男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

群馬県吾妻郡小林家由来

2012年06月03日 | この名字のルーツは?
群馬県吾妻郡の小林家を調査していると、宇多源氏 敦実親王流という伝承が残る家系がありました。
小林家系図に「宇多天皇に発し敦実親王の流れをくみ、足利尊氏に奉仕して軍功を立てたが、足利氏滅亡と共に浪人となり、関東へ下りました。流浪生活数代を経て、玄藩介の代に甲斐の武田信昌に属し、さらに、主馬之介の代に武田晴信に仕えた。天正13年(1585)隼人の代には「長篠の戦い」で父子とも戦死した。その子勘解由政守は3歳で親に死別して浪人となり、その子又右衛門政久の代に信濃を経て大津(現在地)に移住、その子助兵衛政房を経て清房の代となり、初めて助右衛門を名乗った」とあります。3代を経て助右衞門行尚に至るまで代々助右衛門を襲名し、徳川初期から江戸末期の11代まで約200年間大津で酒造業や金融業を営み土地の分限者(金持ち。地主などの土地所有者)として栄えたという。
助右衛門の酒造米は、須賀尾峠を越えて遠く高崎方面から駄馬によって運ばれ、連日数十頭の荷駄が往来したという。
江戸中期の医者で、わが国で最も早くにオランダ医学を学んではじめて死体の解剖をやった杉田玄白の手記「後見草」の中に助右衛門の被災を詳細に伝えています。この地域は天明年間に浅間山の大噴火の被害を受けたところです。また助右衛門は単なる蓄財家でなく仁徳の人物であったと記されています。

『長篠の戦い』…天正3年5月(1575)三河国長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い。結果は織田・徳川連合の大勝。
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