カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インド・アウランガバード(その1)

2013-04-04 | インド(エローラ、アジャンター)
目を覚まして、腕時計を見ると朝5時半を過ぎていた。カーテンの隙間から外を眺めると、田舎道ためか明りがほとんど見えない。昨夜はムンバイーを午後8時40分発のバスに乗車したが、予定ではあと1時間ほどで目的地のアウランガバードに到着するはずだ。そんなことを考えているうちにバスは止まり、その後、車掌が声を上げながら車内を歩き始めた。


カーテンから顔を出して「アウランガバード(Aurangabad)に到着したのか」と尋ねると、車掌はそうだと答えた。腕時計を見ると到着予定時刻の午前6時半である。急ぎ荷物を持ってバスを降りると、外はまだ暗いにも関わらず、オートリキシャが近づいて来た。

この場所は、アウランガバード駅から北に約3キロメートル離れたセントラル・バススタンドである。今夜の宿泊ホテルは、アウランガバード駅近くのホテル(プシュパック・リージェンシー)を候補に考えていたので乗ることに決めた。運転手は50ルビーと言ったが、反射的に20ルビーと言い返すと了承された。


アウランガバードは、かつてファテーナガルと呼ばれていたが、1653年、当時ムガル帝国デカン地方の太守であったアウラングゼーブ(後のムガル帝国6代皇帝)が自らの名を冠して改名した。

インドの西海岸に面するムンバイーからは、東へ350キロメートルの位置にあり、エローラ石窟やアジャンタ石窟への観光拠点となっている。エローラ石窟へはバスで30キロメートル(約50分)と近いが、アジャンタ石窟へは100キロメートル離れていることから日帰りはきつい。このため、最初にアウランガバードで2泊し、エローラ石窟と市内を観光した後、3日目にバスで移動し、翌朝からアジャンタ石窟を見学する計画をたてていた。

通りを南に10分程走ると、正面にアウランガバード駅が見えてきた。オートリキシャは駅前を左折し、更に大きく回り込むように左の細い道に入り、しばらく進むとホテル前に到着した。

料金を支払おうとすると、運転手は手招きしてホテルに先導しようとしたが、20ルピーを支払い案内は不要だと断わった。すると、こんどは別の男が現れ隣のホテルに案内しようとしたが、再び断わって、自ら予定のホテル(プシュパック・リージェンシー)ドアを開けた。


フロントスタッフに空室があるか確認すると、2部屋から選べと案内された。結果、フロントに近い1階の南向きの明るい部屋に決め、2泊3日684ルビー(ACなし)でチェックインした。そしてシャワーを浴びた後、1時間半ほどベッドで横になり午前8時半に出かけた。今日はMTDC(マハーラーシュトラ州観光開発公団)の1日バスツアーに参加する予定だ。駅方面に400メートルほど歩き、


正面の寺院を思わせる様なアウランガバード駅前の大通りを左折して、


5分ほど歩いた場所にあった左側の看板に従って敷地内に入り、MTDCの窓口に向かった(途中に酒屋があり、幸先の良さに満足した)。


MTDCでは「エローラと市内ツアー」と「アジャンタ・ツアー」との2種類の日帰りツアーがある。ツアー参加の目的は、市内ツアーにアウランガバード石窟(市内から3キロメートル北の岩山地帯に東西に分かれて9窟がある)が含まれていると聞いていたためだが、窓口で確認したところアウランガバード石窟は含まれていないらしい。

エローラとアジャンタへは自力で行く予定なので、これでは、ツアーに参加する意味がなくなるが、ツアー料金が300ルビー(見学先入場料は除く)と、お得なのでエローラの下見もかねて「エローラと市内ツアー」に参加することにした。

出発の9時半までは多少時間があったので横にあったレストランに入り、コーヒーとトースト(60ルピー)を頼んだ。その後、出発時間が近づいたので外に出ると、参加者は既にバスに乗っていた。


慌てて乗り込むと、バスはすぐに出発した。ツアー参加者は10名程であった。


出発後30分程で右側(東)に山並みが見えはじめた。ところで、アウランガバードは、夜行バスで寝ている間に到着したことや、平坦な場所にあるので気が付きにくいが、広大なデカン高原の中にあり、標高は600メートルに近い。このため、右手に見える山は低く見えるが標高は800メートル規模になる。


出発から50分ほどでバスは止まり、最初の目的地「ダウラターバード要塞」に到着した。土産物屋や屋台が集まる駐車場からガイドに従って要塞の入口に向かう(入場料100ルピー)。

ダウラターバードは、1187年にヒンドゥ王朝ヤーダヴァ朝(セーヴナ朝)により首都デーヴァギリとして築かれるが、その後イスラム王朝の支配下に置かれ、1327年にはトゥグルク朝により、ダウラターバード(繁栄の町)に改名された。ダウラターバード要塞は、歴代のイスラム王朝による占領が繰り返される毎に拡張し、総面積は62.7ヘクタールに及んでいる。

最初の城門をくぐると、城壁に囲まれた正方形状の狭い広場になり、前方に再び城門が現れる。左右側面には石造りのアーケードがあり、中には広場に向けられ大砲が置かれている。最初の城門を突破した敵はこの広場で殲滅されるわけだ。
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そしてこの広場から前方の城門をくぐると、すぐに城壁(内壁)が現れ二重に囲まれた城壁内に至る。右側に進むと、内壁沿いには円形の側防塔が聳えているが、驚いたことに、更に張り出し櫓が付いている。ここまで進入することができても側防塔と張り出し櫓から攻撃されることになるのだ。
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外壁と内壁間の狭い通りを進み、城門を抜けると景色が広がったので、要塞の敷地内に入ったようだ。左右2メートルほどの高さの石壁に挟まれた、岩が転がる足元の悪い通路を進むと、前方から見学を終えた制服を着た子供たちの集団が現れた。インドでは何度か見た風景だが子供が多いのに驚かされる。
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左側の石壁に造られた階段を上り、小さなアーチ門を抜けると、綺麗に整備された石畳の大広間が現れる。周囲には回廊を支えていた柱が整然と並んでいる。そして背景には円錐状の丘の上に築かれたダウラターバード要塞が望める。
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大広間は、綺麗に整備され、他に訪問客が誰もいなかったこともあり足を踏み出すのが憚れる雰囲気があった。ガイドの説明を聞いた後、広間の正面に見える玉ねぎ状のドームに向かい、朱色の柱から内陣に入ると、奥にはヴィシュヌ像が祀られていた

大広間から視線を右側に移すと、入口から見えていたオレンジ色の塔がすぐ近くに聳えている。「チャーンド・ミーナール」と呼ばれ、14世紀中頃から16世紀初頭にかけてデカン地方を支配したイスラム王朝バフマニー朝(トゥグルク朝から1347年に独立)アフマド・シャー2世(在位1436~1458)が1445年に建てた戦勝記念塔である。高さ60メートルあり4層に分かれている。内部には小さなモスクを持つ24の小部屋があるが見学はできない。当時は光沢のある青いタイルと彫刻で覆われ光り輝く塔だったという。
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大広間から階段を降りて、チャーンド・ミーナールを右側に見ながら通り過ぎて行くと100メートルほど先に、また円形の側防塔がある城壁が見えてきた。城門をくぐり、すぐ突き当りを右に曲がると、
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丘の上に向かう階段が現れる。
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階段を上りつめると見晴らしの良い石垣の上に出る。中央には大きな円形砲台があり、螺旋階段で上れるようになっている。


すぐ先には断崖と石垣で覆われた防御用壁がそそり立ち、手前には鉄筋製の橋が現れる。
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鉄筋製の橋から下を覗き込むと、深い濠になっている。この濠は丘全体を取り巻いており、この橋(当時は、巻き上げ式の狭い吊り橋だった)以外からの要塞への侵入を拒んでいる。
濠を渡った防御用壁内には、岩をくりぬいて造られた通路や空間が多く存在しており、かつては、攻城した敵を滅ぼすための仕掛けがあった。しかし、ここまで突破できた敵はいなかったらしい。

要塞内は、乾季でも水が涸れる事が無いように、外部の山岳地帯にある巨大な貯水地から水を引いて長期の籠城にも耐えられる様に備えられていた。
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防御用壁内の暗闇空間や通路を見学した後、見晴らしの良い砲台まで戻った。

眼下に見える崩壊著しい建物は、ゴールコンダ王国第8代王アブル・ハサン・クトゥブ・シャー(在位1672~1687)が幽閉された牢獄の跡である。
ゴールコンダ王国とは、バフマニー朝が分裂して1518年にできたイスラム王朝だが、デカンや南インド方面へ領域拡大を続けていたムガル帝国第6代皇帝アウラングゼーブ(在位:1658~1707)の遠征軍の前に1687年陥落する。ゴールコンダ王国の最後の王となった彼は、この牢獄に幽閉され息をひきとったという。
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デカン高原は、数世紀に渡り多くの王朝の戦いの場所となってきた。ダウラターバード要塞は、その都度主人を変えてきたが、王朝が変わるごとに要塞機能は拡張され、様々な構造物が追加されてきた。しかし、現在では、遺構だけが寂しく残るのみである。ガイドが、参加者に頂上までは急な上り階段が続き時間がかかるので、エローラ石窟寺院に向かうと言った。ツアー参加者は雄大な景色にしばらく浸った後、ダウラターバードを後にした。
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バスは山間部の通りを快走する。あっと言う間に、先ほどのダウラターバード要塞が遠くに見える。
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エローラ石窟寺院は、シャラナドリ台地の西側の段丘崖を垂直に削り取って造られた石窟で、幅2キロメートルにわたり34の石窟が続いている。南端に位置する第1窟から第12窟までの仏教寺院が5世紀から7世紀頃に造られ、中央付近の第13窟から第29窟までのヒンドゥ寺院が7世紀から8世紀に、北端に位置する第30窟から第34窟までのジャイナ教の寺院が9世紀から12世紀頃に造られたと考えられている。

ツアーバスを降りて歩いて行った正面に見え始めた石窟が、エローラを代表する第16窟ヒンドゥ寺院である。ダウラターバード要塞からはバスで20分程で到着したが、時刻は既に昼の12時である。この石窟を全て見学するには、最低でもまる1日はかかるので、今日のツアーではおそらく2~3か所だろう(入場料250ルピー)。
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ガイドは第16窟を正面に見て右側に進み、いくつかの石窟を通りすぎ、仏教寺院に向かった。ここは、仏教寺院を代表する第10窟で、ヴィシュヴァカルマ窟(大工の石窟の意)とも呼ばれ7世紀に造られたチャイティア窟である。チャイティアとは僧たちの礼拝の場で今でいう仏殿や本堂のこと。

吹き抜けのようなホールの最後部にストゥーパを背にした仏像が安置されている。本尊の手前は広い空間となっており、多くの僧が日々の勤行や法会を務めるスペースだったと思われる。現在の寺院の原型とも思える造りである。左右には木造を模した柱や梁が立ち並び、柱頭や梁には仏陀伝や神々の彫刻などで埋め尽くされている。
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仏陀は椅子に座った「椅像」で、脇侍に菩薩を配置する釈迦三尊の様式を見せている。日本で仏の椅像は少ないため珍しい。美しい像なのだが、それにしても、仏陀の象徴的表現であるストゥーパを覆い隠す様に前面に三尊像を配置している表現にはやや不自然さを感じるのだが。。
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次に先ほど通り過ぎた道を戻り第12窟に向かった。石窟の前には番号が記載されているため、自分がどの窟に向かっているのかが分かるようになっている。


第12窟は、ティーン・タル窟(3階の意味)とも呼ばれマンションのように規則正しく部屋が並んでいる。一瞬、石を積み上げたと錯覚してしまうが、全て岩をくり抜いて造られているのが凄い。この日は修復中なのか工事用の櫓が組まれていた。
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石窟内の殆どの柱には全く装飾がないのだが、この外光に面した柱頭には王冠を思わせる様なストゥーパを中心にクーベラや唐草紋様の細かい装飾が施されている。
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2階の左壁には菩薩三尊像が彫られ、周りの壁面には多くの仏龕造られている。
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中央の菩薩は、蓮華手菩薩と思われる。左右の脇侍は豊かな胸が露わになっており、ヒンドゥ教の影響を大きく受けている。
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3階には結跏趺坐し法界定印を結ぶ仏陀像が並んでいる。7体並んでいることから仏陀までに(仏陀を含め)登場した7人の仏陀(過去七仏)を表しているのだろう。
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そして、中央の第16窟に戻ってきた。第16窟は「カイラーサナータ寺院」と呼ばれ、エローラ石窟寺院の代表格である。カイラーサナータとは、シヴァ神が住むカイラス山を由来としている。それにしても凄い規模の彫刻である。ガイドは参加者に一通り概要説明をした後、午後2時に出発するので、それまでにバスに戻るようにと言ったが、参加者の数人はガイドを取り囲み時間が短いと言っている。
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取りあえず、明日再訪を予定しているので、軽く窟内を一周して入口横にあるMTDC直営レストランでビールとオムレツ(250ルピー)を頼んだ。

ツアーは、次にフルダーバードに向かった。フルダーバードには、多くのスーフィー聖者(イスラム教の神秘家)の墓があり「聖者の谷」と呼ばれるイスラムの聖地である。
バスは、聖者ザイヌッディーン・シーラーズィー廟の前で停まった。
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この廟にはムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブの墓が納められている。皇帝は1681年に、領土拡大とデカン地方に栄えたヒンドゥ王朝マラーター王国討伐(デカン戦争)のため、50万もの大軍を率いてデカン地方に遠征し、1686年にビジャープル王国、1687年にゴールコンダ王国を滅ぼすものの、その後、長きにわたり膠着状態が続く。兵士の志気も下がり皇帝権の威信も低下していった1707年、礼拝に向かうため寝室を出た皇帝は意識を失って亡くなった。

アウラングゼーブ帝の墓は過去の皇帝たちの墓とは異なり、イスラム教スンナ派の教えに従った屋根のない白大理石の質素な墓に納められ最後まで教義に従った。


30分程見学して出発した後、ツアーは、ビービー・カ・マクバラー(婦人の墓の意)に到着した(入場料100ルピー)。この建物は、アウラングゼーブ帝の最初の妃で、彼のお気に入りであった、ディルラース・バーヌー・ベーグムを偲んで1661年に建てられた廟墓である。
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王妃は、サファヴィー朝(16世紀から18世紀前半にかけてペルシアを支配したイスラム王朝)のハーンの娘でアウラングゼーブ帝との間には5人の子供を儲けたが、末子の産褥熱が原因で1657年に亡くなる。廟墓はタージ・マハルをモデルに設計されたため「デカンのタージ」と呼ばれているが、タージ・マハルの建造で帝国は財政難となっていたことから、基礎部分しか大理石を使うことができなかった。後に息子のアーザム・シャーにより改築されている。

先にタージ・マハルを見ていたため、どうしても比較してしまうが、立派な廟墓である。
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近づいて外壁を見つめると大理石と漆喰部分の境目がよくわかる上、漆喰部分の表面が劣化して剥がれ落ちている箇所も多く見られ、少し悲しい気持ちにもなる。
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ビービー・カ・マクバラーから、1.5キロメートルほど南に行った所を流れるカム川沿いにマフムード門(Mahmud Darwaza)が建っている。この門は、1682年、アウラングゼーブ帝がデカン戦争(ムガル・マラーター戦争)におけるマラーター王国からの侵略からアウランガバード市内を守るため造った城壁門の一つである。皇帝は、北のデリー門、東のジャルナ門、南のパイトン門、西のメッカ門の4つの主要の門に加えて計52もの城門を造り、現在も多くの門が残されていることから「門の街(City of Gates)」と呼ばれている。


ツアー最後に向かったのは、このカム川手前にある「パーンチャッキー(水車場の意)」(100ルピー)と名付けられた貯水池で、10キロ先の丘から水を引き込み利用した噴水設備がある。そしてこの地にはアウラングゼーブ帝の師ムザーファルが眠っている。
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時間は午後5時半、これでツアーは終了のようだ。約15分で出発地のMTDCに到着した。なかなか有意義な1日であった。

帰りに今朝、目を付けていた酒屋(ワインショップ)で、ビール(100ルピー)とバナナ4、トマト3、ゆで卵1(計40ルピー)を買ってホテルに戻った。シャワーを浴び、本日の無事をビールとつまみ(HALDIRAM'S社のMOONG DAL、ひよこ豆を揚げたスナック)などで打ち上げた後、駅前にあるホテル併設のレストランで夕食を頂く。ビール、タンドリーチキン焼きそば(計520ルビー)を頼んだ。


昨夜のバス移動の疲れもあり、睡魔が襲ってきた。早々に引き上げ午後9時過ぎに寝た。
(2013.2.28)

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