リクヴィールを出発し、途中のニーダーモルシュヴィアのワイナリー(Domaine Albert Boxler)で買い物して、午後2時前に「リボヴィレ(Ribeauvillé)」に到着した。リボヴィレはオーラン県コミューンで、コルマールの30キロメートル北、ストラスブールからは75キロメートル南に位置しており約5000人が住んでいる。
クリックで別ウインドウ開く
アルザスワイン街道の村の中では一番規模が大きく、アルザス地方を訪れた観光客も必ずと言って良いほど訪れる。町並みは洗練され、夏のリゾート地を感じさせるお洒落な軽装スタイルで歩く人も多く、散策していて気持ちがいい。「アルザスワイン街道( Rooute des Vines d'Alsace)」(地図はこちら)。
リボヴィレの云われは、8世紀にバーゼル司教の領地から、ラポルトシュタイン伯爵(Rappoltstein)の領地となり、フランス語では、Ribeaupierreと呼ばれたことから、現在の名称となった。西側のヴォージュ山脈には、町の目抜き通り(グラン・クリュ通り)からも見えるサンウルリッヒ城(Château de Saint-Ulrich)(標高528メートル)や、ギンズバーグ城、オー・リポーピエール城の3つの城を戴く山々が迫り、周辺には最高級のグラン・クリュ畑が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く
どちらかと言うと、観光するより、町の雰囲気を楽しむ方がお勧めかもしれない。お腹も空いたため、グラン・クリュ通りの中ほどにあるカフェ(Brasserie de la Poste)のテラスでランチを頂くことにした。美しい町並みや人通りを眺めながら頂いていると、すっかり町を堪能した気分になった。
アルザスの町や村では、屋根の上などに、コウノトリの巣が見られ、このリボヴィレも、コウノトリの里として知られているが、路地裏を優雅に歩くコウノトリにお目にかかることができた!
グラン・クリュ通りを西に進むと町の中心部の広場に到着する。中央には16世紀制作のライオン像の水場があり、左側には1773~1778年に建てられた市庁舎が建っている。広場の先(西側)に建つ塔は「メッツガートゥルム(Metzgerturm)」(肉屋の塔の意)で、城門を兼ねた監視塔であった(13世紀築)。現在も鐘を鳴らして時を知らせている。
クリックで別ウインドウ開く
リボヴィレをさらさらっと散策した後、次に14キロメートル北にある「オー・ケニグスブール城」(Chateau du Haut-Koenigsbourg)に向かった。城は、標高700メートル以上の東西に伸びる細長い楕円形の頂きに建てられており、それを取り囲む様に西側から左回りの一方通行の道路が走っている。駐車場は道路沿いの縦列駐車で、空き場所がない場合は周回することになる。到着した入口のある東側からは、セレスタの町並みやアルザス平野を見下ろすことができる。
クリックで別ウインドウ開く
入口は東側にある坂道を徒歩で上った城の南側の中ほどにある。城がいつ建てられたかは不明だが、12世紀にホーエンシュタウフェン家のものとなり、15世紀にはハプスブルグ家の居城となった。1633年、三十年戦争(1618~1648)においてスウェーデン軍に破壊された後は数百年もの間、森に覆われていた。
現在の城は、1870年から1871年の普仏戦争の後、この地域がドイツ帝国領土に組み込まれたことを記念して、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)の要請の下、建築家ボドエバルトが1900年から1908年にかけて修復したもので、現在では、年間50万人もの観光客が訪れる。
ところで、この城は、1937年に製作・公開されたフランス映画、ジャン・ルノワール監督、ジャン・ギャバン主演の「大いなる幻影」のロケ地となった。第一次世界大戦下のドイツ捕虜収容所を舞台に、自由を求め、脱走を繰り返す様々な国の階級の人々の姿を描いた作品で、城は「ウィンタースボルン将校捕虜収容所」として使われ、外壁をロープで脱出するシーンなども撮影された。
入口には戦艦を思わせる城の模型が飾られていた。今回は時間的に厳しくなったことから、ここまで来たにも関わらず、外観のみの見学で引き返し、次の目的地「モンサントオディール修道院」(Mont sainte odile)に向かった。
一旦セレスタまで下山した後、街道を17キロメートルほど北上し、バールから13キロメートルほど山道を上って行く。モンサントオディール修道院(ホーエンブール修道院)はヴォージュ山脈の標高753メートル地点のバラン県オットロットにある聖女オディールによって設立された修道院である。山頂は、南西から北東になだらかに広がる細長い楕円形で、南西側にある駐車場の先に正面入口がある(修道院案内図はこちら)。
大きなアーチ門をくぐると、更に通路が前方に延び、周りには木々が多い茂っている。左側には、巡礼者用のホテルがあり、右側には、聖母マリアに捧げられた教会(ノートルダム大聖堂)が建っている。火災等により何度も崩壊を繰り返しているが、バロック様式の基礎は1692年のもので、現在の建物はフランス革命後再建されたもの。
教会を右手に見ながら正面のアーチ門をくぐると、中央に聖女オディールの彫像が飾られた中庭が現れる。ところで、オディールは、660年頃フランク三分国の一つアウストラシア領域にあったアルザス公国アダルリック公爵の娘として盲目で誕生した。盲目を恥辱と考えた公爵は娘の殺害を図ろうとするが、いち早く妃がブルゴーニュの修道院に預けて救われる。修道院で育てられ12歳になったオディールが洗礼を受けると、奇跡が起こり、視力を取り戻したと伝えられている。
視力を取り戻し成長したオディールはこの地にあったホーエンブール城に戻されるが、公爵に強引に政略結婚を進められたことから城を脱出する。公爵は岩山へ追い詰めるものの、突如岩がオディールを覆い隠す奇跡を目の当たりにする。公爵は神の業を見て、ホーエンブール城を提供し、修道院に改築することとした。こうしてオディールは、680年ホーエンブールの女子修道院の初代院長になった。
庭園を左側に見ながら、正面の扉から回廊沿いの建物に入ると、廊下の先にフレスコ画が描かれた礼拝堂への入口がある。廊下のすぐ左側には、別の礼拝堂への入口があり、そこには十数名ほどが座れる小さい祭壇があり、脇に聖オディールの墓が収められている。
修道院は、1150年、修道院長リンディス(relindis)の就任後に大きく発展する。しかし、その後、度重なる火災と再建が続き、1650年修道院長プレモントレ(Prémontrés)により再建される。フランス革命後は国有財産として売却されるが、1853年にはストラスブール司教が購入し修道院に戻している。現在では、聖女オディールは、アルザスの守護聖人でもあり、修道院は、目に病気を持つ人々にとっての貴重な巡礼場所になり、年間130万人もの観光客や巡礼者が訪れている。
修道院の北東部には、庭園とテラスが広がり、中央には、アルザスのヌーブール(Neubourg)修道院の修道士によって作られた18世紀の日時計が建っている。その先に修道院の外観全体を見渡せることができる。奥に見える鐘楼の頂部には、聖女オディールが飾られアルザスの平野を見下ろしている。1924年に完成したもので、それまでの小さな尖塔に代わって建てられた。鐘楼には31の鐘があり、最大のものは5トンある。ちょうどこの時間、午後6時の鐘が鳴り始め山々に美しい音色が響き渡った。。
クリックで別ウインドウ開く
鐘の音を聞きながら、テラスから北東側を一望すると美しいアルザス平野の景色が広がっており何とも癒される。北東側(中央)15キロメートル先に見える町並みはオベルネで、7世紀にはアルザスの公爵の領地で、オディールの生誕地だった。更に先にかすかに見える町並みがストラスブールになる。
クリックで別ウインドウ開く
テラスの北東側の敷地の最先端には、小さなチャペル「涙の礼拝堂」(Chapelle des larmes)と「天使の礼拝堂」(Chapelle des Anges)がある。
手前の「涙の礼拝堂」から入ってみると、天井は黄金に輝く美しいモザイク画で覆われている。中央上部には、杯を持つキリストを中心に信仰する修道女がサークル状に描かれている。その下には、向かって右側には修道院の第2代院長(在:721~735)で聖オディールの姪の「アルザスの聖ユージニア」(Eugénie)が、左側にはローマ教皇、聖レオ9世(元エギスハイム伯爵)が描かれている。何度か火事で荒廃した修道院は1050年に教皇レオ9世によって再建されている。
クリックで別ウインドウ開く
左端から、白いスカプラリオを纏う修道女は修道院長の聖リンディスで、この涙の礼拝堂や天使の礼拝堂などは、彼女の就任中に建てられた。次は聖アッタラ(Attala)で聖オディールの姪にあたる(拡大画像)。窓を挟んで右側が、シュヴァーベンの聖リヒャルディス(Richardis)で、近郊のアンドー(Andlau)修道院長も務めた。夫はカール3世(フランク王)である。最後に右端が、1176~1195年に修道院長を務めたランツベルクの聖ヘラート(Herrade)である(拡大画像)。
クリックで別ウインドウ開く
入口の上の壁面には、アルザス公国アダルリック公爵と聖オディールが描かれている。祈りを捧げる聖オディールの背中には、ラテン語で「彼女のとりなしにより、父親アダルリックの魂を救った(解放した)」と書かれている。
クリックで別ウインドウ開く
もう一つのチャペル「天使の礼拝堂」(Chapelle des Anges)は、窓が少ないことから堂内はかなり暗い。実は、コインを入れるとライトがつく仕組み(涙の礼拝堂も同様)だが、しばらく気が付かなかった。こちらの礼拝堂のモザイク画は碧系の色合いを背景に、聖書の場面が表現されている。正面は「キリストの昇天」を表しており、ライトを点灯させると、特にキリスト、聖母マリア、天使などの金色のモザイク片に反射して、一層美しく輝いて見える。
クリックで別ウインドウ開く
中央に吊り下げられたシャンデリアもモザイクで造られている。そして、こちらは「キリストの降誕」で、それぞれの登場人物や動物の細かいしぐさや色合いも丁寧に表現されている。
クリックで別ウインドウ開く
こちらには、ドラゴンを退治する聖ジョルジュ(ゲオルギオス)が描かれている。背景には、波を切って進む帆船に、カモメが舞い、島には教会らしき建物が建っている。そして海岸付近に生える草花や貝殻まで細かく表現されている。ドラゴンの周りから顔を覗かせるフクロウはユーモラスがある。訪問した時間が遅かったのか、狭い空間にも関わらず、空いておりじっくり見学できたことは有難かった。
クリックで別ウインドウ開く
下山してオベルネを経由し、約40キロメートル約1時間ほどで今夜の宿泊ホテルに到着した。ホテルは、ストラスブールの南西部イル川沿いの「コンフォート・ホテル・ストラスブール・ウエスト(Comfort Hotel Strasbourg Ouest)」で、チェックインを終えた後、トラムに乗り中心部にあるレストランに出かけた。
ホテルからは400メートル歩き、モンターニュ・ヴェルト駅(Line B、Line F)からトラムに乗り、5つ目のオム・ド・フェール駅で下車する。このあたりがストラスブールの旧市街中心部になる。(トラム路線図)
目的地は、南西方向に延びる「フォセ・デ・タヌール通り(Fossé-des-Tanneurs)」を200メートルほど歩いた裏路地にあるアルザス料理店「ヴィンステュブ・エスカエシェル(Winstub S'Kaechele)」である。
木が覆い茂る気持ちの良いテラスに座り、最初に、「シェフが作る鴨のフォアグラ」を注文する。
次に、グリーンサラダ、「肉入りザワークラウト」(カスラー、フランクフルト、スモークアルザスソーセージ、塩豚、スモークベーコン、ジャガイモ)。とにかくビールがやたら飲める。。
最後に、「アルザスチキンコルドンブルーとマンステールチーズ、ポテトのソテー」を注文した。マンステールチーズは、アルザス地方を代表するウォッシュチーズでやや香りは強いがまろやかな舌ざわりが特徴である。
食後、オム・ド・フェール駅と逆方向(南西方面)にフォセ・デ・タヌール通りを少し進むと、突き当りのイル川の畔に到着する。この辺りがストラスブールの人気観光スポット「プティット・フランス」(Petite France)になる。川沿いの手すりから身を乗り出し、コロンバージュの白と黒の鮮やかなコントラストに見入っていると、観光船(水上バス)が通過していった。明日再訪予定なので、少しだけ散策してから再びトラムに乗り、ホテルへ戻った。
クリックで別ウインドウ開く
***************************
今日も、モンターニュ・ヴェルト駅(Line B、Line F)からトラムに乗り、3つ目のフォブール・ナシオナル駅で下車して、これから市内の散策をすることにしている(前方が旧市街方面)。ストラスブールでは、中心部の一部地域が車両進入禁止ゾーンとなっているため、郊外の駐車場に駐車してトラムに乗り換えて都心部に向かう「パークアンドライド方式」が取り入れられている。ちなみにこの沿線では、乗車駅の一駅郊外側のエルゾー駅に大型駐車場が設置されている(トラム路線図)。
フォブール・ナシオナル駅のすぐ先は、南北にフォー・ランパール運河(イル川の支流)が流れ、その内側から旧市街が始まる。トラム線が走る橋(歩行禁止)北隣のメール・キュス通りが通る「キュス橋」では、歩行者以外の車両は侵入できないようにバリケードが築かれているが、先週から今週にかけてドイツで多発したテロ事件の影響からか、周りには数人の警官も配置され物々しい雰囲気である。そのキュス橋を渡った先に見える(北側に面した)大きなファサードは、1130年に創立し1382年からのゴシック建築が残るサン・ピエール・ル・ヴュー教会(カトリック)である。
クリックで別ウインドウ開く
キュス橋を渡り右折した先の隣路地からは、教会(南側)の内陣が僅かに見えるが、手前に時計塔が聳え、教会の袖廊と直結する小鐘楼と大きな礼拝堂が並ぶ複雑な構造になっている。実は、こちらは同教会のプロテスタント教会で両派が隣接しているのである。
クリックで別ウインドウ開く
ところで、ストラスブールには、他にもサン・ピエール教会が2か所ありややこしい。運河の下流800メートルほどの右岸には、サン・ピエール・ル・ジュヌ教会(1524年よりプロテスタント教会)(旧教会)があり、更に数百メートル先の左岸にはサン・ピエール・ル・ジュヌ教会(カトリック教会)がある。
これは、ストラスブールが、ルネサンス期の宗教改革後、いち早くプロテスタントを受け入れていた歴史的背景があると言われている。
フォー・ランパール運河に並行する「ドセ通り」を南に進むと、前方に縦長直方体に切妻屋根ある「要塞塔(4棟)」が見えてくる。そして、右側の川面には郊外から流れ込んだイル川の水量を調節するための連続アーチが並ぶ「ヴォーバン・ダム(17世紀末)」(ストラスブール南西部に設置)が設置され、東側へのイル川と北側へのフォー・ランパール運河とに分岐している。その分岐したイル川と運河は再び下流で合流するが、その間に囲まれた島状の区域が「グラン・ディル」(大きな島の意)と呼ばれ、ストラスブール中心部(旧市街)を形成している。
東側に向かうイル川は、前方の「ポン・クヴェール橋」手前で、4つの水路に分かれ、200メートルほど下流で再び一つの流れとなる独特な景観を作っている。その最初の水路左側(下流側)には絵画の様な風景が続いている。橋を渡っている際、下を観光船(水上バス)が通り過ぎてダムに向かっていった。
クリックで別ウインドウ開く
2番目の水路を渡り、3番目と4番目との水路の間にある中洲には通路が延びている。その中洲内の通路を東方向にしばらく歩いて途中で振り返ると、ポン・クヴェール橋沿いに建つ「要塞塔」や、その奥に「ヴォーバン・ダム」などを望むことができる。
中洲内の通路は突き当りの丁字路になり、左折すると石畳の「ムーラン通り」になる。再び3番目と2番目の水路を橋で渡り、最後に1番目の水路に架かる「フェザン橋(Pont du Faisan)」を渡る。橋上から左側の上流方向を眺めると、穏やかな水面に建物の姿が鏡の様に写っている。
右側を眺めると水路は大きく右に曲がって流れていくのが見える。対岸の護岸には古びた煉瓦が積み重なり、その上には緑に覆われたレストラン(La corde a linge)のテラスが並ぶ「バンジャマン・ジクス広場(Place Benjamin-Zix)」がある。
フェザン橋を渡った先を右折すると、通りの両側に二階から上が張り出した白い壁と黒い柱と梁のコロンバージュの建物が覆いかぶさるように並んでいる(左手前のテラスのあるレストラン(Le Lohas)の建物は1676年築)。この白と黒のコントラストが織りなす景観エリアは、中世より人の往来が激しく交易地として栄えた場所で、製粉業者、革職人、漁師など多くの商人が住んでいた。。このエリアが「プティット・フランス」と呼ばれるストラスブールを代表する観光スポットである。
クリックで別ウインドウ開く
右側の「レストラン・メゾン・ド・ タヌール(Maison des Tanneurs)」と左先の土産物店の先が、フェザン橋から見えたバンジャマン・ジクス広場になる。「プティット・フランス」とは、16世紀初頭、ナポリを包囲から戻りこの街に立ち寄ったフランス王シャルル8世(在:1483~1498)所属のランツクネヒト(傭兵)が、性病に罹っていたため隔離するためのホスピスが建てられたが、そのホスピスをドイツ人たちが「フランスのようにふしだらな場所」と蔑称したことが由来となっている。
クリックで別ウインドウ開く
水路沿いに設けられた手すりから右側を眺めると、2階と3階に無数の”筋交い”と、窓辺の赤いゼラニウムが鮮やかなレストラン・メゾン・ド・ タヌールが、水路にせり出す様に建っている。もともと1572年に建てられた革職人のための会合所で、今も屋根裏には皮を乾燥させたオープン・ロフトが残っている。1949年から現在のレストランとなっている。
クリックで別ウインドウ開く
昨夜はあまり位置関係を理解していなかったが、観光船(水上バス)が通過して行った水路はこの場所であった。前方の「フェザン橋」は、油圧で右回りに90度回転し右岸に寄せられ(可動橋)、空いた左側を通過する仕組みとなっている。フェザン橋は14世紀に木造の橋が造られ1854年に最初の可動橋となった。現在の油圧式の可動橋は1999年に設置されたものである。
振り返って左側の下流側を眺めると、すぐ先に閘門があり水上バスが停泊している。水上バスは100メートル下流の桟橋を出発し、この閘門で水路の高低差を調整した後、フェザン橋を通過しフォー・ランパール運河からグラン・ディル(旧市街)を周回してイル川下流の「欧州議会」付近まで運行している。ちなみに4つに分かれていた水路は、閘門の先で再び一つのイル川の流れになる。
クリックで別ウインドウ開く
なお、右側には、ホテル リージェント ペティート フランス & スパがあり、ストラスブールでは最高級の五つ星ホテルの一つで、プティット・フランスの景観を堪能できる。
「プティット・フランス」は「グラン・ディル」(旧市街)の西南部に位置しており、次は、旧市街の中ほどにある「ストラスブール大聖堂」に向かうことにする。最初にレストラン(La corde a linge)横から延びる「ダンテル通り」を歩いて東方向に進むと、12世紀に建設されたルター派教会の「サン・トマ教会」が見えてくる。宗教改革者としてストラスブールに教会の改革に尽力した神学者マルチン・ブツァー(1491~1551)が説教を行ったことでも知られている。
クリックで別ウインドウ開く
サン・トマ教会の広場には数人でいっぱいになる様な小さなメリーゴーランドがあり、子供が一人乗っていた。更に東に進み「ディヴィジオン通り(Division Leclerc)」を横断し、その先にショップなどが数多く並ぶ「セリュリエ通り(Rue des Serruriers)」に入る。今日は土曜日で、どこも観光客や買い物客で通りは賑わっている。
しばらくすると広い通りになり「グーテンベルク広場」に到着する。中央にルネサンス三大発明の一つ、活版印刷技術を発明したことで知られる「ヨハネス・グーテンベルク」の像が立っていることから名付けられた。グーテンベルグはドイツ・マインツで生まれたが、その後ストラスブールに移住し、1445年頃に活版印刷技術を発明した。
クリックで別ウインドウ開く
背景の3階建てのゴシック建築の豪華な建物は、旧市役所で、現在は商工会議所として利用されている。像のすぐ横には巨大な2層のメリーゴーランドがあるが、この日は2人ほどの子供が乗っているだけだった。しかし、クリスマス・マーケットのシーズンには、多くの子供たちで賑わうのだろう。
グーテンベルク像を右側に見ながら通り過ぎた先を左折して石畳の「メルシエール通り」に入ると、両脇に土産物屋が数多く並び、こちらも観光客で賑わっている。そして北東方面に通りに覆いかぶさる様に聳える巨大な「ストラスブール大聖堂(ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂)」(カトリックの大聖堂)が現れる。旧市街の中ほどにあり、街のランドマークとなっている。
クリックで別ウインドウ開く
聖堂は、アルザス・ヴォージュ産の赤砂岩を建材とし、1015年から1439年までの長い年数をかけて建設された。エルヴィン・フォン・スタインベック(1277年から1318年まで携わる)など多くの建築者が工事に関わっている。
西側正面ファサードの鐘楼頂部まで高さは142メートルあり、「カテドラル広場」前からカメラに収めるのは困難なほどの巨大さである。教会としては世界第6位の高さだが、1647年から1874年までは世界一の高さを誇っていた。片側(北側)だけにある鐘楼はややアンバランス感はあるがそのことが特徴にもなっている。屋上テラス(高さ66メートル)は展望台となっている。
クリックで別ウインドウ開く
ファサードには、身廊幅いっぱいに広がるバラ窓を中心に、採光を最大限に得るため3層構造のアーケードが配され、小尖塔や狭い間隔で装飾的な仕切りの骨組み(トレーサリー)を取り入れた後期ゴシックのコート・スタイル様式となっている。石のレース編みと讃えられる透かし細工の華麗な技法も見られる。中央最下部には、彫像が並ぶ5層の弧帯(アーキヴォルト)に「キリスト受難」が表現されたタンパンを持つ中央扉があり、左右に4層の弧帯を持つ扉口が並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く
ファサードの南側から大聖堂の内陣方向を眺めてみる。ゴシック建築の特徴である身廊と側廊とを繋ぐフライング・バットレスや小尖塔などが並んでいる。南袖廊の頂部が修復工事の最中で、そのすぐ北側に中央ドームが僅かに見える。
クリックで別ウインドウ開く
では、ファサード側に向かって左側の扉口から入場する。聖堂に入ると、左右の身廊や側廊から取り入れられる外光の下、圧倒されそうなくらい広い空間が現れる。身廊の北側には、吊り下げパイプオルガン(1385年制作で内部の機構は1981年)が設置され、前方には精巧な彫刻が施された説教壇(1484年)などがある。
北側廊の窓には、主に12世紀から13世紀に遡る19人の神聖ローマ帝国皇帝がステンドグラスに(5枚にかけて)が描かれている。「皇帝の窓」と呼ばれ、こちらは西端にある窓で左からハインリヒ1世(在:919~936)、フリードリヒ2世(バルバロッサ)(在:1152~1190)、ハインリヒ2世(在:1002~1024)である。
クリックで別ウインドウ開く
身廊上部に並ぶ12~15世紀のステンドグラスには数多くの彩色が組み合わさり荘厳な世界を演出している。
クリックで別ウインドウ開く
説教壇を過ぎ振り返ると、吊り下げパイプオルガンの奥にバラ窓が美しく輝いているのが望める。
クロッシングの上部には高さ58メートルのドームがあり、その先にロマネスク様式の主祭壇がある。祭壇にはキリストが描かれたステンドグラスを中心に周りをフレスコ画が取り囲んでいる。祭壇は15世紀から19世紀のものだが、建設自体は古く最初に建造されたことから、ロマネスク様式となっている。
クリックで別ウインドウ開く
クロッシングの南袖廊には高さ18メートルの天文時計があり、世界最大の天文時計の一つとされている。最初のものは14世紀に作られたが、現存するものは18世紀に作られた「からくり時計」である。12時半には12使徒などを象った人形が動き出す。隣には「天使の柱 (Pilier des anges)」があり「最後の審判」を柱で表現している。
クリックで別ウインドウ開く
次に、外に出て南側廊にある展望台入口に向かう。その入口近くのベンチの横には、大聖堂の模型が置かれており、この模型を俯瞰的に見ると、聖堂全体の形状が良く把握できる。特に鐘楼の高さに驚かされた。
さて、展望台へは、332段の螺旋階段を上って行く。かなりきついが一方通行になっているのは有難い。上り詰めた屋上テラスには雨除けの平屋の建物が設置されており、その扉口から外に出ると展望台になる。向かい側には、高い鐘楼が聳えている。
クリックで別ウインドウ開く
展望台の中央には、市内の空中写真と名所案内が記載された円形の方位盤が置かれている。まず東側を眺めると、大聖堂の屋根は鮮やかなターコイズ(藍緑色)で、中央交差部の重厚な雰囲気の八角形のドームと南北に伸びる袖廊が目の前に見える。
クリックで別ウインドウ開く
前方やや左側に見える2本の塔(高さは76メートル)は、1897年に建てられたネオゴシック様式の聖ポール教会(聖パウロ)で、その少し手前に運河が流れ、すぐ右側でイル川に合流している。そして聖ポール教会の左後方に僅かに見えるガラス張りの円柱を取り囲む近代建築は、イル川下流の畔に建つ「欧州議会」である。
次に聖堂南側のシャトー広場に隣接する中庭を持つパリ風の宮殿は、1732年に建てられたストラスブール司教の住居「ロアン宮」で、ルイ14世付の建築家ロベール・ド・コットにより設計された。現在は装飾博物館、ストラスブール美術館、考古学博物館の3つのミュージアムとなっている。そして通りを挟んだ右側の切妻屋根は「ルーブル・ノートルダム美術館」で、以前は大聖堂の倉庫として使われていた。通路の先にはイル川が流れ、水上バスの乗り場がある。
クリックで別ウインドウ開く
南西側を見ると、先ほどまで歩いてきた「ディヴィジオン通り」の先に「サン・トマ教会」が見える。そのすぐ先が「プティット・フランス」辺りで、遠く背景にはヴォージュ山脈が見わたせる。
クリックで別ウインドウ開く
下りの螺旋階段は鐘楼の身廊側に設置されており、途中まで周りの景色を眺めながら下りることができる。このタイミングで、真上から大聖堂の午後12時の鐘が鳴り始めたので驚いたが、徐々に慣れてきた。鐘は15分近く鳴り響いていた。
階段を下りていくと、身廊と北側廊を繋ぐフライング・バットレスの構造も観察でき、ガーゴイル(雨樋の機能をもつ、怪物風の彫刻)の形やステンドガラスの窓の様子も良く見える。
クリックで別ウインドウ開く
カテドラル広場のファサード前では、おじさんがアコーディオンでシャンソンを弾いており、流れるメロディが古き良きフランスを感じさせてくれる。そのファサードの北側には、1427年に建てられた黒色の「メゾン・カメルツェル(Maison Kammerzell)」が広場に面して建っている。こちらは繊細な浮彫が施された木組みの中に80ほどの多くの凸面ガラスの窓が並ぶ歴史的にも貴重なコロンバージュである。
クリックで別ウインドウ開く
そのメゾン・カメルツェルの左側を通り「オルフェーヴル通り(Rue des Orfèvres)」を北に向けて進むと、洋服、貴金属、化粧品などのショップやパン屋、ワインショップ、薬局などが軒を連ねる繁華街となっている。この通りも多くの観光客で賑わっている。
オルフェーヴル通りの突き当りに建つ「テンプル・ヌフ教会」前を左折して進むと、すぐに旧市街の中心広場「クレベール広場」に到着する。北側の広場全体に面した幅100メートルほどの豪華な建造物は「オーベット(Aubette)」と言い、1765~1772年にフランスの建築家ブロンデルによって建てられたもの。軍の駐屯地、カフェ、教育施設などに使用された後、1926年、3人の前衛芸術家により改装され、現在は複合娯楽施設になっている。
広場の中央には、東側に向いてナポレオン時代の総司令官「ジャン・バティスト・クレベール」(1753~1800)の像が飾られている。クレベール広場とは、1840年に、彼の栄光を称えて名付けられた。将軍自身は生誕の地となるこの像の下に眠っている。背後西側に建つ建物は、フランス国内に多くの店舗を持つ小売チェーンのフナック(fnac)である。フナックとオーベット間のすぐ先が、昨夜トラムを下車したオム・ド・フェール駅になる。
クレベール像の横に立ち、歩いてきた南東側を振り返ると、左側に「テンプル・ヌフ教会」の塔が、右側には「ノートルダム大聖堂」の鐘楼が望める。
以上で「グラン・ディル」(旧市街)の観光は終了である。オム・ド・フェール駅の西側に延びる 歩行者通り(Rue du Vieux-Marché-aux-Vins)でケバブを買い、途中から混雑を避け、運河沿いを歩いて、フォブール・ナシオナル駅からトラムに乗ってホテルに戻った。午後1時過ぎには、ストラスブールを後にし、一路フランクフルト空港に向かった。その日の便で無事帰国の途についた。
(2016.7.29~30)
クリックで別ウインドウ開く
アルザスワイン街道の村の中では一番規模が大きく、アルザス地方を訪れた観光客も必ずと言って良いほど訪れる。町並みは洗練され、夏のリゾート地を感じさせるお洒落な軽装スタイルで歩く人も多く、散策していて気持ちがいい。「アルザスワイン街道( Rooute des Vines d'Alsace)」(地図はこちら)。
リボヴィレの云われは、8世紀にバーゼル司教の領地から、ラポルトシュタイン伯爵(Rappoltstein)の領地となり、フランス語では、Ribeaupierreと呼ばれたことから、現在の名称となった。西側のヴォージュ山脈には、町の目抜き通り(グラン・クリュ通り)からも見えるサンウルリッヒ城(Château de Saint-Ulrich)(標高528メートル)や、ギンズバーグ城、オー・リポーピエール城の3つの城を戴く山々が迫り、周辺には最高級のグラン・クリュ畑が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く
どちらかと言うと、観光するより、町の雰囲気を楽しむ方がお勧めかもしれない。お腹も空いたため、グラン・クリュ通りの中ほどにあるカフェ(Brasserie de la Poste)のテラスでランチを頂くことにした。美しい町並みや人通りを眺めながら頂いていると、すっかり町を堪能した気分になった。
アルザスの町や村では、屋根の上などに、コウノトリの巣が見られ、このリボヴィレも、コウノトリの里として知られているが、路地裏を優雅に歩くコウノトリにお目にかかることができた!
グラン・クリュ通りを西に進むと町の中心部の広場に到着する。中央には16世紀制作のライオン像の水場があり、左側には1773~1778年に建てられた市庁舎が建っている。広場の先(西側)に建つ塔は「メッツガートゥルム(Metzgerturm)」(肉屋の塔の意)で、城門を兼ねた監視塔であった(13世紀築)。現在も鐘を鳴らして時を知らせている。
クリックで別ウインドウ開く
リボヴィレをさらさらっと散策した後、次に14キロメートル北にある「オー・ケニグスブール城」(Chateau du Haut-Koenigsbourg)に向かった。城は、標高700メートル以上の東西に伸びる細長い楕円形の頂きに建てられており、それを取り囲む様に西側から左回りの一方通行の道路が走っている。駐車場は道路沿いの縦列駐車で、空き場所がない場合は周回することになる。到着した入口のある東側からは、セレスタの町並みやアルザス平野を見下ろすことができる。
クリックで別ウインドウ開く
入口は東側にある坂道を徒歩で上った城の南側の中ほどにある。城がいつ建てられたかは不明だが、12世紀にホーエンシュタウフェン家のものとなり、15世紀にはハプスブルグ家の居城となった。1633年、三十年戦争(1618~1648)においてスウェーデン軍に破壊された後は数百年もの間、森に覆われていた。
現在の城は、1870年から1871年の普仏戦争の後、この地域がドイツ帝国領土に組み込まれたことを記念して、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)の要請の下、建築家ボドエバルトが1900年から1908年にかけて修復したもので、現在では、年間50万人もの観光客が訪れる。
ところで、この城は、1937年に製作・公開されたフランス映画、ジャン・ルノワール監督、ジャン・ギャバン主演の「大いなる幻影」のロケ地となった。第一次世界大戦下のドイツ捕虜収容所を舞台に、自由を求め、脱走を繰り返す様々な国の階級の人々の姿を描いた作品で、城は「ウィンタースボルン将校捕虜収容所」として使われ、外壁をロープで脱出するシーンなども撮影された。
入口には戦艦を思わせる城の模型が飾られていた。今回は時間的に厳しくなったことから、ここまで来たにも関わらず、外観のみの見学で引き返し、次の目的地「モンサントオディール修道院」(Mont sainte odile)に向かった。
一旦セレスタまで下山した後、街道を17キロメートルほど北上し、バールから13キロメートルほど山道を上って行く。モンサントオディール修道院(ホーエンブール修道院)はヴォージュ山脈の標高753メートル地点のバラン県オットロットにある聖女オディールによって設立された修道院である。山頂は、南西から北東になだらかに広がる細長い楕円形で、南西側にある駐車場の先に正面入口がある(修道院案内図はこちら)。
大きなアーチ門をくぐると、更に通路が前方に延び、周りには木々が多い茂っている。左側には、巡礼者用のホテルがあり、右側には、聖母マリアに捧げられた教会(ノートルダム大聖堂)が建っている。火災等により何度も崩壊を繰り返しているが、バロック様式の基礎は1692年のもので、現在の建物はフランス革命後再建されたもの。
教会を右手に見ながら正面のアーチ門をくぐると、中央に聖女オディールの彫像が飾られた中庭が現れる。ところで、オディールは、660年頃フランク三分国の一つアウストラシア領域にあったアルザス公国アダルリック公爵の娘として盲目で誕生した。盲目を恥辱と考えた公爵は娘の殺害を図ろうとするが、いち早く妃がブルゴーニュの修道院に預けて救われる。修道院で育てられ12歳になったオディールが洗礼を受けると、奇跡が起こり、視力を取り戻したと伝えられている。
視力を取り戻し成長したオディールはこの地にあったホーエンブール城に戻されるが、公爵に強引に政略結婚を進められたことから城を脱出する。公爵は岩山へ追い詰めるものの、突如岩がオディールを覆い隠す奇跡を目の当たりにする。公爵は神の業を見て、ホーエンブール城を提供し、修道院に改築することとした。こうしてオディールは、680年ホーエンブールの女子修道院の初代院長になった。
庭園を左側に見ながら、正面の扉から回廊沿いの建物に入ると、廊下の先にフレスコ画が描かれた礼拝堂への入口がある。廊下のすぐ左側には、別の礼拝堂への入口があり、そこには十数名ほどが座れる小さい祭壇があり、脇に聖オディールの墓が収められている。
修道院は、1150年、修道院長リンディス(relindis)の就任後に大きく発展する。しかし、その後、度重なる火災と再建が続き、1650年修道院長プレモントレ(Prémontrés)により再建される。フランス革命後は国有財産として売却されるが、1853年にはストラスブール司教が購入し修道院に戻している。現在では、聖女オディールは、アルザスの守護聖人でもあり、修道院は、目に病気を持つ人々にとっての貴重な巡礼場所になり、年間130万人もの観光客や巡礼者が訪れている。
修道院の北東部には、庭園とテラスが広がり、中央には、アルザスのヌーブール(Neubourg)修道院の修道士によって作られた18世紀の日時計が建っている。その先に修道院の外観全体を見渡せることができる。奥に見える鐘楼の頂部には、聖女オディールが飾られアルザスの平野を見下ろしている。1924年に完成したもので、それまでの小さな尖塔に代わって建てられた。鐘楼には31の鐘があり、最大のものは5トンある。ちょうどこの時間、午後6時の鐘が鳴り始め山々に美しい音色が響き渡った。。
クリックで別ウインドウ開く
鐘の音を聞きながら、テラスから北東側を一望すると美しいアルザス平野の景色が広がっており何とも癒される。北東側(中央)15キロメートル先に見える町並みはオベルネで、7世紀にはアルザスの公爵の領地で、オディールの生誕地だった。更に先にかすかに見える町並みがストラスブールになる。
クリックで別ウインドウ開く
テラスの北東側の敷地の最先端には、小さなチャペル「涙の礼拝堂」(Chapelle des larmes)と「天使の礼拝堂」(Chapelle des Anges)がある。
手前の「涙の礼拝堂」から入ってみると、天井は黄金に輝く美しいモザイク画で覆われている。中央上部には、杯を持つキリストを中心に信仰する修道女がサークル状に描かれている。その下には、向かって右側には修道院の第2代院長(在:721~735)で聖オディールの姪の「アルザスの聖ユージニア」(Eugénie)が、左側にはローマ教皇、聖レオ9世(元エギスハイム伯爵)が描かれている。何度か火事で荒廃した修道院は1050年に教皇レオ9世によって再建されている。
クリックで別ウインドウ開く
左端から、白いスカプラリオを纏う修道女は修道院長の聖リンディスで、この涙の礼拝堂や天使の礼拝堂などは、彼女の就任中に建てられた。次は聖アッタラ(Attala)で聖オディールの姪にあたる(拡大画像)。窓を挟んで右側が、シュヴァーベンの聖リヒャルディス(Richardis)で、近郊のアンドー(Andlau)修道院長も務めた。夫はカール3世(フランク王)である。最後に右端が、1176~1195年に修道院長を務めたランツベルクの聖ヘラート(Herrade)である(拡大画像)。
クリックで別ウインドウ開く
入口の上の壁面には、アルザス公国アダルリック公爵と聖オディールが描かれている。祈りを捧げる聖オディールの背中には、ラテン語で「彼女のとりなしにより、父親アダルリックの魂を救った(解放した)」と書かれている。
クリックで別ウインドウ開く
もう一つのチャペル「天使の礼拝堂」(Chapelle des Anges)は、窓が少ないことから堂内はかなり暗い。実は、コインを入れるとライトがつく仕組み(涙の礼拝堂も同様)だが、しばらく気が付かなかった。こちらの礼拝堂のモザイク画は碧系の色合いを背景に、聖書の場面が表現されている。正面は「キリストの昇天」を表しており、ライトを点灯させると、特にキリスト、聖母マリア、天使などの金色のモザイク片に反射して、一層美しく輝いて見える。
クリックで別ウインドウ開く
中央に吊り下げられたシャンデリアもモザイクで造られている。そして、こちらは「キリストの降誕」で、それぞれの登場人物や動物の細かいしぐさや色合いも丁寧に表現されている。
クリックで別ウインドウ開く
こちらには、ドラゴンを退治する聖ジョルジュ(ゲオルギオス)が描かれている。背景には、波を切って進む帆船に、カモメが舞い、島には教会らしき建物が建っている。そして海岸付近に生える草花や貝殻まで細かく表現されている。ドラゴンの周りから顔を覗かせるフクロウはユーモラスがある。訪問した時間が遅かったのか、狭い空間にも関わらず、空いておりじっくり見学できたことは有難かった。
クリックで別ウインドウ開く
下山してオベルネを経由し、約40キロメートル約1時間ほどで今夜の宿泊ホテルに到着した。ホテルは、ストラスブールの南西部イル川沿いの「コンフォート・ホテル・ストラスブール・ウエスト(Comfort Hotel Strasbourg Ouest)」で、チェックインを終えた後、トラムに乗り中心部にあるレストランに出かけた。
ホテルからは400メートル歩き、モンターニュ・ヴェルト駅(Line B、Line F)からトラムに乗り、5つ目のオム・ド・フェール駅で下車する。このあたりがストラスブールの旧市街中心部になる。(トラム路線図)
目的地は、南西方向に延びる「フォセ・デ・タヌール通り(Fossé-des-Tanneurs)」を200メートルほど歩いた裏路地にあるアルザス料理店「ヴィンステュブ・エスカエシェル(Winstub S'Kaechele)」である。
木が覆い茂る気持ちの良いテラスに座り、最初に、「シェフが作る鴨のフォアグラ」を注文する。
次に、グリーンサラダ、「肉入りザワークラウト」(カスラー、フランクフルト、スモークアルザスソーセージ、塩豚、スモークベーコン、ジャガイモ)。とにかくビールがやたら飲める。。
最後に、「アルザスチキンコルドンブルーとマンステールチーズ、ポテトのソテー」を注文した。マンステールチーズは、アルザス地方を代表するウォッシュチーズでやや香りは強いがまろやかな舌ざわりが特徴である。
食後、オム・ド・フェール駅と逆方向(南西方面)にフォセ・デ・タヌール通りを少し進むと、突き当りのイル川の畔に到着する。この辺りがストラスブールの人気観光スポット「プティット・フランス」(Petite France)になる。川沿いの手すりから身を乗り出し、コロンバージュの白と黒の鮮やかなコントラストに見入っていると、観光船(水上バス)が通過していった。明日再訪予定なので、少しだけ散策してから再びトラムに乗り、ホテルへ戻った。
クリックで別ウインドウ開く
***************************
今日も、モンターニュ・ヴェルト駅(Line B、Line F)からトラムに乗り、3つ目のフォブール・ナシオナル駅で下車して、これから市内の散策をすることにしている(前方が旧市街方面)。ストラスブールでは、中心部の一部地域が車両進入禁止ゾーンとなっているため、郊外の駐車場に駐車してトラムに乗り換えて都心部に向かう「パークアンドライド方式」が取り入れられている。ちなみにこの沿線では、乗車駅の一駅郊外側のエルゾー駅に大型駐車場が設置されている(トラム路線図)。
フォブール・ナシオナル駅のすぐ先は、南北にフォー・ランパール運河(イル川の支流)が流れ、その内側から旧市街が始まる。トラム線が走る橋(歩行禁止)北隣のメール・キュス通りが通る「キュス橋」では、歩行者以外の車両は侵入できないようにバリケードが築かれているが、先週から今週にかけてドイツで多発したテロ事件の影響からか、周りには数人の警官も配置され物々しい雰囲気である。そのキュス橋を渡った先に見える(北側に面した)大きなファサードは、1130年に創立し1382年からのゴシック建築が残るサン・ピエール・ル・ヴュー教会(カトリック)である。
クリックで別ウインドウ開く
キュス橋を渡り右折した先の隣路地からは、教会(南側)の内陣が僅かに見えるが、手前に時計塔が聳え、教会の袖廊と直結する小鐘楼と大きな礼拝堂が並ぶ複雑な構造になっている。実は、こちらは同教会のプロテスタント教会で両派が隣接しているのである。
クリックで別ウインドウ開く
ところで、ストラスブールには、他にもサン・ピエール教会が2か所ありややこしい。運河の下流800メートルほどの右岸には、サン・ピエール・ル・ジュヌ教会(1524年よりプロテスタント教会)(旧教会)があり、更に数百メートル先の左岸にはサン・ピエール・ル・ジュヌ教会(カトリック教会)がある。
これは、ストラスブールが、ルネサンス期の宗教改革後、いち早くプロテスタントを受け入れていた歴史的背景があると言われている。
フォー・ランパール運河に並行する「ドセ通り」を南に進むと、前方に縦長直方体に切妻屋根ある「要塞塔(4棟)」が見えてくる。そして、右側の川面には郊外から流れ込んだイル川の水量を調節するための連続アーチが並ぶ「ヴォーバン・ダム(17世紀末)」(ストラスブール南西部に設置)が設置され、東側へのイル川と北側へのフォー・ランパール運河とに分岐している。その分岐したイル川と運河は再び下流で合流するが、その間に囲まれた島状の区域が「グラン・ディル」(大きな島の意)と呼ばれ、ストラスブール中心部(旧市街)を形成している。
東側に向かうイル川は、前方の「ポン・クヴェール橋」手前で、4つの水路に分かれ、200メートルほど下流で再び一つの流れとなる独特な景観を作っている。その最初の水路左側(下流側)には絵画の様な風景が続いている。橋を渡っている際、下を観光船(水上バス)が通り過ぎてダムに向かっていった。
クリックで別ウインドウ開く
2番目の水路を渡り、3番目と4番目との水路の間にある中洲には通路が延びている。その中洲内の通路を東方向にしばらく歩いて途中で振り返ると、ポン・クヴェール橋沿いに建つ「要塞塔」や、その奥に「ヴォーバン・ダム」などを望むことができる。
中洲内の通路は突き当りの丁字路になり、左折すると石畳の「ムーラン通り」になる。再び3番目と2番目の水路を橋で渡り、最後に1番目の水路に架かる「フェザン橋(Pont du Faisan)」を渡る。橋上から左側の上流方向を眺めると、穏やかな水面に建物の姿が鏡の様に写っている。
右側を眺めると水路は大きく右に曲がって流れていくのが見える。対岸の護岸には古びた煉瓦が積み重なり、その上には緑に覆われたレストラン(La corde a linge)のテラスが並ぶ「バンジャマン・ジクス広場(Place Benjamin-Zix)」がある。
フェザン橋を渡った先を右折すると、通りの両側に二階から上が張り出した白い壁と黒い柱と梁のコロンバージュの建物が覆いかぶさるように並んでいる(左手前のテラスのあるレストラン(Le Lohas)の建物は1676年築)。この白と黒のコントラストが織りなす景観エリアは、中世より人の往来が激しく交易地として栄えた場所で、製粉業者、革職人、漁師など多くの商人が住んでいた。。このエリアが「プティット・フランス」と呼ばれるストラスブールを代表する観光スポットである。
クリックで別ウインドウ開く
右側の「レストラン・メゾン・ド・ タヌール(Maison des Tanneurs)」と左先の土産物店の先が、フェザン橋から見えたバンジャマン・ジクス広場になる。「プティット・フランス」とは、16世紀初頭、ナポリを包囲から戻りこの街に立ち寄ったフランス王シャルル8世(在:1483~1498)所属のランツクネヒト(傭兵)が、性病に罹っていたため隔離するためのホスピスが建てられたが、そのホスピスをドイツ人たちが「フランスのようにふしだらな場所」と蔑称したことが由来となっている。
クリックで別ウインドウ開く
水路沿いに設けられた手すりから右側を眺めると、2階と3階に無数の”筋交い”と、窓辺の赤いゼラニウムが鮮やかなレストラン・メゾン・ド・ タヌールが、水路にせり出す様に建っている。もともと1572年に建てられた革職人のための会合所で、今も屋根裏には皮を乾燥させたオープン・ロフトが残っている。1949年から現在のレストランとなっている。
クリックで別ウインドウ開く
昨夜はあまり位置関係を理解していなかったが、観光船(水上バス)が通過して行った水路はこの場所であった。前方の「フェザン橋」は、油圧で右回りに90度回転し右岸に寄せられ(可動橋)、空いた左側を通過する仕組みとなっている。フェザン橋は14世紀に木造の橋が造られ1854年に最初の可動橋となった。現在の油圧式の可動橋は1999年に設置されたものである。
振り返って左側の下流側を眺めると、すぐ先に閘門があり水上バスが停泊している。水上バスは100メートル下流の桟橋を出発し、この閘門で水路の高低差を調整した後、フェザン橋を通過しフォー・ランパール運河からグラン・ディル(旧市街)を周回してイル川下流の「欧州議会」付近まで運行している。ちなみに4つに分かれていた水路は、閘門の先で再び一つのイル川の流れになる。
クリックで別ウインドウ開く
なお、右側には、ホテル リージェント ペティート フランス & スパがあり、ストラスブールでは最高級の五つ星ホテルの一つで、プティット・フランスの景観を堪能できる。
「プティット・フランス」は「グラン・ディル」(旧市街)の西南部に位置しており、次は、旧市街の中ほどにある「ストラスブール大聖堂」に向かうことにする。最初にレストラン(La corde a linge)横から延びる「ダンテル通り」を歩いて東方向に進むと、12世紀に建設されたルター派教会の「サン・トマ教会」が見えてくる。宗教改革者としてストラスブールに教会の改革に尽力した神学者マルチン・ブツァー(1491~1551)が説教を行ったことでも知られている。
クリックで別ウインドウ開く
サン・トマ教会の広場には数人でいっぱいになる様な小さなメリーゴーランドがあり、子供が一人乗っていた。更に東に進み「ディヴィジオン通り(Division Leclerc)」を横断し、その先にショップなどが数多く並ぶ「セリュリエ通り(Rue des Serruriers)」に入る。今日は土曜日で、どこも観光客や買い物客で通りは賑わっている。
しばらくすると広い通りになり「グーテンベルク広場」に到着する。中央にルネサンス三大発明の一つ、活版印刷技術を発明したことで知られる「ヨハネス・グーテンベルク」の像が立っていることから名付けられた。グーテンベルグはドイツ・マインツで生まれたが、その後ストラスブールに移住し、1445年頃に活版印刷技術を発明した。
クリックで別ウインドウ開く
背景の3階建てのゴシック建築の豪華な建物は、旧市役所で、現在は商工会議所として利用されている。像のすぐ横には巨大な2層のメリーゴーランドがあるが、この日は2人ほどの子供が乗っているだけだった。しかし、クリスマス・マーケットのシーズンには、多くの子供たちで賑わうのだろう。
グーテンベルク像を右側に見ながら通り過ぎた先を左折して石畳の「メルシエール通り」に入ると、両脇に土産物屋が数多く並び、こちらも観光客で賑わっている。そして北東方面に通りに覆いかぶさる様に聳える巨大な「ストラスブール大聖堂(ノートルダム・ド・ストラスブール大聖堂)」(カトリックの大聖堂)が現れる。旧市街の中ほどにあり、街のランドマークとなっている。
クリックで別ウインドウ開く
聖堂は、アルザス・ヴォージュ産の赤砂岩を建材とし、1015年から1439年までの長い年数をかけて建設された。エルヴィン・フォン・スタインベック(1277年から1318年まで携わる)など多くの建築者が工事に関わっている。
西側正面ファサードの鐘楼頂部まで高さは142メートルあり、「カテドラル広場」前からカメラに収めるのは困難なほどの巨大さである。教会としては世界第6位の高さだが、1647年から1874年までは世界一の高さを誇っていた。片側(北側)だけにある鐘楼はややアンバランス感はあるがそのことが特徴にもなっている。屋上テラス(高さ66メートル)は展望台となっている。
クリックで別ウインドウ開く
ファサードには、身廊幅いっぱいに広がるバラ窓を中心に、採光を最大限に得るため3層構造のアーケードが配され、小尖塔や狭い間隔で装飾的な仕切りの骨組み(トレーサリー)を取り入れた後期ゴシックのコート・スタイル様式となっている。石のレース編みと讃えられる透かし細工の華麗な技法も見られる。中央最下部には、彫像が並ぶ5層の弧帯(アーキヴォルト)に「キリスト受難」が表現されたタンパンを持つ中央扉があり、左右に4層の弧帯を持つ扉口が並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く
ファサードの南側から大聖堂の内陣方向を眺めてみる。ゴシック建築の特徴である身廊と側廊とを繋ぐフライング・バットレスや小尖塔などが並んでいる。南袖廊の頂部が修復工事の最中で、そのすぐ北側に中央ドームが僅かに見える。
クリックで別ウインドウ開く
では、ファサード側に向かって左側の扉口から入場する。聖堂に入ると、左右の身廊や側廊から取り入れられる外光の下、圧倒されそうなくらい広い空間が現れる。身廊の北側には、吊り下げパイプオルガン(1385年制作で内部の機構は1981年)が設置され、前方には精巧な彫刻が施された説教壇(1484年)などがある。
北側廊の窓には、主に12世紀から13世紀に遡る19人の神聖ローマ帝国皇帝がステンドグラスに(5枚にかけて)が描かれている。「皇帝の窓」と呼ばれ、こちらは西端にある窓で左からハインリヒ1世(在:919~936)、フリードリヒ2世(バルバロッサ)(在:1152~1190)、ハインリヒ2世(在:1002~1024)である。
クリックで別ウインドウ開く
身廊上部に並ぶ12~15世紀のステンドグラスには数多くの彩色が組み合わさり荘厳な世界を演出している。
クリックで別ウインドウ開く
説教壇を過ぎ振り返ると、吊り下げパイプオルガンの奥にバラ窓が美しく輝いているのが望める。
クロッシングの上部には高さ58メートルのドームがあり、その先にロマネスク様式の主祭壇がある。祭壇にはキリストが描かれたステンドグラスを中心に周りをフレスコ画が取り囲んでいる。祭壇は15世紀から19世紀のものだが、建設自体は古く最初に建造されたことから、ロマネスク様式となっている。
クリックで別ウインドウ開く
クロッシングの南袖廊には高さ18メートルの天文時計があり、世界最大の天文時計の一つとされている。最初のものは14世紀に作られたが、現存するものは18世紀に作られた「からくり時計」である。12時半には12使徒などを象った人形が動き出す。隣には「天使の柱 (Pilier des anges)」があり「最後の審判」を柱で表現している。
クリックで別ウインドウ開く
次に、外に出て南側廊にある展望台入口に向かう。その入口近くのベンチの横には、大聖堂の模型が置かれており、この模型を俯瞰的に見ると、聖堂全体の形状が良く把握できる。特に鐘楼の高さに驚かされた。
さて、展望台へは、332段の螺旋階段を上って行く。かなりきついが一方通行になっているのは有難い。上り詰めた屋上テラスには雨除けの平屋の建物が設置されており、その扉口から外に出ると展望台になる。向かい側には、高い鐘楼が聳えている。
クリックで別ウインドウ開く
展望台の中央には、市内の空中写真と名所案内が記載された円形の方位盤が置かれている。まず東側を眺めると、大聖堂の屋根は鮮やかなターコイズ(藍緑色)で、中央交差部の重厚な雰囲気の八角形のドームと南北に伸びる袖廊が目の前に見える。
クリックで別ウインドウ開く
前方やや左側に見える2本の塔(高さは76メートル)は、1897年に建てられたネオゴシック様式の聖ポール教会(聖パウロ)で、その少し手前に運河が流れ、すぐ右側でイル川に合流している。そして聖ポール教会の左後方に僅かに見えるガラス張りの円柱を取り囲む近代建築は、イル川下流の畔に建つ「欧州議会」である。
次に聖堂南側のシャトー広場に隣接する中庭を持つパリ風の宮殿は、1732年に建てられたストラスブール司教の住居「ロアン宮」で、ルイ14世付の建築家ロベール・ド・コットにより設計された。現在は装飾博物館、ストラスブール美術館、考古学博物館の3つのミュージアムとなっている。そして通りを挟んだ右側の切妻屋根は「ルーブル・ノートルダム美術館」で、以前は大聖堂の倉庫として使われていた。通路の先にはイル川が流れ、水上バスの乗り場がある。
クリックで別ウインドウ開く
南西側を見ると、先ほどまで歩いてきた「ディヴィジオン通り」の先に「サン・トマ教会」が見える。そのすぐ先が「プティット・フランス」辺りで、遠く背景にはヴォージュ山脈が見わたせる。
クリックで別ウインドウ開く
下りの螺旋階段は鐘楼の身廊側に設置されており、途中まで周りの景色を眺めながら下りることができる。このタイミングで、真上から大聖堂の午後12時の鐘が鳴り始めたので驚いたが、徐々に慣れてきた。鐘は15分近く鳴り響いていた。
階段を下りていくと、身廊と北側廊を繋ぐフライング・バットレスの構造も観察でき、ガーゴイル(雨樋の機能をもつ、怪物風の彫刻)の形やステンドガラスの窓の様子も良く見える。
クリックで別ウインドウ開く
カテドラル広場のファサード前では、おじさんがアコーディオンでシャンソンを弾いており、流れるメロディが古き良きフランスを感じさせてくれる。そのファサードの北側には、1427年に建てられた黒色の「メゾン・カメルツェル(Maison Kammerzell)」が広場に面して建っている。こちらは繊細な浮彫が施された木組みの中に80ほどの多くの凸面ガラスの窓が並ぶ歴史的にも貴重なコロンバージュである。
クリックで別ウインドウ開く
そのメゾン・カメルツェルの左側を通り「オルフェーヴル通り(Rue des Orfèvres)」を北に向けて進むと、洋服、貴金属、化粧品などのショップやパン屋、ワインショップ、薬局などが軒を連ねる繁華街となっている。この通りも多くの観光客で賑わっている。
オルフェーヴル通りの突き当りに建つ「テンプル・ヌフ教会」前を左折して進むと、すぐに旧市街の中心広場「クレベール広場」に到着する。北側の広場全体に面した幅100メートルほどの豪華な建造物は「オーベット(Aubette)」と言い、1765~1772年にフランスの建築家ブロンデルによって建てられたもの。軍の駐屯地、カフェ、教育施設などに使用された後、1926年、3人の前衛芸術家により改装され、現在は複合娯楽施設になっている。
広場の中央には、東側に向いてナポレオン時代の総司令官「ジャン・バティスト・クレベール」(1753~1800)の像が飾られている。クレベール広場とは、1840年に、彼の栄光を称えて名付けられた。将軍自身は生誕の地となるこの像の下に眠っている。背後西側に建つ建物は、フランス国内に多くの店舗を持つ小売チェーンのフナック(fnac)である。フナックとオーベット間のすぐ先が、昨夜トラムを下車したオム・ド・フェール駅になる。
クレベール像の横に立ち、歩いてきた南東側を振り返ると、左側に「テンプル・ヌフ教会」の塔が、右側には「ノートルダム大聖堂」の鐘楼が望める。
以上で「グラン・ディル」(旧市街)の観光は終了である。オム・ド・フェール駅の西側に延びる 歩行者通り(Rue du Vieux-Marché-aux-Vins)でケバブを買い、途中から混雑を避け、運河沿いを歩いて、フォブール・ナシオナル駅からトラムに乗ってホテルに戻った。午後1時過ぎには、ストラスブールを後にし、一路フランクフルト空港に向かった。その日の便で無事帰国の途についた。
(2016.7.29~30)