統一された美しさを、神社全体的を引き立てるように見せている。

特に楼門などの細かい細工や鮮やかな色彩は、いつまで眺めていても飽きることがなく、日本木造建築技術の伝統と美しさや奥深さを感じさしてくれる。

特急はるかで車内で談笑しながら、車窓から見える日本の美しい風景を楽しむ。

特急「はるか」は速いもので午後6時ごろには、日根野駅に到着する。

昨日の出発前には、かなり強い雨が降り、午前中の東寺などの観光はあいにくであったが、午後からの清水寺では、天気は回復してくる。

今日は、朝から観光には申し分のない天気で、平等院や伏見稲荷大社の観光を楽しむことができた。

娘や孫たち初めて観光に訪れた平等院の日本建築の素晴らしさや、圧巻の紅い鳥居トンネルの続く伏見稲荷大社を見学出来て満足そうであった。

また、娘たちは明日から、孫の要望で長野県の野沢温泉へスキーに行く予定になっている。

私たちは、仕事の関係で、明日の午後から東京へ車で出発する予定である。

娘の提案で実現した今回の京都旅行は、ほんとに思い出の残る、いい旅であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


平等院 きらびやかな平安の色彩が・・娘たちとの京都旅行・・その②

2016-05-19 22:26:07 | 思い出

 

平成28年(1916年)3月15日 バリ島から来た娘と孫、私たち夫婦の4人は、京都駅前のホテルをチエックアウトした後、

京都駅構内で軽いモーニングを済まして、JR奈良線で、平等院のある宇治市へ向かった。

JR宇治駅までは25分程で到着する。 

お茶の産地として有名な宇治は、古くから名勝の地として知られ、平安時代には公家や貴族の別荘が多く建てられていた。

私たちは駅前の観光案内所で平等院に関する情報を確認した後、ゆっくりと平等院に向かって歩いて行く。

しばらく歩くと左側に宇治川があり、擬宝珠を冠した美しい宇治橋が自然の景観に調和するように架けられている。

伝承では、646年(大化2年)初めてかけられたと伝えられ、京都府宇治市に属している。

現在の橋は、1996年(平成8年)に架け替えられたもので、長さ155m、幅25mの橋である。

橋が宇治川の自然や周辺の歴史遺産に調和するように擬宝珠を冠した木製高覧という伝統的な形状を使用している。

宇治橋は、瀬田の唐橋、山崎橋とともに日本三古橋の一つに数えられている。

また、宇治橋は昔からの物語にもたびたび登場する。

古今和歌集や紫式部の源氏物語、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説、狂言のモデルになった通圓茶屋、小説「宮本武蔵」などで登場している。

 

宇治橋の右方向が、平等院への表参道で、橋のたもとには、源氏物語の作者として知られている紫式部の像が建てられている。

私たちは紫式部の像の前で記念撮影を済ますと、参道の両側に食堂や御土産店などが並ぶ表参道を平等院に向かって行く。

私はかつてから、平等院に対しては写真を見るたびに、「なんという細かい細工をしたきれいな建物だろう!」

「京都に行ったら見に行こう」 と思っていたが、どういうわけか、今日まで実現することはなかった。

ようやく、今回 バリ島に住む娘が、「京都へ 一泊旅行に行こう!」 と言い出し、実現することになった。

JR宇治駅に降り立ったところから、私は平等院に対して興味が深々と湧いていた。

「どんな場所に建てられているのか!」 「周りとの景観や平等院を取り囲む池などの景観は、どうなっているのだろうか!」 楽しみであった。

宇治橋からの参道を5分ほど歩くと、前方にこんもりとした公園のような森が見えてくる。

さらに 進んで行くと、右側に平等院と書かれた石柱が立てられている。

平安時代からの景勝地だった宇治川のほとりにある平等院の入口

 

平等院は、平安時代に貴族の頂点を極めた藤原道長の別荘があった宇治川を臨む景勝の地に造られている。

道長の息子 時の関白であった頼通(よりみち)によって最初に開かれたのが平等院の始まりである。

平安時代の後期、末法の世に入るといわれていた永承7年(1052)、末法思想が、貴族や僧侶らの心をとらえていた時代に、極楽往生さながらの美しさを平等院はほこっていた。

その影響から浄土信仰が社会の各層に広く流行するようになった。

 その翌年の天喜元年(1053)には、平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂=国宝)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師「定朝」によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされている

 

※末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても、外見だけが修行者に似るだけで悟人がいない時代(像法)が来て、その次には、人も世も最悪となり、正法が全く行われない時代(末法)とする歴史観のことである。

平安時代末期に災害、戦乱が頻発したことにともない、終末論的な思想が定着し、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民も、その末法の到来に怯えていた。

 さらに、末法では現世における救済が否定され、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まった。

※浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。 浄土とは、一般に阿弥陀仏の西方極楽浄土をさす。

 

※浄土信仰は、阿弥陀仏の救いを信じ、死後、この世の穢土(えど=けがれた世界)を去って、仏の住む西方(せいほう)極楽浄土に往生することを願う信仰のことである。  浄土三部経での教えをもとに、中国で発達、日本でも平安時代後期に末法思想が強まると、貴族や庶民の間で広まった。

この時代には、法然(ほうねん)が浄土宗、親鸞(しんらん)が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗を確立、法華信仰とともに、日本仏教の大きな思想的な流れを形成している。

 

約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されている。

 

平等院の配置図 右下に宇治川が流れ、宇治橋は右斜め上の方向に位置している。

 

平等院の世界遺産登録は、平安時代の後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として登録されている。 

平等院は、京都の南、歴史的な文化遺産を残す宇治川のほとりに建てられる。

浄土式庭園である平等院庭園では、中心に阿字池(あじいけ)を据え、池の中島に人々を救済するという阿弥陀如来像を設置する鳳凰堂が建てられた。

 

 

表参道から進んで行くと右側に受付にて拝観料(大人=600円)支払って、この表門から入場して行く。

 

よく手入れされた庭園の樹木を眺めながら、進んで行くと、左側に観音堂が見え、その先には季節的にはまだ早い藤棚が見えている。

さらに進むと、池に囲まれた美しい平等院の鳳凰堂が、その手前には紅い二つの小さな橋が見えている。

よく整備された庭園の池に浮かぶ、初めて見る平等院鳳凰堂の紅い建物、池に逆さに映りながら、庭園と左右のバランスのとれた歴史的な木造建築物、

あまりの美しい建築様式の建物に、我を忘れたようにしばらく見とれていた。

 

鳳凰堂は平成24年9月から行っていた修理が、平成26年3月に完工して、紅い漆塗りの美しい外観が蘇っている。

平等院の庭園は、池の中島に鳳凰堂が建つ阿字池を中心とした浄土式庭園で、国指定の名勝に指定されている。

池の側から紅く修復された鳳凰堂を見ていると感動が湧いてくる。

阿字池(あじいけ)の中島に建てられ、二つの橋が架けられた平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)。

鳳凰堂は中心の中堂と、その左右に連なる南北の翼廊、中堂の背後に繋がる尾廊の、四棟の建物から構成されている。

 

平等院鳳凰堂 1053年(平安時代)に藤原頼道が造立し無量寿院と号した。

建物全体が、鳳凰が羽を広げたような形状であることと、屋上にある銅製の鳳凰があることから鳳凰堂と呼ばれるようになった。

鳳凰堂の中堂には、本尊として祀られている阿弥陀如来が安置されている。

 

 池の中島に建つ平等院鳳凰堂は、10円硬貨のデザインでも有名で日本国民に広く知られている。

宇治池の中島に建てられた中島にある鳳凰堂をバックに家族全員で記念撮影する。

宇治池の中島に建てられた平等院鳳凰堂

建物の構造は、木造入母屋造りで屋根は本瓦葺となっている。 構造形式も中央と左右同じ建物から構成されている。

建物の機能は、中堂だけが、人々を救済する阿弥陀如来像を祀っているが、両翼廊は中堂を引き立てるための装飾的な建物で実用性はないと言われている。

中堂の背後に繋がっている尾廊も、中堂に渡る通路としての役割に過ぎない。

 

湖面にも逆さに映り、バランスのとれた美しさを見せる平等院鳳凰堂

鳳凰堂の建物は、阿弥陀如来を祀る中堂と、それに連なる両サイドの南北翼廊・さらに中堂の後方に繋がる尾廊から構成されている。

中堂の南北の翼廊は、形式が等しく造られ、切妻造り、本瓦葺き、一重二階建てで、中堂の側面から南北方向に延び、、途中で東方向に折れ曲り、平面的にはL字型になっている。

直角の曲がりの部分には隅廊(3階部分)は宝形造り、本瓦葺きで、屋根頂上部には宝珠を乗せている。

鳳凰堂は中心の中堂とその左右に重なる翼廊、中堂の背後にある尾廊から構成されている。

中堂の正面に人々を救済する阿弥陀如来が祀られている。

外観的には2階建てに見えるが、建築構造は一重裳階付き(いちじゅうもこしつき)である。

※裳階(もこし)とは、身舎(もや=母屋、身屋)建物の主要部分の周囲に差し掛けられた屋根の部分。

身舎は入母屋造り、本瓦葺きで、棟上には、一対の銅製の鳳凰を置いている。 

阿弥陀如来像が祀られている中堂正面、

外側の扉を開けると、内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。

※軍配(ぐんばい)=現在では大相撲の行事が持っている物

鳳凰堂は、東向きに戸を開き、阿弥陀如来像を安置している。 拝礼に訪れた人々は、池の対岸から西向きに阿弥陀如来を拝むこととなる。

これは、阿弥陀如来のある極楽浄土は、西方にあるという浄土の世界観を表現したもので、平安時代には、このような極楽浄土が信じられ、浄土式の庭園が多く造られた。

阿字池(あじいけ)南西方向から望む平等院鳳凰堂

平等院は平安時代の浄土寺院の形を、そのまま残す寺院としても、貴重な価値があると評価されている。

 

平等院鳳凰堂の屋根の上にある鳳凰

保存上の観点から、1968年以降は、棟上げにはレプリカの鳳凰が設置され、実物は別途保管されている。

鳳凰堂の屋上にある鳳凰

平等院の鳳凰堂の屋上にある鳳凰から採用されたといわれる一万円紙幣の鳳凰

 

私たちは鳳凰堂のある阿字池の周りに造られた参道を、時計回りで写真撮影をしながら進んで行く。

どの角度から鳳凰堂を見ても、前には池があり、枝ぶりの良い樹木が植えられ、趣のある建築様式と色彩が鮮やかである。

鳳凰堂は中堂を挟んで左右対称の建築様式や、紅い色彩の柱、組物と本瓦葺きの屋根などと、阿字池や庭園と見事に調和された美しさを放っている。

阿字池の南西方向から見る鳳凰堂、屋根と紅い柱や組物と池とのバランスが素晴らしい建物である。

南翼廊の三階部分に当たる隅廊、宝形造り、本瓦葺き、で屋根の頂上部には、瓦製の宝珠を乗せている。

南翼廊の一階部分は建具や壁はなく開放された床も張られていない。 左の白い壁のある建物が中堂と繋がる尾廊である。

中堂の後ろ側に繋がっている尾廊も、切妻造りの本瓦葺きである。 池をまたぎ通路としての役割を果たしている。

尾廊方向から見た中堂、北翼廊 庭園の反り橋があり、鳳凰堂への入堂も池の北岸から、2つの小橋を渡るように造られている。

阿弥陀如来を祀っている中堂を中心に北翼廊と尾廊が、平面的にL字形で造られている。

庭園の北岸から二つの小橋を渡り鳳凰堂の北廊へ渡って行く。 反り橋は大改修の折に州浜に復元される。

阿字池の中島に建つ鳳凰堂の北岸からの入り口にあたる北翼廊、阿弥陀如来を安置している中堂とつながる尾廊

 

平等院鳳凰堂を阿字池の周りからゆっくりとした見学を終えた後、隣接している 「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学する。

この館では、写真撮影が禁止されているために、国宝などの展示物を紹介できないのが残念である。

国宝の梵鐘、国宝雲中供養菩薩像26躯(全52躯のうち)、国宝鳳凰、重文十一面観音立像などが展示されている。

中でも驚いたのは、雲中菩薩像の姿である。 

琵琶や琴などの楽を奏でる菩薩、笛や太鼓などの菩薩、柔らかの表情で楽しそうに踊る菩薩など、

極楽浄土との往生を願った平安の人たちの強い信仰心と来世への憧れが感じられる。 来世の天国での楽しさを現しているようである。

 

平等院の平等とは、どういう意味でつけられたのだろうか!

私はかつてから、地球上の人間も、動物も自然環境も、お互いに依存しあい、助け合いの精神で付き合うべきだと考えている。

地球は 決して人間だけのものではない。 人間のみで考えていると、大災害などのしっぺ返しを食らってしまう。

人間同士でも、本来は平等であるはずが、いつの間にか差別のある階級が造られてしまう。

人間の本質は、一人では生活ができず、社会という単位で集落や村、町、国といった組織体を築かなければ生きていけない。

その折に衣食住など生活していく上で、欠く事の出来ない大切な物を作らなければならないという役割が生じてくる。 

この役割が仕事で、社会全体で必要なものは誰かが、必ずやらなければならない。

食をつくる人、住をつくる人、衣をつくる人、それを束ねたり、指導する人、法などが、社会を公正に運営する上では必ず必要である。

人間は本来生まれながらにして平等であるが、子供や老人などを除いて必ず、社会的な役割である仕事をしなければならない。

仕事をする上でも、一生懸命頑張る人、怠ける人たち、あるいは自分のことしか考えない人、泥棒などルール守らない人たちが、出てくるのも社会である。

平等院が建立された平安時代の末法が信じられ時代には、社会秩序が乱れ、「自分たちの努力や力ではどうにもならない!」と考える人が多く出現している。

阿字池の中島に建てられた平等院の鳳凰堂にある阿弥陀如来を拝むこと、来世の浄土信仰を信じ、希望のある日常生活を生き抜いていくことが必要であったと考える。

そういった意味で、平等院の「平等」の名前は、多くの人々に大きなインパクトを与えたと思われる。

 

私たちは、平等院の見学を終えた後、駅前のレストランで昼食を摂り、次の目的地である、伏見稲荷神社に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


娘たちとの京都旅行(東寺・清水寺)・・・その①

2016-05-13 17:58:37 | 思い出

  平成28年3月9日 インドネシア・バリ島に住む娘が15歳になる孫を連れて関西空港に降りたった。

 半年ぶりに見る娘も顔色も良く、元気そうであった。15歳になる孫も、見るたびに大きく成長しているようで、娘も子供の成長を実感、微笑ましさが、伝わってくる。

 今回の日本滞在は、12日間と短いが、長野県の野沢温泉でのスキーや、いとこの住む浜松訪問など、内容的には忙しい日程となっている。

 そんな折、娘が急に家族4人で一泊二日の予定で京都に行こうと言いだし、3月14日と15日に行くことになった。

 14日(月)は雨であいにくの天気であったが、自宅からマイカーでJR日根野駅近くの駐車場まで行く。

日根野駅からJR関西空港駅始発の特急「はるか」9時25分発に乗り込み京都へ向かった。

車窓から見る日本の景色を娘たちと楽しんでいると、早いもので10時35分には京都駅に到着する。

京都ー関西空港特急「はるか」の前で 京都駅

多くの人達で賑わうJR京都駅の中央コンコース

京都駅に到着し、1階の改札口からコンコースに出て上空を見上げると、広大な吹き抜けになっていて、その巨大さに驚かされる。

今日は自宅を出てから、まだコーヒーを飲んでいなかった。 京都駅構内のコーヒーショップを探すとすぐに見つかった。

やはり、朝のコーヒーはおいしい。 今日一日のエネルギーが湧いてきそうである。

娘もコーヒーが大好きであるが、必ずミルクをたくさん使って飲んでいる。

私と妻はいつもブラックコーヒーである。 孫はジュースを飲んでいる。

コーヒーを飲み終えたあと、世界遺産に登録され、五重の塔として国内最大の高さを誇る「東寺」に行くために近鉄京都駅に向かった。

東寺の五重の塔は、京都の近代的な都市イメージの中で、ひときわ目立った存在で、京都独特の景観を作り出している。

新幹線からも、高速道路や周辺の山容からも、東寺の五重の塔が京都らしい風景を醸しだし、古都「京都」のシンボルとしての都市景観を構築している様に思える。

 

近鉄京都駅から東寺までは一駅で、駅から東寺は目の前に見え、真っ黒で荘厳な五重の塔が聳え建っている。

 

 

雨の降りしきる堀のある東寺、土塀を前に五重の塔が聳え建っている。

東寺は、唯一残る平安京の遺構で、創建からおよそ1200年が経過している。1994年(平成6年)に世界遺産に登録されている。

境内からの東寺五重の塔

この五重の塔は国宝に指定され、高さ55mの日本国内最高の塔で、1644年(寛永21年)に、徳川家光が再建奉納したものである。

 

小雨の降る中の東寺五重の塔

どこから見ても美しい、小雨の降る中で1200年の歴史を感じ差す五重の塔

 

雨の中の東寺を見学した後、近くのレストランで簡単な昼食を4人で摂る。

昼食のあと、次は「どこに行こうか!」と

みんなで話をしていると、レストラン前にあるバス停に、「清水寺行」のバスが次から次へとやって来ている。

「丁度いい 清水寺に行こう!」 と、話がまとまり、やってきたバスに乗車する。

 

多くの人で賑わう清水寺への参道

清水寺略図

清水寺の伽藍(施設)名

清水寺の仁王門(左側)と西門、三重塔をバックに記念撮影

バックには紅く美しい三重の塔が聳えたっている。

多くの観光客で賑わう清水の舞台、ここからの京都市内の眺望は抜群。

本堂にある拝殿前、訪れた多くの方がここで参拝する。

清水寺からの京都市内の眺望

清水の舞台に立つ着物姿の若い女性、着物もそれぞれに華やかな衣装であるが、みんな晴れやかな表情をしている。

本堂清水の舞台から奥の院方面へ向かう人達

 

清水寺本堂と出張った舞台

昔の人達の話の中で 「きよみずの舞台から飛び降りるつもりで・・・・」 とよく言われる。

これは 思い切った決心をする時に使われた言葉で、 この場所が語源になっている。

本堂から張り出した舞台は、4階建てビル相当の高さにあたり、面積は190㎡、410枚以上のヒノキ板が敷き詰められた桧舞台である。

京都市内の眺望が抜群で、訪れた人たちの記念写真のスポットで大変人気の高い場所である。

この舞台は元々、御本尊の観音様に芸能を奉納する場所で、平安時代から雅楽や能、狂言、歌舞伎、相撲などが奉納されてきている。

現在でも重要な法会には、舞台奉納が行われている。

清水寺本堂と舞台

寛永10年(1633年)再建、正面36m、側面30m、棟の高さ18mの大堂で、西国三十三観音霊場 第十六番札所である。

清水の舞台を支える釘を一本使わずに組み上げられた柱

急な崖に、最長12mの巨大な欅(けやき)の柱を並べて組み上げられた木造建築物

本堂横の石段を下りる着物姿の女性

清水寺のパワースポットと言われる音羽の滝の前で記念撮影する人達

右側の奥にあるのが音羽の滝で三筋に分かれて流下している。

この滝は、音羽の山中から湧き出る清らかな水で、これが「清水寺」の名前の由来になっている。

水質は素晴らしく、お茶やコーヒーなどに入れれば大変美味しいとの評判である。

三筋に分かれて流下する滝の水は、向かって左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」とされている。

この滝のご利益から、若い人たちが、それぞれの筋から流れ落ちる水を求めて長い列をつくっている。

私たちは、音羽の滝の前を通り入口の方に進んで行く。

音羽の滝から進んで行くと池があり、そこからは、ご覧のような三重の塔が池とともに美しい景観を見せている。

私たち家族は清水寺の観光を終えると、清水の坂を下り、バス停に向かった。

清水寺下のバス停から、JR京都駅行に乗車すると15分ほどで到着する。

今日はJR京都駅近くのホテルを娘が予約していて、徒歩で5分ほどの場所にホテルはあった。

宿泊した京都駅前のホテル

ホテルに到着すると、すぐにチエックインして部屋に荷物を運ぶと、私たちはすぐに、夕食を摂るために近くにある居酒屋に出かけた。

時刻も午後6時を少し回っている。 居酒屋を選んだのは、好き嫌いのある孫でも、居酒屋のメニューは種類も多く、好きなものを選別できるからである。

私も京都の居酒屋は、初めてであったが、娘も居酒屋を希望していた。

家族4人で捕る夕食もまた楽しく、娘と一緒に杯をともにすることは、また格別であった。

 

3月15日(火)午前8時半、ホテルでチェックアウトして、外に出ると青い空が広がり、申し分のない天気になっている。

今日は、平等院と伏見稲荷の観光を予定している。

JR京都駅構内のコインロッカーに荷物を預けると、同じ駅の中のコーヒーショップで軽い軽食とコーヒーで朝食をすますと、

JR奈良線で宇治市にある平等院に向かった。 約25分ほどで平等院のある宇治駅に到着する。 

宇治駅前には観光案内所があり、平等院の場所や周辺の観光施設などを確認する。

平等院方向に歩いて行くと、宇治橋があり、その畔に源氏物語を書いた紫式部の像が立てられている。

平等院と紫式部はどんな関係があるのかわからなかったが、源氏物語の中でこの場所が出てくるようである。

源氏物語の作者である「紫式部の像」

十一世紀の初め頃につくられた 「源氏物語」夢浮橋ひろば この地とのかかわりを説明している。

 

夢浮橋ひろばの解説文を読んでいると、平等院とは全く関係がなさそうである。

私たちは、標識に従ってゆっくりと歩いて平等院に向かって行く。