気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

芭蕉の里と迫力満点の忍者ショー・出会った人々

2009-11-26 10:28:52 | 気ままな旅
 2009年11月8日(日)昨日から参加していたオートキャンプ大会も、昼過ぎには終わり、各々家路についた後、私たちも、オートキャンプ場を後にして、近くにある名阪ハイウエイ大内ICドライブインに立ち寄った。
 買い物を済ました後、妻と相談して近くにある三重県伊賀市上野公園に立ち寄ることにした。
 上野公園は、元々はお城の城郭内に造られた公園で、上野城や松尾芭蕉の記念館・俳諧殿、忍者屋敷、忍者伝承館などの、名所、旧跡が多く存在している。
 また、公園内は四季折々の景観と共の、伊賀上野観光の中心地としてはもちろん、デートなど市民の憩いの場としても賑わっている。
 私たちは、専用の駐車場で500円を支払って、公園内の忍者屋敷などの見学に向かって行った。
 公園正門からメイン施設へ向かう通路に差し掛かった時、二組の犬連れの方にすれ違った。
 驚いたことに、二組のそれぞれの犬が忍者の衣装と刀を身にまとっている。
 さすが、伊賀は忍者の国で、犬まで忍者恰好をしている。飼い主に頼んでごらんのような写真を撮らしてもらった。
 しかし、犬も自分の体より刀の方が大きく、歩きにくそうであった。

          
              忍者の格好をし紅白の刀を背負った犬

          
              思いがけずに出会った忍者衣装の犬

 公園正門近くで忍者衣装の犬を撮らしてもらった後、私たちは、正門からの広い通路をまっすぐに進んで行った。
 100m程行った所の右手に、芭蕉翁記念館の建物が見えてくる。
 私たちのように気ままま旅を続ける者にとって、旅先で時々芭蕉の句碑を見かけるなどして、松尾芭蕉は身近な存在になってきている。
 私自身は、俳句の勉強をしたことはないが、江戸時代の松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶などの俳人は有名で、雑誌などで時々見かけている。
 記念にと思い、芭蕉翁記念館に入場料金300円を支払って入場して行く。
 入り口の前には、芭蕉翁の像が立てられて、その横が展示ルームになっている。 芭蕉翁の遺品や、その他ゆかりの資料、門人たちの作品が展示されている。

          
                伊賀市上野公園内にある芭蕉翁記念館

          
         松尾芭蕉翁と「古池や・・・」のあまりにも有名な俳句

 松尾芭蕉は、伊賀国(三重県伊賀市)で、松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれる。
 松尾家は農業を生業としていたが、苗字を持つ家柄だったようである。
 芭蕉は、若くして伊賀国上野の侍大将・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに、北村季吟に師事して俳諧の道に入った。
 俳諧の道に入った芭蕉は、すぐに才能を発揮、処女句集『貝おほひ』を、伊賀市にある上野天満宮に奉納出来るまでに成長している。
 芭蕉は、延宝3年(1675年)には、江戸に下り、神田上水の工事に携わった3年後に、宗匠となり、職業的な俳諧師となっている。
 さらに、2年後には江戸深川に草庵を創設している。
 この草庵は、芭蕉の門人の李下からバショウ(熱帯性のバナナの樹木によくにた植物)を記念に贈られ、一株植えたところ、この木が大いに茂ったことから、これにちなんで「芭蕉庵」と名付けられた。
 その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んでいる。

     芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   芭蕉

 芭蕉は、しばしば旅に出て紀行文を残している。
『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』などが有名である。
 この紀行文を発表した後の、元禄2年(1689年=江戸時代)には、弟子の河合曾良を伴って『奥の細道』の旅に出、江戸から日光へ、那須、松島、平泉、山形、鶴賀、酒田、越後、越中、金沢、加賀片山津温泉、山中温泉、福井あわら、敦賀、大垣へ旅している。
 総延長600里(2400km)150日間の旅で、元禄4年(1691年)に江戸に帰ってきている。
 この紀行作品である奥の細道は、「月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかう年(とし)もまた旅人なり」の序文によりはじまる、日本の古典における代表的な存在であり、松尾芭蕉の著書の中でも最も有名な作品である。
 
 松尾芭蕉の最期も、大阪への旅の途中であった。
 大阪御堂筋(みどうすじ)の旅宿で最後の句の前詞 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 と、死の床に伏す直前に詠んだ 「秋深き 隣りは何を する人ぞ」 の句がある。
 享年51才。生前の「(墓は)木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られている。

芭蕉の著名な句

①古池や 蛙飛びこむ 水の音 (ふるいけや かはずとびこむ みずのおと)

②名月や 池をめぐりて 夜もすがら (めいげつや いけをめぐりて よもすがら)

③夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):岩手県平泉町

④閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):山形県・立石寺

⑤五月雨を あつめて早し 最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県大石田町

⑥雲の峰 いくつ崩れて 月の山(くものみね いくつくずれて つきのやま):山形県・月山

⑦荒海や 佐渡によこたふ 天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):新潟県出雲崎町

⑧花の雲 鐘は上野か 浅草か (はなのくも かねはうえのかあさくさか):東京都

⑨初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也 (はつしぐれさるもこみのをはしげなり):三重県伊賀市

⑩旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る (たびにやんで ゆめはかれのをかけめぐる):辞世


 芭蕉翁記念館の見学を終えた私たちは、同じ公園内にある忍者屋敷に向かって行った。
 すると、公園内のベンチに黒の忍者装束をした3人の人たちが目に入ってくる。
早速、記念の撮影をと思い向かって行った。
 私はこの人たちは、忍者の街、伊賀市が観光サービスの一環として、訪れる人たちの記念撮影に、応じてくれる人たちだと思っていた。
 写真撮影を依頼して、色々と話をしてみると全く違っていた。
 この人たちも観光客で、旅の思い出として貸衣装さんで借りて、身にまとっているとのことであった。
 しかし、私は折角の記念だから、撮影さしてほしい旨の依頼をすると、笑って気軽に応じてくれた。

          
真正面のポーズから、背中の刀が見えるようにお願いしたしたところ、ご覧のようなポーズをとってくれた。

          
    忍者らしいポーズをと、お願いすると、役者顔負けのナイスポーズをつくってくれた。

 この人たちとの撮影を終えると、すぐに忍者屋敷(忍者博物館)の方に向かって行った。100mほどの距離にある。
 受付で入場料金700円を支払おうとすると 「忍術ショーが200円で見られますが!」 と言われ、一度見てみたいと思い、900円支払って入場する。
 近くの忍術ショーの会場に入ると、土間の舞台があり、半円形で階段状になった観客席が造られ、200人位の人たちが開演を待っている。
           
           
            伊賀忍者のポスター  伊賀忍者特殊軍団阿修羅の ポスター

 この忍術ショーは、伊賀忍者特殊軍団阿修羅によるもので、忍者が実際に使用していた手裏剣などの忍具を使って、本物の忍者がいかに使用したかを実演する迫力満点のショーである。
 
           
          刀や鎖鎌、捕り縄術などすさまじい実戦さながらの忍者ショー

           
          鎖鎌や二刀流と護身法を身につけて戦う本物さながらの忍者ショー

           
 水戸黄門などの時代劇にも出演している出演者、刀を持って向かって行く姿にもすさまじい迫力が感じられる。  

 今回は三重県上野公園にある芭蕉翁記念館と忍者ショーを見学することができた。
 松尾芭蕉も伊賀上野の出身であることから、忍者説が論じられている。
 芭蕉のような俳諧師は、古くから旅をして暮らしていたことから、情報収集が目的であったと言われている。
 奥の細道で曽良を同行しているが、曽良が出している「曽良旅日記」と芭蕉の「奥の細道」を比較した場合に、相違点が多く隠密説が流れているようである。
 私も気ままな旅を続けていると、芭蕉の句碑を所々で見かけ、芭蕉に対して親密感が湧いてきている。
 どの地域の句碑においても、その地区の風土や季節感などの状況が、よく現れていると感じている。
 始めて見る忍者ショーは、大変迫力あるものであった。
 映画やテレビなどの映像を通じてしか見たことがなかったが、こういった実演のショーを目の当たりにすると、新たに忍者に対して興味が湧いてくる。
 忍者ショー会場の前後には、伊賀流忍者博物館と忍者伝承館があり、忍者に対しての多くの資料や、忍者が住んでいた屋敷がそのまま残されている。

冷えは万病の元・・・・・・改善して健康な毎日を   JKB健康エース

2009-11-25 07:01:01 | 私の健康
 最近、日本人の食生活に関して、多くの警鐘を鳴らすような報道がなされています。
 先だっての、NHKクローズアップ現代でも、この問題が取り上げられて放映されていました。
 特に若い人の一人暮らしの方に、食生活の問題が多いようです。
 食事内容も驚くべきもので、お菓子や食事のデザートなどが主食になっていたり、インスタントラーメンなどで腹ごしらえをして、後はサプリメントで補うといった食生活の内容でした。
 多忙な生活を理由に、食事の大切さや、楽しみなどが薄れ、料理のわずらしささなどがあって、正しい食生活をしていないように感じます。
 食生活からくる体の不調や、生活習慣病など、私たちの体は、内と外から様々な影響を受けています。
 私たちの体は、ある一定の年齢までは、ある程度の状態を保つことが出来るといわれています。
 しかし、健康への不安が常に付きまとい、将来の健康問題が気がかりになってきます。
 このような健康不安から解消され、日々新たに夢と希望をもった生活をしていきたい。
 どうすれば、健康問題への不安からのがれることが出来るのだろうか!
 と考えるのは、極めて必然的で、自然的なことです。
 西洋医学では、体の悪いところを治そうと考えて治療しますが、東洋医学では、体全体の免疫力(病気に対しての抵抗力)を高めて、悪いところも一緒に治していこうと考えて取り組んでいきます。
 「自分の健康は自分で守る」 予防医学の大切さを認識し、常日頃から食生活や、運動などをとり入れた生活が大切になってきます。
 ひとつの健康のバロメーターに、体温(健康な体温は36.5℃)があります。
 現代人の多くの方々の体は、冷えているといわれています。
 冷えた体は、血が濁り、私達の大切な臓器に悪影響を及ぼし、がん細胞発生のリスクが加齢と共に高くなってきます。
 (特に体温35度代の人は要注意)
 逆に健康な体温36.5℃の方は、血液がサラサラ、臓器も元気で免疫力も高いといわれています。
 寒い季節に南の暖かい地域で採れる食物は、体を冷やし、逆に寒い地域や、住んでいる地域で採れた旬の食材は、体を温めるといわれ、その中でも特に、生姜は体を温める食材として注目されています。
 健康な体温を維持し、家族や自分の人生が、より一層豊かで、明るく、元気で、有意義な毎日を過ごされます事を念願致しております。


 

 







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謙信が再建した五智国分寺と夕映えの黒姫・妙高山

2009-11-21 21:57:25 | 気ままな旅
 2009年6月24日(水)先ほどまで天地人ゆかりの地、春日山城跡を見学していた私たちは、愛車エステイマに戻ってくると、新潟県上越市最後の行先を、同じ市内にあり、上杉謙信ゆかりのある五智国分寺に決めて向かって行った。
 時間も午後3時近くになっている。あまりゆっくりは出来なかった。 五智国分寺には、10分ほどで到着する。

 五智国分寺は、天平年間(729~749年=奈良時代)に聖武天皇の勅願によって各国ごとに建てられた国分寺の一つとされている。
 名前の由来となっているのは、このお寺が越後国分寺の分祀とされ、本尊を大日如来像、薬師如来像、宝生如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像の五智如来を祀っていることから、五智国分寺と呼ばれている。
 しかし、このお寺は、その後しだいに衰退していったために、創建当時の位置は不明で、一説では境内が海中没したという説も伝えらられている。
 五知国分寺は、時代によっては隆盛、衰退を繰り返し、戦国時代にはかなり荒れ果てた状態だったといわれている。
 承元年間(1207年~1211年=鎌倉時代)には、越後へ流された親鸞上人が、国分寺に滞在した旧跡でもあり、多くの人々の信仰の対象であった。
 その後の、室町時代後期に登場してくる上杉謙信は、それを愁い、永禄5年(1562年=室町代)に堂宇を整備、再興し、70余坊を抱える大寺院となっていった。
 江戸時代に入っても幕府が庇護し、寺領200石の朱印状を寄進している。
 しかし、江戸時代には、何度も火災にあっている。
 現在の建物は、元禄6年(1692年=江戸時代)に建てられた経蔵(上越市最古)をはじめ、天保6年(1835年=江戸時代)に建てられた仁王門、慶応元年(1865年=江戸時代末期)に上棟された三重塔が残されている。

           
                  五智国分寺入り口(鏡が池側)

 国分寺(こくぶんじ)及び国分尼寺(こくぶんにじ)は、天平13年(741年=奈良時代)に聖武天皇(=第45代天皇)が国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺院である。
 正式名称は、国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。

 各国には、国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれていた。
 多くの場合、国庁とともに、その国の最大の建築物であった。
 大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられていた。
 時代が推移し、律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺・国分尼寺の多くは廃れている。
 そんな中、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派、あるいは性格を持った寺院として、存置し続けたことが明らかになっている。
 後世においても、国分寺が再興されるなどして、現在まで維持しているところもある。
 国分尼寺も同様だが、復興されなかったところが多く、また、かつての国分寺近くの寺で、国分寺の遺品を保存しているところもある。

           
              国分寺入り口、境内の奥には山門が見えている。 
             
           
             寄木造りでできた山門、両側には仁王像が立っている

 現在の山門は、天保6年(1835年=江戸時代)能生谷小見村(能生町)の七郎左衛門が中心となって再建したといわれています。

           
          山門左側の仁王像(吽形像)   山門右側の仁王像(阿形像)

 また山門の両脇には、仏教の守護神である仁王像が安置されている。
 この像は、高さ2.7mの寄木造でできていて、向かって右は口を開いている阿形(あぎょう)像。左は、口を閉じている吽形(うんぎょう)像となっている。
 ※この二つの像は、寺に魔物の侵入を防ぐ目的で造られ、常に二体一体なっていることから、相手との微妙なタイミングや心が一致することを阿吽(あうん)の呼吸という。
 2体の仁王像は、天保7年(1836年=江戸時代)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって造作された。
 また、平成6年には仁王像が倒壊した為、3年をかけて修復されている。
 再建された本堂は、鎌倉時代のものをモデルとして、青森ひば材を使いっている。外見は簡素で、内部は重厚な造りで、槍かんなで仕上げられている。    

            
                親鸞聖人の像     山門からの境内奥には本堂が

 五智国分寺は、上越に流罪となった親鸞聖人が、一時居住したことでも知られている。
 承元元年(1207年=鎌倉時代)、専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となる。
 その時、国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友であったため、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、この国分寺にお住まい頂いたと伝えられている。

            
          芭蕉の句碑もたてられているが、句は永い風雪の影響で読みづらい

 さらに、芭蕉が奥の細道の道中で立ち寄ったことから、芭蕉の句碑がある。

   薬欄にいづれの花をくさ枕

 「薬園の草が秋で美しいが、どれを枕としてここに旅寝しょうかと、主人の挨拶をこめて詠んだもの」 と解されている。
 芭蕉は、元禄2年(1689年=江戸時代)に江戸を出発し、奥の細道と言われる旅に出る。
 道中7月8日(旧暦)、越後高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。
 春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。

            
                 親鸞聖人ゆかりの竹之内草庵

 この草庵は、竹林に囲まれていたために、竹之内草庵と呼ばれている。
 また、草庵には聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれた、親鸞聖人坐像が安置されている。
 
           
               平成9年に再建された五智国分寺本堂

 本堂は天平年間(740年代=奈良時代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は現在もわかっていないようである。
 永禄5年(1562年=室町時代)近隣の春日山城主上杉謙信によって、現在の場所(新潟県上越市五智)に再建されている。
 その後、幾度となく災興を繰り返し、江戸時代には、元禄2年(1689年)と寛政6年(1794年)に火災に遭っている。
 現在の本堂は、昭和63年に焼失後の平成9年に再建されたものである。
 
            
奥より、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、宝生如来、釈迦如来像(写真=当寺HPより)

 当寺の本尊は、大日、薬師、宝生、阿弥陀、釈迦の半丈六(身丈四尺五寸)の五如来です。
 また、五智如来の信仰は庶民的なものであった。
 大日如来は、太陽のごとく万物を慈しみ五穀豊穣の功徳を表している。
 薬師如来は、病魔を退散させる医薬の功徳を表している。
 宝生如来は、福徳財宝の功徳を表している。
 阿弥陀如来は、極楽往生の功徳を表している。  
 釈迦如来は、智慧聡明の功徳を祈願している。
 
 なお、教理のうえで五智とは、大日如来の五つの智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作地)を意味している。
 胎蔵界と金剛界の違いによって、五体の如来名が違っていたり、時には混同されたり、他の如来像に代行されている場合もある。
 
           
            本堂側から三重の塔       正門側からの三重の塔

 三重の塔は、寛政6年(1794年=江戸時代)の火災以後、安政3年(1856年=江戸時代)に宮大工木曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工され、20年の年月をかけて建てられたものである。
 その後、慶応元年(1865年=江戸時代)に、上棟され整備されているが、高欄などが未完成のまま現在に至っている。
 また、塔の壁面には、高田の名工石倉正義銘の十二支と、中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれている。
 五智国分寺三重塔は、昭和51年に新潟県指定重要文化財に指定されている。

           
             美しく細かい細工が施されている三重の塔上部

           
          屋根のひさしの部分と白木の細工が美しい下からの三重の塔

           
                国道18号を長野妙高方面に行く

 国道18号線も快調に流れ、遠くに見えていた山峰が少しずつ近づき、その姿をはっきりと現すようになってきている。 車窓から妙高山(標高=2454m)などの山峰が見えている。

          
                車窓からの妙高山(標高=2454m)

          
               車窓からの雪をかぶった山峰

 国道18号からの景観で、位置からいって火打山(標高=2462m)や、後ろにある焼山(標高=2400m)当たりの山峰ではと思われる。

          
           霊仙寺湖面と黒姫山(標高=2053m)・妙高山(標高=2454m)

 愛車は快調に国道18号線を妙高方面に、少しずつ高度を上げながら走っている。
 車窓からの山陵も、時々険しい山陵に変わりながら、妙高山や黒姫山を目の当たりにするようになり、ドライブの楽しさを実感さしてくれている。
 この国道18号は群馬県高崎市から軽井沢や長野市を経由して新潟県上越地方を結ぶ主要な幹線道路である。
 長野県妙高市近辺では、上信越自動車道とJR信越本線、国道18号が平行して走っている。
 妙高高原を通り過ぎた頃には、時間も午後5時近くになっている。
 とりあえず、道の駅に行って情報収集をしたいと考え、近くにある道の駅「しなの」に向かった。
 道の駅「しなの」には、程なく到着する。道の駅の前には黒姫山(標高=2053m)が堂々とした景観を見せている。
 道の駅の案内所前には、初老の夫婦が何組か見え、何か話し合っている。
 挨拶を交わすと、自然と会話になり、この地域のことや、尾瀬(群馬県)のことなどを色々と教えてくれる。
 特に私は関東方面に関しての知識が乏しく、こうした何気ない会話から貴重な情報をいただくことが多い。
 この人たちは、千葉県に住む夫婦3組で、友達のような付き合いをしながら、旅行や登山などを、一緒にしているとのことであった。
 この人たちが去って行ったあと、案内員の方に周辺にある、日帰り温泉や観光のスポットなどを親切に教えてもらった。大変ありがたかった。
 私どもは、今日の車中泊をこの道の駅「しなの」に決め、教えられた日帰り温泉「天狗の館」に向かって行った。
 この温泉は、道の駅から15km先にあり、20分ほど要した場所にあった。
 入浴料500円を支払って入っていく。
 この温泉は、絶景露天風呂が楽しめる「むれ温泉」で、飯綱高原にある人口的に出来た霊仙寺湖の畔にある炭酸水素冷鉱泉である。
 まだ、露天風呂から目の前に霊仙寺湖(れいせんじこ)が広がり、前方には2000m近い飯綱連山が、さらに西方には黒姫山や妙高山が湖面に映し出され、高原独特の緑の景観と共に絶景が楽しめる。

 ※霊仙寺湖は、上流河川の水質が鉄分が多く水田に適さない為に、人工的に湖を造り、鉄分を沈殿させて、水質改善を行う目的で造られた湖である。

          
             霊仙寺湖面に映る夕映えの黒姫山と妙高山

 入浴を終え、今日一日の疲れを癒した後、先ほどの道の駅「しなの」に向かって行った。
 夕日も西に落ち、黄昏時を向かえ、霊仙寺湖と黒姫山や妙高山が見事な景観をかもし出している。

          
             田んぼに映る夕映え黒姫山と妙高山

 時間と共に刻々と変化する夕映え、水を張った田園に、赤く染まった黒姫山や妙高山が映し出され、日本独特の農村景観をかもし出している。

          
              黒姫山と妙高山の夕映え      

 黄昏時も深まり、ライトを点灯した自動車が何台も行き交っている。
 黒姫山や妙高山の上空は赤く染まり、山岳地帯独特の美しい景観を現している。 また、明日の上天気を約束してくれている。
 私たちは、途中でスーパーに寄って、夕食の食材を購入して先ほどの道の駅「しなの」に帰って行った。
 道の駅に到着するとすぐに夕食の準備に係り、星空を見ながら妻と二人、温泉で癒した体や、のどを潤してくれる杯や夕食も、また、格別な味であった。

 















妻が発熱・・・参加が危ぶまれたオートキャンプ(三重県伊賀市)

2009-11-15 13:19:25 | 今日の出来事
  11月7日(土)朝早く起床すると、秋晴れの快晴で行楽にはもってこいの天気である。
 今日と明日の日曜日は、三重県伊賀市島ヶ原で開催されるオートキャンプに出かける予定になっていた。 だが、妻の体調が思わしくなく出席できるかどうかの判断が出来かねない状態であった。
 妻はブラジルのステーキ牛の肉など名古屋から仕入れて準備は万端と整えて、行く気は十分であったが、私は妻の体調が気がかりであった。
 今週の月曜日に突然風邪の病状が出て発熱、病院での診断では、新型インフルエンザではなく、疲れによる風邪と診断される。
 しかし、熱が下がらず、再度近くの病院に行って受診する。
 その結果、投薬を漢方から抗生物質に切り替えてもらったところ、翌朝には、熱は下がって少し安心するが、ふらつきが少しあった。
 出発当日の朝に 「今回は無理をせずに中止にしよう」と妻に話をする。
 妻に話をしてから一時間ほどして、妻は 「体調が良くなってきた。もう大丈夫、行こう!」 と、言いだしてくる。
 私も、妻の顔色やしんどさなどを診ていて、時間がたつごとに良くなっているようには感じてきていた。
 「ほんとに大丈夫なのか! あまり無理をしない方が!」と 再度、妻に話をする。
「大丈夫、調子も良くなった、行けるよ」で、話が決まり、急きょ出発することになった。
 私たちは、早速、出発準備を始め、昼過ぎには、愛車エステイマにて南大阪の自宅を出発することが出来た。(本来の出発予定は午前9時頃であった)
 自宅を出て一般道を通行して阪和自動車道を走行して行く。
 さらに愛車は、阪和道から西名阪道を経由して、名阪国道(R25)に入って行った。
 天気も快晴で、渋滞らしきものはなく、愛車エステイマは快適に名阪道を走っている。
 心配していた妻の体調も良くなっているようで、出発前よりも顔色も良くなっているようであった。
 愛車は急坂の続く天理の坂を登り切り、名古屋方面に向かって走行して行く。
 無料ハイウエーとして知られている名阪国道も、土曜日のせいか大型車が少なくスムーズに流れている。
 程無くして大阪名古屋の中間に位置する大内IC(三重県伊賀市)を通過し、名阪道から一般道に入っていく。
 ここから20分ほどで、今回の会場であるOKオートキャンプ場に到着する。 到着時間も調度午後3時頃であった。
 今回、開催されているオートキャンプは、大阪でキャンピングカーなどを多数販売している、大森自動車の主催によるもので、今回のキャンプ大会は第25回目の大会で、多数のキャンピングカーが参加、2日間にわたって行われる。
 私は、大森自動車の会員ではないが、和歌山県橋本市に住む友人からの誘いで、昨年の紀伊半島大島についで、2回目の参加である。

                
          木津川の畔にあり広々とした OKオートキャンプ場の全景 

 会場であるOKオートキャンプ場は、大変アクセスの良い場所にある。
 大阪や名古屋からは、名阪国道経由で70分~80分と手軽な距離にある。
 キャンプ場内も上記写真のように広々とした開放的な雰囲気で、各サイトもゆったりしていて、リラックスムードを満喫できるように作られている。
 キャンプ場沿いには、木津川が流れ、川遊びや釣り、場内の小さな牧場での乗馬、広場でのボール遊びなど家族全員が元気に遊べられるように作られ、子供たちの歓声がいたる所から聞こえている。
 木津川の対岸にも、温泉などもあって、疲れた体を温泉で癒したり、また、近くには観光名所などの施設も多く、楽しみがいっぱいありそうである。
   
           
        多くのキャンピングカーなどが勢揃いしたOKオートキャンプ場の光景

           
キャンプ場内には広々とした広場があり、参加した家族達が思い思いにスポーツなどをして楽しんでいる。

           
私達のキャンプサイト、右のタープテントにはテーブルと全員の椅子が並べられた食事会場になっている。

 OKオートキャンプ場に到着して、すぐに受付にて私たちのサイトと場内の場所を確認して、教えられたサイトに向かって行った。
 広々とした場内には、数十台のキャンピングカーが勢揃いしている。
 この様は、キャンピングカー販売店の主催ならわの光景で、このようにキャンピングカーを一同にして見るのは、まさに圧巻である。
 愛車が進んで行く目の前には、一頭の馬を取囲みながら数人の人たちが談笑している小さな牧場の光景があった。
 さらに100m程進んで行くと、私達のキャンプサイトがあり、和歌山県橋本市から着ている夫婦の姿が目に入ってくる。
 サイトには、一台のキャンピングカーやキャンピング使用のワゴン車が並んで駐車し、その横には調理用のテーブルが設置され、タープテントが張られている。
 到着して挨拶を交わした後、愛車エステイマを車列の並びに駐車させてもらった。
 橋本市の夫婦も、ずいぶんと妻の体調を気遣ってくれていた様子であったが、妻の元気そうな様子を診て、安堵してくれたのか、ずいぶんと喜んでくれていた。
 今回のキャンプには、和歌山市から来た60代の女性と、昨年の和歌山県串本市大島のキャンプでお世話になった和歌山市の夫婦も参加し、高校生の息子さんも同行している。
 キャンプには、私ども入れて8名の参加で、食事は共同でとることになっている。
 やはり、食事は参加者にとってキャンプ最大の楽しみでもある。

          
                木津川と対岸にある島ヶ原温泉などの施設

 木津川は、三重県青山高原に源を発し、三重県東部の伊賀市を北上、京都府八幡市付近で、淀川水系の本流である宇治川や桂川と合流し、淀川となって大阪湾に注いでいる延長89kmの一級河川である。

           
上部には温泉施設が、白い泡をたてながら渓谷を流れる木津川、この場所から、奈良県を経由せずに、京都府に流れるのは想像しにくい川である。 

 太陽が西に沈みかけた頃、夕食の準備をみんなですることになった。
 橋本市からの夫婦が、調理場を手際よく、使いやすいように作ってくれている。
 夕食のメニューは、晩秋漂う時期とあって、キノコ汁にエビなどの入った団子を入れて、体を温める料理や、キノコの王様で独特の香りを撒き散らすマツタケご飯を調理してくれている。
 ブラジル育ちの妻は、予め、名古屋のブラジル店から厚切りのステーキ肉(牛)2kgとブラジル独特のソーセージ1kgなどを調理、火を興してコンロで焼く準備をしている。
 和歌山市の女性も御寿司(さば寿司)、家族連れの人たちも巻寿司などをそれぞれに持ち込んで夕食の準備を整えている。
 夕日が完全に沈み暗くなってくると、タープテントには灯りが燈されてくる。
 この頃には、それぞれの料理も出来上がり、8人による賑やかな夕食が始まった。
 最初は全員による乾杯から始まり、それぞれの料理をおいしそうにつまんでいる。
 携帯ラジオからは、プロ野球日本シリーズ第6戦、巨人:日本ハムの実況放送が流れている。
 高校生の息子さんも、ブラジルの肉料理は初めてで、興味をもたれた様子が深々と伝わってくる。
 この息子さんの名前はコーチャンで、現在は高校一年生、劇団に入部して来年早々には、舞台公演が予定され、家族も楽しみにしているようである。
 礼儀正しく明るい高校生で、親自慢の息子さんのように感じる。

           
ブラジル風のステーキ牛、タレもつけずにそのまま食べる、素材肉の新鮮さや柔らかさ、焼き方が求められる。

           
 夕日が沈んだ頃、タープテントで8人による夕食が始まった。キノコ汁にも一味違った工夫がされ、みんなおいしそうに食べている。
 
 昼間の気温は上着がいらない位に温かかったが、日が沈み暗くなってくると、やはり自然の中の気温は下がってくる。
 タープテントのメッシュ網シートの、内側に付いているもうひとつのシートを全て下ろして、外気の進入を出来る限る少なくする。
 タープテント内は、小さなストーブも用意され、快適な気温に保たれている。
 
 ステーキやソーセージの肉も好評で、みんなおいしいと言ってくれている、特にブラジル風の焼肉を初めて食べるという、コーチャンのおいしそうに食べる姿は印象的であった。

           
日本では珍しいブラジルのソーセージ、ステーキ肉よりも甘く、日本人では好む人が多い。 
           
            
    橋本市からの夫婦のキノコ汁、中にはエビなどの入った団子が入っている。

 この夫婦の手際よさや、一つ一つの料理に一味違った奥深い食材や、料理にはいつも感心させられる。
 季節的に冷えてくると、どうしても温かい料理がほしくなってくる。
 今回の料理も、秋のアウトドア料理には、ぴったりの料理であった。
 その後には、マツタケご飯を焚いてくれ、香りがタープ内に漂っている。

           
 御寿司や酢の物などの料理やデザート、お酒類などもみんなで持ち寄り、食卓を賑やかにしている。8人で食べる夕食も、また、格別の雰囲気があり、おいしく食べられる。

 お酒も少し入り、口元も滑らかに、何かと話題が飛びだして、賑やかに食べる夕食の楽しさを全員が満喫している。
 時間も経過してお腹もふくれてきた頃、主催者側のパーテイも開催しているとのことで、全員が出て行ってしまった。
 私は一人テントに残り、留守番をしながら、ラジオから流れる音楽を聴いて、その余韻を楽しんでいる。
 そのように過ごして少しすると、おでんなどの料理をたくさん持って帰ってくる。
 主催者側も、中央の広場で料理やお酒などを用意して、参加者を歓待してくれているようである。
 参加者と主催者側の人たちが、キャンピングカーなどについて情報交換しながら、料理や杯をいただいて楽しんでいるようであった。

           
            翌朝、場内の広場に集まって参加者全員での体操風景

 11月8日(日)今日も上天気のようで、会場内では朝食の準備をしているのか、あちこちで煙が上がっている。
 私達も朝食の準備を進めていると、場内に「全員で朝の体操をするから集合してください」 とのアナウンスが流れてくる。
 会場の広場に行ってみると、大勢の人たちが集まっている。
 広場の中央には、トラック荷台のステージが用意され、側にはピンクの忍者衣装をまとった女性リーダーがひかえている。
 程なくして体操の音楽が流れ、トラックステージでは、女性忍者のリーダーが体操を始める。
 全員が見よう見まねで、リーダーに合わせての体操が始まった。
 NHKのラジオやテレビ体操とは違って、小さな子供でも楽しめるような動作などを取り入れたもので、誰でも楽しみながら出来る体操であった。

           
              体操の後の参加者全員による記念撮影の風景

 朝の体操が終わった後は、参加者全員による記念撮影が行われた。

                  
              朝の散歩中に場内で見かけた椅子の上に座った犬

          
        全員の体操や記念撮影が終わった後、比較的遅い朝食が始まった。

           
 ブラジルで最も人気のあるコーヒーのひとつPILAO(ピロン)コーヒー、細引きの粉で、酸味がなく、飲んだ後のさわやかさが特長のレギュラーコーヒーで、「何杯飲んでもあきがこない」との批評の多いコーヒー。

           
 朝食後に挨拶に訪れた大森自動車社長とブラジルコーヒー飲みながら歓談する。

          
       タープテントなどの後片付けも終わり、ほっとした表情の昔の娘さんたち

          
     昼過ぎには全ての片付けも終わり、お互いに別れの挨拶する昔の娘さんたち

           
   帰り支度も整い、去っていくキャンピン使用のワゴン車(橋本夫妻の愛車)

           
    「また会いましょうとVサイン」 和歌山市ファミリーの本格的なキャンピングカー

           
 和歌山市方面に帰って行くキャンピングカー 後ろには旅の歴史を現すステッカーが幾つも貼られている。

 今回は、思わぬ妻の体調不調により、参加が危ぶまれていたが、妻の体調も良くなり、参加することが出来て本当に良かった。
 それに、気心の知れた方たちばかりで、一泊二日という短いキャンプであったが、やはり、自然の中でみんなと一緒に摂る夕食も格別で、アウトドアならでわの大きな楽しみであった。
 特に橋本市の夫妻には、毎年の様にキャンプに誘っていただき、大自然の中で過ごすアウトドアの楽しさを教えていただいているように思える。
 和歌山市家族の皆さんにも、キャンプを一緒に過ごさしていただくことで、楽しさが一層大きくなってきている。
 そして、60代女性の方も参加した今回のキャンプも楽しく過ごし、あっという間に終わった感じであった。
 また、来年も一緒に自然の中で過ごしましょう!と、いった感じで無事に終了することが出来た。
 皆さん 色々とありがとうございました。
 また、お会いしましょう。
 

天地人「儀」と「愛」の心、史情を感じさす春日山城跡

2009-11-07 09:21:45 | 気ままな旅
 6月24日(水)上杉謙信ゆかりのある林泉寺の見学を終えた私達は、隣にある春日山城跡に向かって行った。春日山城には5分ほどで到着する。
 到着して目の前の石段の上を見上げると、堂々とした上杉謙信の像が立てられ、川中島合戦場の方向や、上越市街の街並みを望んでいる。 
 その横には春日山神社の入り口があり、その奥には巨木に囲まれた広い参道が作られている。
 午前中に見学していた春日神社と、似たような名前の神社である。
 私の頭もドラマ等で出てくる神社で、混同していたようである。
 春日神社は、上杉家が城の賛護の神として祀っているのに対して、春日山神社は上杉謙信を祀っている神社であった。(詳細は下記に述べる)
 参道を真っ直ぐに100mほど進むと、左側に春日山神社が建てられている。

                     
 春日山城絵図 中腹に春日山神社、頂上部左が天守閣跡、右側は本丸跡で、さらに一段下がった所が毘沙門堂である。 

            
              上杉謙信公を祀る春日山神社入り口  

 春日山神社は、1901年(明治34年)、童話作家・小川未明の父親である旧高田藩士小川澄晴により、前島密らの援助を受けて創建された。
 御祭神は上杉謙信で、山形県米沢市の上杉神社より分霊されたもので、社殿は神明造である。
 境内にある宝物館には、上杉謙信や小川未明に関する資料が展示され、正月には初詣や二年参りなどの大勢の参拝客で賑わう。(近くの春日神社とは別)

           
 石段の上部に立てられ市街を望む上杉謙信像 参道を少し行った所にある春日山神社 

          
               上杉謙信公を祀る春日山神社本殿 

           
       「御祭神 上杉謙信公」と書かれた看板が掲げられている春日山神社拝殿

 私たちも、春日山神社本殿の拝殿に進み参拝した後、入口に戻り、春日山城天守閣跡に向かって行った。
 春日山城天守閣跡には幾つかの遊歩道が造られているが、私どもは駐車場に一番近いコースから登って行った。

           
          春日山城天守閣や本丸跡にはいくつかの遊歩道が造られている。

 春日山城は、標高190m(比高150m)の所に築城され、別名は鉢ヶ峰城と言われている。
 春日山城は、定かではないが、初期の築城は南北朝時代とも鎌倉時代とも云われている。
 誰が築いたかも確定はしていないが、越後府中の御館で国政をとる守護、上杉氏が詰の城として築いたとされている。
 戦国時代には、上杉謙信の父・長尾為景が越後の実権を握り、その後、謙信は天文17年(1548年=室町時代)12月晦日に19歳で入城する。
 謙信は、この城を大城郭に改修し、跡を継いだ上杉景勝も、さらに改修を加えている。
 慶長3年(1598年=安土桃山時代)に、上杉氏が会津に転封になると、その後は堀氏が継承する。
 堀氏は、政治を取り仕切るには、不便な山城であることから、近くに福島城を築城して、春日山城は廃城としていた。
 春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで、連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた、総延長1200mの総構え(通称監物堀)であり、戦国時代の大大名・上杉謙信の本拠にふさわしい大城郭で、全国屈指の規模を誇る山城であった。
 
 また、春日山城に掲げられた案内板には次のように書かれている。
「 頸城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地であった。
 本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、土塁濠を重ねて此隣に勢威を示した。
 頂上は蜂ヶ峰と称し、眺望に富み附近の属城を充分に監視することが出来た。
 本丸址の後方、一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門丸及び御花畑があった。
 また西方には鐘楼堂や景勝屋敷址等があって、南方の二の丸、三の丸方面には家臣の屋敷址があった。規模は極めて雄大である。 文部省 」

 私たちは、山頂にある天守閣後を目指して登って行くと、すぐに急な斜面にできたジグザクの道が現れてくる。
 この道を、さらに登って行くと、林の中に土塁と思われるような盛土が造られている。
 この盛土は、造成の折に出た残土を盛り堅め、防御の役割を果たしている。
 当時は、城の広範囲にわたって、このような土塁が築かれ、春日山城の守備を一層強固にしていたと想像されてくる。

          
今も残る土塁 土塁に囲まれた三の丸の「米蔵跡」三の丸は、景虎屋敷や米蔵など、段違いに造られて区分されている。

          
三の丸跡(上杉三郎景虎屋敷跡)美男子の三郎景虎は、小説「炎の蜃気楼」で描かれて人気を博し、近年、春日山城で、最も賑わいを見せている郭の一つです。

 春日山では、最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名を与えて住まわせた養子「三郎影虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡」呼んでいる。
 それぞれの屋敷は段違いに作られて区分され、「影虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。
「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。
 三郎影虎公は、謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ、悲運の死をつげた。
 公を慕って屋敷を訪れる人も多く、今春日山城の中で最も注目を集めているひとつである。

          
二の丸跡本丸などの実城郭群の東真下を、帯状に取り囲むように配した郭です。

 二の丸屋敷は、本丸から毘沙門堂をえて、お花畑に至る実城と呼ばれる廓群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成している。
 本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられている。
 古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現状も笹井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手がかりとなっている。
 
                
二の丸の山裾にある小さな井戸、どんなに日照りが続いても枯れる事はなかったと伝えられている。二の丸の笹井戸跡 古絵図によると、この一帯は「台所屋敷」や「お茶屋」「人数溜」などがあった所です。

          
地形的に天守閣と本丸とは、小さな谷で分かれて築城されている春日山城天守閣跡地で、ここからの眺望は抜群である。

          
 本丸跡地で天守閣跡よりも広い面積を有している。ここからの眺望も抜群である。本丸跡 この辺一帯の高い所、毘沙門堂、お花畑、井戸郭を含めて実城と呼び、ここは実城のうち「お天上」と呼ばれた所で、南隣の天守台と共に高さは約180mある。
  
        
 眺望の抜群の本丸跡地の片隅には、ベンチが設置され、数組の人たちが思い思いに眺望を楽しんでいる。

          
 本丸からの上越市内を望む、左側には直江港、正面の山は米山(H=993m)である。

          
          本丸跡から上越市内望む、上部写真の米山より右側の景観 

          
 本丸にて、横浜出身の奥さんを持つアメリカ人夫婦と知り合って記念撮影をする。

          
         上杉謙信公が信仰した毘沙門天の像が安置されている毘沙門堂
 
 謙信公が信仰した毘沙門天は悪魔を降ろす神と信じられ、謙信公自らの軍を降魔の軍とみなし、毘の字の旗を陣頭にかざした、また、ことある時は、この堂前で諸将に誓いをたてさせていた。毘沙門天は四天王のうち、北方を守る多聞天でもあった。
 謙信公の信仰した尊像は、多聞天のお姿で、公は王城の北方を守る意気を持っていたものと思われている。

           
              巨木の生い茂った直江家の屋敷跡

 直江屋敷は為景の頃から長尾氏=上杉氏代々を支えてきた功臣・直江氏の屋敷跡と伝わる場所である。
 直江一門でよく知られ、NHK大河ドラマの主人公直江山城守兼続もここに住んでいたと伝えられている。

 春日山城跡のある春日山は、遠くから見ていると山そのもので、現在は公園のように整備されている。
 城跡の痕跡の場所には、必ずと言っていいほどの看板が掲示され、わかりやすく説明されており、読みながら登って行くと、当時の状況がイメージされてくる。
 戦国の世の堅牢な城として、細部にわたって知恵を行渡らせて築城されている様子が良くわかってくる。
 また、二の丸にある井戸も、位置からいって水が枯れないのは、不思議に思えてならない。
 天守閣と本丸跡は隣り合わせにできているが、大きさからいって、あまり大きな建物ではなかったように思える。
 しかし、この本丸や天守閣跡地からの眺望は、抜群でいつまでたっても飽きることがなかった。
 また、ここからの美しい景観と共に、豊かな史情も伝わってくる。
 当時は、ここから街の様子が手をとるように見ることが出来、重要な警護の役割も担っていたようである。
 戦国時代の越後が産んだ、名将上杉謙信、大きな影響を受けた景勝や直江兼続は、「儀の心」「愛の心」を謙信から学び、この春日山城で過ごしている。
 この謙信の教えである「儀と愛の心」を生涯つらぬいた景勝や兼続、それを育んだ精神が、天地人の舞台となった新潟の地に、今日まで脈々と鼓動しているように感じながら、春日山城跡を下って行った。
 
 

NHK大河ドラマ「天地人」も2009年11月で終了します。
このドラマを通じて、儀とは、愛とは、現代社会に欠けているものを教えてくれているように感じます。
 ドラマの主人公直江兼続が、儀と愛を信条に持ち、戦国の乱世を生き抜いていく様は、私達を感動の世界へ導いてくれた大作でした。

天地人 完結編 (4) (NHK大河ドラマ・ストーリー)
火坂 雅志,小松 江里子
日本放送出版協会

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