惇忠の生家も墓も(菩提寺妙光寺)下小手計付近にあります。家紋は木瓜を使用していたようです。1830年(文政13年/天保元年)9月13日(天保元7月27日)生まれ。 明治34年(1901年)1月2日歿。富岡製糸場の初代場長、および日本の実業家。第一国立銀行仙台支店支配人。通称は新五郎。号は藍香。学問に優れており17歳の頃、自宅で尾高塾を開き、近隣の子どもちに学問を教えました。従兄の渋澤榮一の師でもあり、その考えに大きな影響を与えました。渋澤榮一は後年「藍香(惇忠)ありて青淵(榮一)あり」と述懐しています。
惇忠は10代で水戸学に感化され尊王攘夷思想を抱くようになり、高崎城乗っ取り計画や横浜商館焼き討ち計画を 渋澤榮一らと共に企てますが、計画を断念し、明治1年(1868年)に彰義隊に参加しますが脱退しています。惇忠の弟長七郎が難しいと説得して断念させました。のち、渋澤栄一は「長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってもよい」と述べています。 その後、振武軍に加わり官軍と戦って敗退しています。やがて渋澤榮一が徳川慶喜に仕えるようになると、佐幕派(幕府を補佐する)へと考え方を変えていきました。
1869 年(明治2)12月の「備前渠取入口事件」では、韮塚直次郎とともに、地元農民の先頭に立ち、事件解決のため同志と共に、この事件の解決を見ました。(明治政府は、備前渠取入口の変更計画を行いますが、地元では水路の変更することによって、洪水や地域の水不足で作物が育たない弊害の有ることを訴えました。)
これが縁で新政府に招かれ、民部省に入ります。そして、官営富岡製糸場の建設に計画当初から携わり、活躍します。建設資材の煉瓦やモルタルは、当時の日本ではほとんど知られていませんでしたが、地元深谷の韮塚直次郎に煉瓦づくりを、煉瓦を接着するためのモルタルは、日本固有の漆喰を改良してまかなうことを考え、同郷の左官職人、堀田鷲五郎・千代吉親子に考案を任せました。
富岡製糸場の煉瓦積みは、この漆喰によって長年にわたり強固な壁面を形成しています。また、娘の勇を伝習工女第1 号として故郷下手計から呼び寄せました。富岡製糸場初代場長となり、特に工女の教育に重点を置き一般教養の向上をはかり、風紀の乱れには厳しく場内の規律を維持したそうです。惇忠の誠実な人柄に人々は信頼を寄せ、自分の娘を富岡製糸場の工女の一員とすることが誇りであると考えるようになりました。「至誠神の如し」とは、たとえ能力や才能がなくても、誠意を尽くせば、その姿は神様のようなものだという言葉です。惇忠はその言葉を掲げ、明治9年(1876)に場長の職を退くまで、富岡製糸場のために誠意を尽くしました。
惇忠は10代で水戸学に感化され尊王攘夷思想を抱くようになり、高崎城乗っ取り計画や横浜商館焼き討ち計画を 渋澤榮一らと共に企てますが、計画を断念し、明治1年(1868年)に彰義隊に参加しますが脱退しています。惇忠の弟長七郎が難しいと説得して断念させました。のち、渋澤栄一は「長七郎が自分ら大勢の命を救ってくれたといってもよい」と述べています。 その後、振武軍に加わり官軍と戦って敗退しています。やがて渋澤榮一が徳川慶喜に仕えるようになると、佐幕派(幕府を補佐する)へと考え方を変えていきました。
1869 年(明治2)12月の「備前渠取入口事件」では、韮塚直次郎とともに、地元農民の先頭に立ち、事件解決のため同志と共に、この事件の解決を見ました。(明治政府は、備前渠取入口の変更計画を行いますが、地元では水路の変更することによって、洪水や地域の水不足で作物が育たない弊害の有ることを訴えました。)
これが縁で新政府に招かれ、民部省に入ります。そして、官営富岡製糸場の建設に計画当初から携わり、活躍します。建設資材の煉瓦やモルタルは、当時の日本ではほとんど知られていませんでしたが、地元深谷の韮塚直次郎に煉瓦づくりを、煉瓦を接着するためのモルタルは、日本固有の漆喰を改良してまかなうことを考え、同郷の左官職人、堀田鷲五郎・千代吉親子に考案を任せました。
富岡製糸場の煉瓦積みは、この漆喰によって長年にわたり強固な壁面を形成しています。また、娘の勇を伝習工女第1 号として故郷下手計から呼び寄せました。富岡製糸場初代場長となり、特に工女の教育に重点を置き一般教養の向上をはかり、風紀の乱れには厳しく場内の規律を維持したそうです。惇忠の誠実な人柄に人々は信頼を寄せ、自分の娘を富岡製糸場の工女の一員とすることが誇りであると考えるようになりました。「至誠神の如し」とは、たとえ能力や才能がなくても、誠意を尽くせば、その姿は神様のようなものだという言葉です。惇忠はその言葉を掲げ、明治9年(1876)に場長の職を退くまで、富岡製糸場のために誠意を尽くしました。