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男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

伊與久

2025年04月09日 | この名字のルーツは?
伊與久(いよく・伊与久)という名字。写真は伊與久家の古い供養塔。群馬県伊勢崎市境伊与久発祥で群馬県以外はお目にかかったことが無い。戦国時代に記録のある地名、伊勢崎藩士にその名が有る。
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上田市生田周辺を歩く

2025年03月21日 | この名字のルーツは?
信濃源氏依田一族飯沼氏:義仲に依田城を譲った依田次郎の次子行俊が飯沼氏を名乗った。飯沼地域は依田荘の中心地域の一つである。御嶽堂地域の依田川の河成段丘の東端は中城と呼ばれ飯沼氏の館跡である。中城居館跡の歩いて直ぐの所に飯沼神社がある。
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栃木県金子氏の先祖は?

2025年02月26日 | この名字のルーツは?
 父の家系は栃木市の金子氏で家紋は左三つ巴の家紋であり、武蔵七党村山党金子氏の代表紋ではないが支流に見られる。
 武蔵国多摩郡村山を領した平頼任が村山党の祖となり、その孫の家範が入間郡金子に住み金子を名乗ったのが始まりである。現在でも埼玉県入間市から東京都清瀬市周辺にかけて金子の姓が多く見られる。(写真は金子十郎家忠の墓 金子一族の宝篋印塔である。入間市には金子神社もある。)

 南北朝時代、武蔵平一揆が起こると金子家祐は河越氏に従い敗北。その後は関東管領上杉氏家臣の武蔵守護代大石氏に従う。戦国時代になり、河越夜戦で上杉氏が後北条氏に敗れ没落すると、金子家長は逸早く天文15年(1546年)には北条氏康に属した。以後は八王子城の北条氏照に従い下野国進出などで活躍した。栃木県内では皆川氏家臣や佐野氏家臣に名が見られる。
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大塚城 栃木県鹿沼市粟野町下粕尾

2025年02月25日 | この名字のルーツは?
 栃木県鹿沼市粟野町下粕尾は私の母方大塚氏の地です。大塚城は天亀、天正のころ、大塚信濃守綱利が佐野の支城として築いたと伝えられる。綱利は初め左衛門尉といった。後裔は大塚貞之助氏。のち粟野地区は皆川氏の勢力下にあり、綱利は佐野氏から離脱、大塚氏の城付近でひそかに余生を送り慶長十七年(1612年)二月死去。菩提寺は慈眼寺。自然石の墓石が残る。
 大塚城は栃木県鹿沼市下粕尾にあり、粕尾小学校(栃木県鹿沼市下粕尾1444−1)の西側、今は廃業したが美容室ミチ(栃木県鹿沼市下粕尾1520−1)反対側の小高い山、地上から約80メートルにある。大きな堀切等が残っている。
 地方道15号線の粕尾小を過ぎて西100mくらいに美容室ミチがあります。(栃木県鹿沼市下粕尾1520−1)
 根小屋のような雰囲気となり、西に登り口があります。ここはよく見ると虎口であり、この周囲は根小屋の可能性が高いと思います。
 室町時代末期、大塚信濃守綱利が築城、歴史的詳細は不明。道路から見てすぐに分かる山が城址となり良好な遺構を見る事が出来ます、又麓が居館跡ではないかと思われ随所に土塁などの遺構が残る。
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栃木県の中村氏と家紋

2025年02月21日 | この名字のルーツは?
 全国では苗字ベスト8位。県別では三重県、長野県、石川県、広島県、宮崎県に多い。
 県内では宇都宮市が約500軒でトップ。足利市、小山市、鹿沼市、佐野市、壬生町と続き県内では約2000軒。
 地名としては「中」が7市町で「中村」が3市町村と多い。城は真岡市中と葛生町中には中村城跡がある。真岡市の中村城跡は中村八幡宮がある。芳賀郡中村(現真岡市)にある中村八幡宮は天武天皇の四年(676年)の創建といい、領主中村朝宗以来、中村氏の鎮守となった古社である。
 足利市堀込町の中村氏は丸に隅立て四つ目、小山市田間の中村氏は丸に違い鷹の羽、小山市間々田の中村氏は藤原秀郷の後裔常春の流れで、慶長二年(1597年)にこの地に土着した。佐野市植下町の中村氏は伊達の家臣で堀田氏の養子に入った正敦(天保年間)に従って江戸に上がり、後に現地に移る。家紋は丸に違い鷹の羽。矢板市本町の中村氏は丸に抱き柏。宇都宮市峰町の中村氏は対に浪に大の字。宇都宮市東横田町の中村氏は対(むかい)四枚笹付竹に州浜。
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信濃源氏 依田一族 長沼氏

2025年02月20日 | この名字のルーツは?
 義仲に依田城を譲った依田次郎の次子行俊が飯沼氏を名乗ったと伝えられる。
飯沼地域は遺跡からみても依田荘の中心地域の一つとして考えられる。御岳堂地域と、飯沼地域だけに窯跡が三つ発見され、その他にも二、三窯跡と思われるものがみられる。
 御嶽堂地域の依田川の河成段丘の東端は中城と呼ばれていて、飯沼氏の館跡とみられている。依田川を隔てて長瀬館と向い合っている。
 館跡は西北及び西に堀の跡、本郭・東郭跡が残る。本郭跡を御所とよぶ。弥勒堂があったと伝えられ、現在は小さな祠で中には五輪塔の断片が残されている。中城居館跡の近くには飯沼神社がある。
承久3年(1221)五月北条泰時が山城宇治川で上皇方と戦った折、北条方の将として飯沼三郎(※資行の事)が参戦している(承久記)。
 中城の北、竹ノ花に鎌倉時代のものと推定される石造五輪塔があり、依田氏または飯沼氏の墓と伝えられている。
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家系調査の実際2 家紋による判断は単純ではない

2024年12月05日 | この名字のルーツは?
 都道府県別姓氏家紋大事典等に書かれていることは主だった家系のみで、実際調査してみると、名字は一緒でもそれ以外の家紋のほうが多かったりする。系譜学は家紋主義に頼るところが多いが、実際、出自がはっきりしない家系ほど、家紋は分家する時に替えてしまったりすることが多い。
 また明治の新姓で付けた名字も少なくない。これらの事は地域差が著しいが、地域の歴史を学ぶと参考になる。実際に足を使って地道に調査すること、手紙や訪問で聞き込みをしてみないとわからない。
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家系調査の実際1 真実の追及

2024年12月04日 | この名字のルーツは?
 姓氏家系大事典等は家系調査の第一歩として一応、参考になる。辞典が出来たころの経緯はわからないが、おそらく書かれていることは、口伝をもとにしていると思われる。出自が全てというような時代があった。その当時、現在でいう給料がそれによって違ったりしたわけで、メジャーなルーツに都合よく書き替えてしまうことも少なくなかったと考える。
 無理につなぐと当然、捏造がわかってしまう。これらの行為は系譜学という学問を自ら価値を下げてしまう行為だ。しかし、真実は何なのか?こういう気持ちを持ち続けないといけない。それが家系調査のモチュベーションだ。実際に調査してみると違うことが多い。

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家系調査日誌 古幡氏

2024年11月21日 | この名字のルーツは?
 フルハタと言えば、フジテレビ刑事ものの「古畑任三郎」(田村正和さん主演。眠狂四郎と合わせてはまり役でした。)という番組を思い出す人は少なくないと思います。

 番組の中でも長野県出身と言ってましたが、その通り、現長野県である信濃国古幡牧が起源で、古幡のほか、古畑、古畠、古旗、古籏、振旗、降旗、降籏といろいろあるが、ルーツも家紋もまちまち。もしかしたら古畑任三郎の先祖も当家と同じかもしれません。(笑)
 
 戸籍上の先祖地である松本市奈川黒川渡の墓調査をすると、家紋もルーツも二種類の古幡氏があった。当古幡氏は清和源氏義賢流木曽氏、木曽義仲の兄仲家の八世孫家景が古幡(古畑)を名乗った系、のちの古幡伯耆守家重(ふるはたほうきのかみいえしげ)後裔の可能性が大きいとみました。

 奈川の「黒川渡」の地名ですが、木曽にも同じ「木曽郡木曽町新開黒川渡」の地名がありました。奈川黒川渡の地名は土地が似ていることから木曽の黒川渡と同じ地名を付けたかもしれません。様々な一致点はルーツであることを物語っています。

 当家家紋の片喰系は松本市内には見ることができず、長野県内では唯一、木曽の古幡氏に見られました。

 木曽から奈川への接点を求めて、郷土史等を調べると、中世に木曽の黒川郷から奈川に移住したとの記録があり、黒川郷を調べると、奈川と同じ「黒川渡」の地名がありました。黒川という河川は奈川には無いことから、故郷を忍んで地名を付けたものと思われます。

 同時代、黒川郷古幡氏9代目の古幡伯耆守家重が西牧氏の配下にあって、松本城下の地の管理を任されていたことから、現在の松本市梓川上野周辺を旧名古幡郷と呼んでいました。一般の郷土史等では古幡氏ルーツは信濃国古幡牧(古幡郷)発祥とされていますが、ルーツは木曽黒川郷にあったのです。

 古幡伯耆守家重は奈川の管理を任されていたことから、奈川の黒川渡地名の命名に関わっている可能性があります。松本市奈川黒川渡の古幡氏は古幡伯耆守家重の子孫であるかは不明ですが、当家はその一族であることは間違いないでしょう。

 奈川村庄屋の古幡彦一郎という名は文書には江戸後期に出てくるが、もとは永嶋姓で家紋も永の文字紋であったと郷土史に書かれています。嘉永二年(1849年)の文書によれば永嶋(廣之助)姓でしたが、文久元年(1861年)の文書では古幡(彦一郎)姓になっていて、家紋も笹竜胆に替えています。当家のほうが昔から古幡姓であったことは間違いありません。

 当家と同じ丸に剣片喰紋は奈川の半分くらいなので、笹竜胆紋の古幡家と同じくらいの歴史があると思われ、木曽黒川郷の庄屋だった古幡氏と同じ片喰紋であることから、当家は同流であり、もともと庄屋クラスの家系であると考えられるため、奈川村文書に出てくる庄屋古幡彦之丞は当家先祖としました。

 この家系の依頼者には、もう一本、家系調査を依頼して頂きました。武市家です。なんとあの武市半平太と関わる家系です。また後日報告するかもしれません。
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家系調査日誌 A氏

2024年11月17日 | この名字のルーツは?
 今までで特に印象に残った家系調査は、ほとんど何もわからないところからルーツが見つかったときである。

 近くに住む同年代の人から家系調査を頼まれた。なんと先祖地は宮崎県でお祖父さんの代から群馬県に移住しているという。幸いか?家伝の家系図が残されていた。見ると藤原鎌足から書かれているが、つなぎを間違えたのか、時代がバラバラになっていた。家系図を書くルールに則って書かれているのではなく、メモ書きのように自己流で書かれている。そのため、さっぱりわからない家系図だった。以前に家系図作成を依頼していた方がおられたらしいが、急死してしまったのでこちらに回って来たのだが、拝見すると、文語調の前文ばかり何枚も有ったのを見ると博学な人だと思ったが、まったく家系調査が進んでいなかった。仕事を受けたものの、これらの資料を見て途方に暮れたと思う。

 距離が距離だけに、経費もかかるし行ったり来たりはできない。行ったら一週間も10日も宮崎県に居る覚悟で下調べをする。国立国会図書館にも行き調べた。家系調査のための道具が有るので、車で行くことにした。仕事でなければ絶対に行かない距離である。

 戸籍に有る土地を見つけるが、その土地は公民館になっていた。墓は無いかと周りを徹底的に調べるが無い。何もない!近所の家に訪問して聞いてみると、年配者の方は憶えていて、何十年も前にどこかに引越ししたという。それ以上のことはわからない!「あぁ~!このまま何もわからず群馬県に帰るのか?」と途方に暮れる!

 気を取り戻し、佐土原藩の近くの土地に同じ名字が数十軒集住していたので行ってみた。一族の墓もあり、一族のお宮も有った。九州の墓はシンプルであまりよくわからない。墓でうろうろしていたら、たまたま墓に寄ってみたという年配の夫人が声をかけてきた。「高崎から何しに来たの?」わけを話すと、夫人はとうとうと自分の先祖の事を話し始めた。

 それは・・・貞享5年(1688)3月19日、遠州灘を通り江戸へ向かう佐土原藩の御手船が嵐に遭った。沈没の危険にさらされ、やむを得ず「荷打ち」(荷を海に投じること)し、全員無事で伊豆下田港に漂着した。宰領の河越久兵衛、河越太兵衛、成田小左衛門はその責任をとり自害。船頭権三郎も「荷打ち」を命じた責任を感じて割腹して自害し、他の船員12名もこれに殉じました。(墓の記載)というものだった。身分は中小姓であった。

 その夫人が言うに、A氏も佐土原藩士ではないかという。その言葉をヒントに調査すると、高城町穂満坊にA氏が住んでいたことが古文書でわかり、佐土原藩の中小姓であった。現在でいう見回り警備の仕事をしていた。

 それ以前は宮崎の蚊口というところに住んで、伊東祐國(いとうすけくに)という武将の倍臣(また家来)であった。この辺は家伝の家系図を見ると、そのような記載が有った。書き方はルールも何もない自己流の記載だが、真実が書かれていたのだ!

 最後の図書館で佐土原藩の分限帳がないか調べた。フェリーに乗って帰る最終日である。行ってみると分限帳は有るにはあるが、貸し出し中でいつ戻るかわからないという。「あぁ、また宮崎まで来なければならないか。」と思っていたら、なんと!その分限帳が書かれた自費出版のような本が戻った。図書館員が駆け寄ってきてそれを伝えてくれた。急いで読んでみると、出てくる出てくる!A氏の先祖が!急いでコピーを撮ってフェリーに向かい、ぎりぎり間に合った。

 家に帰ってまとめてみると、家伝の家系図を理解できる人は今までいなかったが、正しい記載であることがわかった。欠けている部分を補ったりして結局、73代の先祖がわかった。今までの最高代数である!家系調査は奇跡の連続である。人間の成せる業ではない。なにかの大きな力が働いていると思うしかない。(全国A一族のホームページがあり、とても参考になり、ありがとうございました。)
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