あまでうす日記

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佐藤幹夫著「「責任能力」をめぐる新・事件論」を読んで

2024-06-18 10:02:57 | Weblog

 

照る日曇る日 第2064回

 

本書は、著者がこれまでに追及してきた、障害者の「責任能力」をめぐる論考の、いわば中間総括の1冊とでもいえばよいのだろうか。

 

1997年2001年の浅草のレッサーパンダ帽男による短大生殺人事件、17歳の少年による2005年の大阪寝屋川の小学校教師殺人事件など、健常ならざる人物による不条理な殺傷事件をめぐる裁判を次々に俎上に載せて、「かれら」がどのように裁かれてきたか、を考えていこうとしている。

 

そして警察と検察、弁護士と裁判所の間で、「かれら」に対する「刑罰」と「治療」、「保護」と「厳罰」の相反する方針が、時代と政治と社会の変遷の中で、激しく揺れ動いてきた軌跡がくっきりと浮かび上がってくるのである。

 

けれども私が本書を読んでもっとも共感したのは、養護学校勤務20年のキャリアを持つ著者が「あとがき」の最後にゴチック体で印された次の一文であった。

 

「最後にもう一度、お断りしておきたい。発達障害と総称される「かれら」は犯罪の予備軍ではない。「障害」が犯罪に直結するわけではないし、社会的に危険な存在でもない。どうか危険視しないでいただきたい。むしろ人をだましたり、策を弄して貶めようとしたり、進んで暴力に訴えたり、そのようなことの大変不得手な人たちである。事件の加害者となることは、きわめてレアなケースである。そのことをどうか理解していただきたいと思う。」

 

そうなのだ。その通りなのだ。

「かれら」は、自閉症なるレッテルを張られた私の息子や、同じ施設やホームにいる仲間と、まったくおなじ存在なのだ。

 

それなのに、そのきわめてレアなケースだけを、マスコミが興味本位にフレームアップすると、何の知識も節操もないキャスターとか芸能人とかなんでもコメンターたちが、針小棒大に大騒ぎするので、世間一般もなだれを打って追随してしまい、「責任能力」があるのかないのか、本人も、関係者も、専門家すら分からない障害者を、山から下りてきたヒグマのように凶暴で恐ろしい動物のようにみなして、遠まきにするのである。

 

そんな「かれら」の生きる苦しみと悲しみに、それこそ1ミリでもいいから積極的に近づこうとする努力を払わない限り、「かれら」をまっとうに裁く資格はないだろう。

 

    ジャンケンに負けたホタルに負けたので生まれてきたのが我が家の長男 蝶人

 

 


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