男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

久しぶりに唐沢山

2012年06月05日 | 日本の歴史、地域の歴史
言わずと知れた藤原秀郷の本拠地、栃木県佐野市の唐沢山に、久しぶりに行ってきました。
写真は竜宮城にも続いていると語られる不思議な大炊の井。

大炊の井
築城のさい 厳島大明神に祈願をし その霊夢により掘ると水がこんこんとわき出たとの事である 深さ九米、直径八米あり 今日まで水がかれたことはない

【Ooi-no-i】At the time of construction of the castle,as a result of prayer to the God of Itsukushima Daimyojin,a well was dug at this spot according to the spiritual dream, and water gushed up. The depth is 9m and the diameter is 8m and the well has never dried up.
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群馬県吾妻郡小林家由来

2012年06月03日 | この名字のルーツは?
群馬県吾妻郡の小林家を調査していると、宇多源氏 敦実親王流という伝承が残る家系がありました。
小林家系図に「宇多天皇に発し敦実親王の流れをくみ、足利尊氏に奉仕して軍功を立てたが、足利氏滅亡と共に浪人となり、関東へ下りました。流浪生活数代を経て、玄藩介の代に甲斐の武田信昌に属し、さらに、主馬之介の代に武田晴信に仕えた。天正13年(1585)隼人の代には「長篠の戦い」で父子とも戦死した。その子勘解由政守は3歳で親に死別して浪人となり、その子又右衛門政久の代に信濃を経て大津(現在地)に移住、その子助兵衛政房を経て清房の代となり、初めて助右衛門を名乗った」とあります。3代を経て助右衞門行尚に至るまで代々助右衛門を襲名し、徳川初期から江戸末期の11代まで約200年間大津で酒造業や金融業を営み土地の分限者(金持ち。地主などの土地所有者)として栄えたという。
助右衛門の酒造米は、須賀尾峠を越えて遠く高崎方面から駄馬によって運ばれ、連日数十頭の荷駄が往来したという。
江戸中期の医者で、わが国で最も早くにオランダ医学を学んではじめて死体の解剖をやった杉田玄白の手記「後見草」の中に助右衛門の被災を詳細に伝えています。この地域は天明年間に浅間山の大噴火の被害を受けたところです。また助右衛門は単なる蓄財家でなく仁徳の人物であったと記されています。

『長篠の戦い』…天正3年5月(1575)三河国長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い。結果は織田・徳川連合の大勝。
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バラ園祭り 前橋

2012年06月02日 | その他
敷島公園ばら園でばら園まつりを開催しています。期間中は午後8時30分までバラ花壇をライトアップします。良い香りが漂っていました。昨日は駐車場も待ち時間5分ほどになるくらい人気がありました。平成24年6月10日日曜日までです。
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天明3年(1783)浅間山噴火について

2012年06月01日 | 日本の歴史、地域の歴史
群馬県吾妻郡の家系を調べていると、皆、同じ日に亡くなっていることに気付いた。

天明の大飢饉は、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉であった。
天明3年7月8日の大爆発で、岩石・砂・灰が水と一つになって噴火口から流れ出したとき、鎌原泥流とよばれる中央主力の火山岩屑流がまっ直ぐに鎌原村を襲い、さらに嬬恋村三原の対岸から吾妻川に流れ下り、すさまじい勢いで下流へ押し出しました。一方西の方に分かれた大笹泥流も、大前、西窪を襲って主流に合流して、羽根尾から坪井村(現在の中央小学校の位置)と対岸の新井村を襲い、長野原の宿を埋めて川原湯へ進み、吾妻渓谷で、岩石、樹木、家屋などが流れを留めてダムとなり、吾妻川は一千度を越える高温の流出物が水位を高めた。この日が命日というケースがとても多かった。

噴煙による砂と灰は何度となく降ったのでその被害も大きいものでした。農作物は桑をはじめコメ・ムギ・野菜などあらゆるものがやられてしまいました。
さらに影響は冷害を起こす引金となりました。噴煙が3千m、数千m、時には亜成層圏にまで達したと推定されます。噴煙の中には火山塵といわれる微粒子を含んでいたから、その火山塵が宇宙間に漂って動かず、これが太陽熱を吸収して地球上に大冷害を惹き起こしました。この冷害によるものが徳川時代の三大飢饉の一つといわれて天明の凶年となりました。(四大飢饉とも言われています)

ちなみに日本の飢饉は
養和の飢饉
寛喜の飢饉
長禄・寛正の飢饉
(江戸四大飢饉)
寛永の大飢饉
享保の大飢饉
天明の大飢饉
天保の大飢饉
昭和東北大飢饉

異常気象の原因(ウィキペディアから)
1783年6月3日、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山(Lakagígar)が巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)もまた1783年から1785年にかけて噴火した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となったといわれている。影響は日本にも及び、浅間山の噴火とともに東北地方で天明の大飢饉の原因となった可能性がある。ピナツボ火山噴火の経験から、巨大火山噴火の影響は10年程度続くと考えられる。

しかしながら異常気象による不作は1782年から続いており、1783年6月の浅間山とラキの噴火だけでは1783年の飢饉の原因を説明できていない。

大型のエルニーニョが1789年-1793年に発生し世界中の気象に影響を与え、天明の飢饉からの回復を妨げたと言われる。

日本家系調査会

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