カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

オーストリア・ブルゲンラント

2018-07-14 | オーストリア
オーストリア・ブルゲンラント州のメルビッシュ・アム・ゼーの目抜き通りを南に進んでいる。前方に見える「メルビッシュ福音教会(プロテスタント)」の鐘楼手前の交差点を左折し2キロほど進むと、目的地「メルビッシュ湖上音楽祭」の会場に到着する。音楽祭は毎年7月中旬から8月下旬にかけ、ノイジードル湖上に巨大なオープン・エアー・ステージを設けて開催されている。ちなみにウィーンからは、南東方向に約60キロメートル、ウィーンとメルビッシュ間のシャトルバスも運行している。


前方のガラス張りの2階建てでグレーの屋根が見える建物が音楽祭の会場である。会場入口前には、特設のフードコートとテラスがあり、開演前に、腹ごしらえができる。


開演時間が近づいてきたので、ゲートから入場する。チケットは、事前にサイトから、舞台に向かって中ほど左側の席(Block B)、62ユーロを購入している。ダウンロードしたチケットをスタッフにスキャンしてもらうが、スタッフは緊張感もなく、厳しいセキュリティ・チェックもなく緩い感じ。。


カフェの横を抜け、階段を上り右側に回り込む流れになっている。


軽く食事して開演間近になったこともあり、会場はほぼ満席状態。通路側から5席内側になるので、お礼をいいながら、前を通してもらい着席する。今年の演目は、ハンガリー出身のオーストリアの作曲家エメリッヒ・カールマンが1924年に作曲した全3幕のオペレッタ「伯爵令嬢マリツァ」である。舞台には、巨大なヴァイオリンが横たわり、周りにはススキ?を模した草が多い茂っている。背景のノイジードル湖の自然の風景によく調和している。


座席総数は約6000席あるが、後を振り返ると空席が見当たらないほどに込み合っている。オープン・エアーのステージでオペレッタということもあり、観客の多くはラフなスタイルをしている。ちなみに、中央の一段高いガラス張りの席は、飲み放題食べ放題可能なサービスがある席(125ユーロから145ユーロ)である。


最初にピーター・エーデルマン(Peter Edelmann)芸術監督より挨拶があり、まもなく開演される。午後8時半となり、辺りはやや薄暗くなってきた。


オペレッタ「伯爵令嬢マリツァ」の主な登場人物は、伯爵令嬢マリツァ、破産したタシロ伯爵、マリツァの婚約者コローマン・ジュバン男爵、タシロの妹リーザである。ストーリーは、マリツァの領地の管理人を任されていたタシロのもとへマリツァが久しぶりに帰ってきたところから始まり、4人の恋愛模様が繰り広げられるといった内容である。
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マリツァの領地にある邸宅は、ヴァイオリンの胴部から下が左右に開いて現れる仕掛けとなっている。中央階段がある2階建ての造りで、絵画がかけられたバルコニーのある部屋や重厚感のあるカーテンの窓越しに湖が映る様子など、なかなか手が込んでいる。そんなセットの前では、男女が鮮やかな刺繍が施されたハンガリー民族衣装を身に着け、跳んだり跳ねたり、社交ダンスとコサックダンスのコラボダンスが続く。


途中、15分ほどの休憩をはさみ第二幕へと続く。後半からは、踊りに併せて花火が上がり、ライトアップされた噴水が飛び交う。


男女はタキシードとドレスに身を包み、踊る、踊る。観客席にまでなだれ込み、ひたすら踊りまくる!ブロードウェイミュージカルの勢いさながらである。
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ストーリーは、ざっくり言って、二組の恋人たちが結ばれてハッピーエンドで終わるというもの。拍手喝采の中、演目は終了した。
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天候にも恵まれ、特段トラブルもなく大変楽しめたオペレッタであった。1階の屋外テラスに設けられた丸テーブルで軽く食べて午前0時過ぎに会場を後にした。


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さて、翌朝、ここは、ハンガリーのショプロン中心部から南に2キロメートルほど行ったアパートメントである。ショプロンは、メルビッシュ・アム・ゼーから、国境を隔てたすぐ南(直線距離で10キロメートル)のハンガリーの都市である。昨夜はこのアパートメントの左側の階段を上がった2階の部屋に宿泊した。アパートメントのオーナーは、幼子を抱えた爽やかな若い夫婦だった。その彼らからショプロンの旧市街は是非観光してほしいとの勧めもあり、これからその旧市街に向かうことにした。


ハンガリーのショプロン(旧:エーデンブルク)はオーストリア・ブルゲンラント州では最大の都市であったことから州都になる予定だった。しかし第一次世界大戦後に、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されたことから改めて国民投票を行った結果、ハンガリーに帰属することになり現在に至っている(現在の人口は約58,000人)。

ショプロンの中心部には、環状道路(周囲1.5キロメートル)が通っている。その北東側の道路内側にある広場が旧市街に向かう起点となる。広場には、シンボルの聖母塔が建っているが、これは、もともとその場所にあった教会がオスマン帝国により破壊されたため、1745年に建てられたもの。ところで、現在午前10時なのだが、日曜日のせいなのか、天気が良いにも関らわず人通りが少ない。また車の量も驚くほど少なく感じる。。
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広場の内側には、2階から3階建ての個性的な建物が連結して建っている。視線を右側に移していくと、空間があり、奥へと通りが続いている建物がある。この建物が旧市街への出入口なる。


視線を更に右側(北側)に移すと、広場から内側に旧市街のシンボル「火の見塔」が見えるので間違いないようだ。


歩いて建物をくぐると4階建ての市庁舎の裏側になり、左側には古びた城壁の遺構が続いている。道路をふさいでいるゲートを越え、城壁の内側に回り込むと見晴らし台があり遺構全体を一望できる。城壁はすぐ先の堡塁にから大きく右手前に曲がり続いている。


この城壁は4世紀のローマ時代の遺構で、広場の建物の裏側に重なる様に続いている。城壁下部には石畳のローマン道路が手前に延び、左右に邸宅の址がある。左手前の区画は、ハイポコースト(古代ローマのセントラルヒーティングシステム)が施された建物だった。


市庁舎の外壁に沿って右に曲がると、正面が開け中央広場が現れる。左側に見える広場にやや突出した黄色い建物は薬局博物館で、15世紀から17世紀にかけての歴史的な薬学者たちの遺品やウィーンの古い磁器などが保管されている。16世紀、ハンガリー王ラヨシュ2世が旧市庁舎を拡張しようと薬局の撤去を要求するが、住民の反対で撤去できず保護された逸話が残っている。
そして、広場の中央には、17世紀にローエンブルグ・ヤカブ(1685~1701)が妻のために建てたバロック様式の「三位一体」の像が建っている。


広場の左奥には1280年にフランシスコ派の教会としてゴシック様式で建てられた「山羊教会」がある。山羊が掘り当てた埋蔵金で作られたという逸話に因んで名付けられた。15世紀半ばに身廊とオルガンロフトが加えられバロック様式で装飾された。17世紀には3回の戴冠式が行われるなど由緒ある教会で1802年からはベネディクト派に属している。
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入口のティンパヌムには15世紀に描かれたマントを着て手を広げた被昇天(聖母)像が描かれ、上部には山羊を模った浮彫が施されている。


さて、広場側から市庁舎を眺めると、ポルチコを持つ堂々とした正面入口側になる。最初の市庁舎は1497年に建てられたが、現在の建物は1897年にネオ・ルネサンス様式で建てられた歴史ある建物である。
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その市庁舎に向かって左隣(北側)に「火の見塔」が聳えている。高さ61メートルの火の見塔の上部はバロック様式で、中間部はルネサンス様式のアーケードがあり、火事など異変をいち早く察知するための展望台の役割を果たしている。中世の頃、塔の警備員は、時刻、事件や火事など住民にトランペットで知らせていたことから、ミュージシャンの番人と呼ばれていたという。そして下部には通り抜けができるアーチ門がある。
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ちなみに市庁舎と向かい合って建つ建物は、ハンガリーの建築家フェレンツ・シュトルノ(1821~1907)が修復した「シュトルノの家」で、当時の家具や調度品などを見学することができる。この建物は既に15世紀には存在しており、中世ハンガリーの最盛期を築き、ルネサンス文化を奨励した、ハンガリー王兼ボヘミア王マーチャーシュ1世(在位:1458~1490)が立ち寄ったことでも知られている。
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そして隣には、中世と現代の彫刻コレクションがある「将軍の家」で、更に隣に元ショプロン市長(在任:1823~1847)が住んだ「ファブリキウスの家」と歴史的建造物が続いている。

それでは「火の見塔」の下部にあるアーチ門をくぐってみる。バロック様式の門枠は、国民投票によりショプロンのハンガリー帰属が決定したのを記念して1928年に完成したもの。くぐった先の左側にはインフォメーションセンター兼博物館がある


博物館の地下には発掘した遺構がそのまま残り、1階と2階と「火の見塔」内には、ショプロンの町の歴史に関する展示がされている。では、塔内の階段を上ってみよう。


ショプロンは、ローマ時代にはスカバンティアと呼ばれ、市内に重要なローマン道路が交差していた。フォルム(古代ローマ都市の公共広場)は、現在の市庁舎にあったようで、1897年の市庁舎建設中に女神像が三体発掘されたという。女神像は「ファブリキウスの家」に展示されている。
4世紀には、堡塁を持つローマ城壁で町が覆われることになった。


1092年には、ローマ城壁の場所に木製の要塞を建造するが、その後火災により消失してしまう。1297年から1340年の間には、4世紀のローマ城壁の基礎の上に高さ8~10メートルの要塞壁が造られ、北門の上にゴシック様式で「ローマ門タワー」が建てられた。主要な邸宅は城壁内に移転して城塞都市となる。1529年、オスマン帝国は、多くのハンガリーの町を破壊し占領するものの、ショプロンはオスマン帝国領とならなかったため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大していく。


こちらは1605年のショプロンの町を描いた銅版画で、オスマン帝国の宗主権下におかれていたトランシルヴァニア公ボチカイ(1557~1606)による攻撃の様子が描かれている。ショプロンの町は丘の上に壁で覆われており塔が二棟建っているのが分かる。この攻撃によりショプロンの町は破壊されてしまう。


ショプロンの町は再建されるものの、1676年に発生した大火に見舞われ、ほぼ消失してしまう。塔内にある覗き窓にはスクリーンが貼ってあり、町が炎で次々に燃え移っていく様子を視覚的に見せてくれる。この演出は凄い。。ちなみに、この火災で「火の見塔」も完全に消失したとのこと。


その後の復興に際してはバロック様式の建造物が多く建造され、現在の町の基礎となった。1700年当時のショプロンの町を描いた銅版画を見ると、20年余りで復興を遂げていることが分かる。旧市街の城壁の外側には堀が造られているが、その堀は聖母塔があった広場にあたるのだろう。そして町は堀の外にも広がり、大きく町全体を取り囲む外壁で覆われている。
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展示物を見ながら上って行くと、辺りが明るくなり円柱が並ぶアーケードに到着する。


旧市街の広場を見下ろすと、正面に薬局博物館があり、右側には山羊協会の尖塔が聳えている。更に後方に見える尖塔は、1782年から1983年にかけて、後期バロック様式、古典様式で建てられた「エヴァンゲリクス教会」で、巨大なパイプオルガンがあることで知られている。全景には山々が連なり中々の眺めである。
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館内には、ショプロンの旧市街の模型が展示されている。左下の聖母塔のある広場から建物の下の斜めの道に入り、ひと際大きな市庁舎を回り込み「火の見塔」まで歩いた経路を俯瞰的に確認できる。


博物館を出て広場を散策していたら、観光用のトレイン・バスが現れた。テーマパークにいるようで楽しい。小さな町だが、歴史が詰まった町で大変勉強になった。


さて、これから、ハンガリーの旧国境ゲートを越えて、オーストリアに戻る。国境には警備員が居て、遮断機や移動式ゲート、コーンなど、いつでも封鎖できる状態にあるが、特段何のお咎めもなく通り過ぎた。ところで、この場所は、1989年8月、旧東ドイツ国民がショプロンからピクニックと称してオーストリアに大量越境したことで知られている。


当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていたことから、旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーのショプロンとオーストリアとの国境付近の緑が広がる一帯に東ドイツ市民を集めて、オーストリアを経由して西ドイツへ脱出させた。この「ピクニック事件」がきっかけとなり、ベルリンの壁が壊され、東西冷戦は終結に向かうのである。

旧国境を過ぎ、5キロメートルほど、畑の一本道を北上し、東西に延びる通りを右折して、更に4キロメートル進むとオーストリア・ブルゲンラント州のルストに到着する。ちなみにルストから南に5キロメートル南に行くとメルビッシュ・アム・ゼーになる。

ルストは、ノイジードル湖畔に位置している人口約1,700人の小さな町で、1681年にはハンガリー王臣下のエステルハージ家が統治した。オーストリアでは有数のワインの産地で、いたるところにワイナリーがある。カトリック教会の東側にあるホイリゲ横から小さな市門をくぐって道なりに進むと町の中心「ラートハウス広場」に到着する。


広場の西端には「プロテスタント教会」と右隣に「市庁舎」が建ち、その隣にはハンガリー風のパステルカラーの建物が並んでいる。屋根の煙突には、コウノトリが巣を作っているのが見える。ノイジードル湖は、野鳥の保護区でもあり、毎年夏には地中海からコウノトリが渡ってきて、このように巣を作る姿が見られるとのこと。


時刻は昼の12時を過ぎたところ、昼食は、広場の南側にあるレストラン(Wirtshaus im Hofgassl)で頂くことにした。


お店のアーチ門から中に入ると、白壁と緑に覆われた石畳の通路が続き、進んだ先に中庭のテラスがある。


テラス全体が見渡せる席に座って、まず最初にビールを頼んだ。木漏れ日の下で頂くビールは最高であった。


料理は、前菜として、ベジタリアン・タブーレサラダ、ミントキュウリとトマトのビネグレット(13.6ユーロ)。新鮮で瑞々しいサラダは、目が覚めるようだ。


魚は、オーストリアでメジャーなザイプリング(淡水魚)フィレとパセリクリームと自家製ジャガイモ入り(25.9ユーロ)である。魚の焼き加減と言い、濃厚だがしつこく感じないクリームソースと魚の身との相性は見事である。パンと一緒に出てきたオリーブオイルやバターなども、爽やかな香りが素晴らしかった。


パスタはもちもちとした食感のねじりショートパスタ(19.9ユーロ)で、キノコとチャイブ(ハーブ・ネギ)がチーズソースに絡み大変美味しい。撮影を忘れ少し食べてしまった。料理は、そこそこ良い値段であるが、星付きに匹敵するほどの、洗練された味であった。もし、再来する機会があったら、夜の食事も体験してみたい。


ルストから東に1.5キロメートルほど行った所に広い駐車場があり、その先がノイジードル湖畔になる。湖面にはレストランや、レンタルボートの乗り場などがある。ノイジードル湖は、南北に約36キロメートル、東西約6キロメートルから12キロメートルもの広大な面積を誇っている。しかし、水深は深いところでも2メートルほどしかないことから、これまで、何度も干上がったことが記録されている。


これから、ルストから北西に道なりに15キロメートル行ったアイゼンシュタットに向かう。街道沿いには、ワイン畑が広がっている。


前方にアイゼンシュタットの町並みが見えてきた。アイゼンシュタットは、ブルゲンラント州の州都だが、北側に広大な森が続き、南にはワイン畑が広がる緑の多い自然豊かな都市で、現在人口は12,000人ほどの小さな町である。ハンガリーに帰属する前のショプロンがブルゲンラント州の州都候補だったことは頷ける。


そんな、小さな町、アイゼンシュタットを有名にしているのは、大作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)が宮廷音楽家として仕えたエステルハージ家の「エステルハージ宮殿」があることによる。宮殿は、町の中心部からハウプト通りを400メートルほど西に行った場所になるが、車の場合は、宮殿のすぐ西側を通る街道側のゲートから入場できる(ゲート手前に地下駐車場がある)。


宮殿は、ハプスブルグ家の土地に13世紀後半に建設されたのが始まりで、1622年からハンガリーのエステルハージ家の所有になった。1663年から1672年にかけてエステルハージ・パール侯爵(1635~1713)により、バロック様式で改築され、更には1797年から1805年にニコラウス・エステルハージ侯爵(1765~1833)時に、新古典主義様式に再び改築され現在に至っている。
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宮殿正面のアーチ門を入ると通り抜けになっており中庭に出る(チケットショップはアーチ門を入った所)。一辺20メートルほどの正方形の中庭で、西~北~東の三方にも扉口があり、目的の場所に向かうことができる。宮殿の側面壁の色は正面入り口側のクリーム色と異なり白で統一されている。グランドフロアの上には、アーチやバルコニー文様で縁取りされた壁面に1階から3階までの大小の窓が並んでいる。


最初に、最大の見所、ハイドンザール(ハイドンホール)を見学した。世界で最も美しく、音響的に完璧なコンサートホールにランクされている。エステルハージ家に40年近く仕え数多くの作品を作曲したハイドンに因んで名付けられた。作品の多くはこの場所で初演されている。ハイドンザールは、宮殿の北翼の大部分を占めており、中庭に面する3つの窓がうまくデザインに取り込まれている。


座席は木の床(床は当初は大理石)に移動可能なものが並べられている。これは、ホールが、もともとは演奏会を前提にしたものではなく、舞踏会や晩餐会などを目的として作られたことが理由である。

ホールの壁画と天井画は、17世紀のスイス、イタリアのバロック画家カルポフォロ・テンカラ(1623~1685)によるもので、2世紀帝政ローマ時代の弁論作家アプレイウスの「変容(または黄金のロバ)」を題材とした作品で、若く美しい少女プシュケーと、ヴィーナスの息子クピドとの恋の物語が描かれている。中央の大きな壁画は「クピドとプシュケの結婚」で、周りの6枚の長方形のパネルには、二人の生活に関連する場面が描かれている。
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十字形のパネルにはギリシャ神話「ヘスペリデスの園」からの場面が描かれ、メダリオンには、ハンガリー王国の戴冠の証で知られる「聖イシュトヴァーンの王冠(ハンガリーの聖冠)」の説話が描かれている。側壁には、イシュトヴァーン1世(969~1038)から皇帝レオポルド1世(在位:1655~1705)までのハンガリー君主の胸像が描かれたメダリオンが飾られている。


第一次世界大戦後の1918年、これまで中欧に君臨し続けたハプスブルク家の帝国「オーストリア=ハンガリー帝国」が崩壊し、エステルハージ家も存亡の危機に見舞われる。オーストリア共和国とハンガリー共和国との二つの地域に分断された上、第二次世界大戦後には、ソ連の管理下に置かれ独房監禁生活を送るなど、当主エステルハージ・パール・ヴィクトール侯爵(1901~1989)の心労は絶えまなく続いた。そんなどん底時代の1946年に、バレエ・ダンサーだったメリンダ・オットーベイ(Melinda Esterházy)(1920~2014)と出会い結婚する。


館内には、プリンセス・メリンダのゆかりの品が展示されていた。数点のモノクロ写真は、苦しい時代にも関わらず、プリンセス・スマイルが印象的で、周りの人々にとっても心の支えになったのだろう。メリンダは、パール・ヴィクトール侯爵が亡くなった後、文化的および歴史的遺産を保存するための基盤としてエステルハージ財団を作り、宮殿や美術品などの維持・管理に努めた。


他にも陶磁器や、


銀製品の調度品が展示されている。


こちらには、歴代当主の肖像画やそれぞれの時代のゆかりの品が収められている。手前に飾られた肖像画は、エステルハージ・パール・アンタル侯爵(1711~1762)で、彼は、音楽のよき理解者であった。自らヴァイオリン・フルート・リュートを演奏し、膨大な楽譜の写本目録を完成させた。パトロンとしても、音楽に重要な役割を果たし、作曲家グレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナーを宮廷楽長として雇い、後年1761年、高齢になったヴェルナーの補佐として副楽長として雇ったのがハイドンであった。


ハイドンのオーケストラのための楽譜スケッチなどが展示されている。


こちらは、ミュンヘンの著名な弦楽器商フェルディナント・ヴィルヘルム・ヤウラに制作を依頼し1934年に完成したバリトンで1936年にミュンヘンで開催された近代最初のバリトン演奏会で使用された。1782年制作のジーモン・シェドラーのバリトンのレプリカとして制作されたものである。


ハイドンのパトロンであったニコラウス・エステルハージ侯爵(1765~1833)は、バリトンの愛用家で、ハイドンは侯爵の為に175曲(126曲は、ヴィオラ、チェロ、バリトンの三重奏)ものバリトン用の曲を書いたと言われている。バリトンは、擦弦楽器の一つで18世紀末まで東欧の一部で用いられたが、演奏するのが難しく、調律も難しいため、現在でも演奏されるのは稀である。

時刻はまもなく午後4時になる。今日は午後6時40分発の大韓航空で日本に帰国する予定となっている。名残惜しいが、急ぎ空港に向かった。
(2018.7.14~15)

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