2006年は199年のカレンダーと曜日が同じなことに気がついた。曜日の配列は同じでも私個人の人生を取り巻く環境もずいぶんかわってしまった。しかし不思議なことだ。手帳を見て、この日、こんなことがあったと見比べてしまう。
社会環境で最大変わったことはコンピユーターの普及だろう。クリスマスイブは韓国にいたが、その韓国とはインターネットでは日本は相当遅れはとっている。ネットで世論が導かれるのも日本と韓国はちがっている。ノ大統領の産婆役の一役を担ったネット新聞「オーマイニュース」のようなメディアは日本ではまだ誕生まで時間がかるといわれるが、これからどうなるか。
ただ2チャンネルのようなメディアで多くのアクセスを数えるのは、ひとつの現状を語るものだろう。今回の韓国の黄教授問題でMBCテレビの看板番組「PC手帳」がいち早く黄教授の論文問題を報じたことから、ネットで批判を受け、一時は中止に追い込まれた。「韓国の英雄を誹謗するとは……」と、ネット上の批判は「愛国言論」「愛国主義」となずけられるもので、ネットはどうも「公共圏」構築のため民主主義の監視役をはたす一方、「愛国言論」に走る可能性を持っている。日本でも無関係ではない。ただテレビ番組の広告があんくなり、番組が中止に追い込まれるなどはおきていないが。
さらに変化したのは韓国、中国と政治的距離が広がったことがある。小泉さんは一国の首相としてなんであんだけ靖国神社参拝にこだわり日韓の嫌やがることをされるのか。まずはアメリカが怒らないことが背景にあることも一つの要因だ(のちに述べる沖縄問題ではアメリカの意に反する県外移設を主張するなど一切されていないようだ。
しかし、このこの傾向(東アジアでの孤立)はポスト小泉でも変わらないのだ。民間ではますます交流が進んでいるのに、政治と現実があわなくなっているのではないか。「政治ではギクシャクしているが、経済交流は活発だからいい」と語るテレビのコメンテーターは、政治と現実のギャップがあることは重大な問題なことをご存知ないのか。
仕事上で1995年と変化した最大の点は本が売れないということで簡単に企画が成立しなくなったことだ。経済的な厳しさが出版界は遅れてやってきたようだが、厳しい出版環境はそう簡単に克服できそうにない。
新聞や書籍、雑誌は総合的判断を養うことはいま強調されていい。ネットは情報が単独で歩き出し、その情報が大きく社会を覆う傾向をもつ。テレビのニュースで「大きなニュースだ」と見ている側は映像から判断するのだが、翌朝新聞を見るとたいしたことがないことに気づくことが多々ある。それとどこか似ている。ただし「サーズ」を告発した中国人のネット連携は中国政府の秘匿を改善させた。いかに現代は不可能かを如実に示した。個人がメディアをもった時代であることを示した特性、利点は強調したいが、いま述べたマイナス面の自覚しないとだめだろう。
ネット情報は活字の映像化なのだ。新聞は売り上げが減り、雑誌も同様だ。総合的判断が貧しい時代は1995年に比べ比較にならなほど減少している。
変わらないのは何か。とりわけ沖縄の基地問題がある。小泉さんが昨年10月「沖縄の負担軽減」を公言されたとき、沖縄県名護市辺野古で座り込みの基地移設反対運動をされている知人に「これで大丈夫になったのでは」と語ったのが私だが、知人らは「とんでもない」と言っていたことをいま思い出す。いかに私の見方が甘いかわかる。また最近沖縄で開かれたシンポで大野前防衛庁長官はアメリカとの交渉で県外移設に言及していないと語り(町村前外相は大野発言を否定したが)、小泉さんはやはりアメリカの意にそわないことはやらず、東アジアには嫌がることをするという政治家なのだとつくずく思ったものだ。
今後基地移設地での海の埋め立てを沖縄県知事権限から国に移す特別法をつくり、移設強行をはかる可能性がでてきた。米軍用地賃貸契約延長で知事権限を奪ったのと同じ歴史をまたたどるのか。
変わらねばならないものが変わらず、変わらずにますます緊密におならねばならない東アジアの関係が悪化するという変化は、t6おても1995年には予想できなかったことだ。
社会環境で最大変わったことはコンピユーターの普及だろう。クリスマスイブは韓国にいたが、その韓国とはインターネットでは日本は相当遅れはとっている。ネットで世論が導かれるのも日本と韓国はちがっている。ノ大統領の産婆役の一役を担ったネット新聞「オーマイニュース」のようなメディアは日本ではまだ誕生まで時間がかるといわれるが、これからどうなるか。
ただ2チャンネルのようなメディアで多くのアクセスを数えるのは、ひとつの現状を語るものだろう。今回の韓国の黄教授問題でMBCテレビの看板番組「PC手帳」がいち早く黄教授の論文問題を報じたことから、ネットで批判を受け、一時は中止に追い込まれた。「韓国の英雄を誹謗するとは……」と、ネット上の批判は「愛国言論」「愛国主義」となずけられるもので、ネットはどうも「公共圏」構築のため民主主義の監視役をはたす一方、「愛国言論」に走る可能性を持っている。日本でも無関係ではない。ただテレビ番組の広告があんくなり、番組が中止に追い込まれるなどはおきていないが。
さらに変化したのは韓国、中国と政治的距離が広がったことがある。小泉さんは一国の首相としてなんであんだけ靖国神社参拝にこだわり日韓の嫌やがることをされるのか。まずはアメリカが怒らないことが背景にあることも一つの要因だ(のちに述べる沖縄問題ではアメリカの意に反する県外移設を主張するなど一切されていないようだ。
しかし、このこの傾向(東アジアでの孤立)はポスト小泉でも変わらないのだ。民間ではますます交流が進んでいるのに、政治と現実があわなくなっているのではないか。「政治ではギクシャクしているが、経済交流は活発だからいい」と語るテレビのコメンテーターは、政治と現実のギャップがあることは重大な問題なことをご存知ないのか。
仕事上で1995年と変化した最大の点は本が売れないということで簡単に企画が成立しなくなったことだ。経済的な厳しさが出版界は遅れてやってきたようだが、厳しい出版環境はそう簡単に克服できそうにない。
新聞や書籍、雑誌は総合的判断を養うことはいま強調されていい。ネットは情報が単独で歩き出し、その情報が大きく社会を覆う傾向をもつ。テレビのニュースで「大きなニュースだ」と見ている側は映像から判断するのだが、翌朝新聞を見るとたいしたことがないことに気づくことが多々ある。それとどこか似ている。ただし「サーズ」を告発した中国人のネット連携は中国政府の秘匿を改善させた。いかに現代は不可能かを如実に示した。個人がメディアをもった時代であることを示した特性、利点は強調したいが、いま述べたマイナス面の自覚しないとだめだろう。
ネット情報は活字の映像化なのだ。新聞は売り上げが減り、雑誌も同様だ。総合的判断が貧しい時代は1995年に比べ比較にならなほど減少している。
変わらないのは何か。とりわけ沖縄の基地問題がある。小泉さんが昨年10月「沖縄の負担軽減」を公言されたとき、沖縄県名護市辺野古で座り込みの基地移設反対運動をされている知人に「これで大丈夫になったのでは」と語ったのが私だが、知人らは「とんでもない」と言っていたことをいま思い出す。いかに私の見方が甘いかわかる。また最近沖縄で開かれたシンポで大野前防衛庁長官はアメリカとの交渉で県外移設に言及していないと語り(町村前外相は大野発言を否定したが)、小泉さんはやはりアメリカの意にそわないことはやらず、東アジアには嫌がることをするという政治家なのだとつくずく思ったものだ。
今後基地移設地での海の埋め立てを沖縄県知事権限から国に移す特別法をつくり、移設強行をはかる可能性がでてきた。米軍用地賃貸契約延長で知事権限を奪ったのと同じ歴史をまたたどるのか。
変わらねばならないものが変わらず、変わらずにますます緊密におならねばならない東アジアの関係が悪化するという変化は、t6おても1995年には予想できなかったことだ。