若葉が春の風に揺れている。
「久留美、別れるなんて言わないでくれよ!」
「だって山田君、浮気ばかりしてるじゃない!」
「もうしないから、機嫌直してくれよ!」
「別に怒ってないわ、私には看護師の仕事があるから、あなたの様な嘘ばかりの人と付き合ってちゃ、仕事がちゃんと出来なくなっちゃうの。・・・だから別れましょ!」
山田に呼び出された看護師の安達久留美は、医院の昼休みを利用して、少し離れた山の中腹にある城山公園に来ていた。
「私、帰るわ。」
「待てよ!久留美!」
山田が久留美の腕を掴んだ。
「話してよっ!」
振り解こうとして振った久留美の手が山田の顔に当たった。
「テメエ!何すんだよ!人が下手に出てりゃあいい気になりやがって!」
「ご、ごめん、山田君。」
久留美は、山田の口からこんな言葉を聞くのは初めてだった。そしてその言葉を発する山田の表情に怖さを感じた。
「殴る気なんかなかったの、ごめん!」
「ごめんじゃないだろ!このっ!」
山田が久留美の腰を足で蹴った。久留美は倒れた。
「ごめんなさい、だろっ!」
山田は、うずくまる久留美を再び蹴った。
「ごめんなさい!」
「今さら遅いんだよ!」
また蹴った。
「ごめんなさい、許して、お願い!」
「じゃ、服脱げ!」
「いやっ!」
久留美は、起き上って走り出した。
「待てよ!逃げんじゃねえよ!」
山田が追いかける。久留美は公園を抜けて林の中に入った。それでも山田は追いかけて来た。
「待てよ!」
久留美は必死に走った。しかし、しばらくするとその足が止まった。
「どうした、行き止まりかな?」
久留美の足元は崖だった。
「さあ、諦めて脱ぎな。そしたら許してやるよ。」
久留美は、唇を噛んだ。
「あなたなんて、最低の男よ!」
そう言うと、久留美は山田に背を向けると、崖を飛び降りてしまった。
「く、久留美っ!」
山田が覗き込むと、谷底へ向かって久留美が落ちていっている。
「やべっ!」
山田は、その場から逃げるように去って行った。
久留美の身体は、谷底から現れた白くまぶしい光の中へと消えて行った。
深い茂みをかき分け男が進む。
「お屋形様!」
何度も叫ぶが返事はない。男は茂みからつながる山を見上げた。
「お屋形様・・・。」
ガサガサと木々のすれる音が聞こえるだけだ。
「茂助様、今日は帰りましょう・・・。」
「松吉、おれは諦めないぞ、お屋形様は必ず生きておられる。こうして亡骸が見つからないことが、何よりの証拠だ!だから明日も手掛かりを捜しに来るぞ・・・。」
二人は鷹天神山を下り、浜奈の屋敷へと帰って行った。
「茂助さん、早く来て下さい!」
茂助達が屋敷へ着くと、美有が待ち構えていた。
「どうされました奥方様!」
美有の後をついて廊下を急ぐ茂助達・・・。
そして、案内された部屋の中を見て茂助は驚いた。なかなか言葉が出てこない。その代わりに涙が溢れ出た。
「茂助さん、遅くなりました。」
「お、お屋形様、ご無事で・・・。」
「心配かけました。」
茂助は、一歩一歩近づいて行った。しかし二人の距離は、いつまでたっても縮まらない。
「お屋形様!」
手を伸ばしても離れて行ってしまう。
「お屋形様!」
その姿はやがて消えていった。
「お屋形様!」
その寝言に自分自身が目を覚ました。
鷹天神城の戦いで矢を受けた茂助の主人、三津林慶大が行方知れずになって一月ほど。茂助は毎日のように三津林の夢を見る。それまでの三津林の奇跡の生還を考えると、今回の行方知れずでも生きていることを信じているのだ。
「茂助様、家康様からのご使者が・・・。」
亀作が呼びに来た。
「ご使者が?」
何事だろうかと茂助は思った。
「今すぐ行く。」
茂助は、屋敷の対面所へ急いだ。
「これは松谷様、お呼び下されば私の方から伺いましたのに・・・。」
使者は、家康の家臣松谷道正だった。
「美有様の御加減はどうですか?」
「良くありません。三津林様が行方知れずになってから、お起きになられたことがありませぬ。」
「家康様も心配されております。しかし三津林様さえ現れれば、美有様も回復されるのではと思っておられます。」
「私もそうなのです。あの方は何度も奇跡の様な帰還をされております。だからきっと帰ってくると信じております。」
松谷が懐から書状を出した。
「家康様からの書状だ・・・。」
茂助は、姿勢を正した。
三津林家は、以前より大きな屋敷を与えられ、石高も上がり、家人も増えた。肝心の主人が不在のままだったが、名代として茂助が取り仕切った。
数ヵ月後、少し元気になっていた美有が身ごもっていることが判明した。
「美有どの、三津林のような不死身な子をお産み下され。そして親子でわしを支えてほしいのじゃ。」
「家康様・・・。」
「きっと生きて帰ってくる。だからそなたも子も、元気で待っておるのじゃ。」
美有は、頭を下げた。
見舞いに来ていた家康は、茂助を従えて浜奈城へ帰った。
また戦の準備が進められていたのだ。
・・・つづく。